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青春を爆発させる聖光学院のナイン

沈黙の響き (その44)

「沈黙の響き」(その44

下坐に下りると落ち着きが得られる

 

≪山下泰裕柔道監督が得た気づき≫ 

3月27日の夜、私は聖光学院の野球部の選手たちに、下坐におりることで人間的な落ち着きが得られると、こんな例を話しました。

 私は24年前の平成9年、致知出版社から『下坐に生きる』を出版しました。するとしばらくして出版社から、柔道の山下泰裕監督が30冊ほどお買い上げくださいましたと連絡が入りました。「ほう、柔道の監督がこんな本に感心を持たれるのかな?」とびっくりしました。すると続いてすぐ、「また30冊注文がありました」というのです。こうして100冊あまり購入されたので、私は東海大学に会いに行きました。

 するとこう言われるのです。

「私は柔道の指導者として心技体共々の成長を心がけています。そのうち、心を養うのにこの本ほど心に沁みるものはありません。そこで大学柔道や社会人柔道のコーチたちの集まりがあるたびに、この本を配って読むように勧めています」

 この本で私は坂村真民さんの詩「尊いのは足の裏である」を採り上げて論じていました。

「尊いのは頭でなく/手でなく/足の裏である/一生人に知られず/一生きたない処と接し/黙々としてその努めを果たしてゆく

足の裏が教えるもの/しんみんよ/足の裏的な仕事をし/足の裏的な人間になれ

頭から光が出る/まだまだだめ/額から光が出る/まだまだいかん

足の裏から光が出る/そのような方こそ/本当に偉い人である」

 この詩を指して、山下さんはこう言われました。

「私は外ではロザンゼルス・オリンピックの金メダリトで、世界最強の柔道家などともてはやされます。ところが一歩家に帰ると、そういう肩書など全然通用しない現実がありました。私の次男は自閉症なので子育てはなかなか大変で、家内はほとほと疲れ果て、家庭崩壊一歩手前にありました。

 そんなときに、『尊いのは足の裏である』を読みました。下坐におりて、足の裏が光るようでなければ、家内や子どもを包み込む大きな愛は持てないんですね。この詩に気づかされて、私は時間を取って家内と一緒に自閉症の保護者の集まりに出るようになり、家族が団欒できるようになりました」

 山下監督が読売新聞に「私が推薦するこの一冊」と書かれたことから、この本がベストセラーになり、さらにロングセラーとなり、24年を経た現在でも増刷され、売れ続けています。それはなぜか? 現在、日本オリンピック委員会会長を務める山下会長はこう言われます。

「偉そうにするのではなく、誰よりも下坐に降りて人に接するようになると、不思議に心が落ち着くものです。スポーツ選手が不動心を持とうとしても、急なものは付け焼刃で終わってしまいます。それよりも日常から下坐におりるようにすると、持続するのではないでしょうか」

 日常のあり方から取り組んでいくと、より持続したものになると言われます。

 

≪心臓の冠動脈のバイパス手術のとき、聴こえてきた声≫

ところで私は71歳のとき、心臓の冠動脈のバイパス手術をするという羽目になりました。胸を切り開いて肋骨を開け、8時間もの手術が行われると、切り刻まれた体はちょっとヤバいことになったと思うのでしょうか、フラッシュバックが起きて、人生のさまざまな局面を見せられます。

また手術で体力を消耗し、肉体的に追い詰められていたので、精神的にも気弱になって落ち込み、人生を悲観していました。

そんなある日、暴風雨が襲いました。私は夜更け、7階の病室の窓から風雨が荒れ狂う外を眺めていました。窓ガラスには風雨が叩きつけ、遠くには松戸市の街明かりがほのかに見えていました。そこにかそけき声が聴こえてきました。

「私は君を通して何事かを成そうとしてきた。そのためにあえて艱難辛苦の道を通らせて鍛えてきた。今度は心臓の冠動脈の3本のうち1本が詰まってしまい、手術しなければならないことになった。大変な手術だったけど、手術は何とか成功して、先の展望が開けた。

 ところが君はすっかり落ち込んでしまい、気弱になり、泣きべそをかいている……。

泣くのもいい。しおれるのもいい。しばらくはぼーっとしていたらいい……。

 でもな、忘れないでほしい。

私は君が気を取り戻すのを待っているってことを。私はいつも君といっしょだ」

 「……」

 私は返す言葉がありませんでした。その通りですっかりしょげ返って、しょぼんとしていました。そんな私を慰めるように、声は続きました。

「思えば、君は随分苦労してきた。でもその苦労があったから、君が語っていることが、同じような境遇にあって苦しんでいる人たちの心に響いて、『よォし、私も涙を拭って立ち上がろう』という気持ちになってくれたんだ……。

 泣くだけ泣いて気が清々し、もう一度立ち上がろうという気持ちになったら、私が待っていることを思い出してほしい……。またいっしょにやろうよ……」

 心に響いてくる声は決して押しつけがましくはありませんでした。気落ちしていた私に寄り添ってくれました。

 7階の病室の窓の外では、時折り稲光が走って一瞬闇と光が逆転します。そしてドーンと音が響きました。雷がどこかに落ちたのでしょう。松戸市の街明かりが殴りつけるような風雨の中にかすんで見えていました。するとまた内なる声が聴こえてきました。

「泣くだけ泣いて気持ちが晴れ、また立ち上がろうという気になってきたようだね。

君がグラグラしたら、私たちがいっしょになって実現しようとしてきた理想は実現できないまま、つぶれてしまうんだ。

だから私は君のことをつぶれないでほしい、何とか乗り越えてほしい、と祈ったよ。

 君は独りじゃない、私といっしょだ。

迷うのではない、心をしっかり持つんだ! みんなの運命がかかっているんだ!」

私は窓辺に立って風雨が荒れ狂う戸外を見詰めていましたが、いつしか涙が頬を伝っていました。

「君は独りじゃない。私といっしょだ」

その声が私の中で、くり返し、くり返しリフレインしました。

(申し訳ありません。私が気弱なばっかりに、あなたを心配させてしまいました。でも、もう大丈夫です。気持ちを取り戻しました。この間、見守っていてくださり、ありがとうございました)

 ちょっと不思議な体験を書きましたが、私はこんな声が斎藤監督にも臨んでいるのではないかと思います。人間は強いときだけじゃありません。落ち込むときも、気弱になることもあり、悲観的になることだってあります。そんなとき、ぼーっとした時間を過ごすと、

「泣くだけ泣いて気が清々し、もう一度立ち上がろうという気持ちになったら、私が待っていることを思い出してほしい……またいっしょにやろうよ……」

 という声が聴こえてきます。そうして立ち上がった人間は、とてつもなく強い。なぜなら、もはや人間的な成功欲ではなく、“永遠なる存在”に裏打ちされた使命感を帯び、“宇宙の叡智”を汲んで限りない知恵に満たされるからです。

 本当の闘いはそこから始まります。斎藤監督の聖光学院が甲子園で優勝旗を手にすることを、県立や市立の高校野球の関係者はみんな待っています。なぜならみんな県境を越えてリクルートすることはできず、現有選手を教育し、練成強化して、戦いを勝ち抜くしかないからです。いわば同じ制約された状況で予想以上の成果を挙げている斎藤監督と聖光学園は、自分たちの同類だと見なしているから、その勝利を心待ちにしているのです。

斎藤監督と聖光学院の戦いはもはや自分たちのためだけの戦いではありません。みんなのためにも新しい歴史を切り開く使命があるのです。今年の夏の甲子園の戦いは新しい次元の戦いです。2回戦、3回戦と勝ちぬいて、必ずや優勝旗を握りましょう。(続く)

