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沈黙の響き (その23)

2020.12.5 ウイークリーメッセージ(その23)⑫

(仮)『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』の序文

                            神渡良平

(仮)『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』を脱稿しました。今、ある出版社で検討していただいています。その序文をお送りします。

 

 人はそれぞれ天から授かっている封書があるといいます。私たちは天から〝いのち〟を賜(たまわ)っており、それぞれの〝いのち〟に使命が書き記されている封書が添えられているというのです。この人生をどうまとめ上げて天にお返しするか、誰しもが感じていることであり、生きている限り、このことをくり返し問うているともいえます。

 熊本の一教師徳永康(やす)起(き)先生もこの問題を終生自分に問いかけました。

 徳永先生は出会った教え子たちの心の支えとなる教師でありたいと自分に誓いました。例えば、八代市立太田郷(おおたごう)小学校5、6年生のとき、わずか2か年担任した生徒たちが、中学、高校と進み、社会人になっても交流が続きました。そして小学校卒業後の3年目、10年目と先生の手で文集が作成され、さらに15年目、今度は教え子たちが自分たちの手で、お礼の意味を込めて文集を刊行したのです。

 わずか5百部ほどの文集でしたが、それを読んだ人々、中でも教職にある人々はショックを受けました。教師が教え子たちの魂の成長に傾注したとき、ここまで感化できるのかと、とても考えさせられたのです。

 この文集が出版社の目に留まり、『教え子みな吾が師なり』(徳永康起編 浪速社)として出版されました。これを「国民教育の友」であり、教職者たちに支持者が多い森信三元神戸大学教授が激賞されたことから一気に火がつき、ブームになりました。

 昭和五十四年(一九七九)六月、徳永先生がこの世でのいのちを終え、葬式が営まれたとき、教え子を初め、同志同行の三百名を超す人々が詰めかけ、地元の熊本日日新聞もその逝去を悼(いた)んで報道しました。

 そういう事実を見るにつけ、一人の人間が自分の使命に目覚め、その実現に向けてひたむきに努力をすればどういうことが起きるのか、本書はその忠実な記録です。

 改めて、私たちはそれぞれ偉大な使命をいただいて、地上に送られているのだと痛感します。ここでいう偉大な使命とは、世間的に評価される使命という意味ではなく、その人にしか成就できない使命という意味です。

 この本があなたの人生に少しでも寄与できれば、幸せに存じます。

 令和2年11月吉日


超凡破格の教師といわれ、「康起菩薩」とも称えられた徳永先生


沈黙の響き (その22)

2020.11.28 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その22

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑪

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

≪なぜ、徳永先生は無私の教育に打ち込めたのか?≫

 ここまで書いてくると、みなさんの中に疑問が起こるのではないでしょうか。

「徳永先生はなぜそこまで徹底して、恵まれない児童生徒たちに心を配り、その目線まで降りて抱きしめることができたのだろうか」

 私も当然その疑問を抱き、電話口で徳永先生の教え子に尋ねました。すると彼は1冊の手記を紹介して、こう言いました。

「徳永先生がもっとも尊敬されていた5歳離れた長兄の(むね)()さんが、ご自分の人生をふり返って書かれた『哀歓三十年』(私家版)という手記があります。これをお読みになったら、その疑問が解けるはずです」

 

私はその手記が郵送されてくるのももどかしく、配達されるや否や、早速読み始めました。そして没頭し、その夜は明け方まで読みふけり、なるほどそういうことだったのか! と得心しました。感銘深く読み終わってフーッと深呼吸したとき、書斎の窓の外はいつの間にか明るくなっていました。少し長くなりますが、徳永先生を勇気づけた宗起さんの手記を要約して紹介します。

 

≪ペスタロッチの精神にあこがれて教職者を目指す≫

兄の(むね)()さんが青雲の志を抱いて熊本県立第一師範学校に入学したのは大正11年(1922)のことでした。彼が教師を目指したのは、准教員養成所時代、ペスタロッチの伝記を読んであこがれ、教育こそ男の仕事だと思ったからでした。

ようやく家内制手工業の段階に入った18世紀のヨーロッパは、貧民を恰好な労働力と考え、安い賃金で酷使しました。それを見たぺスタロッチは悪習を止めさせようと、

「貧民は施し物によって救済されるのではありません。彼ら自身が自らを助け自立して、人間らしい生活をしていくのに必要な能力を身につけられるよう援助してやるとき、初めて真に救われることになるのです」

そこには“神の似姿”である人間を育てようというキリスト教的使命感がありました。

「私たちは同胞のうちにある神の似姿に対して、大きな責任を負っています。偉大な人と乞食との違いはどれほどのものだと言うのですか。本質的には違いなど、ほとんどありません」

 そう言って、貧民学校を開設して教育を施しました。ぺスタロッチのそうした実践は何度も挫折し、友人たちは彼が精神病院で生涯を終えることになるのではないかと心配しました。しかし立ち直って学校教育を続け、イヴェルドン市で開設したイヴェルドン学園はだんだん評判を呼び、ペスタロッチ主義の教育を学ぼうと、多くの教師たちが詰めかけるまでになりました。ペスタロッチの教育の成果を聞きつけて、生徒もヨーロッパ中から来るようになり、イギリスやフランスなど、各地にペスタロッチ主義の学校が開設されていきました。

