『アメイジング・グレイス――魂の夜明け』 3月出版予定の序文と跋文

『アメイジング・グレイス――魂の夜明け』の序文「はじめに」と跋文「おわりに」

みなさん、お元気ですか。お陰様で、『アメイジング・グレイス――魂の夜明け』の校正も3月出版に向けて順調に進んでいます。今日は序文と跋文をお届けします。ご笑覧下さい。

はじめに

 

「驚くほどの神の恵み………」

一日の仕事を終えて、書斎でくつろいでいる。ステレオからギリシャが生んだ世界的歌手ナナ・ムスクーリが哀愁を帯びた歌声で「アメイジング・グレイス」を歌っているのが響いてくる。讃美の声がまるで天の高みにスパイラル状に昇っていくようだ。

 

Amazing Grace how sweet the sound

That saved a wretch like me

I once was lost but now I’m found

was blind but now I see

 

驚くほどの(アメイジング)神の恵み(・グレイス)、何と甘美な響きだろう

私のような恥ずべき人間も救われた

かつては道を踏み外していたが、いま救い出された

かつては(めしい)だったが、今は見えるようになった

 

この歌は私の身にも注がれている神の慈愛のまなざしを思い出させてくれる。ナナ・ムスクーリの絶唱を聴きながら、私は自分の人生をふり返っていた。

――確かにそうだ。私は不遇だったのではない。見捨てられていたのでもない。苦しみにあえいでいたあの時も、悲嘆に暮れていたこの時も、いつも神の御手(みて)の中にあったのだ。

 

「アメイジング・グレイス」は不思議な力を持った歌である。

一七四七年からの八年もの間、この歌詞の作者ジョン・ニュートンはイギリスとアフリカ、アメリカを行き来して、黒人()(れい)貿易を行っていた。ところがイギリスに帰る途中、乗っていた〈グレイハウンド号〉が嵐に遭遇して難破しかけた。しかし幸いなことに北アイルランドに漂着して一命を取り留めた。

 もう金輪際(こんりんざい)、奴隷貿易には携わらないと誓ったジョンは、大変な努力をして英国国教会の聖職者になった。そして(にん)非人(ぴにん)だった自分のような者も神は救ってくださったと感謝して、「アメイジング・グレイス」の歌詞を書き上げた。多くの人々の共感を得て、この歌詞はイギリス中に広がり、さらにアメリカに新天地を求めて渡った人々と共に新大陸に渡った。

 そこにいたのは、アフリカから強制的に連れてこられた黒人たちだった。炎天下で重労働を課せられ、貧困と差別にあえいでいた黒人たちは、「おれたちは見捨てられているのではない」と共感し、いろいろな節をつけて歌った。そのうち現在歌われている作者不詳のメロディーに定着した。リンカーン大統領が黒人奴隷解放宣言をするのは、それから更に三十三年後の一八六二年九月のことである。

 

 アメリカの危機を救った「アメイジング・グレイス」

「アメイジング・グレイス」はその後、アメリカが危機に遭遇したとき、精神の荒廃を何度も救った。例えばベトナム戦争に対する反戦運動が全米に燎原(りょうげん)の火のように広がり、ついに一九七三年、ベトナム戦争に敗北したときだ。アメリカは自信を失い、深く傷つき、人々は精神的な流浪の民となった。

追いかけるように、ウォーターゲート事件が起こった。ニクソン大統領が大統領選挙にからんで敵陣営を盗聴し、発覚すると、策を労してもみ消しを(はか)った。国中が大荒れに荒れ、ニクソン大統領はとうとう辞任に追い込まれた。現職大統領が辞任に追い込まれるという前代未聞の不祥事に、アメリカ国民は何もかも信じられなくなって、人々の心は荒廃の極みに達した。寄るべきものを失ってしまったのだ。

そんなとき、ジュディ・コリンズが、伴奏を付けないアカペラで、この歌を歌いだした。彼女のシンプルな歌唱は、投げやりになっていたアメリカ市民を蘇生させた。一九七一年、ビルボード・ホット一〇〇では15位になり、イギリスでは六十七週連続でチャートインした。再び「アメイジング・グレイス」が復活したのだ。

この現象は終戦直後、ドイツで起きた出来事と酷似している。この戦争の間、ナチスは六百万人のユダヤ人をガス室で虐殺していたことが発覚した。同じ人間であるナチスが悪魔的な所業をしでかしていたことを知って、人々は人間を信じられなくなった。

