青春を爆発させる聖光学院のナイン

沈黙の響き (その44)

「沈黙の響き」(その44

下坐に下りると落ち着きが得られる

 

≪山下泰裕柔道監督が得た気づき≫ 

3月27日の夜、私は聖光学院の野球部の選手たちに、下坐におりることで人間的な落ち着きが得られると、こんな例を話しました。

 私は24年前の平成9年、致知出版社から『下坐に生きる』を出版しました。するとしばらくして出版社から、柔道の山下泰裕監督が30冊ほどお買い上げくださいましたと連絡が入りました。「ほう、柔道の監督がこんな本に感心を持たれるのかな?」とびっくりしました。すると続いてすぐ、「また30冊注文がありました」というのです。こうして100冊あまり購入されたので、私は東海大学に会いに行きました。

 するとこう言われるのです。

「私は柔道の指導者として心技体共々の成長を心がけています。そのうち、心を養うのにこの本ほど心に沁みるものはありません。そこで大学柔道や社会人柔道のコーチたちの集まりがあるたびに、この本を配って読むように勧めています」

 この本で私は坂村真民さんの詩「尊いのは足の裏である」を採り上げて論じていました。

「尊いのは頭でなく/手でなく/足の裏である/一生人に知られず/一生きたない処と接し/黙々としてその努めを果たしてゆく

足の裏が教えるもの/しんみんよ/足の裏的な仕事をし/足の裏的な人間になれ

頭から光が出る/まだまだだめ/額から光が出る/まだまだいかん

足の裏から光が出る/そのような方こそ/本当に偉い人である」

 この詩を指して、山下さんはこう言われました。

「私は外ではロザンゼルス・オリンピックの金メダリトで、世界最強の柔道家などともてはやされます。ところが一歩家に帰ると、そういう肩書など全然通用しない現実がありました。私の次男は自閉症なので子育てはなかなか大変で、家内はほとほと疲れ果て、家庭崩壊一歩手前にありました。

 そんなときに、『尊いのは足の裏である』を読みました。下坐におりて、足の裏が光るようでなければ、家内や子どもを包み込む大きな愛は持てないんですね。この詩に気づかされて、私は時間を取って家内と一緒に自閉症の保護者の集まりに出るようになり、家族が団欒できるようになりました」

 山下監督が読売新聞に「私が推薦するこの一冊」と書かれたことから、この本がベストセラーになり、さらにロングセラーとなり、24年を経た現在でも増刷され、売れ続けています。それはなぜか? 現在、日本オリンピック委員会会長を務める山下会長はこう言われます。

「偉そうにするのではなく、誰よりも下坐に降りて人に接するようになると、不思議に心が落ち着くものです。スポーツ選手が不動心を持とうとしても、急なものは付け焼刃で終わってしまいます。それよりも日常から下坐におりるようにすると、持続するのではないでしょうか」

 日常のあり方から取り組んでいくと、より持続したものになると言われます。

 

≪心臓の冠動脈のバイパス手術のとき、聴こえてきた声≫

ところで私は71歳のとき、心臓の冠動脈のバイパス手術をするという羽目になりました。胸を切り開いて肋骨を開け、8時間もの手術が行われると、切り刻まれた体はちょっとヤバいことになったと思うのでしょうか、フラッシュバックが起きて、人生のさまざまな局面を見せられます。

また手術で体力を消耗し、肉体的に追い詰められていたので、精神的にも気弱になって落ち込み、人生を悲観していました。

そんなある日、暴風雨が襲いました。私は夜更け、7階の病室の窓から風雨が荒れ狂う外を眺めていました。窓ガラスには風雨が叩きつけ、遠くには松戸市の街明かりがほのかに見えていました。そこにかそけき声が聴こえてきました。

「私は君を通して何事かを成そうとしてきた。そのためにあえて艱難辛苦の道を通らせて鍛えてきた。今度は心臓の冠動脈の3本のうち1本が詰まってしまい、手術しなければならないことになった。大変な手術だったけど、手術は何とか成功して、先の展望が開けた。

