沈黙の響き(その33)

沈黙の響き(その33)

めぐりあいの不思議

 

「沈黙の響き」より来月中旬、致知出版社から『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』が発売されます。この本の取材で随分お世話になった方で、徳永先生の教え子・植山洋一さんから、「めぐりあいの不思議」と題して投稿をいただきました。

 植山さんは昭和27年(1952)4月、熊本県八代市立太田郷小学校5年5組で徳永先生に受け持たれました。それまで担任の先生に叱られることの多かった植山さんは、先生との親しみが持てず恐い存在でした。

 それまでの先生は、勉強のできる生徒をかわいがり、勉強が苦手の植山さんは叱られることが多く、学校はつまりませんでした。植山さんは母と妹と3人の母子家庭で、母は裁縫で生計を立てていました。でも暗い電灯の下での縫物のため、母は次第に目が不自由になり、小さな文字が見えないようになりました。だから植山さんは登校する前、母が仕事に困らないよう10本ぐらいの針に糸を通していました。 

 学校から帰ると母の品物を届けに行ったり、依頼の着物を預かってきたりしました。暗くなり帰りが遅くなると、母は心配して家の前に出て帰りを待っていてくれました。母はだんだん視力が落ちて一人で外歩きができなくなったため、植山さんが手を引いて歩くようになりました。そのような家庭環境だったので、あまり勉強にはこだわりませんでした。

だから5年生になり徳永先生に出会っても、あまり期待していませんでした。ところが徳永先生はやさしいまなざしで、みんなを一人ひとり温かく包んでくださるので驚きました。そんな徳永先生のまなざしにひかれて学校に通うのが楽しくなり、欠席することもなくなりました。クラスには春のような暖かい光がさし、みんなの笑顔の花が咲くようになり、植山さんにとってもほんとうに居心地のいいところとなりました。

5年生の初めごろ、教室の入り口の横に1枚の色紙が掲げられました。筆で『自分を育てる者は自分である』と書いてありました。それが植山さんの指針となりました。

家が貧しくて高等学校に進めなかった植山さんは、母のことを妹に頼んで陸上自衛隊に入り、がんばって輸送ヘリの操縦士になりました。その植山さんからの次のような投稿があったので、披露します。

 

 

「めぐりあいの不思議」      徳永先生の教え子「ごぼく会」事務局 植山洋一

この神渡良平先生のコラム「沈黙の響き」に私たちの恩師徳永康起先生を取り上げて頂き、教え子として感謝の極みです。徳永先生のことは2月中旬に出版される本をお読みいただくとして、今日は神渡先生と私たちとのめぐり合いから今日に至るまでの経緯などについてお話したいと思います。

令和元年(2019)、故徳永康起先生を偲ぶ「第40回広島ハガキ祭り」が広島読書会有志の方々により開催されました。そしてその会のメイン講師として招かれた神渡先生の講話をお聴きし、その後懇親会の場で初めてご挨拶し、恩師徳永先生についてお話しする機会を得ました。

 

 神渡先生は以前から故森信三先生のグループの機関誌『実践人』に『森信三の世界』を連載されており、徳永先生のことも記述されてよくご存じでした。しかし徳永先生と教え子たちとの交流を話すと、俄然興味を持たれました。

そこで家から一次資料をお送りするとそれらに強くインパクトを受けられ、次々と質問がありました。その後も古い資料を探し出してお送りすると鋭い筆問が返ってきて、作家魂に驚きました。

神渡先生は子どもたちのいのちを全力で育て上げようとされる徳永先生の教育者の姿勢にいたく共感され、これを取り上げようと思われるようになりました。

 

そこで現地取材が始まり、ごぼく会の城代家老とも呼ばれている吉川征一君と私が昨年(2020)11月、熊本県各地を案内しました。案内したのは、熊本県南の生誕の地大野村と大野小学校、そして球磨郡の免田小学校、私たちの母校八代市立太田郷小学校の記念樹と記念碑を案内、それぞれの学校では校長先生と懇談の機会がありました。また徳永先生の遺品(資料)が保管されている球磨郡錦町在住の先生の次女園田由美さん宅もお伺いし、資料をいろいろ拝見しました。

 

また徳永先生が少年時代、師範学校に行く前に1年間在籍した県北合志市の「合志義塾」跡地を訪ね、あわせて宮本武蔵が最晩年『五輪書』を書き上げた霊厳洞も案内することができました。不慣れな案内ながら、私たちは神渡先生のほっこりとした柔和な会話に、たくさんの話しができ、楽しい思い出をいただきました。

 

私たち徳永先生の教え子は、小学校卒業以来、「ごぼく会」というクラス会を徳永康起先生の名のもとに集い、67年間の思い出の多くの記録を積み上げてまいりました。徳永先生との小学校5年生時の出会いからするとまもなく70年になる自慢のクラス会だと自負いたしております。 

 

41年前に徳永先生が亡くなられて後、毎年、広島の有志の方々により徳永先生を偲び「広島ハガキ祭り」が開催されています。なぜ広島での偲ぶ会かと言えば、戦前、徳永先生の実兄宗起氏が、瀬戸内で救世軍の免囚保護者の指導者として活動されていました。徳永先生が教師になりたての頃、夏休みになると瀬戸内の宗起氏の勤務地を訪れ、ペスタロッチの如き慈愛に満ちた活動を目の当たりにして深い感動を覚え、その様子が瀬戸内の潮風とともに脳裏に深く焼き付いていました。(その具体的内容は、今度の本に見事に活写されているのでご参照ください)

 

昭和43年(1968)、徳永先生が実践人夏季研修会で知り合った岡野浩司先生に招かれ、因島の三庄中学校、福山市の戸出小学校でお話する機会がありました。これを機に瀬戸内周辺の他の学校からも呼ばれることが多くなりました。そのような関係で、瀬戸内の島々や広島とのご縁が深くなっていきました。

 

徳永先生没後の翌昭和55年(1980)6月、以前から森信三先生の著書を教本として読書会を尾道の自宅で開いておられた漁師の川原作太郎さんが、徳永先生が亡くなられたことを知ってご自宅で徳永先生を偲ぶ会を催されました。これが徳永先生を偲ぶ会の始まりとなり、後に会場が広島に移され、「広島ハガキ祭り」と名前を変更されました。ご存知のように徳永先生は複写ハガキの元祖でもあり、14年間で複写ハガキ綴り460冊、合計2万3千通ものハガキを書き、人々と交流しておられます。

 

広島ハガキ祭りは毎年6月に開催され、絶えることなく続き、一昨年には第40回を数えるにいたりました。現在では、広島読書会の方々が全国にご案内され、北海道から九州まで約百名からの人が集まり、40回の節目には160人余の方々が参加されました。徳永先生の偲ぶ会が異郷の地である広島で長年開催されてきたことは稀有であり、教え子として広島読書会の皆様に深く感謝しています。

 

この記念すべき広島ハガキ祭りで、初めて神渡先生とお会いできたのは、まさに「めぐりあいの不思議」そのものです。その後の交流が徳永先生の取材と発展し、出版の運びとなり、教え子としたら願ってもない展開となりました。

森信三先生は、「人は会うべき人に必ず出会うものです。それも一瞬早からず 一瞬遅からないときに」と言われましたが、私もいまそれを実感しています。このありがたい出会いをお導き頂いた森信三先生、広島読書会の皆様に、教え子として心から感謝申し上げます。(続き)

陸上自衛隊で輸送ヘリの操縦士をしていたころの植山さん