政府の諮問機関はペスタロッチの教育を視察して、「彼の学校では教師は子どもの同輩のよう行動し、むしろ子どもから学んでいるようにさえ見える」と報告しています。(続き)

 



多くの教育者の模範となったペスタロッチ


沈黙の響き (その21)

2020.11.14 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その21

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑩

  超凡破格の教育者・徳永康起先生

神渡良平

 

 

≪「幸薄きわが子に届け!」と母の祈り≫

 T子さんは3歳のとき、生みの母と離別し、父親は水商売上りの女性と再婚しました。

 徳永先生は小学校五年生のT子さんを担任して気になったので、家庭訪問しました。訪ねてみると、これではあんまりだと思わざるを得ない状況でした。T子さんは寂しかったのでしょう、先生に飛び下がり、よく甘えてきました。

 

 一学期が終わろうとするころ、鹿児島から一通の手紙が来ました。開けてみると、T子さんの母親からです。生み落としたわが子を手放さざるを得なかった母の悲しみが綴られ、T子さんがひねくれてはいないだろうかと案じていました。

 追い出される前夜は絶望のあまり目の前が真っ暗になり、わが子を抱いて鉄橋に立ったそうです。しかし、T子の泣き声でわれに返り、後ろ髪を引かれる思いでわが子を手放し、鹿児島に去ったというのです。

 

 徳永先生が大丈夫、しっかり育っていると返事を出すと、先生宛にお金や洋服や学用品が送られてきました。徳永先生は継母に知られないよう用心に用心を重ね、先生がご褒美をあげたことにして、そっとT子さんに渡していました。しかし継母にすぐにばれてしまい、要らぬおせっかいはするなと怒鳴られました。

 

 T子ちゃんが入学するとき、その晴れ姿を一目見たいと鹿児島からやってきて、校門のところに隠れて見ていましたが、後妻に見つかり、人々とT子ちゃんの面前でこずき回し、田んぼに押し倒してののしりました。そのときT子ちゃんは生みの母にしがみついて離れなかったそうですが、後妻に押し返さざるを得ませんでした。

 

 神さまは幼いT子ちゃんに、「生みのお母さんの祈りを忘れてはいけないよ」とささやかれたのでしょうか、T子ちゃんはまっすぐ育ちました。

 それに引き換え、継母はいつも酒を飲み、ふしだらな姿をさらけ出していましたが、涙に濡れた生みの母の顔を忘れることはありませんでした。

 

 中学を卒業してT子さんはあるお店に勤めましたが、継母はわずかな給料を取り上げて酒代にしました。そこに父親が急死したのです。T子さんは途方に暮れ、どうしたらいいかそっと相談に来ました。もっと金にしようと、歓楽街で強制的に働かされるに決まっています。徳永先生は躊躇することなく、鹿児島のお母さんのところに逃げなさいと勧めました。

 

 生みのお母さんはある病院の付添婦として自活していました。T子さんは継母から籍を抜いて生母の籍に入り、2人して生きていく道を探しました。その結果、名古屋に出て、働きました。

 神さまは一生懸命生きる者を見捨てたりはされません。T子さんはさる時計商会で働いている青年と縁談がまとまり、昭和39年(1964)の秋、見事に結婚しました。新居には母を迎えて親孝行するのだと張り切っています。

 徳永先生は黒板の前だけの教師ではなく、人生の伴走者でもありました。どれほど多くの人が助けられ、励まされたかわかりません。

 

 ≪森先生から届いたハガキ≫

 そんなある日、森先生から便りが届きました。

「拝、昨日、家内の35日の忌明けの仏事を務め、今日あなたの『天意』を拝受。例により非常に豊富な内容に、ピチピチした充実感が感じられます。

 あなたがあのまま校長をしておられたら、もちろん現在の校長さんたちの間では、断然群を抜いて業績を上げられているに違いありません。しかし、あなたが今日なすっておられるような独特の光彩(りく)()たる教育活動は絶対に不可能だったでしょう。

 

 私、近頃しみじみと痛感するのですが、『この世の中で両方良いことはない』ということです。そしてこれが本当にわかれば、哲学も宗教もいらぬとも言えましょう。

 一代、学問をし、道を求めて、齢70を超えて到達した真理が、そのような“偉大なる平凡”だったということは、我ながら驚きかつ(あき)れています」

 

 森先生は昭和45年(197010月1日消印のこの手紙で、徳永先生の教育活動を「独特の光彩を陸離と放っている」と述べておられますが、恩師にそこまで評価され、徳永先生は滂沱の涙を禁じ得なかったのではなかろうかと思います。

 

 昭和38年(1963)9月、徳永先生が輸尿管結石で倒れたとき、何と181名もの人々がお見舞いに駆けつけたのも、それだけ深く慕っていたからだといえましょう。(続き)

 

【取材メモ】

 1118日、19日は熊本県八代市に取材に行き、現場の大野小学校、免田小学校それに太田郷小学校などを訪ね、故徳永先生の教え子たちの話を聞きました。精魂込めて尽くした一人の教師の生きざまがこうも教え子たちの心に残り、彼らや彼女たちを奮起させ、それぞれ見事な人生を歩いておられるのを知った時間でした。

太田郷小学校の側を日本三大急流の一つといわれる球磨川が流れていました。遠足でこの球磨川の川原まで歩いて行ったんだという話を聞きながら、私も紅顔の美少年(?)だったころのことを思い出しました。

 


ある年の年賀状は先生の手彫りの絵ハガキでした

 

 