そんな風潮の中、テレージエンシュタット、アウシュビッツ、そしてチュルクハイムの三つの収容所で、二年七か月もの間、おぞましい体験して生き残ったユダヤ人精神科医ヴィクトール・フランクルは、苦渋の体験を『夜と霧』(みすず書房)として出版した。しかしそれはナチスの残虐性を告発したものではなく、その極限状況の中でもつぶされなかった人間性を高く称えていた。フランクルは「それでも私は人生にイエスと言う」と言い、人間性への信頼を揺るがせにしなかった。人々はフランクルのメッセージによって救われたのだ。

名曲「アメイジング・グレイス」は人々に同じものをもたらした。この歌詞の作者ジョン・ニュートンが多くの困難を乗り越えてつかんだ信念は、それから二百四十年もの歳月を経た今もなお人々を奮起させ、敬虔な気持ちに導いている。そのことを知って、ニュートンは神にひざまずいて感謝しているに違いない。

 

この歌を日本に紹介したさだまさしさん

日本でこの歌が知られるようになったのは、昭和六十二年(一九八七)、さだまさしさんがアルバム「夢回帰線」に「風に立つライオン」を発表したことからである。それまでも一、二のミュージシャンがレコードやCDを出していたが、ほとんどマイナーな人々だった。メジャーな人ではさださんが初めてだ。

さださんは一九六〇年代の終わり頃、ケニアのナクルールにある長崎大学熱帯医学研究所で、医療活動に携わった(しば)()紘一郎(こういちろう)医師をモデルに書いた名曲「風に立つライオン」の間奏とエンディングに「アメイジング・グレイス」の旋律を引用した。

キリマンジャロの白い雪、草原で草をはむ象のシルエット、ビクトリア湖の朝焼け、百万羽のフラミンゴを想起させる「風に立つライオン」は「アメイジング・グレイス」の旋律を引用したことで、茫漠(ぼうばく)たるサバンナで医療に従事している青年医師の「やはり僕たちの国は、残念だけれど、何か大切な処で道を間違えてしまったようですね」というつぶやきを、いっそう鮮明に浮き上がらせた。

「風に立つライオン」はその歌詞の内容から、医師や看護師、青年海外協力隊の隊員、あるいは海外で暮らす在留邦人の間に広まり、いつしか一人歩きするようになった。そして多くの人の共感を得て、平成二年(一九九〇)、第41回NHK紅白歌合戦の出場曲に選ばれてしまった。さらには平成二十五年(二〇一三)、同名の小説(げん)冬舎(とうしゃ)が生まれ、平成二十七年(二〇一五)、三池(たか)()監督、大沢たかお主演で映画化されるにいたった。

さださんはコンサートのアンコールで、自分のベスト曲の一つ「風に立つライオン」を歌うことが多いが、「アメイジング・グレイス」はさださんにとっても思い入れの強い曲なのだ。

 

白血病に倒れた本田美奈子さんも歌った!

 こうして人々の共感を得るようになった「アメイジング・グレイス」がまた新たに人々の心に印象づけられたのは、白血病に苦しんで三十八歳の若さで亡くなった本田美奈子さんが歌ったことからだ。

昭和六十年(一九八五)、アイドル歌手として熱狂的に迎えられた本田さんはポップスからじょじょに歌唱領域を広げ、平成二年(一九九〇)、ミュージカル「ミス・サイゴン」のキム役を一年半ロングランして、平成四年(一九九二)のゴールデンアロー賞演劇新人賞を贈られた。その後、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」にホーデル役で、「王様と私」にタプチム役で、「レ・ミゼラブル」にエポニーヌ役で出演し、実力派女優として不動の地位を築いた。平成十五年(二〇〇三)には、念願だった初のクラシック・アルバム「アヴェ・マリア」をリリースし、そこにいつも歌っていた「アメイジング・グレイス」を収録したのだ。

ところが本田さんの幸せは長くは続かなかった。平成十七年(二〇〇五)一月、急性骨髄(こつずい)性白血病と診断され、緊急入院した。しかし、なかなか骨髄のドナー(提供者)が見つからず、臍帯(さいたい)(けつ)移植を受けた。一時良くなったものの寛解(かんかい)には至らず、再び悪化し、同年十一月六日、とうとう帰らぬ人となってしまった。

本田さんは三十八歳の誕生日の前日、一時退院を許されたとき、世話になった医師や看護師にお礼にナースステーションで「アメイジング・グレイス」を歌った。その歌唱に涙ぐんで聴き入る医師や看護師たちの姿は、後にテレビのドキュメンタリー「天使になった歌姫・本田美奈子」で放映され、多くの人の涙を誘った。

