直販のみのCD『詩と瞑想「いと高き者の子守唄」』ですが、
この度、価格を2000円に値下げいたしました。
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をご連絡ください。
TEL・FAX:043-460-1833
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神渡良平先生は、令和5年5月1日に永眠されました。
当サイトは、今もなおアクセスしてくださる方が多く、ご家族と検討し、当面このまま閲覧できる状態にしておくことになりました。
※ サイト管理者より
2014年より、神渡先生のサイトのリニューアルとPCやスマホの操作等のIT全般のサポートを依頼され、これまで続けてまいりましたが、いつも神渡先生の少年のような好奇心と行動力には感服し、常に勇気ややる気をいただいていた気がいたします。
神渡先生には感謝しかありません。
最後の投稿、2023年3月31日 [神渡良平のニュースレター] – 沈黙の響き(その147) では、奇しくも御父母への感謝の言葉を書かれていましたが、今あちらの世界に戻られて、御父母に感謝もお伝えでき、新しいご使命に向けて動き出されているのではないかと思います。
「沈黙の響き(その147)」
天地を飛び跳ねて遊んだ日々
神渡良平
◇ホタルが乱舞する夜ごとの楽しみ
昨年の6月12日、産経新聞の「朝晴れエッセー」に静岡の安藤勝志さんの「光る虫の乱舞」が掲載されました。光る虫が乱舞する幻想的なシーンの記述は私の子どものころの遠い記憶を呼び覚まし、なつかしくてたまりませんでした。
「ある夏の夕暮れだった。私は捕虫網を持って小川のほとりに出かけた。その日はおもしろいほどにたくさんのホタルを捕まえることができた。私はそれを虫かごに入れ、家に持ち帰った。
両親は水田の除草作業のため、夕闇が濃くなっても帰らない。私は4畳半の寝室に蚊帳(かや)を吊った。部屋は暗かったが、電灯は点けなかった。そして蚊帳の中にホタルを放った。仰向きに寝て仰ぐ私の目に、無数の光の点滅が見えた。それは私だけの小宇宙だった――」
投稿者の安藤さんは80歳、私と5歳しか違いません。安藤さんは豊橋市の郊外の田園地帯で育ち、私は鹿児島の草深い田舎で育ちましたが、同じような情景を味わっていたようです。あのころは夕方になると、小川や池のほとりには光るホタルが乱舞し、私や1歳下の妹や5歳下の弟を幻想の世界に誘ってくれました。
♫ ほう ほう ホタル来い
あっちの水は苦いぞ
こっちの水は甘いぞ
私は団扇(うちわ)を持ってホタルを追い、ホタルはそれをするりと抜けて乱舞します。まるで私とたわむれ、遊ばせてくれているようでした。
追い疲れて息をハアハア弾ませていると、その向こうに星ぼしがきらめいていて、私をさらなる天空に遊泳させてくれました。大自然はそのまま私のゆりかごで、神さまがそれをゆすって子守唄を歌ってくださっていました。
安藤さんはホタルを蚊帳の中に放って、自分一人の小宇宙を楽しんだそうですが、私も同じことをして遊んでいました。蚊帳にとまったホタルがポーッポーッと発するやさしい光はとても幻想的です。私も一緒になって光っているような気がして、蚊帳にとまっているホタルを見上げて楽しんでいました。
ホタルの光はとても幻想的で温かく、飛び方もふわふわっとしていて曲線的で、とてもやわらかいです。だからすぐ仲良しになれました。手を差し出すとすぐとまってくれ、お尻をポーッポーッと光らせます。ホタルは光で答えてくれているようです。私は蚊帳の中でホタルと何時間も語り合って遊びました。蚊帳の中が私の小宇宙でした。
◇母と歌って歩いた畑中の小径(こみち)
夏というと、もう一つ楽しい思い出がありました。お盆には母と妹と弟と3人手をつないで、畑中の小径を歌いながらおばあちゃんの家に帰るのです。母は若いころ小学校の先生だったのでとても歌がうまく、私は母の歌声を聞くのが好きでした。
♫ お手手つないで 野道を行けば
みんなかわいい 小鳥になって
唄を歌えば 靴が鳴る
晴れたみ空に
靴が鳴る
もちろん私たちも一緒になって歌いました。野面(のづら)を軟かい風が吹いてきて、私たちの汗ばんだ頬をなでてくれます。唄を歌うと靴が鳴り、晴れたみ空に靴が鳴ります。それが楽しくうれしくて、母と競うように歌いました。
私は名だたるボーイソプラノ歌手、妹はかわいいソプラノ歌手(のつもり)! 広い畑をステージに見立てて、飛んだり跳ねたりして歌いました。濃い緑の畑の向こうにおばあちゃんの麦わら家が見えてくると、私たちは絶唱をやめて走り出しました。
「おお、みんな来たの! 元気だったかい」
おばあちゃんがそう言って抱きしめてくれるので、われ先にと走るのです。あたたかいふるさとに帰る本家があるのが幸せでした。
楽しかった! うれしかった! 毎日が笑いに満ちていた! それが人生の原風景でした。だから長じても、人生に肯定的に、積極的に挑戦し続けることができました。
発達心理学では、子どもは問答無用で受け入れてもらえると、心の深いところで充足し、自分と周囲への信頼関係がいや増すと説いています。ホタルのやわらかな光に満足し、野中の小径を母と一緒に歌いながら、世界への信頼感を育てていただきました。私は改めて父母に大変な恩義をいただいていると感じずにはおれません。
安藤さんのエッセーを読んで、子どものころを思い出し、自分の子どもや孫たちに豊かな自然環境を残してやるのは私の努めだと強く思いました。
写真=幻想的なホタルの乱舞
「沈黙の響き(その146)」
病気は大切なことに気づくきっかけだ!
