夜の海辺

沈黙の響き (その1)

2020.7.1 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その1)

「沈黙の響き」が意味するもの 

神渡良平

 

 昨年の9月、心臓のバイパス手術をし、一命を取り留めたことで、そのとき気づかせていただいたことを(仮)『沈黙の響き――宇宙の呼び声』として書き上げました。まだ出版社は決まっていませんが、秋には出版されるでしょう。

闘病生活と上記の本の執筆の間、私はHPを更新することがありませんでした。それを再開し、まず『沈黙の響き――宇宙の呼び声』に何を書いたのか、順次公開してまいります。

書名にはちょっと不思議な名前を付けました。それについて、第8章に、臨死状態にあったわたしのフラッシュバックに現れたアッシジのフランチェスコと、こんな会話を交わしたことを書いています。

 

 祈り求めるわたしにフランチェスコが語りかけてきました。思慮深いフランチェスコの眼差しは潤んでいました。

「その人の魂に聴き入り、その人が苦しんでいる痛みを感じ取るようになると、もはや黙って通り過ぎることはできなくなる。そこから初めて寄り添うってことが始まるんだよ」

フランチェスコの唯一の関心は、キリストにならって、人の心のしこりを解くことでした。彼は誰からも見捨てられ、ふり返られなかった人々の友でした。

「その人の魂の叫びに耳を傾けなさい。何も聞こえてこない沈黙に、さらに耳を澄まして聴き入るんです」

「〝沈黙の響き〟……ですって? 沈黙は無音じゃないんですか?」

「いやいや沈黙ほど雄弁なものはない。人は沈黙を通して語りかけてくる。沈黙はけっして無音なのではなく、かすかな響きを持っている。じっと耳を澄ますと、いつしかその響きが聴こえてくるようになり、その人とやっと心が通じるようになる。するとその人はさめざめと涙を流し、やっとわかってくださったんですねと、うれしそうに言うんだ。だから沈黙の響きに聴き入ることほど、大切なことはない」

 フランチェスコは驚いて聴き入るわたしをまじまじと見つめて説きました。

「その人への強い愛があればこそ、沈黙の響きにひたすら聴き入ることができる。愛は宇宙のエネルギーなんだ。愛は引力、つまり()きつける力だ。愛は人生を意味合いのあるものにしてくれる。だからわたしたちは神の愛を届けて、その方の人生を豊かにするんだ」

フランチェスコは驚くほど静かな人で、〝沈黙〟を味わっているかのようでした。そして沈黙にひたすら耳を傾けることがどれほど自分自身の修養になるかわからないと説きました。

「人は他人の痛みや悲しみを感じることができたとき、人に対する驕慢(きょうまん)な態度や冷淡な姿勢が消え、謙遜になるものだよ。だから、自分のためにも、人の痛みを分かち合おうとすることが大切なんだ」

わたしはフランチェスコの(ひとみ)ほど、澄んだ眼差しを見たことがありませんでした。自分に対しても、人に対しても(しん)()でした。その眼差しはわたしのあり方を正してくれました。

思えばわたしは、人の話にじっと耳を傾けることができていませんでした。音になっている声すら聞いていなかったのです。何と浅薄だったことか。聞けども聞かず、とはわたしのことでした。ああ、穴があったら入りたい……。

父親のように温かい抱擁力のあるフランチェスコはさらに続けました。

「秀でた魂であってほしい……。優れた魂であってこそ、人々を真に手助けすることができるのです。そういう人が、今ほど求められているときはないと思う」

 その静かな口調がいつしかわたしの涙を誘いました。両の瞳に涙がいっぱい貯まったかと思うと、頬にこぼれ落ちました。

〈ところがわたしは当事者としての意識はまるで希薄で、赤の他人のような顔をして通り過ぎる無責任な評論家でしかなかった。フランチェスコはわたしに今日の問題を自分自身の問題として背負い、苦しみ、道を見い出し、率先して歩いてほしいと念願していたのだ。わたしはあまりにも自分のことしか考えていなかった……〉

 思えば秀でた人々は〝沈黙〟の意味するところを知っていました。ドイツの哲学者M・ピカートは(つむ)がれる言葉の背後にある〝沈黙〟を〝深さ〟と表現しました。

「もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうだろう」

 小説『若きウェルテルの悩み』や詩劇『ファウスト』などで圧倒的支持を得て、フリードリヒ・シラーとともにドイツ古典主義を代表したヨハン・W・V・ゲーテはその日記にこう書いています。

「言葉は聖なる沈黙に基づいている」

 ゲーテは沈黙の響きを誰よりも理解していたのです。

 

 

そういう訳で「沈黙」は大変重たいものになりました。「沈黙の響き」は神からのメッセージを内包するものでした。以下、順次、そのことを書いていきます。