そんなこともあって、本田さんが歌う「アメイジング・グレイス」が収録されたアルバム「アヴェ・マリア」は売り上げが急上昇して十七万枚を突破し、オリコン・ヒットチャートの7位に入った。こうして本田さんの悲しすぎる死は「アメイジング・グレイス」のメロディーと共に日本人の心に刻み込まれ、最も愛される歌になった。

それから半年後、日本骨髄バンクはテレビでの支援キャンペーン(ACジャパン)に、故本田さんが歌う「アメイジング・グレイス」を流して多くのドナーを得た。この日本骨髄バンクは白血病で苦しんだ大谷(たか)()さんが昭和六十三年(一九八八)、徒手空拳で組織づくりを始めたものだ。本田美奈子さんなどの陰ながらの応援もあって、二十七年を経た今日、ドナー登録者数は有効な三十万人を突破して、四十五万人を超すまでになった。「アメイジング・グレイス」は日本人にとっても忘れがたい曲となったのだ。

 

人間存在の原点に導いてくれる歌

その後、「アメイジング・グレイス」はいろいろなアーティストがカバーし、企業のCMとしてテレビで流れ、もはや聖歌という域を超えて日本人の心に染み入った曲になった。この本では主人公のジョン・ニュートン司祭のキリスト教信仰に従って、思考の原点に「神」あるいは「主」を置いた。

しかしながらこれは私たち日本人にとって、決して違和感のある考え方ではない。私たちも遠い昔から「大いなる存在」を感じ、人智を超えた「人生の仕組み」があることを知っていた。日本人の魂の故郷である伊勢神社では、新嘗祭(にいなめさい)にしろ神嘗祭(かんなめさい)にしろ、すべての神事は真夜中の十一時ぐらいから、真っ暗な中、松明(たいまつ)の灯りを頼りに儀式が()り行われる。振り仰ぐと、黒々とした杉の木立のシルエットの向こうに、億万年の彼方の星々が輝いている。この時、私たちは宇宙の申し子であることを感じて厳粛な気持ちになる。

表現は違うけれども、キリスト教も神道も仏教イスラム教も同じ「悠久なる存在」を感じ、それに相応して生きてきた。「アメイジング・グレイス」は私たちに「大いなる存在」を再発見させ、敬虔な気持ちにさせる何かを持っている。この歌に耳を傾けていると、心が昇華していき、神聖な気持ちにさせてくれる。「アメイジング・グレイス」はアメリカ人のみならず、日本人にとっても魂の故郷への導きの歌なのだ。

私はここに「アメイジング・グレイス」の誕生秘話を紹介できることを幸せに思う。

私の人生は波乱万丈だったが、それらのこともこの本を書き表すために経験しなければならないことだったと思う。人生で起きる出来事に意味のないものはない。それすらも天の導きなのだ。この本が私たちの原点について考える契機になれば幸いである。

平成二十八年(二〇一六)二月吉日

                         千葉県佐倉市の寓居で 著者記す

 

 

 

 

 

おわりに

  

平成二十二年(二〇一〇)十一月、私は名曲「アメイジング・グレイス」の誕生秘話を書くべく、作詞者ジョン・ニュートン司祭のゆかりの場所を取材した。ロンドンの下町ワッピングの生家、黒人奴隷貿易のため出航したリヴァプールのマーシーサイド海事博物館、最初の赴任地オルニーのセントピーター・セントポール教会、ロンドンの海事博物館、ランベスパレス図書館などである。

そしてイギリス取材の最後の日、私はニュートン司祭が二十八年間司牧し、八十二年の生涯を閉じたセントメアリー・ウルノス教会を訪ねた。ロンドンの中のロンドンといわれるシティにある大きな教会だ。ニュートン司祭はこの教会を拠点として国会に根気強く働きかけ、臨終の直前に奴隷貿易廃止法を成立させている。

昼過ぎの教会には誰もいなくて、閑散としていた。私は取材を手伝ってくれたマリリン・ローズさんと森田京子さんと一緒に、回廊の壁にはめ込まれているニュートン司祭を偲ぶ石版を見ていた。すると突然パイプオルガンが鳴り響いて荘重な「アメイジング・グレイス」が演奏された。振り仰ぐと二階に据え付けられたパイプオルガンからだ。

パイプオルガンの響きに載せて私の耳朶(じだ)に、ギリシャが生んだ世界的歌手ナナ・ムスクーリの薄絹のように透明で澄んだ声で歌う「アメイジング・グレイス」がよみがえった。