神渡良平
◇癌を患ってステージ4まで悪化
三浦綾子さんはこの世に病がなければいいと思っていましたが、それは大変な思い違いだったと気がつきました。病気は無ければいいのではなく、わたしたちに大切なことに気づかせようとされる“天の計らい”であり、“天の仕組み”だと知って、人生観がガラリと変わりました。これは綾子さんの人生で最も大きな出来事でした。
そのことに関連して、癌を患ってステージ4まで悪化し、文字通り死に直面した上瀧大さんも同じような人生観の大転換があったので、三浦綾子さんに起きた出来事がよくわかると言います。
「わたしは五十歳のとき人間ドックで癌が発見され、二進も三進もいかない状況に追い込まれました。患部の痛さと死に直面した不安で押しつぶされそうでした。だから従来の西洋医学で治療するとともに、藁をもつかむ思いで密教の護摩行にも参加ました。自分の業を焼き払ってもらおうと必死で、護摩木に何十枚も病気平癒と書いて護摩壇で焚き上げてもらいました。
ところがあるとき護摩木に祈願を書き込んでいると、疲れ果てて一瞬睡魔に襲われてしまい、ハッと気がつくと『照』と書いていたのです。それを見た瞬間、これは“一隅を照らす”の“照”ではないかと直感しました。つまり、助けてくださいと必死に祈るのではなく、いま生きている時間を大切にして、みなさんに一隅を照らす思いで奉仕すべきだと!」
これは驚くような覚醒でした。生への執着が大変なことに気づかせてくれたのです。
◇いま生きていることに感謝して“一隅を照らす”生き方をしよう!
「意識を向ける中心を病から、自分が今どうあるべきかに向けなさいというのです。するとさまざまな生きづらさを抱えている人たちや、自然界の生きとし生けるものへの慈しみが深まりました。わたしは政府系の金融機関で働いていますが、休日は障がいを持った子どもたちの世話をして汗をかきました。彼らはとても無邪気でやさしいんです。わたしはその無邪気さやさしさにどんなに癒されたかわかりません」
わたしはある会合で上瀧さんと知り合ったとき、彼のはつらつとした笑顔に惹かれました。そこでいろいろとうかがってみると、一つ抜け出した心境におられました。
「発病してから10年になり、現在は薬で進行を抑えていて、徐々に強い薬に変わっています。予断は許しません。悩まないと言えばうそになりますが、死の病を経験したお陰で、人の痛みや温かさを知り、他のいのちへの共感が深くなりました。だから59歳になってもなお成長させていただいていると感じて感謝しています」
上瀧さんは三浦綾子さんが、
「すべては神さまのお計らいの中にあるのだから、もう悩むまい、神さまに委ねるようと思ってから楽になった」
と言っていることに同感し、大いなる存在に全部預けてしまい、あれこれ悩まなくなりました。そんな話を聞いて、上瀧さんがはつらつとした笑顔をされている理由がわかりました。
写真=富山県の庄川峡の遊覧を楽しんでいる上瀧大さん
「沈黙の響き(その145)」
南溟の孤島の牢獄に西郷どんを訪ねて
神渡良平
2月21日朝、私の携帯電話が鳴り響きました! 鹿児島市から約500キロ南、与論島の先は沖縄という南溟の孤島沖永良部島(おきのえらぶじま)からの電話でした。電話の主は、西郷隆盛が閉じ込められていた牢獄を11人の仲間と共に訪ねている北澤修さんです。
「いやーもう最高! この地に立って見なければ感じられないものを感じて、興奮しています」
北澤さんは建築業を営みながら、年に何回か、仲間を誘って歴史の現場を訪ねるツアー「哲露」を催しています。昨日から沖永良部島を訪ねており、和泊(わどまり)町の海岸ばたにある木組格子の牢獄の中に入っている西郷どんと一緒に坐禅をしてきたというのです。
「せっかくの機会ですから、持ってきた黒糖焼酎で、西郷どんと一献酌み交わしてきました!」
北澤さんに嬉しそうにそう言われて、私は西郷どんに一献差し上げることを忘れていたことに気づきました。私は2回ほど牢獄に訪ねていますが、焼酎を酌み交わすことは思いもしませんでした。西郷どんは北澤さん一行に、
「こげん遠か島までよう来やったなあ! 狭か獄じゃっどん、くつろいでくいやんせ」
と大歓迎されたそうです。
「いやあ、最高の歓迎を受けました。西郷どんは無聊(ぶりょう)を慰められて大喜びでした。これで西郷どんがぐっと身近になりました」
北澤さん一行はいい体験をされました。ところがその後、地元の西郷南洲記念館の宗淳館長が「西郷どんは下戸じゃったど」と教えてくださったので、焼酎を酌み交わした話にはオチがつき、みんなで大爆笑しました。
獄中の瘦せ衰えた西郷どん
私が初めて沖永良部島の牢獄に西郷どんを訪ねたとき、西郷どんはげっそり痩せて骨皮筋衛門になっていました。私は上野の西郷どんのような、相撲取りのように太った西郷どんが入牢していたと思っていたので、げっそりと痩せた西郷どんを見てびっくりしました。
格子組みの牢だから蚊や蠅も飛来するし、強風の日はしぶきで濡れたに違いありません。過酷な入牢生活で西郷どんはすっかり体力を消耗しました。薩摩藩士で牢獄の監視人だった土持正照が機転を利かして座敷牢に移したので、西郷どんは一命を取り留めたのでした。一行が泊ったコチンダホテルは土持正照の屋敷跡で、敷地には西郷どんが愛でた南洲ソテツが緑の葉を茂らせていました。
生き生きとした子どもたちに目を覚まされました!