青春を爆発させる聖光学院のナイン

写真=青春を爆発させる聖光学院のナイン


練習が終わって、宿舎の鴨川グランドホテルで野球部員に話をする筆者

沈黙の響き (その43)

「沈黙の響き(その43)」

≪野球のグラウンドで学ぶ人間学≫

 

≪聖光学院野球部を応援≫

327日、昼間は市営球場で聖光学院野球部の練習を見、夜は宿舎で野球部の諸君に1時間あまり話をしました。

私との斎藤監督の出会いは21年前の平成12(2000)、斎藤監督が12年間の部長時代を経て、初めて監督になったときです。当時は日大東北高校と学法石川高校の二強の時代で、いつも2強に勝てず、悔し涙を呑んでいました。

そんなある日、インテリアの会社を経営されていた前野栄社長が斎藤監督に『安岡正篤 人生を拓く』(講談社+α新書)を読むよう贈呈されました。当時、私は福島市で定期的に経営者の研修会をやっており、その一人が前野社長だったのです。

 

この本に私は脳梗塞で倒れて一時は寝た切りになったものの、幸いなことに社会復帰できたので、お礼参りするため四国88カ所札所をお遍路し、全行程1400キロメートルを36日間かけて歩いたことを書いていました。その経験から次のような教訓を得たと書きました。

「人生に起きるいかなる出来事も、その人をつぶそうとして起きるのではない。目を覚まさせ、覚悟を与えて、持っている能力を花開かせるために起こる。そのことがわかると、どんなことでも受けて立とうという心境になってくる。そこから不動心が芽生えてくる」

 

その文章を読んで、斎藤監督はこれだ! と思いました。

「〈不動心〉とは何かということが今一つはっきりせず、もやもやしていましたが、これでやっていけます」

 不動心は何か固定的なものではなく、目下展開している出来事を通してつちかわれていくのだと書きました。それが契機となって引き会され、交流が始まりました。

斎藤監督は「不動心」と大書してグラウンドのネットに高く掲げ、野球部のモットーとしました。学校の近くを東北新幹線が走っていますが、そこからもこの「不動心」が見えます。

 

≪私は落ちこぼれだった!≫

私は大学を中退して世の中に出ました。学歴も国家資格も何もなかったので、競争社会で生きていくのはとても厳しいものがありました。さらに38歳のとき、脳梗塞で倒れ、救急車で病院に運ばれ、寝た切りになりました。稼げないので解雇され、月々の給料が入らないという窮地に立たされました。

 

私は医師として、右手でメスを持ち、左手でペンを持とうと考えていましたが、医師になれずメスを握れなくなったので、残された道で、ペンで立つことを決意しました。

そこでアルバイトで生活費を稼ぎ、一日のメインの時間は執筆に費やすようにし、有名な作家の助手として働きました。でも文筆だけでは食べていけないので、寅さんで有名な柴又の帝釈天で破魔矢(はまや)を売って生計を立てました。いわゆる的屋(てきや)をやりました。

 

それからずっと後のことになりますが、下村博文文科相大臣(現政調会長)のことを書いたことがきっかけとなって、高田馬場にある大学を助けてくれませんかと頼まれ、理事になりました。ところが理事長は私が70数冊の本を書いている人気作家であると知って、大学で人間学の講座を持ってほしいと依頼されました。私は大学中退で、学位も何も持っていませんが、そんなんでも教壇に立っていいんですかと訊くと、社会的実績があるから大丈夫、やってほしいとのことでした。

 

そこで授業を持つようになり、学生たちと接すると、みんなコンプレックスを持っていました。隣の大学は私学のトップの早稲田大学。こちらは3流か4流の大学で、あちこち受験したけれども全部すべり、しようがないから入学したような大学。だからみんなは自分の大学名は言いたがりませんでした。

 

そこで私は開口一番に言いました。

「私は高卒で、学位も何も持っていない人間です。元は柴又の帝釈天で的屋をやっていた男で、たまたま本が売れて作家になり、こんなところに出張ってくることになってしまいました」

みなさんはそうそうたる学歴を持つ大学教授を予想していたのでしょう、唖然としました。でも話がおもしろくて、そんじょそこらのしかつめらしい人間学の授業とは違い、すぐにでも実践できるヒントが多く含まれています。たちまち人気になり、私は学生たちを励ましました。

 

「君らは大学受験では偏差値が遠く及ばなかったので、隣の早稲田大学には入れず、こちらにやってきた。そのときは差があったんだと認めようよ。でもね、いつまでも負け犬でいるわけじゃない。勝負はこれからだ。これからの戦いいかんでは、早稲田など目じゃない結果が出せる。的屋でしかなかった私が、不思議ないきさつから今は大学教授としてやっているんだから、君らだってやれる。これからだよ。頑張ろう」

拍手大喝采です。ある学生は心に点火されたように言いました。

 

「私はあちこち受験して失敗し、しようがないのでこの大学に来ました。でも、先生に会ってよかった! あちこち受験に失敗してここに来るようになったのは、先生に会うためだったんです。そうでなかったら、私は負け犬になったまま、いつもひがみ根性で生きていたに違いありません。勝負はこれからなんですね。よーし、やるぞという気持ちになりました」

 

 そう言われて私は落ちこぼれて人生が始まってよかったと思いました。出版社の編集者が私に執筆を依頼するとき、決まって言われます。

「とにかく読者が先生の本を読んで励まされるんです。こんな難しい立場を潜ってきた作家なのか! だったら俺が今直面している苦境は全然悲観することはないな。

それにこの本にも、逆境を乗り越えて人生に花を咲かせた人たちのことが書かれている。よーし、俺も頑張ろう。ここで負けないぞ」

私は人間それぞれ捨てたものじゃないことを、本を通して伝えることができてとてもうれしいです。

 

≪斎藤監督も落ちこぼれだった!≫

ところで、斎藤監督は聖光学院を率いて、これまで甲子園に、春が5回、夏16回、計21回出場されています。そのうち2回は強豪校に勝ってベスト8になり、全国制覇に手が届くところまで来ました。高校野球連盟は監督を育てるために「監督塾」を開いていますが、その塾にいつも呼ばれて、後輩の監督たちにヒントを授けておられます。

 

現在は自信満々で、光り輝いている斎藤監督ですが、昔は落ちこぼれでした。福島県一の進学校といえば福島高校で野球部キャプテンを努めていました。父親は経済的な事情から国立大学しかやれないというので、体育学部のある筑波大学を目指しましたが、受験に失敗しました。浪人するなど考えられない経済事情でしたが、父親はもう一年挑戦することを許してくれました。

 

そこで再挑戦したのですが、またもや不合格となり、不本意ながらある私立大学に入りました。自分では小馬鹿にしていた大学だったから、ちっぽけなプライドが砕け散って、学生生活が楽しめるはずはなく荒れました。それを克服するのに4年かかりました。

 

 昭和62年(1987)3月、聖光学院高校に赴任してみると、自分が荒れていた頃と同じ姿を高校生たちの中に見ました。聖光学院は今でこそ福島県では誰もが知っているあこがれの名門高校となりましたが、当時は滑り止めのような私立高校だったので、どの生徒も、「俺はここに来るようなレベルじゃない」とふて腐れ、しょげていたのです。

 

