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大空と雲と光

沈黙の響き (その68)

「沈黙の響き(その68)」

とても評判がいい、ある特養施設の介護士さん

 

 

≪自助努力がもたらす効用≫

私が先週と先々週、2回にわたって、パラリンピックで熱戦をくり広げている障害者たちから得た感動を書いたからか、東真理子さんという介護の仕事をされている方からメールが入りました。東さんは先週、84歳の目のご不自由なご婦人をダンスホールにお連れするという同行援護をしたそうです。約5時間付き添われたのですが、「不思議な感動があり、私の方が元気をもらいました」と書いておられました。

 

「そのご婦人は認知症がまったく無く、足腰もとても丈夫です。ただ全盲に近く、目がご不自由なのに、ひとり暮らしで家事も洗濯もご自分でされています。それに週1回、ダンスに通うのが楽しみで、その同行援護を私がすることになりました。同行援護中、明るくお話されるご婦人に圧倒されるものがありました」

“自立する”と自分の運動機能も維持でき、頭も明晰になるようです。自助努力は結局自分のためでもあるようです。

 

 パラリンピックに出場した選手たちは口をそろえるように言います。

「パラ競技に出合ったことから、目標を持って励むようになりました。努力のかいがあってタイムが向上すると、もっと上を目指そうとさらに励みました」

 自助努力こそはその人を活かす方法であるようです。

 

≪一対多の関係から“一対あなた”という特別な関係へ≫

 東さんはもともと介護のあり方に関心があり、いろいろな施設を見学しました。その後、

お母さんが2つの介護施設で7年近くお世話になったこともあって、いっそう介護のあり方に関心を持つようになりました。そこで個別対応している施設の介護士さんの投稿をネットで読んでいると、ある特別養護老人ホームの介護士さんが、次のような投稿をされていました。さすがにポイントを突いておられたので、私に転送してこられました。教えられる内容だったので、この欄でシェアしたいと思います。

 

「私たちは入居者さんとは入所されてから関係が始まるので、出会いはまったく偶然といえます。でも、片麻痺の人、車イスの人、認知症の人といった方々をトイレにお連れしたり、ご飯を一緒に食べたり、お風呂でのんびりお話したりする日常生活の支援を繰り返しているうち、一対他の関係から“私と○○さん”という特別な関係になっていきます。というよりも、そんな関係になれるよう心がけています。

 

気になる方だからこそ、その人らしい生活を支えたいと思い、昔どうやって過ごしておられたのか、どんな仕事をしておられ、どんなことが趣味で、どんな暮らしをしておられたのか気になります。その方が大切にされていたことを尊重し、一緒に大切にしていきたいと思うのです。

 

 入居して最初は元気だった方もやはり少しずつ衰えていかれ、1日のほとんどを寝て過ごすようになられます。でも、その方がふと目を開けたとき、大切にしている思い出がすぐ目に入るよう、枕元の写真額の配置を変えたりします。

 

それは『あなたの過去を大切にしています。そして、これからもあなたのことを大切にしますね』というメッセージです。写真の選択や額の配置などに、『あなたと明日もともに過ごしたい』という思いが伝わるよう配慮しているから、大切な“今”が輝くのだと思います」

 

これを読んで東さんは心を動かされました。介護する際の一番大切な点を心掛けておられたからとても共感しました。

「ふと目を開けたとき、飛び込んでくるように配置された孫の笑顔の写真。ちょっとしたことに表れている配慮。そこにあるのは“私とあなた”という特別な関係――。その方は施設で欠けがちな、しかしとても重要な“人と人との関係作り”を大切にされているように思いました」

 

私は先に、東さんのメールを通して、自助努力の効用を紹介しましたが、それと同時にこの介護士さんはもう一つ、“その人を大切にしたい”という思いがそのお年寄りをどれほど元気付けているか、伝えておられるように思います。

 

介護現場は忙しく、どうしてもベルトコンベアー式の流れで効率優先になりがちです。だからこそちょっとした配慮が生きてきます。自助努力とともに“私とあなた”という特別な関係をつくることは、クルマの両輪のように補完し合っているように思います。

大空と雲と光

写真=私たちの心に喜びを与えてくれる愛と思いやり


いと高き者の子守唄

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CD「いと高き者の子守唄」3000円―→2000円(+送料)

今から20年前、映画「シックス・センス」(第六感)が空前のスーパーヒットになりました。超能力を授かったコール少年が豊かな感性を傾けて「沈黙の響き」に聴き入ったとき、透明で澄み切った心に相手の思念が映って解決の糸口が示され、複雑に錯綜した呪縛が解けて、当事者を自由の天地に導いていったというストーリーです。

この映画は人の気持ちを思いやり、自分のものとすることの大切さを語って、多くの人々の共感を得ました。私たちもまた感受性を高め、心が透明で澄み切った状態になると、どれほど人さまのお役に立てるか、示してくれたといえます。

改めて「瞑想」、つまり「沈黙の響き」に耳を傾けて、私たちの感性を高めることが大切であることを教えてくれました。

このCD「いと高き者の子守唄」は、音楽家の西村直記先生の透明感に溢れるシンセサイザーの曲を伴奏に、私が9篇の詩を朗読したものです。あなたの瞑想のガイダンスになれば、こんな幸せなことはありません。

いと高き者の子守唄

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メダル5個を獲得したパラ競泳の鈴木孝幸選手

沈黙の響き (その67)

「沈黙の響き」(その67

パラアスリートたちは私たちの“導きの星”だ!

 

 

≪開催されるかどうか、苦しんだ選手たち≫

 今回の第16回パラリンピックは新型コロナウイルスの影響が拡大するなか、国民の8割が懸念を示すなど、開催そのものが危ぶまれた大会でした。しかし、閉会直後の共同通信による緊急の全国電話世論調査では、実に698パーセントが「開催されてよかった」と回答しました。8割の反対から劇的に7割の高評価に変わったのは、選手たちが大会で見せたパフォーマンスが感動的だったからに違いありません。

 

パラ大会の競泳男子100メートルバタフライを制して金メダルに輝き、合計5個のメダルを獲得した全盲のスイマー木村敬一選手(31歳)は勝利の栄冠を得て、涙ながらに話しました。

「この日のためにひたすら頑張ってきました。この日って本当に来るんだなと思いました。来ないじゃないかと思ったこともあったから……」

 パラリンピックが開催されず、徒労に終わってしまうんじゃないかという不安を抱えて準備に励んだ大会開催だったのです。

 

