沈黙の響き (その12)

2020.9.19 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その12

「教育はいのちといのちの呼応です!」①

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

 平成8年(1996)、教職にある人々が集う実践人の家の寺田一清(いっせい)常務理事(当時)が主宰者の森(のぶ)(ぞう)先生の大著『()(じん)叢書(そうしょ)』(全五巻)の編集に取り組み、一年以上も格闘していたとき、人々から“国民教育の父”と尊敬されている森(のぶ)(ぞう)先生が寺田さんに尋ねました。

「わが実践人の同志の中で、最も宗教的な方はどなただと思いますか?」

 寺田常務は迷うことなく即座に答えました。

「熊本の徳永康起先生でしょう。あの先生ほど、教え子たちに慕われている先生はありません。徳永先生が発行されている個人誌『天意』をひもとくとき、教え子たちとの魂の響き合いに感心し、地下水的真人の顕彰に終始しておられ、その一貫し徹底した奉謝行には、深く敬服し、低頭せざるを得ません。私は森門下生の三傑の一人だと高く評価しています」

「やはりそう思いますか……」

 2人の意見は期せずして一致しました。

 とはいえ、徳永先生は残念ながら世の中にさほど知られている方ではありません。では徳永先生は何ゆえにお二方からそれほどに評価されているのか。徳永先生の足跡をたどって、明らかにしてみたいと思います。 

 

“炭焼きの子”と馬鹿にされて

昭和8年(1933)の新学期のある日のことでした。山一つ向こうは宮崎県という熊本県の山深い球磨(くま)久米(くめ)村(現多良木(たらぎ)町)の(しも)(つき)()分校の小さな運動場で、ドッジボールをやっていた5年生の児童たちがいさかいから取っ組み合いの喧嘩を始め、一人が相手に馬乗りになって殴ろうとしていました。

 師範学校を卒業したばかりの若い徳永康起先生はあわてて止めに入り、少年の手を握って引き離しました。少年はいつもみんなから「炭焼きの子!」とけなされ、馬鹿にされている(しば)(ふじ)(せい)()君でした。

柴藤君は小学校4年のときから、でき上った木炭を馬2頭に背負わせ、山を越えて宮崎県の米良(めら)(しょう)まで急坂を登り降りして運ぶ重労働をしており、ロクに学校に行くことができませんでした。当然成績が悪いのでみんなに馬鹿にされ、あまり風呂にも入っていないので臭く、靴や草履(ぞうり)もはかずはだしで、身なりもボロボロで乞食の子のようでした。だからみんなから仲間外れにされ、すっかりひねくれていました。それが爆発して取っ組み合いの喧嘩になったのでした。

 

先生が君を抱いて寝よう!

 事情を知った徳永先生は泣きじゃくる柴藤君をなだめて言いました。

「おい、清次君。今夜、宿直室に来い。親代わりに、俺が抱いて寝よう」

 その言葉に柴藤少年はびっくりしました。というのはそれまでの担任の先生はできの悪い柴藤君を鼻から無視していたので、炭焼きの子は先生からも相手にされないんだとひがんでいたのです。徳永先生から目を掛けられるようになると、柴藤君はすっかり明るくなり、成績も上がって、みんなに溶け込むようになりました。

とはいえ、貧しい家の経済状態はよくなったわけではありません。とうとう6年生を満足に終わることができずに卒業していきました。

この話の主人公の徳永先生は伸長170センチぐらいで、声は太く中低音、固太りで70キロぐらいありました。鼻が高く、彫りの深い顔にメガネをかけ、古武士然としておられました。でもいつもニコニコほほえんでおられるので、いかつい外貌もそれで救われていました。森先生が主宰されている教育者の集いである実践人の家の夏季講習会では、第二部の会を仕切っておられ、話が上手いので評判が良かったようです。

熊本の男はよく「肥後もっこす」といわれます。純粋で正義感が強く、一度決めたら梃子(てこ)でも動かないほど頑固で、曲がったことが大嫌いな性質を指してそう言います。「津軽じょっぱり」「土佐いごっそう」とともに日本三大頑固者といわれていますが、徳永先生は典型的な肥後もっこすでした。おそらく合志義塾で学んでいるとき、慕っていた工藤塾長から「一度決めたら梃子(てこ)でも動かない」性格にいっそう磨きをかけられたのでしょう。

 

 農家の下男、招集、そしてシベリア抑留……

 柴藤君は小学校を卒業すると、農家の下男として働きました。続いて徴用工となり、さらに軍隊に招集され、満州に派遣されました。しかし終戦となって、違法に侵攻してきたソ連軍に抑留され、シベリアに送られて重労働に伏しました。

シベリアでは戦友の間を駆けまわって世話をし、みんなに希望と勇気を与えました。5年に及んだ抑留がようやく解かれて、昭和25年(1950)、シベリアから引き揚げました。

 柴藤さんは佐賀県の伊万里(いまり)に落ち着くとカマボコの行商を始めましたが、石炭不況のあおりを受けて商売はうまくいかず、転職を余儀なくされました。

それで軍隊時代に身に着けた自動車の運転技術を生かし、昭和36年(19611月、伊万里自動車学校の教官に採用されました。

 柴藤さんは教官としても優秀で、彼が指導する教習生の合格率は高く、長崎県から優良指導者として表彰されました。表彰された教官は2人でしたが、その1人が柴藤さんでした。(続く)

※写真=徳永康起先生