歓喜の雄叫びを挙げるベアトリーチェ・ヴィオ選手

沈黙の響き (その66)

「沈黙の響き(その66)」

パラリンピックよ、ありがとう!

≪失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう≫

 史上最多58個のメダルを獲得した東京オリンピックに続いて、8月24日から13日間にわたって、パラリンピックの競技が行われました。直前までコロナウイルス感染によって開催が危ぶまれながら、160を超える国と地域から、史上最多の4403人のパラアスリートが集い、熱戦をくり広げました。日本からも過去最多の254選手が全22競技に参加しました。

 私は普段ニュース以外あまりテレビを観ませんが、このときばかりは夜、テレビにくぎ付けになって観戦しました。というのは「パラリンピックの父」といわれる英国のルードヴィッヒ・グッドマン医師が、第二次世界大戦直後の1948年、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院で、戦争で負傷した退役軍人らを対象に開いたアーチェリー大会の席上、

「失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう」

 と語って、参加者を鼓舞したと知ったからです。

 大会に参加したどの選手も私の耳目を惹いて励ましてくれましたが、圧巻だったのは、車イスフェンシング女子フルーレ個人に出場したイタリアのベアトリーチェ・ヴィオ選手(24歳)が2連覇を果たし、全身を振るわせて歓喜の雄叫びを挙げた瞬間でした。

 ヴィオ選手は11歳のとき髄膜炎を患って、両腕の肘から先と、両脚の膝から先を失いました。しかし車イスフェンシングのおもしろさのとりことなり、研鑽を積んだ挙句、とうとう世界の頂点に立ったのです。決して諦めない姿勢は人々の共感を呼び、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス=インターネットを通じて、他人とコミュニケーションが取れるツールのこと。インターネットで繋がっているので、世界中の人とコミュニケーションを取ることができる)では世界的な人気者となり、インフルエンサー(SNSなどを通じて情報発信し、それによって多くのフォロワーに影響を与えている人物)として知られるようになりました。

 今回ヴィオ選手の試合を見た人は、両手両足がない不自由な体なのに、それをまったく問題にせず、果敢に戦う姿に魅了され、いつのまにか声を限りに声援を送ったと思います。

≪人は誰でも誰かの光になることできる!≫

日本人選手でも観戦する私たちを勇気づけてくれる選手が何人もありました。その一人がパラトライアスロン女子に参加した谷真海(まみ)選手です。谷選手は早稲田大学応援部でチアリーダーをしていた19歳の冬、右足首に痛みを覚えました。診察してもらうと、骨肉腫と診断され、膝下の切断手術を迫られました。

 あまりなことに絶望し、真海さんは3日間泣き続けました。

「何で自分がこんな破目になったのだろう? これは何の試練なんだろう」

 思い悩む日々が過ぎたとき、真海さんは義足(ブレード)をつけて走り幅跳びをするようになり、次第にスポーツの魅力のとりこになりました。スポーツは記録の更新によって希望を与えてくれ、さらには仲間たちと結びつけてくれたため、孤独ではなくなりました。こうして日本における女子パラアスリートの開拓者になっていきました。

 そして平成25年(2013)、アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC総会で、谷さんは感動的な招聘(しょうへい)スピーチをして、令和2年(2020)、オリンピック・パラリンピックを東京に持ってくることに成功し、大金星を挙げました。

 そんなこともあって講演の機会が一躍多くなった谷さんは、自分の経験を踏まえて聴衆に語りかけました。

「人は病気や障害を選べません。しかし、それらを背負ったのち、どう生きたかを選ぶことができます。私は自分の経験から、神さまは乗り越えられない試練は与えないと確信します。あなたもきっと誰かの光になれます」

 どれほど多くの人が谷さんの言葉に励まされ、前を向いたかわかりません。

「東京パラリンピックは私たちパラアスリートが、観戦してくださる人々をどれほど勇気づけることができるかを示す場でもあるんです」

 谷さんは私たちをどこまでも励ましてくれるアスリートでした。谷さんはその後結婚し、出産を経て再び競技場に戻り、今度はトライアスロンに挑戦し、パラリンピックに出場するまでになりました。

≪右腕のない選手がトライアスロンで銀メダル≫

 男子アスリートの中にもそういう人がいました。トライアスロン男子で銀メダルに輝いた宇田秀生(うだ・ひでき。34歳)選手です。宇田さんの子どものころの夢はJリーガーになることで、高校時代は滋賀県選抜でもプレーしたほどで、大学時代はますますサッカーに熱中しました。

ところが平成25年(2013)、仕事中に機械に巻き込まれ、右腕を失ってしまいました。結婚してからわずか5日目の事故で、しかも奥さまは妊娠中でした。幸福の絶頂から、悲劇のどん底に突き落されたのです。何という悲劇でしょうか。