≪まったく動じなかった佐藤選手≫

 陸上男子車イス400メートル、1500メートルで2冠を達成した佐藤友祈(ともき。32歳)選手は21歳のとき、脊髄炎になって左腕が麻痺し、しばらくして下半身の感覚も失いました。車イス生活になってしばらく引きこもっていましたが、平成20年(2012)、ロンドンパラリンピックで競技用車イスを駆使して力強く走る選手を見て衝撃を受け、自分もやってみたいと思うようになりました。そして他の障害者と同様、パラ競技で新しい世界を発見してのめり込んでいきました。

 

 平成25年(2013)、平成26年(2014)、東京マラソンの10キロ車イスマラソンに参加しました。この大会で車イス陸上の現役選手で、北京、ロンドン大会に連続出場している松永仁志選手と知り合い、その指導を仰ぐようになり、めきめき地力をつけていきました。

 平成27年(201511月、ドーハで行われた世界選手権400メートルで優勝、さらに平成28年(2016)6月、ジャパンパラ競技大会の1004001500メートルの3種目で優勝しました。

 

そして今回、パラリンピックを制覇し、とうとう世界の頂点に立ちました。彼は大会が催されるかどうか全然迷いませんでした。開催されようがされまいが、受けて立つ――病気に立ち向ったときとまったく同じ姿勢でした。だから佐藤選手の発言は私たちが陥っていた思考パターンの虚を突いています。

 

「コロナが広まってから、大会ができないことばかりが論じられした。でもぼくらは残された機能で、できることを探して磨いてきました。その違いは大きい。そのことをもっともっと発信していきたいです」

このコロナ禍で開催が危ぶまれるなか、佐藤選手たちはわずかな可能性に賭けて準備してきたのでした。

 

≪口にラケットをくわえて健闘した卓球選手≫

 私たち健常者は長い間、障害者たちを「かわいそうな人たちだ。手厚い保護をすべきだ」とみなし、それが成熟した社会だと思っていました。

ところが昭和39年(1964)、前回の東京オリンピック・パラリンピックが開催された当時、障害者がスポーツをするという意識がなかった日本社会は、見事に自立した欧米の選手たちがパラリンピックで競い合う姿を目の当たりにして、障害者も社会参加できることに大きく目覚めました。まさに、「失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう」という意識を共有するようになったのです。

 

 そして腕が失われた体で泳ぐ工夫を初め、片足のない体に義足を付け、走る練習を始めたのです。かつてはリハビリ目的でしかなかったスポーツに、本格的に取り組む人たちが出てきました。車イスの体でバスケットボールやテニスを始め、走る格闘技と言われる車イスラグビーをやる人も出てきました。

 

障害者が自分を麻痺(パラライズ)した人間とみるのではなく、「もう一つ(パラレル)の生き方」にチャレンジする人間と見なすようになりました。スポーツは障害者の意識を変え、それぞれの未来を描くようになりました。

今回も、両腕を失いながらも口にラケットをくわえて戦っている卓球選手や、足で弓を引くアーチェリー選手が出場しました。実況中継したNHKテレビのアナウンサーや解説者が感極まって涙していましたが、それほどパラ競技は底力があり、奥深いものがありました。

 

≪パラアスリートたちは私たちの〝導きの星〟だ!≫

 パラアスリートたちの奮闘によって、社会もそれにつれて変化し、日本でもバリアフリー法を制定して車イスで動ける段差のない道路を建設し、旅客施設でのドアの大型化を義務化し、一日3000人以上の昇降客がある鉄道駅は段差を解消するなどの努力が払われました。 車イスのまま乗れるユニバーサルデザインのタクシーも格段に普及しました。

 

障害者を手厚く介護するだけではなく、働く機会が得られるようにすることのほうがもっと大事だと気づきました。現在では民間企業で雇用されている障害者は57万8千人となりました。これはただ単に障害者にとって朗報なのではなく、障害者が働きやすいように業務を見直すことによって、健常者にとっても職場が働きやすいものに生まれ変わり、生産性も向上しました。

 今回はパラリンピックが開催されるようになって16回目。閉会式の翌日の産経新聞は「多様性のある社会の入り口にたどり着いた」と書きました。障害をハンディと見なすのではなく、多様性として受け入れるような社会になりつつあるというのです。好ましい変化です。

閉会式に障害を持つ歌手が『この素晴らしき世界』を熱唱したことにも、人生を肯定的に前向きにとらえていることが感じられ、ほほえましく思いました。パラアスリートたちが私たちにさきがけて世の中の意識を変えようとしているようです。

そんな彼らに耳を傾け、彼らをわれらの〝導きの星〟として受け入れたとき、本当に柔軟な社会が生まれるのではないでしょうか。

 

≪哀しむ人のなかに〝神〟を見た天香さん≫

 世の中には、「どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの……」と苦しむ人たちがいます。哀しみを味わったその人たちの瞳は涙で濡れています。その人びとは神の哀しみを体験的に知っているから、本当は神の隣にいるのです。神は栄光の神であるはずですが、実際は痛みの神であり、哀しみの神なのです。

そのことを知っているイエスは涙に暮れている人の隣にすわり、一緒に涙を流しました。だから、世の中で一番さげすまれていた取税人や売春婦たちが彼の周りに集まってきたのでした。

 イエスと同じように、見捨てられ、無視された人びとの中に、〝神〟を見いだした人が天香さんです。天香さんの出発点は京都の花街の女たちです。木屋町の料亭の台所を手伝い、軒下で寝て、女たちの打ち明け話に心を痛ませて聴き入りました。金持ちの旦那たちが芸子に酒をつがせ、嬌声を挙げて酔いしれるとき、それに付き合って酔っぱらわなければならない芸子たちの辛さに心底同情しました。だから天香さんは先斗町(ぽんとちょう)の女たちに受け入れられたのです。

 天香さんはパラリンピックの選手たちに心から声援を送っている障害者たちとともにいました。パラリンピックの父グッドマン医師が障害者たちを「失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう」と励ましたように、天香さんもまた社会の一番底辺からみんなを励まし、導いていったのでした。

 パラアスリートたちの活躍に声援を送りながら、私はその背後にある天香さんの生き方を思わずにはおれませんでした。

メダル5個を獲得したパラ競泳の鈴木孝幸選手

写真=メダル5個を獲得したパラ競泳の鈴木孝幸選手


道は続いている

沈黙の響き (その65)

「沈黙の響き(その65)」

日本人に戦争の罪悪感を植え付けた米国

 

 

前回の投稿で私は、日本の占領政策について、アメリカが極秘裡で日本弱体化計画(「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」=戦争の罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)を進めていたと述べました。すると、それをもっと知りたいという要望があったので、今回はそのことについて述べます。

 