同じことが野球部にも言えました。中学野球で抜きん出ていた選手が、強豪高校から特待生としてお呼びがかかることを期待していたにもかかわらず、強豪校から声がかからず、挫折感を抱き、せめて甲子園に行けるようなチームにと思って、聖光学院に来ました。だからチームの主力選手になるはずの彼らにもコンプレックスがあり、負け犬根性を引きずっていました。これを見逃したら、自分より能力が下の選手を見下し、真に団結したチームはつくりようがありません。そこで斎藤監督は選手たちに語りかけました。

 

「もう低いレベルのコンプレックスは卒業しよう。あの時点で劣っていたことは確かなのだから、それは認めようじゃないか。受け入れるんだ。自分の出発点はここだと認め、そして前を向こう。

負け犬根性を克服するには、認めることが一番だ。認めると変なコンプレックスが消え、本来の力が発揮できるようになる。俺といっしょに頑張って努力して、押しも押されもしない実績を出し、彼らの上を行こうじゃないか」

 そうして福島県代表の座を勝ち取り、甲子園に駒を進めて、勝利するようになりました。

 

≪決して諦めない! 斎藤監督の負けじ魂≫

 それまで斎藤監督はあまり本を読んだことはありませんでした。しかし、監督をやってみて、勝負はメンタルな部分に影響されることが多いことに気づき、本を読んで心を養うようになりました。

 

 あるとき、尊敬してやまない東洋思想家の安岡正篤先生の本を読んでいると、『大学』の中から「疾風(しっぷう)に勁草(けいそう)を知る」を引用されていました。「疾風に勁草を知る」とは、「すべてをなぎ倒してしまうような激しい風が吹いてはじめて、そんな烈風にも吹き飛ばされない強い草を見分けることができる」という意味です。困難や試練に直面したとき、はじめてその人の意志の強さや節操の固さ、志の高さ、人間としての値打ちがわかるというのです。自分を練り鍛えるには最高の言葉です。

 

 そこで斎藤監督はチームのミーティングで、この言葉を踏まえて語りました。

「聖光学院は圧倒的強さを見せつけるようなチームではない。苦戦を強いられることが多々ある。そんなとき打ちひしがれるのではなく、この言葉を思い出して、なにくそ、負けてたまるかと奮起しようじゃないか」

 

≪人間学でメンタルを鍛えよう≫

 あるときはこうも語りました。

「美空ひばりの演歌『柔(やわら)』に、『勝つと思うな。思えば負けよ』とあるが、自分もそこが大事だと思っている。大事な局面で勝ちを意識したら、金縛りにあって自由にプレーできない場合が多い。不利な展開になればなるほど、金縛りに合ってしまうよな。

勝とうとしたら駄目だ。勝ち負けを度外視したら、のびのびとプレーができる」

 

「前後裁断」という言葉はしばしば斎藤監督の口を突いて出てくる言葉ですが、これも斎藤監督が現場でつかんだ言葉です。

「勝とうと思うな。いさぎよく負けよう。われわれは力のないチームだと謙虚に受け止めよう。そして今を生き切ろう。前後を裁断するんだ。前もない、後もない。今、ただ今だけだ。〈今〉に集中して戦おう」

 

 そんな具合に、ここぞという局面で、人間学の名言が出てくるのです。斎藤監督は「人間学」という「宇宙の叡智」を駆使して、チームの力を倍増させようとしているのです。他の強豪チームはリクルートという方法で、運動能力が秀でた選手を全国から集めてチームの強化を図っており、まるでプロ野球と同じです。親もわが子がいくらで売れるかと考え、中学野球界をスカウトが狂奔しています。そこには高校野球が本来持っていたはずの〈教育〉という視点がまったく抜けているのです。

 

 財力のある私立高校は有望選手をリクルートして、強いチームをつくることができますが、公立高校はそれができません。斎藤監督は〈教育〉という視点を見失っていないので、リクルートに走るのではなく、現有の選手たちを鍛えて、勝てるチームをつくろうと努力してきました。いわば「人間学」という「宇宙の叡智」によって、道を切り拓いてきたのです。

 だから聖光学院が勝ち抜けば勝ち抜くほど、公立高校の野球の指導者たちが拍手大喝采するのです。

 

 稀代の実践哲学者の森信三先生は「教師たる者、魂の点火者であれ」と激励し、拙著『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』(致知出版社)で書いた徳永康起先生を育て、「百年に一人出るか否かの逸材」と評価されました。

 監督は魂の点火者であって初めて強いチームを育て上げることができるし、選手たちも野球を通して人生哲学をつかみます。そこに教育効果が上がるのです。斎藤監督と聖光学院が全国制覇を果たすよう、心から応援してやみません。(続き)

練習が終わって、宿舎の鴨川グランドホテルで野球部員に話をする筆者

写真=練習が終わって、宿舎の鴨川グランドホテルで野球部員に話をする筆者


無心にたわむれているイルカたち

沈黙の響き (その42)

「沈黙の響き(その42)」

オーストラリアからの投稿

 

私は昨年の71日、LINEでグループライン「沈黙の響き」を立ち上げ、ささやかなメッセージを連載してきました。おかげさまで、これがいたるところで波紋を巻き起こし、さまざまな方が投稿して盛り上がってきました。

その中にオーストラリアのブリスベンに住んでおられる西澤利之さんがありました。西澤さんは「沈黙の響き」というタイトルに惹かれ、「声なき声に心の耳を澄まして聴き入る」ことに共鳴して、ご自分の意見を述べられました。

 

その投稿を118日付けの「その30」にアップしたところ、多くの方々が共感し、反響を寄せられました。その後、何号かにわたって他の方々の感想がアップされ、「沈黙の響き」の内容がとても充実しました。

 

私と西澤さんとは長い付き合いで、私が若いころ、サンゴ礁で有名なオーストラリアのゴールドコーストにシュノーケリングに行ったとき、当時JTBのゴールドコースト支店長だった西澤さんに随分お世話になりました。大変優秀だった西澤さんはその後、オーストラレア・クイーズランド州政府からヘッドハンティングされ、政府観光局日本部長として、オーストラリアと日本を行き来して仕事をされるようになりました。

 

西澤さんが日本に来られると、私は有楽町のオフィスを訪ねていろいろと歓談しました。日本を外側から観察しておられる視点が私にはとても斬新で、啓発されることが多かったのです。奥さまがオーストラリア人で、キリスト教文化の中に住んでいらっしゃることもあって、西澤さんの視点に啓発されることが多かったのです。

だから西澤さんが「沈黙の響き」のサークルに加わり、いろいろと発言してくださることが、とてもありがたくてなりませんでした。西澤さんの視点をみなさんに紹介できることが誇りでした。今回もまた西澤さんから投稿があったのでアップし、みなさんとシェアしたいと思います。

 

≪映画『素晴らしき哉、人生!』を思い出させた徳永先生の話≫

 

 神渡さん、オーストラリアは連日大雨が続き、首都シドニーでは洪水警報が出ています。私が住んでいるブリスベンも横殴りの風雨が叩きつけ、さながらミニ台風に襲われているようです。でも、恐らく水曜日辺りには雨も収まるようなので、今日と明日を乗り切れば何とか大丈夫です。自然災害ばかりはどうすることもできませんので、準備だけは怠らないようにしています。

 

さて前回の「光のしずくオンライン講演会」の第2回目、内観の講話を聴き、思わず往年の名作映画『素晴らしき哉、人生!』を思い出してしまいました。そこで講話の感想を兼ねて、拙文をお送りさせていただきます。

 