 ところが君はすっかり落ち込んでしまい、気弱になり、泣きべそをかいている……。

泣くのもいい。しおれるのもいい。しばらくはぼーっとしていたらいい……。

 でもな、忘れないでほしい。

私は君が気を取り戻すのを待っているってことを。私はいつも君といっしょだ」

 「……」

 私は返す言葉がありませんでした。その通りですっかりしょげ返って、しょぼんとしていました。そんな私を慰めるように、声は続きました。

「思えば、君は随分苦労してきた。でもその苦労があったから、君が語っていることが、同じような境遇にあって苦しんでいる人たちの心に響いて、『よォし、私も涙を拭って立ち上がろう』という気持ちになってくれたんだ……。

 泣くだけ泣いて気が清々し、もう一度立ち上がろうという気持ちになったら、私が待っていることを思い出してほしい……。またいっしょにやろうよ……」

 心に響いてくる声は決して押しつけがましくはありませんでした。気落ちしていた私に寄り添ってくれました。

 7階の病室の窓の外では、時折り稲光が走って一瞬闇と光が逆転します。そしてドーンと音が響きました。雷がどこかに落ちたのでしょう。松戸市の街明かりが殴りつけるような風雨の中にかすんで見えていました。するとまた内なる声が聴こえてきました。

「泣くだけ泣いて気持ちが晴れ、また立ち上がろうという気になってきたようだね。

君がグラグラしたら、私たちがいっしょになって実現しようとしてきた理想は実現できないまま、つぶれてしまうんだ。

だから私は君のことをつぶれないでほしい、何とか乗り越えてほしい、と祈ったよ。

 君は独りじゃない、私といっしょだ。

迷うのではない、心をしっかり持つんだ! みんなの運命がかかっているんだ!」

私は窓辺に立って風雨が荒れ狂う戸外を見詰めていましたが、いつしか涙が頬を伝っていました。

「君は独りじゃない。私といっしょだ」

その声が私の中で、くり返し、くり返しリフレインしました。

(申し訳ありません。私が気弱なばっかりに、あなたを心配させてしまいました。でも、もう大丈夫です。気持ちを取り戻しました。この間、見守っていてくださり、ありがとうございました)

 ちょっと不思議な体験を書きましたが、私はこんな声が斎藤監督にも臨んでいるのではないかと思います。人間は強いときだけじゃありません。落ち込むときも、気弱になることもあり、悲観的になることだってあります。そんなとき、ぼーっとした時間を過ごすと、

「泣くだけ泣いて気が清々し、もう一度立ち上がろうという気持ちになったら、私が待っていることを思い出してほしい……またいっしょにやろうよ……」

 という声が聴こえてきます。そうして立ち上がった人間は、とてつもなく強い。なぜなら、もはや人間的な成功欲ではなく、“永遠なる存在”に裏打ちされた使命感を帯び、“宇宙の叡智”を汲んで限りない知恵に満たされるからです。

 本当の闘いはそこから始まります。斎藤監督の聖光学院が甲子園で優勝旗を手にすることを、県立や市立の高校野球の関係者はみんな待っています。なぜならみんな県境を越えてリクルートすることはできず、現有選手を教育し、練成強化して、戦いを勝ち抜くしかないからです。いわば同じ制約された状況で予想以上の成果を挙げている斎藤監督と聖光学園は、自分たちの同類だと見なしているから、その勝利を心待ちにしているのです。

斎藤監督と聖光学院の戦いはもはや自分たちのためだけの戦いではありません。みんなのためにも新しい歴史を切り開く使命があるのです。今年の夏の甲子園の戦いは新しい次元の戦いです。2回戦、3回戦と勝ちぬいて、必ずや優勝旗を握りましょう。(続く)

青春を爆発させる聖光学院のナイン

写真=青春を爆発させる聖光学院のナイン