≪分断と統治は常套手段≫

 昭和2012月、占領軍は占領軍という特権を使って、ほとんどあらゆる日本の日刊紙に、「真実の太平洋戦争はこうだった!」と称して、連合国総司令部民間情報局の署名入りの記事『太平洋戦争史』を強制的に連載し始めました。

『太平洋戦争史』は当然のこととして、戦地における日本軍の残虐行為を強調し、日本の大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、一切は日本の軍部が悪いのであって、米国は少しも悪くなく、米国には何ら責任がないと主張しました。

 

 さらにラジオでも自分たちが書いた『太平洋戦争史』を昭和20年(194512月9日から翌年の2月10日まで、10週間連続で流しました。かてて加えて『真相はこうだ!』というラジオ番組で、「日本は軍部に騙されて犠牲になったのだ!」と41週連続で流しました。これに引っかかった日本人は多数あり、以後、私たちは軍部に騙されていたんだ、軍部憎し! という感情が高まっていきました。見事に日本分断化工作が功を挙げたのです。

 

 実は欧米が植民地支配をするときの常套手段は、相手の国民を2つに分断し、人民を抑圧してきたこれまでの支配層に代わって、われわれが新しい国家を支配するというものでした。インドにおけるイギリスも、ベトナムにおけるフランスも、インドネシアにおけるオランダも、フィリピンにおけるアメリカもみな植民地の分断化をやりました。

 

「分断と統治」こそが植民地支配の鉄則でした。だから日本の場合も分断と統治の手法を用いて、軍部と騙されたあわれな無辜(むこ)の民の図式を当てはめて分断を図りました。さらに軍部の内部も、猪突猛進で自信過剰な指導層と、何も知らされていなかった哀れな第一線部隊というふうに分断しました。

 

 その後も、誌や書籍、ラジオ、学校教育で執拗に、しくり返し宣伝しました。学校教育では修身や歴史の授業を廃止し、占領軍が提供した『太平洋戦争史』を教材として使わせ、日本悪玉論を植えつけました。6年8か月に及んだ占領政策で、日本を骨抜きにし、永久に隷属化することに目途がつきました。

 

そんなこともあってか、私の母はいつも悔やんでいました。

「戦後、あまりにも価値観が変わってしまい、何を信じていいかわからなくなった。それに食べていくのに必死だった……」

 社会は急速に左傾化し、神仏も伝統も否定され、クラゲが海をただ漂っているだけのような、リンとしたものがない社会に転げ落ちていきました。

 

 占領下の日本のことは、江藤淳の渾身の力作『閉ざされた言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋。1989年刊)に詳しく書かれています。江藤は全共闘運動を「革命ゴッコ」、三島由紀夫も「軍隊ゴッコ」と批判し、プリンストン大学で学びつつ米国の視点をしっかり分析し、米国からの精神的独立を願う保守派の論客として一世を風靡しました。

『閉ざされた言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』は一見に値する書物です。ぜひご覧になってください。

 

≪千載に禍根を残した碑文≫

  米国は戦争が終わったあと、日本が再び反抗的な国家として立ったらやっかいなので、その芽は占領時代にしっかり潰しておかなければならないので、洗脳工作を徹底しました。その意図のもとについやされた占領時代の6年8か月は、日本人に自虐思想を植えつけるのに成功し、確たる成果を得たのでした。

 

「沈黙の響き」(その64)で採り上げた広島原爆慰霊碑の碑文に「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」と書かせることに成功したのもその一つでした。あの文章を書いた雑賀忠義広島大教授は「世界市民」などという理想論を盾に、碑文反対論者に強硬に反論しました。

 

「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰り返さないと誓うことは、全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びです。『原爆投下は広島市民の過ちではない』というのは世界市民に通じない言葉です。そんなせせこましい立場に立つと、過ちをくり返さないことは不可能になり、霊前でものを言う資格はありません」

 雑賀教授は進歩的文化人かもしれませんが、米国に気づかって、千載に禍根を残したといえます。

 

 戦後まもない昭和27年(195211月、広島市で行われた世界連邦アジア会議に出席していたインドのR・B・パール博士(極東軍事裁判の判事の一人)は原爆慰霊碑を参拝し、あの碑文を見て、憤激した表情で語りました。

 

「ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊です。原爆を落としたのが日本人でないことは明瞭です。(なのになぜ日本人が詫びる必要があるんですか?) 落とした者の手はまだ清められてはいません」

 

 それに対して米国大統領は、「われわれは詫びることはしない。悪かったのは米国ではなく、日本だ」と突き放しています。

 

 国際政治は力と力のぶつかり合いで、弱者は強者の餌食になります。われわれは力がなかったために負けました。そして占領政策によって思うがままのことをされ、日本の自立を阻まれました。しかしもう戦後76年になります。そろそろ自虐思想から脱却し、自主独立の国になろうではありませんか。(続く)

道は続いている

写真=道は続いている


歓喜の雄叫びを挙げるベアトリーチェ・ヴィオ選手

沈黙の響き (その66)

「沈黙の響き(その66)」

パラリンピックよ、ありがとう!

≪失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう≫

 史上最多58個のメダルを獲得した東京オリンピックに続いて、8月24日から13日間にわたって、パラリンピックの競技が行われました。直前までコロナウイルス感染によって開催が危ぶまれながら、160を超える国と地域から、史上最多の4403人のパラアスリートが集い、熱戦をくり広げました。日本からも過去最多の254選手が全22競技に参加しました。

 私は普段ニュース以外あまりテレビを観ませんが、このときばかりは夜、テレビにくぎ付けになって観戦しました。というのは「パラリンピックの父」といわれる英国のルードヴィッヒ・グッドマン医師が、第二次世界大戦直後の1948年、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院で、戦争で負傷した退役軍人らを対象に開いたアーチェリー大会の席上、

「失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう」

 と語って、参加者を鼓舞したと知ったからです。

 大会に参加したどの選手も私の耳目を惹いて励ましてくれましたが、圧巻だったのは、車イスフェンシング女子フルーレ個人に出場したイタリアのベアトリーチェ・ヴィオ選手(24歳)が2連覇を果たし、全身を振るわせて歓喜の雄叫びを挙げた瞬間でした。

 ヴィオ選手は11歳のとき髄膜炎を患って、両腕の肘から先と、両脚の膝から先を失いました。しかし車イスフェンシングのおもしろさのとりことなり、研鑽を積んだ挙句、とうとう世界の頂点に立ったのです。決して諦めない姿勢は人々の共感を呼び、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス=インターネットを通じて、他人とコミュニケーションが取れるツールのこと。インターネットで繋がっているので、世界中の人とコミュニケーションを取ることができる)では世界的な人気者となり、インフルエンサー(SNSなどを通じて情報発信し、それによって多くのフォロワーに影響を与えている人物)として知られるようになりました。