今回の旅の参加者に石田篤則さんがいました。石田さんはベビーふとんで世界有数のシェアを持つ会社を経営しています。こんな感想文を寄せていただきました。
「今回の旅で本当に心から元気をいただきました。一番心に響いたのは、国頭小学校の子供たちでした。私は昨年末から気分が沈んでしまい、元気が出ず、社員たちから逆に励まされているような状況でした。理由は同じ業界の友達たちが廃業したり、友達の奥さんがガンで亡くなったりしたことが重なったためです。
そんな中、沖永良部島に着き、みんなでレンタカーを借りて、国頭(くにがみ)小学校の校庭にある日本一のガジュマルを見に行きました。さすが日本一で、すごい生命力を感じました。15分ほど鑑賞したころ、授業が終わり、チャイムが鳴りました。それと同時に校舎から低学年の子どもたちが走り出てきました。子どもたちは私たちを見るなり、すごく大きな声で、『こんにちは~』と挨拶をしてくれました。
私はその一瞬で一気に元気になりました。『生きるってこれだ!』と感じました。小学生のたった一言の挨拶で、54歳の自分がこんなに元気になれるなんてすごいことだなと思いました。たった一言の挨拶で人を元気にできるんですね。私もこんな人間になりたいと思いました。もし国頭小学校に行くタイミングが10分ずれていたら、子どもたちに会うこともできなかったでしょう」
その他の観光スポットにも訪ねました。島の北西に、紺碧の東シナ海に面した田皆(たみな)岬という51メートルもの断崖絶壁があります。その断崖からはるか下、透明に澄み切った岩場に、白い波が打ち寄せていました。
「その絶景を見たとき、私の小賢しい悩みなど吹き飛ばされてしまいました。断崖を吹き上げてくる風に頬を打たれながら、私は心を洗濯されていました。よーし、もう大丈夫だ、明日から頑張るぞと、大変な気力が湧いてきました」
真夜中の牢獄で西郷どんと一緒に瞑想
そして西郷どんが閉じ込められていた牢獄。
「夜中の12時に北澤さんたちと吹きさらしの牢獄に行き、風の強い中3時間いろいろ考えました。牢獄はひどい環境で、とても耐えられそうにありません。西郷どんはこの状況で島の子どもたちに感化を与えたんです。その感化が校風として残っているというのもすごい! 昼間会った小学生たちを思い出し、西郷どんの感化が生きていると思いました。
一緒に旅した仲間たちと腹蔵なく話し合い、旅はいっそう盛り上がりました。仲間には本当に感謝しかありません」
石田さんにとって活力をいただいた旅になりました。
敬天愛人の思想を育んだ風土
同じ旅で、廣濱裕基さんはこんな発見をしました。廣濱さんは愛知県蒲郡市でデジタルマーケティングの会社を経営しています。
「獄中で瞑想する西郷どんの坐像を見て、自由の効かないこんな場所で1年6ヶ月間! しかし誰を恨む事なくひたすら自分を掘り下げていった……強靭な精神力や忍耐力がなければできることではありません。西郷どんは『言志四録』を何度も読み返し、掘り下げていったに違いありません。『言志四録』にはやはりそれだけの力があります。
自分たちが島を発った日は、奇しくも西郷どんが許されて鹿児島に向けて出港した日と同じで、何か因縁めいたものを感じました。
自分は若いころ、碌でもない喧嘩や遊びをし、人に悪態をつき、暴力や圧力には屈せず、人に逆らって生きていました。ところがある人に出会い、その懐に飛び込んでみると、自分が小さいことを痛感し、変なプライドなど要らないと目覚めました。そして進むべき道をしっかりと指し示してもらったので、現在の自分があります。そんなことから、出会いは決定的に大切だと実感しています。
次の日はフェリーで島から鹿児島に行きました。壮大な海が広がっており、全身で浴びる潮風が気持ちよく、波頭の先に薩摩富士と呼ばれる開聞岳が聳えていました。薩摩には熱い男達がたくさんいて、強い日本を夢見た男達が育った風土でした。
その中で特にこれだ! と感じたものは郷中教育です。郷中教育には先生というような特別な存在はなく、先輩が後輩を、学問だけでなく、武術、心の鍛錬に関しても細かく指導していたようです。薩摩は西郷どんがたどり着いた『敬天愛人』という思想を感じさせる風土でした。
やはり現地を訪ねて良かった! それに共に同じ時間を過ごせた仲間があり、俺は時間に殺されていないと感じた旅でした」
廣濱さんは昨年10月、『言志四録』を書き残した幕末最大の儒学者佐藤一斎が生まれた岐阜県岩村町を訪ねる旅にも参加しました。
自己を確立する追体験の旅