沈黙の響き (その20)

2020.11.14 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その20

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑨

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

 

 ≪親の祈りの心、察知する子どもの心 

 昭和38年(196310、徳永(やす)()先生は詩人のサトウハチローが「おかあさん」の詩集三冊を出版したとき、まったく心を奪われてしまいました。

 

   この世で一番

             サトウハチロー

 この世で一番美しい名前

 それはおかあさん

 この世で一番やさしい心

 それはおかあさん

 おかあさん

 おかあさん

 悲しく愉しく、また愉しく

 なんどもくりかえす

 ああ、おかあさん

 

その翌年、先生自身が78八歳の母親キカさんを亡くしたので、この詩が余計心に響いたのかもしれません。先生自身、55歳になった誕生日に、お母さんのことをこう書きました。

 

昭和47年7月3日、今日は私の誕生日です。

私はあなたの写真を拝みました。私が生まれる前の、若々しくて美しい写真です。

そしていつも思っていることを申しました。

あなたより早く亡くならなかったことが、ただ一つの親孝行でした、と。

 

(3年前の)あの大病から助かって、いま誕生日を迎えました。

母よ、あなたは私に命と心をくださいました。

愚かな私はまだそれを燃やしておりませぬ。私はいつも申しわけないと思っています。

 

亡くなられたあの夜、昭和3912月3日、

神仏のみ心か、私一人枕辺に侍していたら、またしても、

「人さまから後ろ指を指されたことのない家柄である」

「先祖さまの名を汚してはならぬ」

(さと)されました。子どものときから、母の教えはこの2つだけ。

これは大変なことだと、子ども心にシャンとなりましたっけ。

それが最後の教えとなりました。

夜が深々と更けるころ、静かな、静かな永遠の眠りにつかれました。

 

今日は私の誕生日です。

母のくり返し、くり返しの教えを静かに想いながら、

私の誕生日の感激を、世界一のあなたに捧げます。

ヒトサマにウシロユビを指されないように生きます。

 

 徳永先生はいつも子どもたちに、私たちが授かっている〝いのち〟は父母から受け渡されているものだから、あだやおろそかにしてはならないと語っていました。

 

≪もっとも多感な女生徒を襲った悲しい出来事≫

徳永先生の教職の最後は八代市の第二中学校で、教頭を務めながら、2年生に国語を教えました。そこで生徒たちにサトウハチローの詩を五十篇選び出し、謄写版印刷をして配りました。ところがある日曜日、1人の女生徒が訪ねてきました。そして最近起きた話をし、「先生、私はどうしたらいいんですか」と言って泣きだしました。

 彼女の父は母とその子を残して家を出てしまいました。そして今度はその母が3年前、祖父母とその子を置き去りにして家を出て、再婚してしまいました。しかも住んでいるところは近くで、赤ちゃんも生まれているというのです。

先生が配ったサトウハチローの詩が、逆に押さえに押さえていた悲しみを噴火させてしまったのです。先生も唖然としてしまい、どう答えていいかわかりませんでした。

 

 それからその子は足繁く、先生の家に遊びに来るようになりました。そしてサトウハチローの詩「この世で一番」を筆で書いてほしいとおねだりしました。いろいろあったとしても、その子にとって母は一番だったのです。

「そうか。負けるなよ。がんばっていい子になれよ」

 そう言って、先生も泣きながら詩を清書しました。その子はお母さんの思い出を抱きしめるかのように、「この世の中で一番」の詩を持って帰りました。悲しい家庭環境ではありましたが、ひねくれることなく、健気に中学生活が過ぎていきました。

 

「なあ、何があったとしても、人のせいにするのではなく、受けて立とうよな。自分を育てる者は、自分だからな。先生は、坂村(しん)(みん)さんの『リンリン』という詩が好きだよ。どんなことがあっても、リンとしろと自分に言い聞かすんだ」

 そう言って、「リンリン」を暗誦しました。

 

  リンリン

燐火のように

リンリンと

燃えていなければならない

鈴虫のように

リンリンと

訴えていなければならない

禅僧のように

リンリンと

鍛えていなければならない

梅花のように

リンリンと

冴えていなければならない

 

 その子もこの詩がすっかり好きになって、暗誦してしまいました。

 

それから2年後、中学を卒業し、高校に進学するとき、奇跡が起きました。

「先生! 母が……、母が、高校の入学式に来てくれました。何ということでしょう。ただただ感謝するばかりです」

 神さまがこの母と娘の心を温かく結んでくださったのです。

 親の祈りの心と、それを察知する子どもの心ががっちり結び合い、親は癒やされ、子どもは元気に成長していきました。(続く)

 


私たちを癒してくれる子どもの笑顔 

 


徳永先生と教え子たちの強い絆を描いた卒業生の文集『ごぼく』

沈黙の響き (その19)

2020.11.7 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その19

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑧

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

≪「元祖複写はがき」と呼ばれて≫

森先生はあるとき徳永先生に「複写はがき」を書くように勧められました。複写はがきとはカーボン紙を使って複写式でハガキを書くことで、書いた内容が手元にストックされる仕組みです。

でも夜は校務や父兄の相談や添削があって、なかなか書く時間がありません。そこで早朝3時に起きて書くことにしました。一枚たりともなおざりなはがきにしたくなく、宛名は必ず筆で書きました。複写はがきを書くことが登校前の日課になり、13年間で460冊、約2万3千通となりました。

 