 今回ヴィオ選手の試合を見た人は、両手両足がない不自由な体なのに、それをまったく問題にせず、果敢に戦う姿に魅了され、いつのまにか声を限りに声援を送ったと思います。

≪人は誰でも誰かの光になることできる!≫

日本人選手でも観戦する私たちを勇気づけてくれる選手が何人もありました。その一人がパラトライアスロン女子に参加した谷真海(まみ)選手です。谷選手は早稲田大学応援部でチアリーダーをしていた19歳の冬、右足首に痛みを覚えました。診察してもらうと、骨肉腫と診断され、膝下の切断手術を迫られました。

 あまりなことに絶望し、真海さんは3日間泣き続けました。

「何で自分がこんな破目になったのだろう? これは何の試練なんだろう」

 思い悩む日々が過ぎたとき、真海さんは義足(ブレード)をつけて走り幅跳びをするようになり、次第にスポーツの魅力のとりこになりました。スポーツは記録の更新によって希望を与えてくれ、さらには仲間たちと結びつけてくれたため、孤独ではなくなりました。こうして日本における女子パラアスリートの開拓者になっていきました。

 そして平成25年(2013)、アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC総会で、谷さんは感動的な招聘(しょうへい)スピーチをして、令和2年(2020)、オリンピック・パラリンピックを東京に持ってくることに成功し、大金星を挙げました。

 そんなこともあって講演の機会が一躍多くなった谷さんは、自分の経験を踏まえて聴衆に語りかけました。

「人は病気や障害を選べません。しかし、それらを背負ったのち、どう生きたかを選ぶことができます。私は自分の経験から、神さまは乗り越えられない試練は与えないと確信します。あなたもきっと誰かの光になれます」

 どれほど多くの人が谷さんの言葉に励まされ、前を向いたかわかりません。

「東京パラリンピックは私たちパラアスリートが、観戦してくださる人々をどれほど勇気づけることができるかを示す場でもあるんです」

 谷さんは私たちをどこまでも励ましてくれるアスリートでした。谷さんはその後結婚し、出産を経て再び競技場に戻り、今度はトライアスロンに挑戦し、パラリンピックに出場するまでになりました。

≪右腕のない選手がトライアスロンで銀メダル≫

 男子アスリートの中にもそういう人がいました。トライアスロン男子で銀メダルに輝いた宇田秀生(うだ・ひでき。34歳)選手です。宇田さんの子どものころの夢はJリーガーになることで、高校時代は滋賀県選抜でもプレーしたほどで、大学時代はますますサッカーに熱中しました。

ところが平成25年(2013)、仕事中に機械に巻き込まれ、右腕を失ってしまいました。結婚してからわずか5日目の事故で、しかも奥さまは妊娠中でした。幸福の絶頂から、悲劇のどん底に突き落されたのです。何という悲劇でしょうか。

 普通だったらそこでギブアップしてしまいますが、涙を拭って立ち上がった宇田さんが活路を見出したのはトライアスロンでした。しかし右腕を欠損しているので、両腕がある選手に比べると、075キロのスイムで引き離されてしまいます。それを20キロの自転車と5キロのランで挽回しなければ太刀打ちできないのです。苦しい闘いが続きましたが、それを乗り越え、とうとう銀メダルを獲得したのです。2位でゴールに飛び込んだ宇田選手が、日の丸の旗を背にして号泣したのは、その過程がどんなに過酷なものだったかを物語っていました。

≪私を励ましてくれたパラアスリートたち≫

 私はなぜパラリンピックに惹かれたのか、理由があります。

 私は2年前の9月、心臓の冠動脈のバイパス手術を受けました。8時間もかかった手術でしたが、予後がはかばかしくなく、杖をつかなければ歩けなくなってしまいました。体調がすぐれないと、それに影響されて悲観的になってしまいます。

 そういう状態のところに、パラリンピックが始まりました。両手両脚がない選手が、それでもイルカのように体をくねらせて、50メートル、100メートルと泳ぐ姿は目が覚めるほどに感動的でした。

 競泳男子に出場した鈴木孝幸選手(34歳)は、右腕の肘から先と、両脚がない体です。パラリンピック連続5回出場という大ベテランですが、5年前のリオデジャネイロ大会では初めてメダルを逃すという屈辱を味わいました。世界の選手層が厚くなったことを痛感し、年齢もあったので、一時は引退も考えました。

 でも、東京大会では表彰台に返り咲きたいたいという思いが勝って、体を土台から鍛え直しました。そして男子100メートル自由形で見事金メダルの栄冠に輝き、日本に金メダル1号をもたらしました。その後、50メートル平泳ぎで、銅メダルを獲得し、残り2種目もメダルをつかめる至近距離にあります。

≪自分との闘いに勝った50歳の杉浦さん≫

 杉浦佳子選手は、女子個人ロードタイムトライアルとロードレースで渾身の走りを見せ、見事2つの金メダルを獲得し、パラ自転車の頂点に立ちました。栄冠に輝いたのは、何と50歳のときでした。

 杉浦さんは5年前の平成28年(2016)、趣味が高じて出場した自転車レースで転倒し、頭蓋骨などを粉砕骨折する大怪我をしました。事故直後は父親の顔も認識できず、医師にも何度も挨拶をするほど錯乱していました。右半身に麻痺が残り、記憶力にも不安がありました。しかし、そこから杉浦さんは復活したのです。

 杉浦さんは薬剤師を目指していましたが、出産のため、大学を中退しました。しかし夢を諦めることができなかったので別な大学に入り直し、育児と学業を両立させ、とうとう薬剤師になりました。そして薬剤師を続けながら、自転車個人ロードタイムトライアルに挑戦しました。

 それを見守った母親の良子さん(75歳)は振り返ります。

「自転車競技がなければ、あの子はうつむいて暮らしていたかもしれません」

 自転車競技が杉浦さんの窮地を救ってくれたのです。

 とはいえ、ライバルの多くは伸び盛りの若手選手たちです。自分の年齢を考えると、遅くとも40代で決着をつけようと思っていましたが、コロナ禍でずれ込んでしまい、東京大会が開かれたときはもう50歳になっていました。杉浦さんはSNSで、「正直言ってさすがに厳しい。体力がついていかない」と本音を漏らしましたが、それを乗り越えてとうとう金メダルに輝きました。

 表彰式に臨んだ杉浦さんは、杖で体を支えてゆっくり壇上に上がりました。その様子をテレビで観ていた人々は、杉浦さんは自分と戦って勝利したのだなと、誰もが感じたに違いありません。爽やかな笑みをこぼれてくる表彰式でした。