北澤さんが主宰している「哲露」は、歴史が回天した現場に立ち、学びと実践を深めて自分の人生に資しようとする集まりです。これまで「特攻に学ぶ知覧の旅」「松陰先生を学ぶ下田の旅」「水戸学を知る旅」などを実施してきました。
「追体験すると、途端に歴史は客観的なものからわが事になります。学問にはチカラがある。頭の中だけの知識は現実を変革するチカラにはならない」
水戸学を学びに安見隆雄先生を訪ねたとき、水戸学ならではの指摘を受け、心にズシンと響きました。歴史を尋ねての旅を企画する北澤さんは熱い思いを語ります。
「これからも現地を訪ね、その風土を味わい、先人が見た山河、吹かれた風を実感できる場に立つ旅を企画します。縁ある仲間と共に、日本という国の一分子として、より良いバトンを次に繋げていくつもりです」
写真=・沖永良部島の牢獄で、西郷どんの坐像と一献酌み交わした豪傑北澤修さん ・旅に参加した仲間たち ・東シナ海に面した断崖絶壁の田皆岬 ・日本一のガジュマルとそのたくましい幹
北澤修=090-3045-0587 osamu@e-kitazawa.com
「沈黙の響き(その144)」
病ほど魂を磨いてくれるものはない!
神渡良平
この「沈黙の響き」でわたしは今、作家の三浦綾子さんの魂の成長の足跡をたどっています。人間は成長の過程でさまざまな人に出会い、影響を受けて成長していくことをまざまざと見せられます。三浦綾子さん(旧姓福田)も最初の恋人で彼女にキリスト教を伝えた前川正さんや、洗礼式に出席してくださった洋生のニシムラの西村久蔵社長などを通して大きく脱皮しました。 受洗して教会に行くようになった堀田綾子さんが見たものは、痛みや哀しみの人生を歩いてきた人たちが見事に復活し、嬉々として生きている姿でした。
◇神は愛なればこそ、わたしに障がいを与えられた!
三浦綾子さんは日記形式の自叙伝『この病をも賜(たまもの)として』(角川書店)に、無名の詩人の島崎光正さんのことを書いています。
母の胎内で二分脊椎症(にぶんせきつい)という難病に侵され、大正8年(1919)に生まれた奇形児は、足首が内側にそり返っていました。誕生すると光正と名づけられ、祖父に引き取られました。不幸にも医師の父は治療した患者の病に感染して亡くなりました。母は息子を引き取りに祖父を訪ねましたが、願いを果たせずに追い返されてしまいました。その後、20年間精神病院に閉じ込められ、会えないまま亡くなりました。だから光正さんはお母さんを写真でしか知りません。
光正さんは足首が奇形だったため普通の靴を履けず、ゴム長靴を履いて松葉杖をついて通学しました。排尿が難しいため、朝礼のときや授業中によく失禁してしまい、みんなから笑われました。自分はどうしてこんな星のもとに生まれてきたのだろうと運命を悲しく思っていましたが、手塚縫蔵(ぬいぞう)校長先生がいつも励ましてくれました。手塚校長は敬虔なキリスト者で、
「光正君の悲しみを一番ご存知なのは神さまだよ。決して見捨てられてはいないんだ。悲しみに負けないでね」
と励ましてくれました。光正さんは長靴を履いて重荷を引きずるようにして、悲しみを抱えたまま、毎週教会に通いました。するとイエスさまは光正さんの悲しみを誰よりも知っておられ、誰よりも泣いてくださいました。それがどれほど慰めになったかわかりません。だから28歳のときに洗礼を受けました。
それからの光正さんは詩で神の愛を伝える伝道者になりました。正さんが自叙伝を『星の宿り』(筑摩書房)としたのは、「自分にも神の恵みが宿っている」と感じたからです。病魔に支配された人生ですが、その病魔が彼の魂と詩想を磨いてくれたのです。だから、
「神は愛なればこそ、私は生まれてからこのかた、このような立場に置かれ続けたのです」
あるいは、
「神は今、真に頼るべき存在として、ご自身を現わすべく、一対一の出会いのために、孤絶の荒野に私を導かれたのです」
と言い切ることができました。からっと晴れ上がった人生観に見事に変わりました。驚くほどの目覚めです。もうはかなみませんでした。この目覚めと受容こそがキリスト者の強みです。島崎さんは身体障害者キリスト教伝道協力会会長として活躍し、平成12年(2000)11月、81歳で天に召されていきました。
◇30年間寝たきりのご婦人
島崎光正さんのようにイエスさまの涙に出合ったことから、自分の重荷を真っ正面で受け止めるようになり、もう二度と悩まず、嬉々として過ごしている人は他にもありました。埼玉県川口市に住んでいた矢部登代子さんもそういう人の一人です。