毎日分厚いはがきの束を配達する郵便局員が、

「これだけに返事を出すだけでも、はがき代が大変でしょう」

とねぎらうと、

「いえいえ、これらの手紙を配達してくださっているから、とても助かります」

 と逆にねぎらわれて、恐縮したそうです。現在では全国各地で「はがき祭り」が行われるようになり、複写はがきの「元祖」と呼ばれています。

 

≪『教え子みな吾が師なり』が刊行される≫

 徳永先生は太田郷小学校ごぼく会の生徒たちの中学卒業記念に、ガリ版刷りのB5版縦型の手作り冊子『ごぼく2』を、さらに中学卒業10年記念に『ごぼく3』を出して、みんなを激励されました。また同級生の一人が不慮の死で亡くなったときは、みんなの文章を集めて追悼号を出されています。3号まではまったく先生の努力によります。

 

大阪で森信三先生を迎えて大阪ごぼく会を行った際、実践人の会員で尼崎市の前川守先生のすすめもあって、今度は卒業生たち自身の手によって、369ページにも及ぶ小学校卒業15周年記念号『ごぼく4』が作られました。そこには徳永先生がいつも生徒たちに語っていた言葉が綴られていました。

「この広い世界に“自分”は一人しかいない。そして自分を育てるのは自分である」

その編集を担当した、当時大阪に在住していた植山洋一さんは「徳永先生と五木会」と題してこう書いています。

 

「人生につまずきかけたり、家庭の不孝など、悩み困っている者があると、徳永先生はすぐさま来て慰め励まし、本人がその不幸や苦しみから立ち直るまで、真剣に話してくださいました」

徳永先生と卒業生たちのいのちの響き合いを描いたこの冊子は教育者の間でたいへん評判となり、例えば大阪府堺市の辻屋弥三郎先生はこう書いています。

「教え子を師とし、教え子に詫びるなど、切々たる情がほとばしり出ており、今の日本の教育界に光るただ一つの星のような気がします。本当に頭がさがります」

 

 ≪教育は教師のいのちと生徒のいのちの共鳴だ≫

同じ熊本県菊池郡の工藤誠一先生はお礼の手紙にこう書かれました。

「ぴたりと引き付けられたのは柴藤清次さんの一節で、息もつかぬほど、一気に読みました。“名もなき民”のまごころの交流が流露しておりました。特別な優等生でもなさそうな、それも30に足らないぐらいの人たちがよくもすらすらと書けるものだと驚いています。日記をつけるなど、小さな努力の積み重ねがこうなったのでしょうか」

そして奥さんのつぶやくような感想を書き添えておられます。

「偉い人やな――徳永先生は。こんな人がこの日本におられるのかな――。信じられないくらい。小学校時代、わずか1、2年間担任されたぐらいで、こうもかわるものだろうか」

 

 そして尼崎市の前川守先生は20部注文して、植山洋一さんにこう書かれました。

「日本の教師の中で誰がこの喜びを味わい得たでしょう。多少の師弟のつながりはあっても、五木(ごぼく)の会員と徳永先生との固い絆で結ばれているものは、よもや他にはないのではないかとさえ思われるのです」

 

 あるいは東京都の()(へい)(かず)(つぐ)先生は徳永先生にこう書かれました。

「昨夜、『ごぼく』を味読し、一種の亢奮(こうふん)からでしょうか眠れず、午前2時ごろまで読みました。教育者というものは、ここまでくれば、地位とか、世間的名誉とか、物的財産とか――そんなものは、はるか断崖の下の方に眺められることになりますね」

 

だから500部刷ったのにまたたくまに無くなってしまいました。森先生は『ごぼく4』を激賞し、こう述べました。

「最後にごぼく会会員の方々にお願いしたいことは、どうぞ諸君たちの力によって、この“悲劇の大教育者”たる徳永康起先生の真の偉大さを、あなた方の“生”ある限り、広く世の人々に述べ伝えて頂きたいということである。かくしてのみ氏の今日までたどられた“悲劇”の道も、やがて“天意”によって導かれた“栄光の道”だったということになるであろう」

 

そしてこの「幻の書」をこのままにしておくのは惜しいと、いろいろな出版社に再出版を持ちかけました。その熱意に応えて浪速社が新たに徳永先生の文章を加えて、『教え子みな吾が師なり』として刊行し、日本の教育史に輝く異色の実践記録となりました。

 

ここで森先生が徳永先生を“悲劇の大教育者”と呼んでいるのは、折角、一大決心して平教師になったのに、三年半で教頭職にもどされてしまい、児童生徒と直接心の通いあう教育の場を断たれてしまったからです。徳永先生としては不本意でしたが、従わざるを得なかったので、それで“悲劇”と言われたのです。

 

≪「幻の書」が『教え子みな吾が師なり』として新装再出版される≫

鳥取県の校長で、森門下生の三傑の一人と目される小椋(おぐら)(まさ)()先生は、徳永先生と同じ明治45年(1912)生まれで、おい、お前と呼び合う非常に気心の通じた同志です。小椋先生は早速、個人誌『ませんろく』に『教え子みな吾が師なり』を次のように紹介されました。

「この書は『教え子を師』と考えるべきであるという理念を述べたものではなく、また『教え子を師』と思うべきであるという信念を述べたものでもない。徳永がその生涯を振りかえって、そういう感慨を吐露せざるを得なかった事実を羅列したものである。

 