50歳で再挑戦した「水の女王」≫

 実は私にはパラリンピックには忘れることができない思い出があります。それは過去5大会に連続出場し、パラ日本選手最多の金メダル15個を獲得し、「水の女王」と呼ばれた成田真由美選手とインタビューを通して親しくなり、今も交流しています。

 成田選手は13歳で発症した脊髄炎で下半身が不自由になりました。でも、水泳に挑戦し、パラリンピックで大活躍するようになりました。その後、第一線を退きましが、招致から携わってきた東京開催決定をきっかけに競技に復帰し、もう一度表彰台に上がろうと、通算6度目の出場を決めました。しかし50歳という年齢では並みいる強豪に太刀打ちできず、敗退しました。しかし、成田選手の果敢な泳ぎは観戦する者たちを励ましました。

 そういう選手たちの奮闘は、何をぼやぼやしているんだと、私に喝(かつ)を入れてくれました。まったくその通りで、ついつい自分を甘やかし、愚痴をこぼしていたのです。パラアスリートたちは私に出直す勇気を与えてくれました。(続き)

歓喜の雄叫びを挙げるベアトリーチェ・ヴィオ選手

写真=歓喜の雄叫びを挙げるベアトリーチェ・ヴィオ選手


原爆死没者慰霊碑の碑文

沈黙の響き (その64)

「沈黙の響き(その64)」

頭を傾げてしまう原爆慰霊碑の碑文

 

 

≪謝るべきは日本なのか?≫

ところで話は再び、今年の原爆慰霊式典のことに戻ります。NHKテレビにハニワ型の原爆記念碑に刻まれている碑文「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」が映しだされました。碑文には主語が書かれていないので、普通に読めば、「安らかに眠ってください。私たちは無謀な戦争を起こしたことを反省し、二度と過ちはくり返しませんから」となります。

 

前後の文意を補足すると、「日本は残虐な戦争を始め、その報復として米国は原爆を投下し、戦争を終結させました。失敗の元凶は日本です」となります。原爆被害をもたらしたのは、米国ではなく日本だと断罪しています。

果たしてそうなのでしょうか? 私はとても違和感を覚えます。

 

太平洋戦争終結のあと、GHQ(連合国最高司令官総司令部)は、太平洋戦争後の日本を占領・管理し、原爆取材には徹底した報道管制を敷き、新聞雑誌には原爆関連の情報は一切公表させませんでした。

いやそれ以前に、米軍が日本に対して行った非戦闘員(一般国民)に対する無差別絨毯(じゅうたん)爆撃は明らかな戦時国際法違反だと非難しました。にもかかわらず、米軍は絨毯爆撃を強行し、約300万人の日本国民を殺戮(さつりく)したのです。

 

それを蒸し返されるのを恐れて、「日本は残虐な戦争を始め、その報復として米国はやむなく原爆を投下し、戦争を終結させたのだ」と強弁し、東京裁判も一貫して日本悪玉論で推し進め、無謀にも戦争首謀者として7名を特定して処刑し、横浜の久保山火葬場で荼毘に付しました。しかもその粉骨灰は、犠牲者の墓が建てられて人々が慰霊碑に詣でることがないようにしようという意図から、太平洋にばらまく計画でした。涙も出ないような仕打ちです。

 

その計画を察知した三文字正平弁護士(極東軍事裁判で小磯国昭陸軍大将・首相の弁論人)や市川伊雄(いゆう)興禅寺住職、飛田善美久保山火葬場長は、久保山火葬場から骨壺一杯分の遺骨灰を盗み出し、興亜観音に隠しました。

 

この遺骨灰を昭和34年(19594月、吉田茂元首相が揮毫して「七士廟」が建立され、次いで翌年、三河湾を望む風光明媚な愛知県西尾市の三ヶ根山に岸信介元首相の揮毫で「殉国七士廟」が建立されました。

 

同地はA級戦犯の刑死者7柱に加え、BC級戦犯刑死者901柱、それに収容中に病死、自決、事故死、死因不明で亡くなったABC級戦犯160柱を合わせ、計1068柱が供養され、「もう一つの靖国神社」と呼ばれています。

 

≪GHQが成功した洗脳工作≫

私はGHQが占領軍政下で行った言論統制と、その結果日本人がまんまと陥れられた自虐思想について、拙著『苦しみとの付き合い方 言志四録の人間学』(PHP研究所)の第5章「戦後70年のレクイエム」で徹底して論じました。

 

その3項目で「自虐思想の淵源を探る」と題して、占領軍が占領下の日本に対して行った「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(私訳・戦争を起こしたことが罪だと感じるよう仕向ける情報工作)があったことを明らかにし、「日本は本当に侵略国家だったのか?――大東亜戦争、東京裁判、そして占領時代を検討する」を論じました。

 

私は米国の日本洗脳工作の集大成が、広島平和記念公園の記念碑「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文言に他ならないと思えてなりません。あれほど印象操作として成功し、日本人の脳裏に刷り込むことに成功したものは他に類例がありません。

 

あの碑文の決定に際し、GHQは徹底して日本政府や広島市に干渉し、昭和天皇(宮内庁)は碑文の主語を「人類」と明記することによって、日本悪玉論を排そうとされましたが、とうとうGHQに押し切られてしまいした。

 

広島市に講演に訪れた極東国際軍事裁判で判事を務めたインドの法学者ラダ・ビノード・パール氏は,「広島、長崎に原爆を投ずるとき、米国はそれを正当化する理由を挙げつらい、何のために原爆は投ぜられなければならなかったか強弁した」として、非人道的行為を強く非難しました。

 

さらに碑文の内容を読み、「原爆を落としたのは明らかに日本人ではありません。にもかかわらず、日本人が日本人に謝罪するのですか? 原爆を落としたアメリカ人の手はまだ清められていない」と難詰しています。

 

国際政治の現実はナイーブな理想論では解決できません。シビアな国家エゴと国家エゴのぶつかり合いです。自国を侵させない力を持つ以外に、生き延びることはできません。そろそろ自虐思想から脱却し、自分の足で立つべきときに来ているのではないでしょうか。(続く)

原爆死没者慰霊碑の碑文

写真=原爆死没者慰霊碑の碑文

 


チューリヒ湖

沈黙の響き (その63)

「沈黙の響き(その63)」

スイスでの講演に同行した佐伯宏美さん

 

 