矢部さんは10歳のとき関節を患ったことから、立つことができなくなり、寝たきりになってしまい、それから30年間、一度も立ったことがありませんでした。普通なら半年や一年寝込むと、世をはかなみ、そんな人生を余儀なくされている運命を呪うものですが、矢部さんはさらに過酷な人生を歩まされていました。
長いこと矢部さんを世話してくださったお母さんが高血圧になり、世話ができなくなったのです。そんなことで矢部さんは寝たきりの不自由な体なのに、自分で自炊しなければならなくなりました。すでにキリスト教の信仰を持っていた矢部さんは自分に言い聞かせました。
「わたしは今こそ試されているんだわ。わたしが正真正銘のキリスト者であることをここで示さなければいけない!」
矢部さんがそう思えたのは、自分よりもっと重い重荷を背負っていたイエスが挫けることなく、すべてに勝利されて「神のみどりご」としての栄冠を授けられたと知ったからです。もし、矢部さんがイエスに励まされていなかったら、人生を悲観して毎日愚痴を言い、暗い一生を送ったに違いありません。
矢部さんはベッドの脇に水道を引き、腹ばいになって米を研ぎ、炊飯器でご飯を炊いて自活しました。矢部さんは悲壮感をもってそうしたのではなく、主がたどられた道をわたしも遅ればせながら歩めるという喜びからだったのです。その姿が近所の人々に感銘を与え、慕われるようになりました。
だから矢部さんが近所の子どもを集めて日曜学校を開くと、子どもたちは嬉々としている矢部さんの話を聞きたいと集まるようになりました。矢部さんは10歳のときから立ったことがない人でしたが、矢部さんの病室が日曜学校の教室となり、枕元に置かれたマイクで話をするのです。
やがてこの日曜学校は評判になり、大人も参加するようになりました。矢部さんのところに噂を聞いた人々が全国から訪ねてきて話を聞き、矢部さんの美しく明るい笑顔に励まされて勇んで帰っていくのです。こうして彼女に導かれて受洗した人の数は30名を超えるまでになりました。
三浦綾子さんが訪ねたとき、彼女の病室は新築された家の2階に移っており、元の病室はキリスト教の集会室に変わっていました。人々は元の病室に集まって、マイクを通して矢部さんの話に聞き入りました。三浦さんが訪ねた日、矢部さんが日曜学校で教えた子だという大学生が訪ねていました。小学校も4年生までしか行っていない矢部さんを、大学生が師として慕っている姿を見て感銘を受けました。矢部さんは30年間寝たきりだとしても、かくも大きな働きをすることができるという実例でした。
そういう事実に触れると、三浦さんは自分のキリスト教理解が頭の中でしかなく、イエスの涙はもっと奥深いものだと思うのでした。そういう経験をしてみて、堀田綾子さんは、
「病ほど魂を磨いてくれるものはない」
と思うのでした。
写真=今年もたわわに赤い実をつけたトキワサンザシ
「沈黙の響き その143」
キリスト教の深みを見せた『伝道の書』
神渡良平
堀田綾子(結婚後、三浦姓に)さんが前川さんに、皮相的なクリスチャンが多いと揶揄(やゆ)すると、前川さんはそれを否定しませんでした。
「表面的で、はやり病のような信者はいずれ脱落するよ。だからそんなものに目を奪われて、気持ちを腐らせるのではなく、ぼくは綾ちゃんに聖書のすごさを発見してほしいな」
そして旧約聖書の『伝道の書』を開いて読むよう薦めました。そこには、古代イスラエル王国の第三代目の王である賢者ソロモンの言葉と推測される文章が書かれていました。
「空(くう)の空、すべては空なり」
「伝道者曰く。空の空、空の空なるかな。すべて空なり。日の下に人の労して為すところのもろもろの働きは、その身に何の益かあらん。世は去り、世はきたる。地は永遠に保つなり」
その響きはまるで硬質で、人生を慨嘆(がいたん)しています。それまで綾子さんが聖書に抱いていた印象は、
「互いに愛し合いなさい」
とか、
「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」
などと言った教訓的なことが書かれていると思っていました。
ところが『伝道の書』はそれらとはまったく違い、現世は虚無的だと認めた上で、そこから絶対的肯定に至ろうとしていました。
釈迦の求道も「空」から始まった
これは綾子さんにとって新鮮な驚きであり、キリスト教全体を見直すきっかけになりました。釈迦は2500年前、インドの王家に生まれ、地位と富に恵まれ、美しいヤシュダラ妃とかわいい子どもに恵まれました。一見満ち足りた状況でしたが、お年寄りに人間の衰えゆく姿を見、葬式を見て命には限りがあることを知りました。人間には避けることができない生老病死が自分の現前にも頑としてあると悩み、ついに一切を捨てて山の中に入ってしまいました。