『教え子みな吾が師なり』など教員のよく使うセリフで、キザであるが、こと徳永に関する限り私は一言の反揆もない。彼は思わせぶりな気のきいたシャレた言い方のできるほど器用な男ではない。彼はこの場合、こういうより外になかったのである。

 

もともとこの書は世間に売り広げるために作られたものではなく、彼が担任していた生徒たちが、小学校を卒業して15年を経た今日、師と共に過ごした子どもの頃をなつかしんで、その思い出をまとめて師に捧げたものである。

 

言わば、徳永という一個の肥後もっこすが、世間的な名声も校長の椅子もなげすてて、一途に子どもの中にとけこんだ生涯に対するたったひとつの最高最大の贈り物である。そのおすそわけを我等凡庸の教員が頂くわけである」                            

これは同じ教職にある者が捧げた最高の賛辞ではないでしょうか。(続く)

 徳永先生と教え子たちの強い絆を描いた卒業生の文集『ごぼく』徳永先生と教え子たちの強い絆を描いた卒業生の文集『ごぼく』


沈黙の響き (その18)

2020.10.31 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その18

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑦

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

 ≪家出した田所君≫

 どんなにがんばっていても、人生はときに一筋縄ではいかないことが起きるものです。みんなに好かれて、うまくいっていたように見えても、どこかで掛け違いが生じてしまうと、ガタガタと崩れて、にっちもさっちもいかなくなったりします。

 田所君(仮名)の場合もそうでした。無事に学校を卒業し、ちゃんとした会社に就職でき、万端うまくいっているように見えたのですが、ある疑問にぶつかったことから、あらゆるものから逃避したくなり、仕事を投げだして突然家を出奔してしまいました。八方手を尽くして探しましたが、ようとしてわかりません。諦めかけていたとき、大分から親に手紙がありました。

「先生、あの子の居所が見つかりました。別府に行っていました」

 それで両親や徳永先生がいっしょになって、別府駅まで出迎えに行きました。

「お前なあ、随分探したんぞ! 何事もなくて、元気でよかったなあ」

 そう言って、泣きじゃくる田所君を抱きしめたとき、徳永先生はこみあげてくるものを押さえることができませんでした。

 教え子が路頭に迷い、助けを求めているとき、思い出してくれる教師。

 ああ、教師は聖職でなくて何ぞや――。

 徳永先生は改めて子どもたちの“助け手”でありたいと思いました。

 

≪突然襲った次男の死!≫

「コウヤシス シキュウコラレタシ タクオ」

 昭和昭和38年(1963)4月25日、横浜にいる長男の拓夫さんから突然電報が入りました。信じられない電報でした。取るものも取り上げず、夜行列車「さくらじま」に飛び乗って八代を発ち、息子の勤務地の静岡県富士市に向かいました。夜行列車で一睡もできず、あれやこれや思い惑っていた徳永先生を駅で出迎えた拓夫さんは、抱きかかるようにして、紘也さんの遺体が安置されている会社の寮に向かいました。

 

いろいろ聞いてみると、紘也さんは同僚が病気で夜勤に行けないというので代わりに行こうと、夜の9時過ぎ、自転車に乗って出かけました。ところが車輪が石に乗り上げてしまってバランスを崩し、猛烈な勢いで橋のコンクリート部分にぶつかって顔を痛打し、暗渠(あんきょ)に落ちて急死したのだといいます。

 

 志を達しないまま、冷たくなってしまった紘也さんに対面していると、今まで経験したこともない思いが湧きおこり、ああ、死んだんだ! という思いが体の中を吹き抜けていきます。悲しんでも悲しんでも悲哀は消えるものではありません。悲嘆に暮れた徳永先生は、

「ああ、森先生ならばこんなとき、どうなさるのだろうか」

 と恩師のことを偲びました。

 

徳永先生はこの苦しかった時期のことを手次のように書いておられます。

「私が苦しんでいる者の心が少しはわかりだし、学歴はなくても誠実に生きている人の偉さがわかりかけ、そして自分に与えられた天地に安らぎを覚え始めたのは、山また山の昭和38年の出来事があったからでした」

 

 徳永先生の深い悲しみは先生を人生の深奥へと導いていきました。

「次男の死は私の“生”に対する考えを根本的に変えました。そしてこの悲しみを何によって埋めようかと考えました。すると不思議に親のない子が頼ってくるようになりました。また学校では陽の当たらない子たちを抱きかかえようと思いました。それらの子どもが育つのがわが子への供養だと考えられるようになりました」

 

 紘也さんは大田郷小学校で教えたごぼくの子どもたちと同じ年でした。たくましく成長していくごぼくの子らを見るとき、

(ああ、紘也が生きていたら……)

 と連想しないことはなかったのです。悲しみを通さなければ、ものごとは見えてこないといいますが、それは徳永先生の場合も真理でした。辛く悲しい出来事も先生の魂を深化させ、よりいっそう多くの教え子たちと分かち合えるようにしていきました。

 その悲しみを追うように半年後の9月、今度は徳永先生自身の下腹部が異常な痛みに襲われ、転げまわって苦しみました。診察の結果は輸尿管結石。即手術。一命は取り留めたものの2ヵ月間、入院しなければなりませんでした。そのことを通して、いかに生命がはないものであるか、誰も明日のいのちは保証できないと痛感しました。森先生は常々、

「年々死を自覚してこそ、生は充実する」

と言われていましたが、そのことの意味合いをはっきり知りました。

 