ナナ・ムスクーリの神の愛と見守りを讃美する声が、天の高みにスパイラル状に昇っていく。それにつれて私の思いも浄化され昇華していった。

(――確かにそうだ。私はけっして不遇だったのではない。見捨てられていたのでもなかった。苦しみにあえいでいたあの時も、悲嘆に暮れていたあの時も、私はいつも神の御手(みて)の中にあり、神は私を導いてくださっていたのだ……)

私の心はいつしか感謝で満たされ、生きとし生けるものすべてにありがとうと言いたい気持ちでいっぱいになった。至福の時間が流れ、いつしか歓喜の涙が頬を濡らしていた。

 

 イギリスでのジョン・ニュートンの取材を終えた私は、翌年(二〇一一)十一月上旬、私は西アフリカ・セネガルの首都ダカールを訪ねた。自動車レースファンならずとも知っているパリ―ダカール・ラリーで有名なダカールである。この町はサハラ砂漠の西端に位置するので、砂塵が砂漠から飛んできて、街路樹の葉にも砂が厚く積もっている。窒息しそうになって(あえ)いでいる木々の姿に心が痛んだことを覚えている。

その町の沖合三キロメートルのところに、東西三百メートル、南北九百メートルの小さなゴレ島がある。一八一五年、統治国フランスが奴隷貿易を廃止するまで、奴隷貿易の拠点として栄えた島で、一九七八年には負の世界遺産として登録されている。この島の東側に、交易船がやってくるまで黒人奴隷を閉じ込めていた収容所が残っている。

 収容所に入ると十メートル四方の広場があり、それを囲むように石造りで堅固な二階建ての建物がある。一階には奴隷たちを辻込めていた七つの牢獄が並び、半()(せん)形の階段を昇った二階には奴隷商人たちの事務所がある。

 両側に八畳ぐらいの牢獄が並んだ通路の奥には、「ノンリターン・ゲート」と呼ばれる出口があった。奴隷貿易船がやってくると、ここから黒人奴隷たちが運び出された。奴隷船に積み込まれたら二度と再びアフリカには帰れないから、奴隷たちは必死の抵抗をした。その抵抗を阻止するためムチが振るわれ、血しぶきが飛んだ。

船に積み込まれまいとして、海に飛び込んで逃げようとした者は、鉄の手かせをはめられていたから泳げないのでおぼれ、サメの餌食となって死んだ。だからそのドアは死につながる「ノンリターン・ゲート」と呼ばれて恐れられたのだ。

 二〇一三年六月二十七日、セネガルを訪れたオバマ大統領はこの収容所を訪ね、ノンリターン・ゲートにたたずんで紺碧の海を眺め、往時の悲劇に思いを馳せた。その姿はテレビニュースで全世界に放映されたが、差別の克服は今もなお差し迫った問題なのである。

 こうした奴隷貿易の拠点で、負の世界遺産として登録された場所は、ガンビアやガーナなど、アフリカ各地に存在する。私は隣国ガンビアの中央を流れるガンビア川の中流に設けられたジャンジャンビレ島の収容所にも足を運んだ。川といっても対岸は見えないほどの大河で、かつてはイギリスやフランスの大型貿易船もジャンジャンビレ島までさかのぼっていたのだ。

ガンビア川の渡河地点に設けられたレンガ造り二階建ての収容所にも、壁に埋め込まれたボルトが残っていた。奴隷の手かせに(くさり)を通してボルトに固定し、逃亡を防いでいたのだという。いまジャンジャンビレ島は多くの欧米人がバードウオッチングのツアーで訪れる島になっているが、そういう形で歴史の傷跡が残っている。

 エジプトやローマの昔から人種差別はくり返されてきた。人間はその一つひとつを乗り越えて、万人が平等に機会を与えられる社会を築いてきた。黒人の人種差別は長い闘いの最後の関門だと思われる。

 黒人に市民権や選挙権が与えられ、彼らも自由な市民生活が得られるようになったのは、ジョン・ニュートン司祭たちの尽力によって、一八〇七年、イギリスの国会で奴隷貿易廃止法が成立したのを(こう)()とする。それは人類の歴史に燦然(さんぜん)と輝いている金字塔だといえよう。

 

平成二十七年(二〇一五年)九月十九日、私は米国サウスダコタ州ラピッドシテイからルート16を南西に十八マイル、約三十分走って、ラシュモア山の岩壁に刻まれた四人の大統領の巨大な顔の彫刻を見に行った。花崗岩でできた岩壁に、建国の父ワシントンや、黒人を解放し、米国を分裂の危機から救ったリンカーンなどの十七メートル大の巨大な顔が彫られている。