そしてまったくの虚無感から出発したものの、釈迦はついに絶対の肯定に至ったのでした。そのことを知ったとき、綾子さんは豁然と開けてくるものがありました。そこでこう書いたのです。
〈伝道の書と言い釈迦と言い、そもそもの初めには虚無があったということに、わたしは宗教というものに共通するひとつの姿を見た。わたし自身、敗戦以来すっかり虚無的になっていたから、この発見はわたしにひとつの転機をもたらした。
虚無はこの世のすべてのものを否定するむなしい考え方であり、ついには自分自身をも否定することになるわけだが、そこまで追い詰められたときに、何かが開けるということを、伝道の書にわたしは感じた。
この伝道の書の終わりに書かれていた、
「汝の若き日に、汝の造り主を覚えよ」
の一言は、それゆえにひどくわたしの心を打った〉
三浦綾子さんはとうとう、
「自分自身を否定するところまで追い詰められたとき、何かが開ける!」
という確信をつかみました。だから『伝道の書』との出合いは、以後の堀田綾子さんの求道をまじめなものに変えました。
聖書学者の研究の成果
ところで『伝道の書』は「詩編」の後に入っている「箴言」(しんげん)同様、ソロモンは書いたとされていますが、聖書学者の間ではソロモンの著作ではなく、ギリシア哲学、特にエピクロス哲学の影響を受けて、 250~150年の間に書かれたのではないかとも言われています。
第1章14節「日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである」の言葉が示しているように、地上的な価値や快楽は究極の安心を与えるものではなく、人間的な諸相のむなしさを伝えていて、神の思いははかりがたいと語っています。
また3章11節では、懐疑と動揺と悲観のうちに永遠を思い、神をたたえる信仰がのぞいており、 7章12節では、義人さえもが義によって滅ぶと人生のむなしさを嘆いています。その上で、人生の真相を知るには知恵が力であり、すべてを知って裁く神の前になしうることは力を尽して行為することで、神を恐れて本分を守るべきことだと力強く述べられています。
聖書学者は、本書は他の書にはみられないほど統一性を欠いているため、正典に編入されるのは遅れて2世紀ごろだったと述べています。
写真=「伝道の書」が含まれている『聖書』
「沈黙の響き(その142)」
前川正さんの死
神渡良平
束の間の愛と不安
綾子さんにようやく精神的な春がやってきました。前川さんに愛され、自分も前川さんを愛し、2人きりで会って話しすることはとても楽しかったでした。しかしその幸福感は、2人ともそう長くは生きられないのではという暗黙の予感に裏打ちされていました。束の間の幸せは不安を伴なっていました。
ある日病室を見舞った前川さんが、いつもはさわやかなものを感じさせるのに、何か気分が優れないようでした。怪訝(けげん)に思った綾子さんは率直に問いました。
「正さん、あなたはどこかお悪いんじゃないの」
前川さんは淋しい微笑を見せ、
「やっぱり綾ちゃんにはわかるんですかね。心配させるといけないからと思って、父にも母にも言わないんですけど……実はこのごろ、時々血痰(けったん)が出るんです」
堀田さんは自分の顔から血の気がすーっと引いていくのを感じました。血痰が出るとは、明らかに手術の失敗を物語っています。8本もの肋骨を切除してもなお、前川さんの胸の空洞は潰れなかったのです。堀田さんは思わず涙ぐみました。彼が一人その事実に耐えている気持ちが、手に取るようにわかったからです。
綾子さんは直感が当たったので、うろたえました。
その後、前川さんから来る手紙の文字は、かつては流麗だったのに、ぎこちないカタカナに変わり、ついにはひどく乱れた字になりました。そして昭和29年(1954)、綾子さんが32歳のとき、天に召されていきました。綾子さんは自叙伝にその夜のことをこう書き綴っています。
〈――夜も更けて、やっとわたしは前川さんの死を現実として肌に感じ取りました。毎夜9時には、わたしは祈ることにしており、そして必ず前川さんの病気が1日も早く治るようにと、熱い祈りを捧げていました。しかし今夜から、彼の病気の快癒をもう祈ることはないのだと思うと、わたしは声を上げて泣かずにはいられませんでした。