この映画は1946年に制作された古いアメリカ映画で、アメリカ映画協会が選んだ「感動の映画ベスト100」で1位を取り、黒澤明監督が推奨した100選名画の中にも取り上げられています。名作なのできっと鑑賞されたことがあると思いますが、下記に簡単なあらすじを紹介します。

 

舞台は1945年、第二次世界大戦が終わった年のクリスマスイブです。ニューヨーク州のとある町で、大金を紛失してしまった主人公のジョージが絶望的になり、「自分など生まれてこなければよかった」と自殺を図ろうとしました。そこに天使が現れて、「では望み通りにしてあげよう」と、彼が生まれていなかった頃の世界を見せてくれたのです。

 

ジョージがいない世界はなぜかとても荒んでいました。それにジョージの弟は幼少期に亡くなっていました。またお世話になったアルバイト先の店主は、子供を毒殺した罪で刑務所に入っていました。加えてジョージの母親はまだジョージを産む前なので、ジョージのことを知らないのです。ジョージが住んでいた家に行ってみると、そこは空き家でガラーンとしていて、誰も住んでいませんでした。

 

 ひるがえってジョージが生きている現実の世界では、弟は戦争の英雄として帰国し、勲章をもらうほどの人間になっていました。幼い時河に落ちそうになった弟をジョージが必死になって助けたから、今の彼があったのです。

またジョージがアルバイト先の薬局で手伝いをしていたとき、店主は自分の子供を失った悲しみから気が動転して、薬と毒の処方箋を間違えてしまいました。

でも配達する寸前、ジョージが処方箋の間違いに気が付いて子供に渡さなかったので、事なきを得ました。このように現実の世界では、ジョージがいろいろと気が付くことによって、店主の店は繁盛し、死んでしまったはずの子供も元気に育っていたのです。

 

 自分など何の価値もないと、自分を卑下していたジョージは、自分のいない世界のさま変わりした人間模様を見ることによって、自分は力も才能もないと思っていた自分でも、周りの人たちの人生にかけがえのない影響を与えていたことに気が付くのです。

 

誰も住んでいない空き家は、他でもない彼の心の姿だったのです。ジョージがいなかったら彼の4人の子供たちも生まれることもなく、世界は全く別の世界になっていたはずです。

 

 自分が愛した人や子供、周りの人たちに対する思いやり、こうした愛の連鎖が社会をつくっていることに気が付けば、人を驚かせるような偉大なことをしなくても、ありきたりの日常生活における小さな心掛けが、人の運命に大きな影響を与えるのだということを、この映画は私たちに目覚めさせてくれました。

 

≪自分の持ち場で「一隅を照らす」人生の素晴らしさ≫

 

 いまコロナ・ウイルス禍の中で、医療関係者が自分の生死をかけて仕事に専念してくだっており、トラック運転手は物流を維持するために昼夜を問わず懸命に働いてくださっており、殺菌のためにビルの清掃をしている人たちも、その人たちがいなかったら救われないかもしれない命をみんなで守っています。

 

神渡さんが講話で採り上げた徳永先生と言う稀有な教師がいたからこそ、多くの若者が落ちこぼれることなく、希望を抱いて巣立っていきました。

 

 仏教の中に「縁覚」という思想があります。全ての存在は孤立した存在ではなく、あらゆる存在は他との関係の中にあって互いに係わり、働き合っているという考えです。

 

 一滴の露の中にも宇宙が宿り、一瞬の光の中に永遠が凝縮されているといいます。一杯の水が渇いた体の生命力を蘇らせるように、私たちの一つひとつの行動や考え方は、無数の他との関連の中にあるということなのだと思います。

 オンライン講演会での講話や皆さんの意見を拝聴しながら、改めて無価値な人はいないことを感じることができました。まさに素晴らしき哉、人生です! 次回を楽しみにしています。(続く)

無心にたわむれているイルカたち

写真=無心にたわむれているイルカたち


ありし日の森信三先生

沈黙の響き (その41)

「沈黙の響き(その41)」

 

森信三先生を世に出した芦田惠之助先生

 

≪『人を育てる道』の大変な反響≫

令和3年(2021)3月19日、拙著『人を育てる道――伝説の教師
徳永康起の生き方』が致知出版社から上梓されます。それに先立って、私は日ごろお世話になっている方々に、徳永先生の信条だった「教え子みな吾が師なり」と扉書きして本を送りました。

それに雑誌『致知』4月号が全ページ大の出版予告を出してくれていたこともあって注文が相次ぎ、半月余りですでに500冊もの本に扉書きして送りました。徳永先生の生き方に共感なさる方々がいかに多いか、今さらながら知らされた思いです。

書店で本が発売される前に、それだけのサイン本の申し込みがあったというのは、これまで70数冊の本を出版していますが、かつてなかった反響です。1人の人間の生き方が逝去後40数年経って、ここまで社会を奮い立たせるのかと知らされ、その持ち場で「一隅を照らす」生き方をすることが大切なことを改めて教えていただきました。

そうしたなか、ある方が、昭和14年(193912月、同志同行社から出版された『修身教授録』(全5巻)に芦田惠之助(えのすけ)先生が寄せている序文を送ってくださいました。この序文は残念ながら平成5年(1989)3月に再版された竹井出版(現致知出版社)の初版には掲載されていないので初めて読みました。芦田先生の序文は非常に魅力的で、ぐいぐい引き込まれました。

芦田先生が読まれた斯道会(しどうかい)発行のガリ版刷りの『修身教授録』とは、昭和12年(1937)ごろ、森先生が大阪の天王寺師範学校の本科で人間学を講義され、それを生徒たちが筆録筆記したものに筆を入れてでき上ったものです。これをご自分が主宰されていた月例勉強会である斯道会で読むためにごく少部数ガリ版印刷されました。

 

≪同志の教師たちの所依経にしたい!≫

森先生がその一部を芦田先生に送ったところ、芦田先生は瞠目し、ぜひともこれを自分たちの機関誌『同志同行』に連載して全国の教師たちに知らしめ、さらに連載完了の暁には同社から出版して同志の教師たちの所依経(しょえきょう)としたいと申し出られました。所依経とは拠りどころとなる経典のことです。

森先生は芦田先生が同志同行社から出版させてほしいという懇請を快く承諾し、満州の建国大学に教授として赴任する直前の、出国準備をしている慌ただしいときでしたが、丹念克明に補訂の筆を加え、一段の精彩を増した原稿に仕上げて、芦田先生に手渡されました。

こうしてガリ版刷りで少部数しか発行されていなかった本が活版印刷され、全国の書店に並ぶようになりました。

芦田先生とはわが国の国語教育の第一人者で、多年にわたって全国的に教壇行脚を続け、教師たちにモデル授業を披露されており、教師の間で絶大な支持を得ておられました。森先生は京都帝国大学大学院卒の突出した非凡な秀才ではありましたが、まだ京都や大阪周辺でしか知られていませんでした。だから全国的に有名な芦田先生がぞっこん惚れ込んで紹介されたところから、森先生に着目する人が全国的に一気に増えました。

この同志同行社版の序文に芦田先生はこう書いておられます。

「ここに私が年来遺憾としていましたことは、我ら同志間の所依経とすべきもののないことです。所依経と仰ぐ典籍を持たないことは、実に淋しいことです。それとともに行も進みません。

 私はたまたま森先生の『修身教授録』を拝して、これこそ私が年来求め来たりしものだと思いました。朝夕に読誦景仰すべき書であると思いました。幸いにその刊行を私にお許しくださいました。この上は、私の一生をこの書の流布につとめて、同志と共に、教育革正の行にいそしもうと存じます。

