「関西師友」8月号~9月号
左半身麻痺が西尾さんの心を開いてくれました
神渡良平
予想もつかない私たちの人生
「人生、何が起きるかわからない! とよく言いますが、それは私の実感です。順風満帆、さあいよいよこれからだと意気込んでいるとき、暗転して急転直下し、人生設計がぶち壊しになってしまうことがあります。私は文字通りそれを経験しました。
その渦中にあるときは落ち込んで、死んでしまったほうがましだと思います。でもそれを乗り越えてみると、それらの出来事は私たちを潰すために起きているのではなく、逃げ出すことができない、ニッチもサッチもいいかない状況に追い込んで、人生の大切な哲理に目覚めさせるために起きていると確信します」
と語るのは、大阪で大手監査法人に勤務している西尾行正さんです。西尾さんがそう言うのは、平成十五年(二〇〇三)五月の夜、熱めの風呂に入って疲れを癒しているとき、頭の血管がはじけ飛び、そのまま気を失ってしまったことを指します。
「パパはお風呂から上がるのが遅いわね。どうしたのかしら」
と心配して見に来た奥さんが異変に気づき、あわてて風呂から引っ張り上げ、救急車を呼んで病院に搬送しました。早期発見のお陰で一命は取り留めたものの、脳内出血によって左半身に重篤な麻痺が残りました。四十一歳、子どもはまだ一歳でした。病院のベッドの上で意識が回復した西尾さんは、左半身麻痺したことを知り、落ち込みました。
「これからいよいよという時に脳内出血で倒れ、寝たきりになるとは! 何とついていないんだ。いつ私が悪いことをしたというのか? まじめにコツコツやってきたというのに、この仕打ちは何なのだ!」
現実が受け入れられず、もがき苦しみました。
米国勤務の四年間
その直前の平成九年(一九九七)六月、西尾さんは勤務先の監査法人が当時提携していた米国アーサーアンダーセンのインディアナポリス事務所に派遣されました。インディアナポリスは米国北西部インディアナ州の州都で、一時はデトロイトに匹敵するほどに自動車産業が栄え、インディ五〇〇に象徴されるスポーツツーリズムが盛んな都市です。
四本の州間高速道路が通過する交通の要衝であることから、運輸、流通業が発達し、加えて生物工学や生命科学、ヘルスケア産業が伸び、日本企業の進出も目覚ましいものがあります。そのため日系企業クライアントと日本の親会社の監査チームとの情報伝達が激増し、西尾さんが派遣されて四年間従事していました。
その間、西尾さんは米国の公認会計士の資格も取って帰国しました。米国駐在を経て帰国し、前途満帆だっただけに、左半身麻痺によって、歩行すらままならない現実に落ち込みました。
西尾さんはすっかり悲観し、リハビリしようという気にもならず、お座なりにやっていました。ところが上司がとても気を遣ってくれ、二年間の休職扱いにし、回復し次第復帰するよう励ましてくれました。これでリハビリに励みがつきました。
「このままじゃいけない。何とかしなきゃ」
と、リハビリに気持ちが入るようになりました。
杖となった真民詩「タンポポ魂」
そんな西尾さんを励ましてくれたのが、坂村真民さんの詩「タンポポ魂」でした。これを最初読んだとき、まるで私のことを言っているようだ、ここで挫けちゃいけないと思ったそうです。暗唱して自分を励ましました。
踏みにじられても
食いちぎられても
死にもしない
枯れもしない
その根強さ
そしてつねに
太陽に向かって咲く
その明るさ
わたしはそれを
わたしの魂とする
西尾さんはリハビリの頃を述懐してこう言います。
「毎日一キロの歩行訓練を自分に課し、病院内を杖歩行でぐるぐる歩きました。タンポポは踏まれても枯れもせず、健気に咲いています。その姿を戦友のように感じました」
リハビリに傾けた努力
そのうち、病院の廊下を歩くだけではもの足りなくなり、外を歩くことにしました。まず挑戦したのが阪急宝塚駅の近くの遊歩道「花の道」です。そこを往復しました。それができるようになると、今度は甲子園大学まで往復二キロ、西尾さんにとっては約二時間のコースを歩きました。この道には勾配のきつい坂があるので歩きがいがありました。それができるようになると、その先一キロほどのところにある塩尾寺まで歩きました。ここは自宅からは往復五キロで、西尾さんの足では五時間もかかります。毎日曜日の定番のチャレンジコースとなりました。