堰(せき)を切った涙は容易に止まりませんでした。ギプスベッドに仰臥したままの姿勢で泣いているので、涙は耳に流れ、耳の後ろの髪を濡らしました。ギプスベッドに縛られているわたしには、身もだえして泣くということすら許されなかったのです。悲しみのあまり、歩き回ることもできませんでした。ただ天井に顔を向けたまま、泣くだけでした〉
綾子さんは再び虚無の中に突き落とされてしまいました。しかしクリスチャンとして、有限な世界を超えた悠久な世界の手ごたえを感じつつあったので、もう底なし沼に落ち込むということはありませんでした。
写真=大自然の夕暮れ
「沈黙の響き その141」
信仰のお手本、西村久蔵社長
神渡良平
堀田綾子さんが札幌医大病院に入院していたとき、洗礼を受けるときも参加して祈ってくださった「洋生の店ニシムラ」の西村久蔵社長が見舞いにやってきました。社長がお見舞い品を渡そうとすると、綾子さんは辞退して言いました。
「わたしは長い療養中の身なので、人様からいつもお見舞いをもらうのを当たり前に思うようになりました。でも人様からものをもらうのに馴れると、人間が卑しくなります。どうぞお見舞いの品はご心配くださらないようにお願いします」
西村社長は大きな声で磊落に笑い、
「ハイハイわかりました。でもねえ綾子さん、あなたは毎日太陽の光を受けるのに、今日はこの角度から受けようとか、あちらの角度から受けようかしらと、しゃちこばって受けますか? そんな生き方って窮屈ですよね」
と軽く受け流されました。ごく自然体の西村社長の対応に綾子さんは自分のしゃちこばった生き方が恥ずかしくなりました。
「ところであなたは札幌に、親戚のように甘えることができる人がいますか?」
「いえ、札幌には誰も知っている人はいません」
「だったらわたしを親戚と思って甘えてください。何でもお世話します」
そして次に見舞いに来たときは、あろうことか綾子さんの痰が入った汚い痰壷を洗ったのです。何十人もの従業員を使って洋菓子やパンを製造し、全道に販売している社長さんとは思えないほど腰の低い人でした。
あるときは奥さまが作られた手料理を鍋に入れて、9丁ほど離れた自宅から運んでこられました。3人部屋に入っているときは3人分、6人部屋のときは6人分が入った鍋でした。その細やかさには驚くばかりです。
独りで肺結核患者の埋葬をやった西村さん
イエスに仕える人は、あああるべきだ、こうあるべきだと能書きを垂れる人ではなく、額に汗して即実践する人で、人知れず行うことをよしとしました。
あるとき、北海道の簾舞結核療養所で命を終えた薄幸の女性がありました。その人の夫も同じ療養所で病にふけっていました。この人には身寄りがなかったのか、あるいは親類縁者揃って結核恐怖症だったのか、葬式を出してくれる人がありませんでした。だから葬式を頼む人がいなくて困っていました。
しかし、風の頼りに西村社長なら引き受けてくれるかもしれないと聞いたので、その情けにすがりました。西村社長は心臓の持病を持っていて、普通の人の4分の1しか働いていません。肉体労働は辛いのですが、依頼を聞いた西村社長は快く引き受けてその亡骸をソリに乗せ、かなりな距離の雪道を1人火葬場まで運んでいって荼毘に伏しました。
西村社長にしてみれば、みんなが恐れる肺結核患者の遺骸の埋葬なので、病気がうつるといけないからと気を遣い、1人で荼毘に伏したのでした。それを聞きつけた従業員や教会の後輩たちが、どうしてわたしたちに手伝えとおっしゃってくださらなかったんですか と、抗議しました。
そのころ、伝染病の肺結核がどれほど恐れられていたかを伝える逸話があります。本州のある地方では、肺結核になった人は山の中に床下の高い小屋を造ってそこに入れ、ふもとから食事を運んで看病していました。なぜ床下の高い小屋かというと、患者が死ぬと、床下に薪を積み、小屋もろとも死骸を焼くためです。肺結核はそれほど恐れられていたのです。だから西村社長は従業員に肺結核患者の葬式を手伝ってほしいとは言えなかったのです。頼めばみんなやってくれたでしょうが、みんなを危険に晒したくなかったので、一人で行ったのでした。
誰よりも身を粉にして働くというのが西村社長の信条でした。親に先立たれた子どもたちを何人も引き取って育てておられました。西村社長のそういう生活を見て、それまでクリスチャンに何となく疑いを抱いていた綾子さんは、考えを改めなければと思いました。
「沈黙の響き その140」
とうとう洗礼を受けた綾子さん
神渡良平
前川さんは自分の足を石で打ち叩いてお詫びした!