 私はここまで書いてきて、安んじて死ぬることができるように思います。天下の同志は、必ず今後の私の行動に熱烈なる支持を与えてくれるにちがいありません。同時にわが小学教育者、ことに若き教育者の群れが、幾多救われていくことだろうと信じます。

 したがって次代を形成する小学生の幾十百万が救われることを想望するとき、私は嬉しくてたまりません。『正しからざる教育は悲惨だ』と年来唱えてきた私は、ここまで書いて、涙にペンの先が見えなくなりました」(※歴史仮名づかいは現代仮名づかいに、旧漢字は常用漢字に改めました)

 芦田先生が『修身教授録』を自分たちの所依経としたいという熱烈たる思いが行間から伝わってきます。この出版によって芦田先生が長年かけてつちかってこられた全国の同志同行の教師たちに森先生の『修身教授録』が知れ渡っていきました。

 

≪下学雑話の魅力≫

この『修身教授録』の各講の最後に、しばしば「下学(かがく)雑話」というコラムが挿入されています。「下学」とは、身近で容易なことから学んで、だんだんに高度で深い道理に通じることを意味します。これは孔子が、

「下学シテ上達ス、我ヲ知ル者ハ、其レ天カ」(論語・憲問篇)

と言われていたことに準じた森先生の、身近なことをおろそかにしない学問の姿勢を指すものです。例えば第24講の最後に挿入された「下学雑話」にはこう書かれています。

「人間下坐の経験なきものは、未だ試験済みの人間とは言うを得ず。只の3年でも下坐の生活に耐え得し人ならば、ほぼ安心して事をまかせ得べし」

人生を送る上での貴重な箴言ともいうべき言葉です。

芦田先生は、この書によって啓発された方々は一歩進んで、森先生が上達の歩みとして達せられた『恩の形而上学(けいじじょうがく)』(致知出版社)その他の思想的高峰に向かって登攀の一歩を踏み出されることを切望してやまないと述べています。森先生を師と仰ぐ実践人のグループは、読書が読書で終わることなく、「思想的高峰に向かって登攀」であると捉え、お互いの精神的成長を励まし合っています。ありがたい集団です。(続く)

ありし日の森信三先生

写真=ありし日の森信三先生

 


穂先できらめく露は帝網珠のようです

沈黙の響き (その40)

「沈黙の響き(その40)」

 

人間の本質は光だ

 

 私の人生は安岡正篤(まさひろ)という思想家に出合ったことから始まったと言えます。当時、青年たちを自虐思想が苦しめていましたが、ご多聞にもれず、私も自分のアイデンティティを求めて四苦八苦していました。

 自分は何者なのか――模索している私に、安岡先生は人間の本質を次のように説かれました。後年、プレジデント社から出版された『運命を開く』から引用します。

人間というものは、あるまったきものでなければならない。人間の生命というものは、無限にして永遠なるものです。その偉大な生命が何らかの機縁によって、たまたま一定の存在になり、一つの形態を取るのです。そこで我々が存在するということは、すでに無限の限定である、無限の有限化であるということを知る必要がある。この有限化を常に無限と一致させるということが真理であり、道理であり、道徳であります」

 安岡先生は「無限にして永遠なる存在である人間は何らかの機縁によって、有限化され、一定の存在になっている。人間は有限化された存在だが、これを本来の姿である無限と一致させようと粉骨砕身努力するところに人間の役割があり、人生の妙味がある」と言い、「本来、人間は崇高な存在なのだ」と説いておられます。

人間は「無限なる存在」が有限化された存在なので、形としては起きて半畳、寝て一畳のちっぽけな存在となりましたが、賦与されている内容たるや無限大だというのです。

安岡先生のこの人間観は昭和17年(1942)に、金雞(きんけい)学院、および日本農士学校のテキストとして出版された『東洋倫理概論』(玄黄社)にすでに書き表されており、以来重低音のようにどの書物にもこの思想が響いています。

この人間観、世界観が安岡先生の真骨頂であり、実業家やサラリーマン、それに学生など多くの人々が師と仰いだゆえんです。私はこの考え方にとても啓発され、奮い立ちました。日々瞑想し、その人間観、世界観をくり返し自分に説いて、自分の芯に徹底してしみ込ませました。

 

≪帝網珠の珠が光り、連鎖して広がってゆく≫

ところでこの人間観、世界観は、法華経の「帝網珠(たいもうじゅ)」という比喩を参考にするとよくわかります。法華経は大乗仏教の最も重要な経典の一つで、宇宙の本質を直感で捉えて表現し、文学的な表現で永遠の生命としての仏陀を説いています。

 その直感による把握では、宇宙には帝網珠と呼ばれる大きな網が張り巡らされており、その網の結び目の一つひとつにきれいな(たま)がついているといいます。一つの珠が光ると、その光は次の珠に映り、さらにその光は別の珠に映りして、幾重にも折り重なって光り、宇宙全体を覆っているのだそうです。

珠は自分のいのちでもあります。一つの珠、すなわち自分のいのちの輝きは、網を伝わって他の珠、すなわち他の人のいのちに映ってすべての珠(いのち)を輝かせ、その輝きは再び自分の珠(いのち)に還(かえ)ってくるというのです。

いのちは相互につながっており、いのちが分断されて個々ばらばらに存在するということはありません。

安岡先生はまず自分の持ち場から「一隅を照らす」生き方をしようと強調されました。宇宙全体を覆う巨大な帝網珠は、まず自分の光を隣に反射させ、さらにその隣、またその隣と広がっていき、宇宙全体に光が及びますが、すべての始まりはまず自分からと考えます。これはまさに、「自分の持ち場で一隅を照らす」という生き方に通じています。

 

≪阿蘇山での断食修行の日々≫

私は学生時代、冬の阿蘇・中岳に登り、冬期は閉鎖されている山小屋で一週間の断食をして瞑想しました。時折り山小屋の外に出ると、雲海が切れて雲間のはるか下の方に人間界が見えました。4日、5日と断食を続けていると、肉体が軽くなって透明になり、さらに高く引き上げられて、天上人になった思いがしました。そうやって肉体や地上界への執着を断ち、永遠性を勝ち取ろうと修行し、私は多くの恩恵を授かりました。

現在私は「沈黙の響きに聴き入ると、私たち人間は天と相対するようになり、不動の視座を確立するようになる」と思っていますが、その考えはこのとき培われたものです。(続く)

穂先できらめく露は帝網珠のようです

写真=穂先できらめく露は帝網珠のようです


『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』の書影

沈黙の響き (その39)

「沈黙の響き(その39

「人がその友のために自分の命を捨てることよりも大きな愛はない」

 

 

 前回は三浦綾子の『塩狩峠』(新潮文庫)の話を書きました。自分の命を投げ出して客車の下敷きになり、多くの乗客の命を救った長野政雄さんのことを小説化したものです。『塩狩峠』の主人公の話を知って、私はキリスト教の奥深さに驚きました。私自身はキリスト教の信者ではありませんが、その精神には深く共感しています。数多くある三浦綾子さんの作品の中で、これはもっとも優れた作品ではないかと思っています。そこで今回もそれに類する話を取り上げてメッセージを書きます。

 

≪“あほ忠”とあざけられた少年≫

 

キリスト教の伝道者であり社会運動家の賀川豊彦の親友に、松崎里彦という伝道者がいました。松崎先生は元救世軍の伝道者でしたが、ある事情があって救世軍を辞め、和歌山県の南部(みなみべ)で、開拓伝道を始めました。伝道のかたわら、農村の青年を集めて聖書を教え、共に労働をし、塾のようなものを始めました。その塾に労働の「労」と、祈祷の「祷」を用いて「労祷(ろうどう)学園」と名付け、共に祈り、共に労働しました。