 私が佐伯宏美さんを知ったのは、平成13年(2001)9月、スイス最大の商業都市チューリッヒで行われたJAL主催の講演会に参加されたことからでした。日本のことを話してくれる人をということで、私に白羽の矢が立ったようでした。そこで私は読者の方々に呼びかけ、「一緒に行きませんか。そしてスイスの方々と交流しましょう」と呼びかけました。そのツアーに参加された22名のお一人が佐伯さんでした。講演会には200名もの方々が来られて盛況でした。

 

≪スイスで話した四国遍路の醍醐味≫

 私はその一か月前、四国88か所札所1200キロを36日かけて遍路したところだったので、チューリッヒでは、み仏から見守られ、導かれた遍路旅のことをしました。金剛杖が40センチもすり減り、ズックも靴底がすり減って、穴が開くほどの過酷な行脚でした。

 

 この遍路は脳梗塞で倒れ、右半身麻痺にはなったけど、大切なことに気づかしていただき、人生を再出発させていただけたから、そのお礼のため88か所札所を廻ろうというものでした。それにリハビリをかねて1200キロ歩こうと意図しました。

 

 ところが医者からは大反対され、叱られました。

「炎天下を1200キロも歩いたら、また脳梗塞を起こして救急車で運ばれることになってしまう。それは医者として断じて許可するわけにはいきません」

 3年目も5年目も8年目も同じく反対されました。しかし12年目、医者のほうが根負けして、「そこまで言うんだったら、行ったらいい。私は許可しないけれども、自体責任でやるんですね。でも水道の蛇口を見つけたら、口を付けて水をガボガボ飲んで、血液がサラサラなるようにして歩くよう気をつけてください」と、妥協してくれました。

 

 そこで私は50歳になった平成10年(199881日から歩きだしました。1日のノルマが35キロ、もちろん足を引きずりながらの遍路でしたが、方々で接待してくださり、内面的にはとても満たされた旅となりました。四国遍路の詳しいことは『人は何によって輝くのか』(PHP研究所)に書いているので、ここではくり返しません。

 

≪このお遍路にお前を誘い出したのは誰だと思うか?≫

 最後の88番札所の大窪寺で、36日間で完歩できたことを感謝して祈っていると、不思議な声が聴こえてきました。

36日間、実にご苦労であった。しかし、この遍路の旅は誰が企画したかわかるか?」

「えっ、私が企画してお遍路を始めたと思っていましたが……」

「徳島市の南を流れる鮎喰川(あくいがわ)を一宮橋で渡ろうとしているとき、起きた出来事があったな。覚えているか? お前の後ろからバイクで来られた方がバイクを停め、200円お接待くださっただろう」

 信じがたいことに、どうも弘法大師のようです。

 

「もちろん、よく覚えています。ありがたくて、嬉しくて、思わず南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)、南無大師遍照金剛と唱えてその方を拝み、涙がボロボロ出ました」

「あれは山あり谷ありの道を1日35キロ歩くことがどんなに辛いことかを経験すると、たった1本の缶ジュースがありがたくて受け取れないとお前に経験してもらいたかったのだ。みんな生かされ、助けられ、導かれているんだ。そのことを深く感じてもらうために、このお遍路にお前を引っ張り出したのだ!」

 

「ええっ、こんなちっぽけな人間に目をかけ、導いていてくださっていたんですか……」

 私は感激のあまり、大窪寺の太子堂の前に立ち尽くすことができず、私はひれ伏して泣きました。遍路者はとても敏感になっているので、そういう声が聞こえるのです。

 講演会の聴衆にとって、「お遍路(巡礼)は“内なる神”との対話のひと時です」というメッセージは聴衆にはとても新鮮だったらしく、質疑応答はそこに集中しました。

 

≪キリスト教最大の巡礼道カミーノ≫

スイスの方々と歓談していると、キリスト教の巡礼道のことを教えてくださいました。

「仏教でもお遍路を大事にされているんですか? キリスト教でも巡礼はとても重要視していて、その最大の巡礼がスペインのカミーノと呼ばれている800キロの巡礼です。フランス側からピレネー山脈を越えてスペインに入り、イベリア半島をビスケー湾沿いに西へ西へと歩き、スペインを伝道したと言われているヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の墓に詣でるのです。カミーノが世界遺産に選ばれたことから、今では世界中から巡礼者が押しかけています」

 私は話を聴きながら、今度はぜひカミーノを歩いてみようと思いました。

 

すると「あなたがカミーノに挑戦されるのでしたか、私もその巡礼に参加したい」とおっしゃる方が何人かあったので、「全行程800キロを歩くのは無理ですから、最後の100キロを同行されませんか?」と申し上げ、4年後にカミーノを歩きました。スイスの方々も4名同行され、最後の100キロを一緒に汗を掻きました。

 

 講演の後、佐伯さんと私の共通の友人で半身不随になった人に、旅先で励ましのビデオレターを撮りました。そんなご縁もあって、来年の春先はぜひ広島市で講演会をやりましょうと盛り上がりました。

 

≪スイスの旅先で世界貿易センターのテロ事件に遭遇した!≫

 講演会で知り合ったばかりのスイスの方々がチューリッヒ観光を案内してくださり、さらにはスイスアルプスのトレッキングに同行してくださり、楽しい旅となりました。

 911日も私たちはスイスアルプスのトレッキングを楽しんでホテルに降りてきました。するとロビーに置いてあるテレビに人々が群がって騒いでいます。何事だろうと覗き込むと、何とニューヨークの世界貿易センターの南北両棟に、ハイジャックされた旅客機2機が突っ込むという、にわかには信じがたいテロが発生したのです。ビルは炎上して崩壊し、約3000名の方々が犠牲になりました。国際政治の生々しい現実を突きつけたおぞましい事件でした。

 

 その後、私はみなさんと別れ、オーストリアとドイツの内観研修所の取材に行きました。日本で始まった内観が欧州でも常設の研修所を運営するほどに広がっていたので、実地に取材しました。人間の生命に起こるコペルニクス的覚醒については、とても重要なことなので、別な機会に改めて触れたいと思います。

 

 その翌年3月、佐伯宏美さんは広島アステールプラザで私の講演会を企画されました。何かの組織の会長とか婦人部長とかではないまったくの主婦が、いったいどれほどの人を集めることができるか心配でした。しかし佐伯さんは喜々としてPRに奔走し、その結果、当日は立ち見が出るほど盛況となり、約300人近い人々が参加されました。佐伯さん自身の感性の高さが人々を引き寄せたのです。

 

 私は聴衆の関心の高さを知って驚き、思う存分話すことができました。その後、佐伯さんは何回も講演会を企画し、その都度盛会なので、佐伯さんへの信頼は揺るぎのないものになりました。(続き)