ある日、一緒に散歩に行った丘の上で、堀田綾子さんと話をしていた前川さんは真っ正面からただしました。
「綾ちゃんが言うことはよくわかるつもりだ。しかしだからと言って、綾ちゃんの今の生き方がいいとは思えない。今の綾ちゃんの生き方はあまりに惨め過ぎる。自分をもっと大切にする生き方を見いださなきゃ……」
前川さんはそこまで言って声が途切れました。彼は泣いていたのです。大粒の涙がハラハラと彼の目からこぼれました。堀田さんはそれを皮肉な目で眺めながら、わざとあばずれのように煙草に火をつけました。それが前川さんを刺激しました。
「綾ちゃん! だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」
彼は叫ぶように言い、深いため息が彼の口から洩れました。そして何を思ったのか、傍らにあった石を拾い上げると、突然自分の足を続けざまにゴツンゴツンと打ったのです。さすがに驚いた堀田さんが止めようとすると、前川さんは堀田さんの手をしっかりと握りしめて言いました。
「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生き続けてくれるようにと、どんなに激しく祈ってきたかわからない。綾ちゃんが生きるためなら、ぼくの命も要らないと思ったほどだ。けれども信仰が薄いぼくには、あなたを救う力がないことを思い知らされた。だから不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」
堀田さんは言葉もなく、呆然と彼を見つめました。そこまで言われて、石でわれとわが身を打ちつけた前川さんの自分への愛だけは、信じなければならないと思いました。もし信ずることができなければ、それは綾子という人間の本当の終わりのような気がしました。
いつの間にか堀田さんは泣いていました。久しぶりに流す人間らしい涙でした。
(だまされたと思って、わたしはこの人の生きる方向についていってみよう)
堀田さんはそのとき前川さんの愛が、全身を刺し貫くのを感じました。そしてその愛は単なる男と女の愛ではないと知りました。前川さんが求めているのは、堀田さんが強く生きることであって、堀田さんが前川さんの所有物となることではありませんでした。
実は前川さんはそのころ、肺結核を患っている自分の命がもう長くはないことを予感していました。それだけに綾子さんのことをほっておけなかったのです。彼は真剣でした。
自分を責めて、自分の身を石打つ前川さんの姿の背後に、堀田さんはかつて知らなかった光を見たような気がしました。
彼の背後にある不思議な光は何だろう。
それがキリスト教なのではないかと思いながら、堀田さんを女としてではなく、1人の人間として愛してくれた前川さんが信ずるキリストを、自分なりに尋ね求めたいと思いました。ようやく堀田さんの硬い殻が破けたのです。
前川さんの愛に応えて
綾子さんはその後、脊椎カリエスを併発しました。脊椎カリエスとは結核菌が脊椎(背骨)に感染して背骨が破壊されてせむしのように変形し、しびれや痛みに襲われる病気です。だから患者はギプスベッドに固定され、絶対安静にしなければなりません。
綾子さんは前川さんのすすめに従って、洗礼を受けることを決意しました。脊椎カリエスの治療のため、ギプスベッドに移る前の日、寝たままで、昭和27年(1952)、札幌北一条教会の小野村林蔵牧師によって洗礼を受けました。
立ち会ったのは、前川さんが綾子さんに紹介してくれた、札幌駅前に店を構える有名な「洋生(ようなま)の店ニシムラ」の西村久蔵社長でした。西村社長は洗礼式でこう祈りました。
「……どうぞこの堀田綾子姉妹をこの病床において、神のご用にお用いください。また御旨(みむね)にかなわば、1日も早く病床から解き放たれて、神のご用に仕える器としてお用いください……」
それは不思議な祈りでした。
堀田さんは牧師に洗礼の水を額に注いでもらいながら、考えました。
(――病床においても神のご用に用いられるのだと思うと、俄然力が湧くわ。癒やされるにせよ、癒されないにせよ、病床が働き場所であるとすればわたしの生涯は充実したものになると、身が奮えました。キリスト者とはキリストの愛を伝える使命を持つ者であると、固く信じることができました)
まさかその綾子さんがそれからわずか12年後、朝日新聞の懸賞小説に応募した『氷点』が1位となり、処女作が超ベストセラーとなるとは思いもしませんでした。
キリスト教会には行き始めたものの……
前川さんの愛にほだされて、堀田綾子さんはキリスト教会に足を運ぶようになったものの、懐疑的な姿勢が解消されたわけではありませんでした。『道ありき』がそのころの様子を伝えています。
綾子さんは教会に通い始めましたが、クリスチャンそのものに抱いていた、いくぶん侮蔑的な感情を捨てきれたわけではありませんでした。なぜなら、信じるということは、その頃の堀田さんには“お人好しの行為”のように思われたからです。
(あの戦争中に、わたしたち日本人は天皇を神と信じ、神の治めるこの国は不敗だと信じて戦った……。でも、結果はどうだった? 全部、裏切られてしまった。わたしは信じることの恐ろしさを身にしみて感じたわ)
戦争が終わって、キリスト教が盛んになり、猫もしゃくしも教会に行くようになりました。戦争中は、教会に行く信者はまばらだったのに、敗戦になってキリスト教会に人が溢れるようになりました。堀田さんにはそれが軽薄に感じられてなりませんでした。
(戦争が終わってどれほどもたたないというのに、そんなに簡単に再び何かを信ずることができるものだろうか)
世相がどうにも無節操に思われてならなかったのです。そう思って教会に行くので、堀田さんはクリスチャンの祈りにも疑いを持ちました。
綾子さんが予想したとおり、結局キリスト教ははやり病みたいなもので、目新しいものに飛びつくように、教会に行く人は増えたものの、いつしか潮が引くように元の木阿弥になってしまい、閑古鳥が鳴くようになってしまいました。
写真=十字架