 

 主宰者の松崎先生のあだ名は「ごもくた先生」、つまり「ごみため先生」で、先生の周りに集まってくる青年は問題児が少なくありませんでした。その中に山本忠一君という知恵遅れの少年がいました。山本君は幼いころ、脳膜炎を患って白痴になってしまったのです。

初めのころは親類の者が世話をしていたのですが、大飯食らいで、しかも寝小便をしていつも臭いので、あいそを尽かされ捨てられてしまいました。山本君は物乞いをして生きており、“あほ忠”と呼ばれていました。

 

 乞食で白痴の山本君が学園にやってきたので、近所の人は労祷学園の門柱にアホ学園と落書きをして、あざけりました。松崎先生は山本を一生懸命教育しましたが、結局山本君が覚えたのは讃美歌214番「北の果てなる氷の山」だけで、いつもその歌を口ずさんでいました。

 

近所の人たちがあまりに「労祷学園はアホ学園」といって馬鹿にするので、他の健常な入園者たちは我慢できなくなり、松崎先生のところに7人全員で談判にやってきました。

「あほチュウを追い出すか、さもなければ自分たちが出ていくかどっちかにしてください」

 そう言われて、松崎先生は本当に困りました。

 

でも、「丈夫な人に医者はいらない、いるのは病人である。ある人に100匹の羊があり、その中の1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を探しに出かけないだろうか」という聖書の言葉に従って、山本君を取りました。

結局、7人の入園者たちは労祷学園を去って行き、その混乱の中でまもなく山本君も去ってしまいました。数年後、松崎先生は風の便りに、山本君は機帆船で働いていると聞きました。

 

 昭和15年(1940)、たっぷり潮焼けした精悍な中年の男性が松崎先生を訪ねてきました。

「あなたは何年か前に山本忠一という子どもをお世話くださった方ではありませんか」

「はい、そうですが。あなたは忠やんの消息をご存じなんですか。今どうしていますか。機帆船に乗っていると聞きましたが」

「実はその忠やんが自分の身を投げ出して、私たちの船が沈没するのを防いでくれました。それでこれを忠やんの形見として届けにやってきたのです。どうぞ受け取ってください」

そう言って「幸重丸」の舵輪を差し出したのです。潮焼けした男性は山本君が乗り組んでいた「幸重丸」の船長でした。

 

船長によると、事件の顚末はこうでした。ある日、「幸重丸」は荷物を満載して、紀州の尾鷲を出帆しました。ところが出帆後間もなくして海が時化だし、新宮沖に差しかかったとき操船できなくなり、ついに暗礁に乗り上げてしまって浸水が始まりました。

もうだめだ、船が沈む! と動転していると、破れた船底から叫ぶ声がしました。あわてて駆け下りてみると、山本君が腰まで海水に浸かって狂ったように、「船を、船を出して、陸に接岸して」と叫んでいます。不思議なことに水は少しも増えていません。

 

船員が急いで水を掻い出してみますと、なんと驚いたことに山本君が船底の破れた穴に自分の太股をグッと突っ込んでいるのです。こうして「幸重丸」は遭難をまぬがれ、船員たちは九死に一生を得ましたが、山本君はかわいそうに右大腿部をもぎ取られ、出血多量のため、息を引き取りました。

 

山本君は寝小便をするような自分を抱きしめて一緒に同じ布団で寝てくれた松崎先生の心の温かさに触れ、「松崎先生に喜ばれたい」という一心で、一命を投じたのです。現在、労祷学園の屋根の一番上に、山本君を記念して「幸重丸」の舵輪が飾られています。

「ヨハネによる福音書」第1513節に「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とありますが、山本君は文字通り、そういう生き方をしたのです。

 

≪発売された『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』≫

 

私はこの3月、『人を育てる道――伝説の教師
徳永康起(やすき)の生き方』を致知出版社から上梓しました。山本君の話はこの本の主人公・徳永先生の生き方を髣髴させます。

 徳永先生と言ってもご存知でない方も多いかと思いますが、森信三神戸大学元教授が「100年に1人出るか出ないかの超凡破格の教師!」と驚嘆された人物です。徳永先生の教え子たちとの交流は、担任をしていたときだけではなく、卒業後も続き、教え子たちが小学校を卒業して15年目、先生との交流を書きつづった文集を出版したことにも現れています。

 

その文集は多くの教職者の心を打ち、昭和45年(1970)、『教え子みな吾が師なり』と改題されて浪速社から単行本化され、ベストセラーになりました。その徳永先生は熊本県の山奥の小学校で、みんなからのけ者にされ、ひねくれていた炭焼きの貧しい少年を抱いて寝て、凍てついていた心を先生の体温で溶かして、すっかり立ち直らせました。

 

 世の中にはどうしても勝ち組と負け組があるものです。世の中の傾向は勝ち馬の尻についていき、自分もなにがしかの恩恵を得たいと思うものです。そしてついつい負け組を遠ざけ、無視してしまいます。その結果、負け組はひねくれていくものです。

小学校の教室にもそれがあります。それは人間の悲しい性のようなものです。しかし徳永先生は負け組を見捨てるのではなく、彼らも励まし、勝ち馬にしようと努力されました。

 

 その姿勢を見た負け組の生徒たちは先生への信頼を深め、一生懸命勉強するようになり、生き生きとなっていきました。家庭が裕福で、成績も優秀な勝ち組の生徒たちも、「この先生は誰も見捨てない!」と信頼を寄せ、いっそう慕うようになりました。こうして徳永学級は和気あいあいとなり、深くて太い信頼の絆が育っていきました。

 

 徳永学級の教室の壁に掲げられていたモットーは、「自分を育てるのは自分である」と書かれていました。人を責めず、人のせいにせず、すべては自分の責任だと自覚する生き方はあっぱれで、さわやかですらありました。

 そんな徳永先生の教育のことを書いたのが『人を育てる道』です。この本を読まれたイエローハットの創業者鍵山秀三郎先生は、「この本は学級運営がうまくいかず、人知れず悩んでいらっしゃる現場の先生方に具体的なヒントを与えてくれます」と激賞されました。

 

 3月1日発売の雑誌「致知」4月号が全ページの広告を出してくれ、私も読者に出版案内のハガキを出したところ、多くのサイン本の申し込みがあり、3月12日の店頭販売の前に、すでに400冊あまりの扉書きをして送りました。徳永先生の生き方に多くの方々が共鳴され、その反響の大きさに驚いている次第です。(続く)

『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』の書影

写真=『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』の書影


沈黙の響き (その38)

『沈黙の響き(その38)』

≪三浦綾子の『塩狩峠』が投げかけたもの≫

 

 

≪人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない≫

 

私はコロナ禍で外に出ることができないのを幸いに、過去、心の中に残った名著を取り出して読みふけりました。その中に、三浦綾子の『塩狩峠』(新潮文庫)がありました。三浦綾子もまた「沈黙の響き」に耳を傾け、あるかなきかのかすかなメッセージに聴き入った作家の一人です。

 

大正11年(1922)生まれの三浦綾子は長らく小学校の教師をしていました。ところが戦後すぐ肺結核で倒れ、療養を余儀なくされました。ところが闘病生活中、北大医学部を肺結核のため休学し、療養していた幼なじみの前川正と偶然再会しました。闘病中であっても希望を失わず、明るく振舞う前川がキリスト信者だと知って、三浦はキリストの信仰に興味を持ちました。