チューリヒ湖

マッターホルン

写真=チューリッヒは同名の湖に面した絵葉書のように美しい街でした。

 

 

 


沈黙の響き (その62)

「沈黙の響き(その62)」

哀しみの原爆慰霊式典

 

 

 8月6日、今年も広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和記念式典が開かれました。その夜、20数年前からの友人で、広島市に在住されている佐伯宏美さんが、Facebookに次のような一文を掲載されました。こういう文章を読むと、76年前に起きた悲劇が他人事ではなく、自分のことのように身につまされます。

 

「広島に原爆が投下されてから76回目の猛暑の朝、昨年に引き続き、広島平和祈念式典は互いに距離を取り、人数を制限して静かにとり行われました。私たち家族はテレビの前に正座して、静かに815分の黙祷を捧げました。

 

広島の人にはみんなそれぞれに86日(ハチロク)の悲しみのドラマがあります。それぞれの家族に、肉親が一瞬で人生を奪われた無念と哀しみがあったろうと思うと、深い切なさが押し寄せてまいります。

 

≪原爆直下で、義母は瞬時に亡くなった!≫

わが家の場合、主人の父はシゲノさんという、まだ19歳だったかわいいお嬢さんと結婚したばかりでした。86日のこの時間、義父は己斐(こい)駅前でシゲノさんと待ち合わせをし、シゲノさんは己斐駅に向かって、ちょうど原爆直下の相生橋あたりを走っていた電車の中にいたと推測されます。ところがそこで原爆が炸裂し、一瞬にして跡形もなく消え、亡くなられたのです。

 

義父自身もたいへんなやけどを負いましたが、連日奥さんを探して歩き回りました。しかし、消息は杳(よう)としてつかめませんでした。その後、義父は主人の母と再婚し、今の私たち家族が生まれました。

 

今年は長女と孫が帰省していますが、可愛くてあどけない孫を見、またわが家の歴史を思うと、思わず胸が熱くなります。原爆犠牲者の悲しみがあるわが家ですが、こんなに元気いっぱいの孫にまで、命のバトンを渡すことができて嬉しく思います。

 

19歳で原爆の犠牲になられたシゲノさん、あなたのことはいつまでも忘れません。私の子どもや孫たちに、あなたが生きていらっしゃったこと伝えてまいります。悲しみの連鎖はどうかこの時代で終わりにしたいと思われてなりません」

 

佐伯宏美さんの義父は長いこと、花嫁さんの辛い捜索のことは話さなかったそうです。後になって宏美さんやご主人の昌明さんが調べて当時の様子がわかってきて、義父の深い悲しみを知り、話すことさえできなかった悲しみに愕然としたのでした。佐伯さんは悲しい被爆者の歴史を背負っていたのです。

 

「私たち遺族は純粋に、86日は2度と原爆が起きない世界平和を広島から発信する日でありたいと願っています。ところが現実には政党の平和運動に利用され、翻弄している状態が残念でなりません。私たちが原爆慰霊塔の前での式典に参加せず、夕方になって遠くから手を合わせて祈っているのもそういう理由からです」

 佐伯さんは慰霊祭が原爆犠牲者を悼むことを忘れて、政治闘争化している現状を残念に思っています。

 

≪話せないほどの哀しみ≫

 佐伯さんの義父は被爆死したお嫁さんを探し回った哀しみをついに話しませんでした。哀しみの極み、誰にも話せなかったと聞いて、私は思い当たることがありました。私の父は大東亜戦争の末期はビルマ戦線で、蒋介石が率いる国民党軍の重要な支援ルートだったインド領北東部インパールの攻略を目指したインパール作戦に従事しました。

 

 この作戦は計画段階で無謀すぎると反対された作戦でした。援蒋ルートを断つという意図はわかるけれども、2000メートル級の山岳地帯で戦闘する過酷さに加え、重装備、豪雨、マラリア、赤痢などの感染症の蔓延、それに武器弾薬や食糧の補給の困難さから実行不能と反対されました。

 

 それでも第15軍及び第18師団の牟田口廉也中将は命令を撤回せず、作戦は強行されました。補給ルートが確保されないままの戦いだったので、日本軍は打つ弾が無く、食べる食糧もない窮地に追い込まれました。戦闘機主体のイギリス軍の反撃に遭い、10万人の戦力のうち、3万人が戦死、戦傷やマラリアや赤痢に罹って後送された者が約2万人という敗戦色を深めていきました。

 

 前線から退却する道は将兵の死体がごろごろしていたことから「白骨街道」と呼ばれ、退却する自軍について行けない傷病兵が泣きながら訴えました。

「俺を見捨てないでくれ! 頼むから連れていってくれ」

 泣きながら訴える戦友たちの必死な声を聞きながら、自分自身が餓死寸前の退却だからどうすることもできず、泣く泣く振り切って退却を続けました。父にとって、戦友を見捨てて退却したという慙愧の念が胸の中を渦巻いていたのです。

 

 父は無事日本に復員して故郷に帰り、私たちが生まれました。風呂から上って座敷で父とたわむれているときなど、何も知らない私たち3人の子どもは父にせがみました。

「ねえ、ねえ、父ちゃん、軍隊時代のことを話してよ」

 それに対して、父は満州や中国大陸を転戦していたころの、ことさら問題がなかった兵隊時代のことは話してくれましたが、ビルマ戦線のことはいっさい話しませんでした。なのに父の書棚にはインパール作戦に関する本が何冊もありました。やはり一番の関心は、インパール作戦とは何だったのかと、必死で全貌をつかもうとしていたのです。

 

 父は平成18年(20061月、90歳で亡くなりました。私は父の書棚のインパール作戦関係の本をむさぼるように読みました。そして戦友たちの死体を乗り越えて行った死の退却行のことを知りました。それはあまりにも無惨で、誰にも話せなかったのです。

 

 佐伯さんの義父が原爆で亡くなった新妻のことは一切話さなかったと聞いて、私の父の哀しみもそうだったと思いました。(続く)

写真=広島平和記念公園の原爆慰霊碑

 

 

 


沈黙の響き (その61)

「沈黙の響き」(その61

ベートーヴェンの失意と奮起

 

 

生身の人間にとって、奮起したり、失意したりするのは、ごく日常的に起こるもので、生きている限り、上がり下がりがあるのは当然です。問題は落ち込んだとき、どうやって自分を立て直し、奮起するかですが、見事な人生を歩いて結果を出している人は、そのあたりのコツを知っています。

 

その例を、音楽家にとって決定的に重要な聴力を失い、失望し、自殺寸前にまで追い込まれたベートーヴェンは、その危機を乗り越えて立ち直りますが、どういう過程を経て乗り越えたのか、それを見てみましょう。