 普通だったらそこでギブアップしてしまいますが、涙を拭って立ち上がった宇田さんが活路を見出したのはトライアスロンでした。しかし右腕を欠損しているので、両腕がある選手に比べると、075キロのスイムで引き離されてしまいます。それを20キロの自転車と5キロのランで挽回しなければ太刀打ちできないのです。苦しい闘いが続きましたが、それを乗り越え、とうとう銀メダルを獲得したのです。2位でゴールに飛び込んだ宇田選手が、日の丸の旗を背にして号泣したのは、その過程がどんなに過酷なものだったかを物語っていました。

≪私を励ましてくれたパラアスリートたち≫

 私はなぜパラリンピックに惹かれたのか、理由があります。

 私は2年前の9月、心臓の冠動脈のバイパス手術を受けました。8時間もかかった手術でしたが、予後がはかばかしくなく、杖をつかなければ歩けなくなってしまいました。体調がすぐれないと、それに影響されて悲観的になってしまいます。

 そういう状態のところに、パラリンピックが始まりました。両手両脚がない選手が、それでもイルカのように体をくねらせて、50メートル、100メートルと泳ぐ姿は目が覚めるほどに感動的でした。

 競泳男子に出場した鈴木孝幸選手(34歳)は、右腕の肘から先と、両脚がない体です。パラリンピック連続5回出場という大ベテランですが、5年前のリオデジャネイロ大会では初めてメダルを逃すという屈辱を味わいました。世界の選手層が厚くなったことを痛感し、年齢もあったので、一時は引退も考えました。

 でも、東京大会では表彰台に返り咲きたいたいという思いが勝って、体を土台から鍛え直しました。そして男子100メートル自由形で見事金メダルの栄冠に輝き、日本に金メダル1号をもたらしました。その後、50メートル平泳ぎで、銅メダルを獲得し、残り2種目もメダルをつかめる至近距離にあります。

≪自分との闘いに勝った50歳の杉浦さん≫

 杉浦佳子選手は、女子個人ロードタイムトライアルとロードレースで渾身の走りを見せ、見事2つの金メダルを獲得し、パラ自転車の頂点に立ちました。栄冠に輝いたのは、何と50歳のときでした。

 杉浦さんは5年前の平成28年(2016)、趣味が高じて出場した自転車レースで転倒し、頭蓋骨などを粉砕骨折する大怪我をしました。事故直後は父親の顔も認識できず、医師にも何度も挨拶をするほど錯乱していました。右半身に麻痺が残り、記憶力にも不安がありました。しかし、そこから杉浦さんは復活したのです。

 杉浦さんは薬剤師を目指していましたが、出産のため、大学を中退しました。しかし夢を諦めることができなかったので別な大学に入り直し、育児と学業を両立させ、とうとう薬剤師になりました。そして薬剤師を続けながら、自転車個人ロードタイムトライアルに挑戦しました。

 それを見守った母親の良子さん(75歳)は振り返ります。

「自転車競技がなければ、あの子はうつむいて暮らしていたかもしれません」

 自転車競技が杉浦さんの窮地を救ってくれたのです。

 とはいえ、ライバルの多くは伸び盛りの若手選手たちです。自分の年齢を考えると、遅くとも40代で決着をつけようと思っていましたが、コロナ禍でずれ込んでしまい、東京大会が開かれたときはもう50歳になっていました。杉浦さんはSNSで、「正直言ってさすがに厳しい。体力がついていかない」と本音を漏らしましたが、それを乗り越えてとうとう金メダルに輝きました。

 表彰式に臨んだ杉浦さんは、杖で体を支えてゆっくり壇上に上がりました。その様子をテレビで観ていた人々は、杉浦さんは自分と戦って勝利したのだなと、誰もが感じたに違いありません。爽やかな笑みをこぼれてくる表彰式でした。

50歳で再挑戦した「水の女王」≫

 実は私にはパラリンピックには忘れることができない思い出があります。それは過去5大会に連続出場し、パラ日本選手最多の金メダル15個を獲得し、「水の女王」と呼ばれた成田真由美選手とインタビューを通して親しくなり、今も交流しています。

 成田選手は13歳で発症した脊髄炎で下半身が不自由になりました。でも、水泳に挑戦し、パラリンピックで大活躍するようになりました。その後、第一線を退きましが、招致から携わってきた東京開催決定をきっかけに競技に復帰し、もう一度表彰台に上がろうと、通算6度目の出場を決めました。しかし50歳という年齢では並みいる強豪に太刀打ちできず、敗退しました。しかし、成田選手の果敢な泳ぎは観戦する者たちを励ましました。

 そういう選手たちの奮闘は、何をぼやぼやしているんだと、私に喝(かつ)を入れてくれました。まったくその通りで、ついつい自分を甘やかし、愚痴をこぼしていたのです。パラアスリートたちは私に出直す勇気を与えてくれました。(続き)

歓喜の雄叫びを挙げるベアトリーチェ・ヴィオ選手

写真=歓喜の雄叫びを挙げるベアトリーチェ・ヴィオ選手