 ≪君看よ、双眼の色≫

 相田みつをさんが「(うれい)」と名づけた詩にこう書いています。

 

  むかしの人の詩にありました

  君()よ、双眼の色

  語らざれば、憂い無きに似たり

  憂い……が無いのではありません

  悲しみ……が無いのでもありません

 語らない、だけなんです

  語れないほど、深い憂い――だからです

  語れないほど、重い悲しみ――だからです

  (中略)

  文字にも、ことばにも到底表せない

  深い憂い――を

  重い悲しみ――を

  心の底深く、ずっしり沈めて

  じっと黙っているから

  (まなこ)が澄んでくるのです

  (後略)

  君看よ、双眼の色

  語らざれば、憂い無きに似たり

 

 喜びも悲しみもその人を深化させるもののようです。(続く)

次男紘也さんの墓
次男紘也さんの墓


沈黙の響き (その17)

2020.10.24 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その17)

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑥             

  超凡破格の教育者・徳永康起(やすき)先生

神渡良平

 

 ≪同級生を送り出す≫

11月8日、ある女子は日記にこう書きました。

「昼の掃除が終わってから、大阪に転校する井村さんを送って、徳永先生といっしょに女子は八代駅まで見送りに行きました。男子は途中の踏み切りで見送ることになっていました。

駅まで行くと、井村さんが泣きだしてしまいました。いよいよ汽車が出発する時間になり、みんな泣いています。気丈な入口さんまで泣いています。私は、今泣いては井村さんを余計に悲しませることになると思い、ぐっとこらえていました。井村さんとの別れは私にとっても辛かった。汽車が発車すると、井村さんは泣きながら手を振りました」

徳永先生は井村さんが卒業を目前にして転校しなければならない事情を知っていたのでしょう。その日記にこうコメントを書きました。

「井村さんもこれから先、苦労するだろう。苦しまねば光らぬ――お互い人間です」

 苦しむことが問題じゃない。それを乗り越えてこそ光るのだ――そんな覚悟が伝わってくるコメントでした。やさしいだけじゃなく、現実に負けないだけ強くなければならない。

 

森先生の言葉は折につけて徳永先生の心を引き締めました。

「真の教育者は、一眼はつねに民族の行く手を展望しつつ、他の一眼は、自己の眼前に居並ぶいとけなき子らの魂への浸透に向けなければなるまい」

 師の的確な言葉は徳永先生をますます思いやりの深い、しかし強い教師に仕立て上げていきました。

 

 ≪卒業生たちの心の支えになった恩師≫

 徳永先生の事績で特筆することがあります。先生が担任したクラスが進級したり卒業すると、そのまま「サヨナラ」するのではなく、生徒たちは自ずからグループとなり、相互に励まし、助け合うようになりました。前に紹介した免田小学校の卒業生は「免田十年会」を作りました。というのは、先生が「この十年」ということを強調していたからです。

 

「人生には十年ごとに節がある。卒業後の最初の十年間を大切にすることで、学歴を超えることができるんだ」

 そして10年目、教え子のほとんどが社会人となったころ、彼らに先生のガリ版で刷った手作りの文集が届きました。その文集は「先生がいつまでも覚えておいてくださっている!」と、どれほどみんなを励ましたかわかりません。

 

八代市の太田郷小学校で5年生、6年生と2年間担任してもらった生徒たちも「ごぼく会」を作りました。これは5年5組、6年5組、そして1955年卒業と「5」という数字に縁があるので、卒業記念には5本の木を寄贈して植えたことにちなんだ名前です。そして卒業するとき、徳永先生は自らガリ版の原紙を切って、卒業生たちの記念文集『ごぼく1号』を作りました。

 

労をいとわず、鉄筆でガリ版を切って、謄写版印刷をして、ホッチキスで止め、一人ひとりに手渡されました。だから先生の右手の中指には鉄筆だこができていました。生徒たちが感激しないはずはありません。生徒たちは人のために苦労することを、先生を通して学んだのです。徳永先生がいつしか「鉄筆の聖者」と呼ばれるようになったのは、そういう努力を陰ながらされていたからです。

 

 ≪祝電「ニュウガクオメデトウ」≫

卒業生の一人、長瀬孝子(旧姓西村)さんが中学校に入学したとき、先生から一通の祝電が届きました。そのときの驚きと喜びを長瀬さんはこう書いています。

「太田郷小学校を卒業し、それぞれ一中、二中、五中、白百合中学と分かれ、私はただ一人、五中に入学しましたが、見知らぬ先生と生徒ばかりで、心細さでいっぱいでした。そんなとき、先生から『ニュウガクオメデトウ』と祝電が来ました。高校か大学の入学ならともかく、たかが中学入学に際して、それもできの悪い教え子に対してです。先生が、私たちが卒業したあとも心にかけてくださっていると知ったとき、うれしさのあまり、胸に熱いものがこみ上げてきました」

 

 徳永先生は、長瀬さんが実母と生別し、継母のもとで生活するようになって、あるいは愛情に飢えているかもしれないと思い、乾ききった心に一滴の水を注ぐことができればと祝電を打ったのでした。

 母という存在は人間にとって特別な存在です。徳永先生にとってもそうでした。師範学校を卒業して教職につく先生を、「人さまのお子を大切にするように」と言って送り出してくれました。それが徳永先生の「心願」となりました。(続く)

5年5組の卒業記念の植樹


沈黙の響き (その16)