「できなかったことができるようになる達成感は言いようのないものがありました。一つひとつできるようになっていくので、嬉しくてたまりません。歩行訓練に拍車がかかりました。
今度は宝塚市郊外の中山寺から山奥に二キロ程登ったところにある奥ノ院に詣でることにしました。週末は多くの人が拝観登山をしているところです。ところが調べてみると、表参道は所どころに大きな段差があり、杖をついて歩いている私には無理なことがわかりました」
しかし、もともとアウトドア派の西尾さんは諦めきれず、グーグルマップで自衛隊の演習道路を見つけました。ジープや装甲車が走行する砂利道なので、段差はありません。そこで勇躍挑戦しましたが、砂利道で歩きづらく、何度もすべって転びました。転ぶと起き上がるのが大変です。それでも十回、二十回と登山参拝を続けているうちに、砂利道がまったく苦にならなくなりました。
次に目指したのが、武田尾廃線跡の五キロあるハイキングコースです。ここは廃線跡なので所どころに枕木や敷石が残っており、トンネルが六つもありますが、眺望は最高にすばらしいコースです。普通の人なら二時間かかりますが、西尾さんは六、七時間かけて歩き切りました。
そうした日々の鍛錬の成果がどこに現れたかというと、自力で通勤しようと思い立ったのです。平成一七年(二〇〇九)春から始まった週一回の通勤は、それまで奥様が車を運転して送ってくださっていましたが、それを歩こうというのです。
自宅のある宝塚から阪急電車と地下鉄御堂筋線を乗り継いで本町に出て、本社六階の自分の机まで歩くと、普通の人なら四十分で行けますが、西尾さんは二時間かかりました。汗だくだくになって、自分の机にたどり着いたとき、思わず「ヤッター!」と雄叫びを上げました。実際には声は上げませんでしたが、大変な達成感でした。格段の進歩です。次は週三日出勤できるよう、歩行訓練に拍車がかかりました。
ダメージは歩行能力だけではなかった!
ところが職場復帰してみると、新たな問題が発生しました。西尾さんが損なわれていたのは、運動機能だけではなく、一部の記憶力もダメージを受けていたのです。そのため通常の業務ができないので、クライアントに迷惑がかからないように翻訳業務に回されました。しかし、そこでもケアレスミスが起きました。使い物にならないと解雇されても仕方がない状態でした。
ことわざに「天は自ら助くる者を助く」とありますが、上司は西尾さんが社会復帰を目指して懸命に努力していることを知っていました。だからここで見捨てるには忍びない、彼のひたむきな努力に応えようと、「焦ることはない。一歩一歩進んで行こう」と励ましてくれました。
西尾さんは涙が出るほど嬉しく、その期待に応えようとがんばり通しました。幸いなことに運動能力の回復と共に、記憶力も徐々に回復し、信頼に足る仕事ができるようになりました。
「もしあの時点で解雇され、生活保護を受けるようになっていたら、私は気力が削がれ、落ち込んだでしょう。会社はよくぞ辛抱強く回復を待ってくれたと感謝しています」
周囲のそういう温かい姿勢が西尾さんに新たな変化をもたらしました。
人間学に目覚めた会社の読書会
西尾さんにリハビリ以外に興味を持つものが出てきたのです。会社で行われていた人間学の勉強会です。
「会社では月刊『致知』という人間学の雑誌を使って、毎月『人間力のための読書会』という読書会が催されていました。その月の『致知』に載っている記事を巡って、それぞれが意見を述べ合うのです。談論風発し、活発に意見が交わされました。以前だったらそんなものにあまり興味はなかったのですが、みんなが人生にひたむきに対処しようとしている姿勢に心打たれ、参加するようになりました。
その席でしばしばみんなの口に出るのが、森信三の『修身教授録』(致知出版社)です。どんな本だろうと思って入手し読んでみました。すると自分の心に響く文章が多いのです」
そう言うと、西尾さんは次のような箇所を示しました。
「人間の真の強さというものは、人生のどん底から起き上がってくるところに、初めて得られるものです。人間もどん底から起き上がった人でなければ、真に偉大な人とは言えないでしょう」