この国定記念物を見に訪れる人は多いが、圧巻は夜八時からのライトアップだ。ライトアップに先立ち「アメイジング・グレイス」が流れ、国歌「星条旗」が演奏された。すると三百人ぐらいいた観客が一斉に立ち上がり、胸に手を当てて斉唱した。その歌声はラシュモア山の谷に、高く低く響き渡った。私はその場面を目撃し、「アメイジング・グレイス」はアメリカの第二の国歌だといわれる理由がわかったような気がした。この歌詞の作者ジョン・ニュートンが困難を乗り越えてつかんだ確信は、それから二百四十年もの歳月を経た今もなお、人々を奮起させ、敬虔な気持ちに導いているのだ。

 

聖歌「アメイジング・グレイス」は不思議な歌だ。聴いているうちに心が清められていき、一切に感謝し、すべてのものにお詫びしたいという気持ちになっていく。生きとし生けるものと和解し、再出発しようという力を与えてくれる。ジョン・ニュートンが言うように、私たちの人生は「大いなる存在」によって、見護られ導かれているのだ。

 仏教詩人の坂村真民さんが、宇宙と人生をこう詠んでいる。

 

人生の晩年になって

何をバタバタするか
静かに座して

宇宙無限の恩恵に感謝し
日の光、月の光、

星星の光を吸飲摂取して
明るく、楽しく

生きてゆけ

私も人生の晩年を迎えた。日常のことにまだくよくよばたばたしてしまう私だが、居住まいを正して「宇宙無限の恩恵」に感謝し、全生命を傾注して、いい作品を書き残したいと思っている。この本は真民さんが自分を叱責するような思いで書いた作品である。

 今回、私は名曲「アメイジング・グレイス」の背後にあった秘話を書き表し、この歌から生きる勇気をいただいている人々と喜びを分かち合うことができることをうれしく思う。

最後に、この本の出版を担当してくださった廣済堂出版の真野はるみさんに、紙上を借りて心から感謝申し上げたい。

                                     著者識


『アメイジング・グレイス――魂の夜明け』の序文「はじめに」と跋文「おわりに」」への2件のフィードバック

  1. 四月の二日に新居浜 瑞応寺に久々に楢崎通元老師を訪問、作務衣のまま、老師と相見、卆寿のお祝い、そして感謝の言葉、永平寺に参禅に来られ、通元老師お弟子になられた富沢一浩名 知芳師の話題、富沢師は健康道ーがんに驚くなーさわら出版1994,11,22 通元老師は、年上、事業家真宗の家に育ち、事業家だった知芳師によって鍛えられたとおっしゃる、短い時間であったが、別れを惜しみ、大きな達磨さんの掛軸、橋本老師の調息のしおり。その他頂き、松山へ
    坂村真民さんを慕う方の集いに参加、ユースホステルを世話していただき,真民さんの朴の例会の主催者、片山克氏ほか岐阜の掃除の会の皆さんにお会いし、翌朝宝厳寺一遍上人のゆかりのお寺再度訪問、孫とお参りした直後火事ではだしの上人の木像も焼失、現在新本堂の建造中です 「念ずれば花開く」の真言碑のお墓にお参りしました  今回の呼びかけ人、西山文子夫妻は、朴庵での真民さんの講話例会をビデオ記録された元nhkのプロのご夫妻で、真民さん歿後全国にある真民碑の取材を始められて、飛騨高山の私のお寺に来られまして、ご縁をいただいています
    およそ十年、全国の碑の半分を終えた申され、後半の半分のお仕事をこれから始められます 
    真民記念館に再度訪問し、現況を西沢館長からお聞きし、森信三先生と真民さんの深い師弟の縁に深く感動しました 
    今回、皆さんが全国から集まって、特に西沢真美子さんが親しく、お付き合いをいただいたのがうれしかったです 会うべきとに会えるととつくづく感じました
    先日お送りいただいた,「共に生きる」は辻先生の語り掛けに、内山老師の生死抄のせてあり、とてもうれしく思いました 不思議な魅力のある著書です 皆様にしょうかいしたいとおもいます ご縁をつなぎたいと思います 合掌 道一

    1. コメントをありがとうございました。文章中に、片山克さんなど、懐かしい人のお名前も出ていて、とても嬉しく拝見しました。砥部町の真民先生の記念館に行かれ、朴の会の例会にも出られたんですね。私も6月15日、松山に講演に行った折、真民先生の記念館を訪ね、西澤館長や真美子夫人と会食する予定です。ご縁はどんどん広がりますね。いつか原田先生にもお会いさせていただきたいと思っております。神渡良平

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