 

ベートーヴェンはドイツで類まれなるピアニストとして登場しました。その後、オーストリアの音楽の都ウイーンに移ってハイドンに師事して腕を磨き、作曲家として名声を高めていきました。

 

≪難聴になったベートーヴェン≫

ところが、2627歳ごろからだんだん耳が遠くなり、聴こえにくくなりました。初めは雑音がざわざわしていただけでしたが、次第に難聴が進み、劇場ではオーケストラのすぐ前にいないと俳優たちの声が聴き取ることができません。少し離れると楽器の高音部分も聴き取れなくなりました。

 

そのころ、ベートーヴェンは長らく下痢に悩まされていたので、下痢が原因で聴覚もおかしくなったのではないかと思いました。そこで侍医のフェーリング先生に診てもらうと、先生はダニューブ河の温泉で微温浴することを勧めました。

オーストリア・アルプスに端を発し、シェーンブルン宮殿の東側をとうとうと流れ、宮殿を過ぎると西に向きを変え、オーストリア・ドイツの平原を潤しています。ベートーヴェンは難聴のことは人にはひたすら隠し、微温浴をして治療に専念しました。

 

1802年、ベートーヴェンはウイーンの北北西の郊外、ダニューブ川の西岸にある、限りなく美しい牧草地に囲まれたハイリゲンシュタット村に移って静養しました。

そこにピアノの弟子のフェルジナンド・リースが村を訪ねてきました。2人で散歩をしていると、リースが耳を澄まして、

「おや、先生、どこからか牧歌的な笛の音が聴こえてきますね……」

とつぶやいたのです。ところがその笛の響きがベートーヴェンには聴こえません。

ベートーヴェンは、音楽家は誰よりも繊細な聴覚を持っているべきだと思っており、自分の聴覚は並外れて優れていると自信を持っていただけに狼狽(ろうばい)しました。

〈ええっ、何だって! 笛の音が聴こえるって? ぼくには何も聴こえない。

とうとう……本物のつんぼになってしまったのか!〉

 

 音楽家にとって、耳は何よりも大切な器官です。

ベートーヴェンは楽想を得るため、よく森の中を散歩しました。広大な青空が広がり、白い雲がところどころに湧いています。その開放感はベートーヴェンにとってはたまらないものでした。頬を撫でるそよ風や天使が踊っているような木漏れ日、青々とした森の谷川のせせらぎ、そして農耕に励む農民たちの姿は豊かな楽想を与えてくれました。

 

風雨にびっしょり濡れるのもかまわず野山を歩き回り、時に耳をつんざくような雷鳴ですらもインスピレーションを与えてくれ、浮かんでくる曲想をスケッチしました。目で見える視覚もさることながら、聴覚はベートーヴェンにインスピレーションを与えてくれていました。だからベートーヴェンは聴覚を失って深い苦悩に襲われたのです。

 

≪「ハイリゲンシュタットの遺書」≫

その年の10月、絶望したベートーヴェンは自殺しようとし、弟カールとヨハンに宛てた遺書に自分の葛藤を書きつけました。

「私はまだ28歳になったばかりで、やりたいことがいっぱいある。私に課せられた仕事を完成しないうちは、この世を去ることなどできない」

 

ベートーヴェンは冷酷な運命の女神に死の淵にまで追い詰められましたが、死のうとしても死ねません。遺書を書いていた机を叩いて、絶叫しました。

「私は芸術のために、この苦境に何としても打ち克たなければならない!」

ベートーヴェンは遺書を書いていたはずでしたが、逆に芸術に身を捧げることを誓った宣言文を書き上げたのです。これが「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるものです。

 

“芸術のために”という使命感が難聴の危機を乗り越えさせました。

 やはり、自分に“大いなる存在”から託されていると思える課題を、何としても成就しようと覚悟を決めたとき、人は俄然強くなります。ベートーヴェンが生きる力を取り戻したのは、天的使命を自覚したからに違いありません。

 

 この時期、ベートーヴェンは心の恋人ジュリエッタ=ギッチアルディに、幻想的な作品ピアノソナタ「月光」を捧げています。雲間から漏れる月の光を、タン・タターンのゆったりとしたリズムでくり返して表現し、宇宙の神秘の扉を次第に開いていきます。

 自殺すら思い立ったハイリゲンシュットの苦悩を表現しています。

 

第2楽章に入ると陰鬱な夜の情景が打って代わって速いテンポに切り替わり、苦難から解き放たれた喜びを訴えます。明らかにベートーヴェンは、難聴は激しくなったけれども、音楽家としての使命を放棄することはできないと再度決意しました。

そして第3楽章ではプレスト・アジタート、さらにアップテンポになり、激しさに満ちあふれた音楽に変わります。

明暗2つの世界を苦しみながら書き上げたこのピアノソナタは、ベートーヴェンに新しい世界が訪れたことを伝えてくれています。

 

ベートーヴェンは32曲のピアノソナタを書きます。中でも第8番「悲愴」、第14番「月光」、第23番「熱情」が3大ピアノソナタと呼ばれています。ベートーヴェンはただの音楽家ではなく、「苦悩を乗り越えて歓喜に至った」音楽家だったのです。

 

 癇癪(かんしゃく)持ちだったベートーヴェンは、なかなか良好な人間関係を維持できず、作曲を教えてくれた師匠のハイドンとも喧嘩別れをしました。彼が生涯独身だったのは、彼の癇癪持ちという性格に女性がついてこれなかったという側面もあるようです。

 

≪“沈黙の響き”が伝えてくれた交響曲「運命」の主題≫

 苦難を乗り越えて、1803年以後の第2期の、ロマン・ロランに言わせれば「傑作の森」という時代が始まりました。ベートーヴェンの親友で伝記作者のシントラーが、第5交響曲の最初に鳴り響く有名な主題「ジャジャジャ・ジャーン」について尋ねたところ、ベートーヴェンは即座に答えました。

「運命は……かくのごとくに扉を叩くんだ」

「沈黙の響き」に耳を澄ませて聴き入ったとき、聴こえてきたのが、あの主題だったのです。

 

以来、第5交響曲は「運命交響曲」と呼ばれるようになりました。沈黙は決して“無音の闇”なのではなく、もっとも雄弁な曲想の宝庫なのです。これに続く第6交響曲「田園」も同じ「傑作の森」の時代区分に入る作品です。

 

 こう俯瞰(ふかん)すると、「沈黙の響き」をさし置いて創作活動はできないことがわかります。(続く)

写真=苦難を乗り越えて光を見出したべートーヴェン