2020.10.17 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その16

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑤

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

 ≪便所磨きは徳永学級の得意技≫

 徳永先生は教職についてから15年目、36歳の若さで校長に抜擢されました。2つの学校で約5年間校長を勤めましたが、行政的な用事が多くて困りました。そこでもっと直接子どもたちに接して学び合い、共に成長したいと考え、“一教員”への降格を願い出ました。前代未聞のことで、県の教育委員会は困りました。

 

それでも先生の希望が受け入れられ、太田郷小学校に赴任しました。徳永先生にとって太田郷小学校は一平教員に戻って本物の人間教育をしようとした最初の学校だったので、思いがこもりました。

 

八代市の(おお)()(ごう)小学校は2千人に近い生徒数の大規模校です。5年5組の徳永先生の学級は便所掃除を受け持ちました。先生の学級では“便所当番”とは言わずに“便所磨き”と呼びました。先生もいっしょになって便器を磨きました。

 

校庭の片隅に八角便所と呼ばれていている便所があり、とても汚れていました。徳永先生の発案で、みんなで掃除することになりました。みんなはいつもより早く登校し、瓦の欠片(かけら)で壁や床のしつこい汚れをそぎ落とし、数日後にはピカピカになりました。

あるとき便所に行くと、とてつもなく大きな(ふん)がしてあり、便器にかかって汚れていました。

「こりゃほんまに人間がしたんかな!」

 と、先生もみんなも驚き、大笑いして糞を洗い落としてきれいにしました。こうしてみんなにとって便所は汚いところではなく、ピカピカに磨き上げるところになり、だんだん5組が誇りとするようになりました。

 

 ≪犬を飼っていた徳永学級≫

 徳永先生が担任をしている5年5組は毎日日記を付けて、朝提出しています。その中に井村知子さんが学級で飼っている子犬のゴロ(五郎)のことを書いています。

「五の五には犬が一匹います。名前はゴロでとてもかわいらしいのです。ろうかをふいていると後ろから走ってきます。女子も男子も宝物のようにかわいがっています。明日も犬がいると思うととても楽しみです」

 

 ゴロは日本犬の雑種で、まだ生後3、4か月の子犬です。校庭に迷い込んできたので、みんなで育てようということになりました。ゴロの首輪に誰かが、「ぼくは50人の一人です」と書いていたので、徳永先生は吹き出してしまいました。徳永先生は、「動物をかわいがる子どもの気持ちを妨げてはならないし、子犬を通じて子どもたちのものの見方も向上するのでは」と思い、飼うことを許しました。休み時間になるとみんなで汗だくだくになって運動場を走らせ、食事は給食のミルクやパンを与えました。それに自宅からみんながご馳走を持ってくるので、余り過ぎるくらいです。

 

徳永先生は破顔して喜びました。

「ゴロが来てから、50人の気持ちが一つに固く結ばれた。みんな明るく、喧嘩はなくなったし、何よりも気持ちが和やかになって、素直さが増したよ」

 そしていつしか“クラスの歌”が生まれ、

「♪5年5組は、いつでも、どこでも、みんなの心が輪をつくる……」

 と歌いました。このユニークな「愛犬学級」のことを聞きつけて、を朝日新聞が取材に来て、新聞に載りました。こうしてゴロは学校中の人気者になりました。

 

 ≪パイロットになった教え子≫

徳永先生の教え子に、父親が無く、母親の手一つで育った植山洋一君がいました。ひねくれて育ってもおかしくない環境でしたが、

「たとえ父親が無かったとしても、この子を一人前の立派な人間にしなければならない」

という母親の祈りに支えられて、曲がることなく立派に育ちました。人をお世話することに少しも労を惜しまない植山君は言います。

 

「私には学歴も何もありませんが、ただ一つ、宝の母があります。私を育てるために、母はどんなに苦労したかわかりません。私は母に連れられて、足手まといになりながら、母と一緒に雑貨を売り歩いたこともありました。母は昼間、雑貨を売り歩き、夜は針仕事をしていました。

 

でもだんだん目が悪くなってきたので、私が母の手を引いて雑貨を売り歩きました。母は乏しい収入の中から工面して、半月ほど私を幼稚園にやってもらったことが、今でも忘れられません。小学校に上がると、目の悪い母のために、20本ぐらいの針に糸を通して学校に行きました」

 

そんな植山君に徳永先生の言葉は身に沁みました。

(みょう)()の芽が出るころ、私は決まって母のことを思います。祈ることだけ知って、その他のことは知らなかった母でした。だから母の最後の写真一葉は肌身離さず持っています」

 植山君自身がそうだったからです。

植山君は母に学資の迷惑をかけないで自分で自分の道を切り拓こうと、中学を卒業すると陸上自衛隊に入り、後に輸送ヘリの操縦士となって、普賢岳災害、阪神淡路大震災などの復興にも従事しました。そして忙しい隊務のかたわら、クラス会の小学校卒業15周年記念文集の編集を引き受け、大阪在住の教え子5人で見事にやり遂げました。

 

森先生の言葉は折につけて徳永先生の心を引き締めました。

「真の教育者は、一眼はつねに民族の行く手を展望しつつ、他の一眼は、自己の眼前に居並ぶいとけなき子らの魂への浸透に向けなければなるまい」

 師の的確な言葉は徳永先生をますます思いやりの深い教師に仕立て上げていきました。先生を囲む卒業生たちの集まりは、太田郷ごぼく会、免田十年会、伊牟田大木会、大阪ごぼく会、ごぼく八代会、阿蘇ごぼく会と増えていきました。植山さんは卒業後66年になる現在も、クラス会の事務局として会の連絡をとっています。(続く)