 その前川の影響で、三浦は昭和27年(1952)、30歳のとき洗礼を受けました。しかし、三浦の症状はなかなか好転せず、脊椎に転移して骨髄組織が壊死し、麻痺、排尿・排便に苦しみました。

 

 それから11年後の昭和38年(1963)、朝日新聞が創刊80周年事業として1000万円の懸賞小説を公募しました。それまでも創作活動をしていた三浦綾子は『氷点』で応募し、見事に入選しました。かくして新聞連載が始まり、それが終わって昭和41年(1966)に出版され、その年だけでも71万部を超す大ベストセラーとなりました。『氷点』は映画化され、さらなるブームを呼びました。

 

 その三浦が所属していた旭川六条教会に、明治40年ごろ、長野政雄(小説では長野信夫)という旭川運輸事務所の主任がおり、教会の信徒たちにも一般の人々にもとても慕われていました。

 

明治42年(1909)2月28日、旭川の北に位置する塩狩峠という難所で起きた鉄道事故で、たまたま乗り合わせていた客車の逆走を防ぎ、乗客の命を救おうと必死になり、ついに身を挺して客車の下敷きになって脱線転覆事故を防ぎました。

 

この話を知った三浦はこれを『塩狩峠』と題した小説を書きました。イエスが教え諭された聖句、

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん」

 に、真っ正面から答えた小説です。

 

この小説の執筆を日本基督教団出版局が出している月刊誌『信徒の友』に依頼した張本人である文芸評論家の佐古純一郎は解説で、

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」

 という聖句を引いて、主人公永野信夫がイエスの模範に殉じた生き方をしたことを絶賛しました。

 

≪人間の極限の美しさを描いた『塩狩峠』≫

 

 主人公の永野信夫(実名長野政雄)は鉄道の勤務以外の時間は旭川六条教会で日曜学校を手伝い、手塩線沿線の各地でキリスト教青年会を世話していました。永野は吉川ふじ子というキリスト教徒に心を惹かれていました。

 

ふじ子肺結核患者で、しかも脊椎に移転してカリエスになり、寝たきりになりました。永野は、肺結核とカリエスを患いながら、キリストの信仰によって明るく振舞っているふじ子が回復したら結婚しようと考えていました。ふじ子の病気は六年を経てようやく快方に向かい、とうとう結婚できる目途が立ちました。

 

 永野は長年手塩にかけて育ててきた鉄道キリスト教青年会の支部が名寄(なよろ)で結成されるので記念講演をし、翌朝札幌に帰って、待ちに待った結納をする段取りにしていました。結成式には名寄、和寒(わっさむ)、士別(しべつ)などから五十名もの人々が詰めかけて祝い、大役を果たした永野は、翌朝札幌行きの汽車に乗り込みました。ところがこの汽車が和寒を出て急勾配の塩狩峠に差し掛かったとき、永野たちが乗っている最後部の客車が外れて、急速度で逆走し始めたのです。

 

線路沿いの樹木が飛ぶように過ぎ去っていき、乗客は転覆を恐れて騒然となりました。永野は客車の暴走を防ぎ、乗客を救う手立てはないかと模索しました。そんな永野の目に飛び込んできたのが、デッキの床に垂直に備えつけられたハンドブレーキでした。

永野はそれに飛びつき、全身の力をこめてハンドルを回しました。額から汗がしたたりおち、ブレーキが利いて次第に速度が落ちてきました。しかしそれ以上速度が落ちず、五十メートル先には急勾配のカーブが迫っていました。そこへ突っ込めば客車は脱線転覆し、多大な犠牲が出ることは必至です。

 

 すると永野はデッキから身を翻して線路に飛び降り、客車の下敷きになって、自分の体で客車を止めようとしたのです。客車の下から永野の絶叫が起き、鮮血が飛び散って、客車は永野の体に乗り上げて、ようやく停止しました。乗客は危うく助かったものの、自分たちが永野の犠牲で救われたと知って呆然となりました。

 

 札幌で新郎が着くことを今か今かと待っていたふじ子のもとに、永野が身を挺して客車の下敷きになり、乗客を救ったという知らせが伝えられました。明日は晴れて結納だという日に、そんな悲しい出来事が起こるとは信じられません。呆然となったふじ子は何としてでも永野を出迎えなければと思って駅に向かい、改札口に立ちました。

 

永野が乗ったはずの汽車が駅に着き、乗客がどんどん降りてきます。ふじ子は必死になって乗客の中に永野を探し、最後の乗客が改札口を出て行ったとき、永野が手を振って歩いてくるのが見えました。

「あ、信夫さん!」

 ふじ子もにっこり笑って手を挙げました。次の瞬間、永野の姿はかき消すように消えてしまい、ふじ子も気を失って、心配してついてきた兄の懐にくず折れてしまいました――。

 

≪この世的なものに挑戦した文学≫

 

 ふじ子が患っていた肺結核と脊椎カリエスは、三浦綾子が患っていた病気です。自分の闘病生活を参考にして描きながら、永野がふじ子に捧げる愛を描き、逆走する客車の下敷きになって乗客の命を救ったシーンは、イエスが人々の犠牲になって従容と十字架についた姿と重なって真に迫るものがあり、私は思わず落涙してしまいました。

 

 人の生きざまほど私たちをハッとさせるものはありません。そんな実例に触れたとき、私たちの人生はしゃきっとなります。先にも取り上げた佐古純一郎は三浦の作品をただ単なるエンターテインメントではなく、この世的なものに挑戦している文学だといいます。

 

 いや、イエス自身の生き方がこの世的なものに挑戦した生き方でしたから、その信徒である三浦の文学は当然、この世的なものに挑戦したものとなってもおかしくありません。

「沈黙の響き」に耳を傾け、宇宙の本質と一体となろうとしたとき、私たちは少々のことでは揺るがない者になります。その毅然とした態度が、世の中を浄化していくのではないでしょうか。

 

 世界の政治を見ると、多くの独裁者たちがやりたい放題のことをやっている無秩序の世界のように見えますが、それそれらも大きく包まれて世界は運行しているのです。泡沫(うたかた)のような存在に気を取られて腐ってしまうのではなく、自分の持ち場で一隅を照らす生き方をしましょう。それが世界を救います。

 

私たちの生き方が問われています。ごまかすことはできません。人生はたった一度しかないからこそ、ごまかすことなく、固い岩の上に立って、最高に充実して生きたいものです。(続き)

『塩狩峠』(三浦綾子著 新潮文庫)

写真=『塩狩峠』(三浦綾子著 新潮文庫)


『人を育てる道 ― 伝説の教師徳永康起の生き方』出版のご案内

書影『人を育てる道』

『人を育てる道 ― 伝説の教師徳永康起の生き方』

神渡良平著 致知出版社 1600円+税 3月上旬発売

小学校教師徳永康起先生を森信三神戸大学元教授は「100年に1人出るか出ないかの超凡破格の教師です!」と驚嘆されました。教え子たちとの交流の濃密さは、小学校を卒業して15年目、先生との交流を書きつづって出版した文集に現れています。

その文集は多くの教師や保護者の心を打って単行本化されることになったので、徳永先生は日頃の信条を付けて、書名を『教え子みな吾が師なり』としました。この信条に徳永先生の思いの全てが込められています。本書はその徳永先生の教育の全てを明らかにしました。

 

☆サイン本のお申込み(住所, 電話, 冊数を明記) kamiryo12@gmail.com  電話&FAX 043-460-1833


沈黙の響き (その37)