まったくその通りでした。いま自分が立たされている立場が勝負所と言えます。読み進んでいると、こんな文章にも出くわしました。
「いやしくもわが身の上に起こる出来事は、そのすべてが、この私にとって絶対必要であると共に、またこの私にとっては、最善なはずだというわけです」
ナニナニ、脳内出血で右半身麻痺したことは、自分にとっては絶対必要で最善なんだと? そこまで言うのか! と驚きました。だからいっそうのめり込んで読み進みました。するとこうも書いてありました。
「表面がマイナスであれば、裏面には必ずプラスがついているはずです」
森先生の言葉は砂漠で水に飢え、さまよい苦しんでいる旅人のように、西尾さんの心に沁み込んでいきました。『修身教授録』は自分の道を照らしてガイドしてくれていました。自分は心のケアが必要な精神状態だったのだと気づきました。
安岡先生の『経世瑣言』
そんな頃、名古屋をはじめ、各地で読書会を開いておられる塚本恵昭さんにご縁をいただきました。塚本さんは東洋思想家安岡正篤先生に師事しておられたので、安岡先生の本をいろいろ推薦してくれました。そこにもまた重要なアドバイスがあり、たとえば「喜神を含む」という哲理が述べてありました。
「それではどうして精神を雑駁にしないか、分裂させないか、沈滞させないかというと、無数に古人の教えもありますが、私はこういう三つのことを心がけております。第一、心中常に喜神を含むこと。神とは深く根本的に指して言った心のことで、どんなに苦しいことに逢っても心のどこか奥の方に喜びを持つということです。実例で言えば、人から謗られる、あられもないことを言われると、憤るのが人情であるが、たとえ憤っても、その心の何處か奥に、イヤこういうことも実は自分を反省し磨錬する所縁になる、そこで自分が出来て行くのだ、結構結構と思うのです。人の毀誉褒貶なども、虚心坦懐に接すれば、案外面白いことで、これ喜神です」(『経世瑣言』致知出版社)
この文章で西尾さんは「言葉の威力」に目覚めました。その興奮をこう語りました。
「安岡先生は心の中にいつも喜びを抱いて事に臨むと、その人の運勢は上昇気流に乗って昇っていくと説いておられました。なるほど、なるほどと思って読みました。以来、『喜神を含む』を私のモットーとしました。
こういう言葉を知らなかったら、暗い夜道を提灯なしで歩くようなものです。そう思っていると、幕末の儒学者佐藤一斎が『言志四録』で、『一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一燈を頼め』と述べておられることを知りました。『周りのことを愚痴てもしようがない。道を切り開いていくのは、結局は自分なんだ。自分をこそ信頼して、切磋琢磨して励め』というのです。そう指摘され、開いた口が塞がりませんでした。すべては自分の責任なのだと覚悟ができました。ようやく人生の戸口に立った思いがしました」
さらに難度の高い歩行訓練に挑戦
平成二十六年(二〇一四)七月二十一日、日本百名山の一つ、滋賀県の伊吹山の登山に挑戦しました。標高一三七七メートルながら八合目までバスで登れ、そこから四十分で登れるので、西尾さんは三時間かければ楽勝だと計算しました。
ところが登ってみると、行く手を阻んだのは大きな岩の段差でした。もちろん鎖や手すりはなく、すべって危険です。他の登山客の助けを借りて、何とか前進しました。予想よりもハードなコースだったので、四時間かけてやっと頂上にたどり着いたときは、疲労困憊していました。
登りに予想外の時間がかかってしまったので、帰りのバスに間に合わなくなり、それに間に合うために、登りの西遊歩道とは違う、最短の中央遊歩道を下りました。ところがそこでも予想外の段差が続き、前に進めなくて立往生してしまいました。幸い下山客に助けられて、ようやく八合目の駐車場に降りてきましたが、すでに最終のバスは発車した後でした。
途方に暮れていると、乗用車で来ていた別な登山客が麓のJR関ケ原駅まで送ってくれました。要所要所でいい人に巡り合い、助けられ、みんなのお陰で達成できた登山でした。こうした歩行訓練の努力が実って、とうとう週三日出勤できるまでに漕ぎつけました。