 

上自衛隊の大型ヘリの前で沖縄・石垣島の子どもたちと写った植山洋一さん上自衛隊の大型ヘリの前で沖縄・石垣島の子どもたちと写った植山洋一さ


沈黙の響き (その15)

2020.10.10 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その15

「教育はいのちといのちの呼応です!」④

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

≪病床に残された日記≫

 徳永先生は山の分教場の次に、(めん)()村(現あさぎり町)の免田小学校に3年間勤めました。この教え子たちは、卒業後10年間たとい血の涙を流しても頑張ろうと約束し、「免田十年会」が結成されました。

 

その中に田中保という生徒がいました。田中君は母子家庭で、卒業後、家の働き手として生活を支えるようになった矢先、病のために亡くなってしまいました。田中君は死の二日前、昏睡状態に陥りました。徳永先生が駆けつけると、突然目を開けて先生を凝視し、半身を起こして、「先生、せんせーい!」と言って抱きつきました。そして夢や幻でないことを確認するように、先生の腕や肩をいとおしそうに撫でさすりました。でも、田中君は看病の甲斐なく、静かに息を引き取りました。

 

彼の病床から「徳永先生手跡」と書いたノートが見つかりました。これは彼の日記の後に、徳永先生が赤ペンでコメントを書いていたものを切り抜き、日時やどんな時にという解説が付け加えてありました。

 

徳永先生は生徒との一対一の呼応は日記以外にないと思い、生徒が朝提出した日記の末尾に、赤ペンで丹念に感想を書いていたのです。それを田中君は大事にして、病床の枕元に置いていたのでした。このことから、徳永先生は日記の末尾に付けるコメントも、あだやおろそかに書いてはならないと思い、いっそう丹念に書くようになりました。

 

「あの声、あの目の輝き、あの握力は忘れることができません」

と徳永先生は涙を隠しません。田中君はかけがえのない絆とはどういうものか、身をもって教えてくれたのでした。

 

≪生徒たちの日記に書き添えられた先生の感想≫

田中君も書いていたように、徳永先生は生徒一人ひとりの日記に赤いインクで丹念に感想を書きました。徳永先生は日記ほど、生徒一人ひとりのいのちと呼応し合うものはないと思っていたからです。生徒たちはその感想を読むのが楽しみで、心を込めて書きました。

通信簿は単に5段階の評価付けをするだけではなく、観察指導内容を詳細に示すためにページを張り足して長所をほめ、努力すべき方向性を示されました。だから生徒たちは通信簿のコメント欄を読むのが楽しみでした。例えば太田郷小学校の横田忠道君の通信簿にはこういう観察が書き添えてありました。

 

「今までの日記に、先生が赤いインクで書いたものを読んでごらん。先生が君の進み方をどんなに楽しみにしているか、よくわかると思う。体がとても強くなったね。これで一安心だ。どもりが近ごろ少しも聞かれなくなったよ。心が落ち着いてきた証拠だね。君の伸びを楽しんでいる」

こんなコメントを読んだら、誰でも自分は大切にされていると思うでしょう。「一人ひとりに対応する」――これが徳永先生の姿勢でした。

 

≪石牟礼道子さんとの出会い≫

 昭和20年(1945)、()(しき)小学校に赴任した徳永先生は生徒たちを教えるかたわら、村内の実照寺に開設されていた代用教員錬成所でも授業しました。そこで(いし)牟礼(むれ)道子さん(旧姓吉田)に会いました。

 

悩み多き女学生だった石牟礼さんは戦争のこと、国家のこと、人生のことを問いかけ、その悩みに徳永先生は真摯に向き合ってくれ、2人の間を手紙が何度も往復しました。石牟礼さんはまだ16歳でしたが、とても非凡なものを感じました。石牟礼さんが戦争孤児を引き取って育てた話を聞いて、徳永先生はそれを文章にまとめるよう薦めました。そして書き上がったのが石牟礼さんの初めての習作『タデ子の記』です。

 

昭和44年(1969)1月、石牟礼さんは『苦海浄土――わが水俣病』(講談社)を、方言を駆使して書き、鎮魂の文学として絶賛され、第一回大宅(おおや)壮一(そういち)ノンフィクション賞を与えられましたが辞退しました。副賞に2千ドルの賞金と飛行機による世界一周の恩典が与えられているのに、水俣病患者の救済の目途が立たない限り、賞を受けるわけにはいかないというのです。いかにも肥後もっこすらしい理由です。

その翌年、徳永先生は『タデ子の記』をガリ版で刷って石牟礼さんに贈呈しました。石牟礼さんはこの習作が突然、25年ぶりに出現したことに驚き、早速先生に電話しました。

「あれは私がきちんとした文章で書いた最初の物語です。原稿を保存していてくださっていてありがとうございます」

 

そして『不知火(しらぬい)おとめ』(藤原書店)に徳永先生へ宛てた若いころの手紙11通を載せ、師の愛に感謝しました。また「幻の処女作」は『石牟礼道子全集』(藤原書店)にも収録されました。また昭和43年(1973)にはアジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受賞しました。(続く)

徳永先生が出された年賀状徳永先生が出された年賀状