 「沈黙の響き」(その37)

≪父母の恩愛に包まれて≫ 

 

私たちの魂の成長には父母を初めとして、多くの人々が関わってくださっています。

次の、小学校三年生の康子ちゃん(仮名)のチョコレート万引き事件の指導には、担任の灰谷健次郎先生が深く関わってくださり、危うく脱線しそうになった康子ちゃんを助けてくださいました。

灰谷先生とはミリオンセラーとなって映画化された『兎の眼』(角川文庫)、あるいは50万部も売れて映画化された『太陽の子』(角川文庫)など、出色の作品を世に送り出した児童文学の作家で、作家になる前は小学校の先生でした。

 

ある日、母親に連れられて、ちっちゃな女の子がしぶしぶ灰谷先生のところにやってきました。あるお店でチューインガムを一箇盗んだので、叱ってくださいというのです。見ると、お母さんに書かされたのでしょうか、反省の気持ちを書いた小さな紙きれを持っています。

「わたしはお店にはいって、チューインガムをとりました。もうしません。せんせい、ゆるしてください」

 と書いてありました。灰谷先生はお母さんに帰ってもらい、康子ちゃんに話しかけました。

「どういういきさつからそういうことをしでかしたのか、本当のことを話してごらん」

康子ちゃんは少し話しては泣き、また話しては泣きして、一部始終を話しました。

そして先生に進められるままに、詩を書きました。

 

   チューインガム一つ

 

 せんせい おこらんとって

 せんせい おこらんとってね

 わたし ものすごくわるいことをした

 

 わたし おみせやさんのチューインガム とってん

 一年生の子とふたりで チューインガム とってしもてん

 すぐ みつかってしもた

 きっと かみさんがおばさんにしらせたんや

 わたし ものもいわれへん

 からだが おもちゃみたいに カタカタふるえるねん

 わたしが一年生の子に「とり」いうてん

 一年生の子が「あんたもとり」いうたけど

 わたしはみつかったらいややから いややいうた

 一年生の子が とったんや

 

 でも わたしは その子の百ばいも 千ばいもわるい

 わるい わるい わるい わたしがわるい

 おかあちゃんにみつからへんと おもとったのに

 やっぱりすぐみつかった

 

 あんなおかあちゃんのこわいかお 見たことない

 あんなおかあちゃんのかなしそうなかお 見たことない

 しぬくらいたたかれて

 「こんな子 うちの子とちがう 出ていき!」

 おかあちゃんはなきながら そないいうねん

 わたし ひとりで出ていってん

 いつでもいくこうえんにいったら

 よその国へいったみたいな気がしたよ

 せんせい どこかへいってしまおとおもた

 でも なんぼあるいても

 どこへもいくところあらへん

 なんぼ かんがえても あしばっかりふるえて

 なんにも かんがえられへん

 

 おそうに うちへかえって

 さかなみたいに おかあちゃんにあやまってん

 けど おかあちゃんは わたしのかおを見て ないてばかりいる

 わたし どうして あんなわるいこと してんやろ

 もう二日もたっているのに

 おかあちゃんは まだ さみしそうにないている

 せんせい どないしよう

 

ここには康子ちゃんの痛切な反省の気持ちがほとばしり出ています。この詩にいたく感じ入った灰谷先生は、康子ちゃんに手紙を書きました。

「ほんとうにきびしい人間は、いつだってじぶんをごまかしたりしません。康子ちゃんがこの詩をかいたことは、うそのない人間になろうとしているあかしだと思います。だからこそ先生は、康子ちゃんの詩をよんで、なみだがでたのです。先生はあなたをしんらいしています」

 康子ちゃんは詩にお母さんが泣いていると書きました。

「あんなおかあちゃんのこわいかお 見たことない

 あんなおかあちゃんのかなしそうなかお 見たことない

 こんな子 うちの子とちがう 出ていき!

 おかあちゃんはなきながら そないいうねん」

お母さんが自分のこととして恥じ入っている様子が伝わってきて、康子ちゃんは真剣に反省しました。お母さんの涙を見たからこそ、万引きなど二度としないと反省したのです。

 

≪新生の喜びに満たされる≫

 

これに対して、「子どもが出来心からやったことじゃないか。そんなにきつく反省させなくてもいいのではないか」と寛容な意見を示す人もいます。それは一見寛容に見えますが、決して寛容ではありません。

 

康子ちゃんは「おかあちゃんにとんでもない迷惑をかけてしもうた。申し訳ない」と、平謝りに謝まりました。そこでいっそうはっきりと見えてきたのは、泣いているお母さんの顔でした。「もう2日も経っているのに、まだ泣いていて、さみしそうだ。せんせい、どないしよう」と途方に暮れました。そして何よりもお母さんが康子ちゃんをどれほどいとおしく思い、大切にしてくれていたのか気づいたのです。

 

灰谷先生も康子ちゃんを責めるどころか、「うそのない人間になろうとしている」と受け止め、康子ちゃんへの手紙に、「康子ちゃんの真剣さに涙が出た」と書かれました。「先生も信頼している!」という言葉に、康子ちゃんはどれほど励まされたことでしょうか。

 

だから康子ちゃんは真剣な反省を通して、お母さんや灰谷先生が康子ちゃんに投げかけていた愛を発見したのです。愛は強ければ強いほど、裏切ることはできません。愛されている、期待されていると感じれば感じるほど嬉しくなり、よーし、頑張るぞと、再出発の力が湧いてきます。

 

≪内観は自分を包んでいる愛に気づく方法≫

 

ところで、この康子ちゃんの立ち直りの事例は、内観という精神修養法を想起させるものがあります。内観はもともと浄土真宗の僧侶の修行方法でしたが、昭和に入って吉本伊信さんが宗教色を抜いて、精神修養法として確立したものです。

一週間の集中内観では外部と遮断して、父母や祖父母、兄弟や親しい人に対して、①お世話になったこと、②それに対してご恩返ししたこと、③迷惑をかけたことを、2年おきぐらいに細かく調べます。

その結果、自分は何と一人よがりだったかに気づいて非を詫びます。人によっては号泣するほどです。心の底からの悔い改めにいたると、不思議な感覚が訪れます。体が軽くなって温かくなったように感じるのです。そして自分はいかに愛されていたのか発見し、ただただありがたくて、嬉しくて、涙が込み上げてきます。

 

いや涙がこみ上げるという程度ではなく、嗚咽するほどです。泣き終ったとき平安な静寂に包まれ、こんな自分でも生かされている! とやすらぎが訪れてくるのです。細胞の一つひとつが感謝の念で満たされ、転げまわって喜びたいほどです。すると上から目線の態度が消え、人間関係がよくなり、家庭も円満になります。もちろん取り引き先も、あなたは変わったねえ、とても柔らかになったよと驚き、仕事もスムーズにいくようになります。

 

私はこれまで4度ほど集中内観をやり、そんな満ち足りたやすらぎを味わいました。その後、内観の面接者を4年ほど務め、内観の効果を目の当たりにしました。

おそらく康子ちゃんも深い悔い改めの末、晴ればれとした気持ちになり、以前よりもっと明るくなったのではないでしょうか。お母さんや灰谷先生が康子ちゃんの万引きをお座なりにせず、そこまで導いてくださったのだろうと想像します。

康子ちゃんが曲がることなく、無事再出発できたのは、そんなお二人のお陰です。ただただ感謝です。(続く)

写真=樹間に射してくる神々しい光、光、あふれる光