「真民先生に『つみかさね』という詩があります。何事も一歩一歩の積み重ねによって成就するんですね。私も『努力は裏切らない!』と実感します。
一球一球のつみかさね
一打一打のつみかさね
一歩一歩のつみかさね
一坐一坐のつみかさね
一作一作のつみかさね
一念一念のつみかさね
つみかさねの上に咲く花
つみかさねの果てに熟する実
それは美しく尊く
真の光を放つ
真民先生は一歩一歩、こつこつ積み上げていくことの大切さを教えてくださり、私の杖になってくださいました」
真民さんに「幸せの帽子」という示唆に富んだ詩があります。多くの人が同感される詩です。
しかし幸せというものは
そうやすやすとやってくるものではない
時には不幸という帽子をかぶって
やってくる
だからみんな逃げてしまうが
実はそれが幸せの
正体だったりするのだ
わたしは小さい時から
不幸の帽子を
いくつもかぶらせられたが
今から思えばそれがみんな
ありがたい幸せの帽子であった
それゆえ神仏のなさることを
決して怨んだりしてはならぬ
おそらく西尾さんも脳内出血で倒れ、左半身不随になったとき、こんな不幸はないと嘆かれたのではないでしょうか。確かに思いがけない災難でした。しかし、それは西尾さんが新たな価値観に目覚める「門」でした。
西尾さんは森信三先生がよく言われる「逆境は恩寵的試練なり」を口にします。
「私たち人間には気づかないところで神の導きがなされています。だからあれこれ悩まず、受けて立つことです。そこからいっそう強くなって、一回りも二回りも人間が大きくなるんです」
そう思えるようになって、生きることが楽になったと言います。西尾さんは人生を渉る秘訣をつかんだようです。
西尾さんの話を伺っていて、人生は無駄なことはないとつくづく感じます。別な言葉で言えば、人間はどんな状況からでも立ちなおってくるタフなものを持っている、いやもっと言えば、私たちに与えられているいのち自体が、状況に立ち向かい、それを乗り越えていく力を賦与されているように思えます。だから天地万物一切を創造された神仏の深謀遠慮に驚嘆します。それゆえに人生はすばらしい、人間万歳! と叫ばずにはおれません。
西尾さんは横田南嶺円覚寺派管長の『禅の生き方に学ぶ名僧の知恵』(致知出版社)にいつも励まされていたので、一度お会いしてみたいと思っていました。北鎌倉の名刹円覚寺は、文永の役、弘安の役で日本を襲った元寇の犠牲者たちを祀るために、北条時宗が明から無学祖元老師を招いて建立した禅寺で、臨済宗円覚寺派の総本山です。
横田管長の著書には、人の世には悲しみは尽きないけれども、せめてその悲しみを分かち合っていこうとされる姿勢があふれていて、西尾さんはいつも感銘を受けていました。そのあこがれの老師に、畏友であり、師とも仰いでいる塚本さんが引き合わせてくださるというので、平成二十八年(二〇一六)十一月三日文化の日、北鎌倉の円覚寺を訪ねました。
横田管長は参道まで出迎えに出られ、円覚寺境内の奥まったところにある正伝庵で、二人と小一時間ほど歓談されました。西尾さんが不自由な体をものともせず、週三回通勤するまでに回復した努力を知って、驚嘆されました。しかもリハビリの日々を支えてくれたのが真民先生の詩だったと知って、よりいっそう感銘を受けられました。
実は横田管長は拙著『自分の花を咲かせよう 祈りの詩人
坂村真民の風光』(PHP研究所)に「序にかえて」を寄せ、真民詩は『華厳経』のいう天に輝く帝網珠のようにきらめいていると述べておられます。『華厳経』は宇宙を大きな網の目としてとらえ、網の結び目にそれぞれきれいな珠がついていて、一つの珠が光ると、その光は近くの珠に映り、その光はさらに別な珠に映りして、光は幾重にも折り重なって、全宇宙がきらきら輝いているというのです。
横田管長は説法にしばしば真民さんの詩を引用され、仏法をわかりやすく説かれています。西尾さんも真民さんのファンだと知って喜ばれました。
横田管長は帰りも参道にまで下りる石段を西尾さんに寄り添って一歩一歩下りてゆかれました。西尾さんは石段を降りながら、真民さんの「たんぽぽ魂」の詩を唱していました。円覚寺の古刹は紅葉一色に染められ、二人を祝福するかのように、さわやかな風が吹き渡っていました。
(了)