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沈黙の響き (その13)

2020.9.26 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その13)

「教育はいのちといのちの呼応です!」②

  超凡破格の教育者・徳永康(やす)起(き)先生

神渡良平

 不良少年を引き取って自立させた柴藤さん

 柴藤清次さんは結婚して家庭を持ちました。警察も持て余していた4人の不良少年を自宅に引き取り、それぞれに自動車免許を取らせ、就職するまで8年間世話しました。また昭和39年(1964)には、捨てられていた女の子を養女として迎えました。だから奥さんと、小学校3年になる息子と小学校1年の養女の4人で暮らしました(昭和40年時点)。

 なぜ柴藤さんがそこまで他人の面倒を見るのかというと、理由があります。柴藤さんはそれをこう説明します。

「私が“炭焼きの子!”と馬鹿にされ、すっかりひねくれていたとき、担任の徳永先生が私を宿直室に連れて帰り、抱いて寝てくれました。それで私のひがみ根性が消えてなくなりました。今その恩返しをしているんです」

 そんな柴藤さんの善行を伊万里市の青少年問題協議会が知るところとなり、昭和39年(1964)12月22日、同協議会から表彰されました。それがきっかけで、朝日新聞熊本版の「読者のひろば」に、恩師を探している柴藤さんの投書が載りました。

「昭和7、8年ごろ、熊本県球磨郡の下槻木分校でお世話になった徳永康起先生を探しています。一生忘れることのできない先生です」

 32年ぶりに宝の子と再会!

 さすがに新聞の威力はすごく、徳永先生は柴藤さんが探していることを知り、すぐさま手紙を出しました。徳永先生はその後、八代市に移り住んで、竜峰小学校の教頭をしていたのです。柴藤さんは正月3日、クルマを走らせて徳永先生を訪ね、32年ぶりの対面を果たしました。そして伊万里市青少年問題協議会から贈られた記念の花瓶を贈呈し、

「私の精神を叩き直してくださったお礼です」

 と感謝しました。教え子から記念の花瓶を送られて、徳永先生は恐縮しました。

「この花瓶はもったいなくてもらえません。でも、柴藤君が大臣になった以上に嬉しい。教師としてこれ以上の喜びはありません」

 教え子から32年経ってもなお慕われる教師――。そこには先生と教え子の間に、いのちといのちの呼応があったからでした。

 お昼の弁当を抜いて生徒と過ごす

 徳永先生は貧しくて恵まれない家庭の生徒には、特に心を砕かれました。たとえば進級するとき、生徒は講堂に並んで新学年の教科書を購入します。しかし、生活保護の家庭の子は無償配布になっていて、担任の先生が教室で渡します。ところが無償で受領する生徒は引け目を感じます。自分が生活保護家庭の子だとみんなにわかってしまうからです。

 徳永先生はそのことに気を遣い、生徒たちが教室にいない間に、こっそりと机の中に入れて渡されました。

 昼休みの弁当の時間はみんなが待ちに待った時間です。ある意味ではもっとも楽しい時間です。ところが生徒の中には、そっと教室を抜け出し、校庭で遊んでいます。家が貧しくて弁当を持ってくることができない生徒たちです。

 それに気づいた徳永先生は心を痛め、自分も弁当を止めて、校庭で子どもたちと一緒の時間を過ごされました。だから弁当を持ってこれない生徒たちは、先生は自分たちのことをわかってくださっているとますます慕いました。

 徳永先生は柴藤さんについてこう語っておられます。

「もしも私が柴藤君と同じ境遇に置かれたとしたら、果たしてこのように生き得たであろうかと思うとき、完全に負けです。そこに思いをいたすとき、おのずと『教え子、みな吾が師なり』と合掌せざるを得ないのです。

私のたった一つの誇りは、私よりはるかに高く、かつ深く生きている教え子の名前を、即座にすらすらと、何人でも息もつかずに言えることです。そしてそれ以外には何一つ取り柄のない人間です。ありがたきかな。無一物にして、しかも無尽蔵!」

 徳永先生はいつもニコニコ笑っていて、どこまでも謙虚な先生でした。(続く)


沈黙の響き (その12)

2020.9.19 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その12

「教育はいのちといのちの呼応です!」①

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

 平成8年(1996)、教職にある人々が集う実践人の家の寺田一清(いっせい)常務理事(当時)が主宰者の森(のぶ)(ぞう)先生の大著『()(じん)叢書(そうしょ)』(全五巻)の編集に取り組み、一年以上も格闘していたとき、人々から“国民教育の父”と尊敬されている森(のぶ)(ぞう)先生が寺田さんに尋ねました。

「わが実践人の同志の中で、最も宗教的な方はどなただと思いますか?」

 寺田常務は迷うことなく即座に答えました。

「熊本の徳永康起先生でしょう。あの先生ほど、教え子たちに慕われている先生はありません。徳永先生が発行されている個人誌『天意』をひもとくとき、教え子たちとの魂の響き合いに感心し、地下水的真人の顕彰に終始しておられ、その一貫し徹底した奉謝行には、深く敬服し、低頭せざるを得ません。私は森門下生の三傑の一人だと高く評価しています」

「やはりそう思いますか……」

 2人の意見は期せずして一致しました。

 とはいえ、徳永先生は残念ながら世の中にさほど知られている方ではありません。では徳永先生は何ゆえにお二方からそれほどに評価されているのか。徳永先生の足跡をたどって、明らかにしてみたいと思います。 

 

“炭焼きの子”と馬鹿にされて

昭和8年(1933)の新学期のある日のことでした。山一つ向こうは宮崎県という熊本県の山深い球磨(くま)久米(くめ)村(現多良木(たらぎ)町)の(しも)(つき)()分校の小さな運動場で、ドッジボールをやっていた5年生の児童たちがいさかいから取っ組み合いの喧嘩を始め、一人が相手に馬乗りになって殴ろうとしていました。

 師範学校を卒業したばかりの若い徳永康起先生はあわてて止めに入り、少年の手を握って引き離しました。少年はいつもみんなから「炭焼きの子!」とけなされ、馬鹿にされている(しば)(ふじ)(せい)()君でした。

柴藤君は小学校4年のときから、でき上った木炭を馬2頭に背負わせ、山を越えて宮崎県の米良(めら)(しょう)まで急坂を登り降りして運ぶ重労働をしており、ロクに学校に行くことができませんでした。当然成績が悪いのでみんなに馬鹿にされ、あまり風呂にも入っていないので臭く、靴や草履(ぞうり)もはかずはだしで、身なりもボロボロで乞食の子のようでした。だからみんなから仲間外れにされ、すっかりひねくれていました。それが爆発して取っ組み合いの喧嘩になったのでした。

 

先生が君を抱いて寝よう!

 事情を知った徳永先生は泣きじゃくる柴藤君をなだめて言いました。

「おい、清次君。今夜、宿直室に来い。親代わりに、俺が抱いて寝よう」

 その言葉に柴藤少年はびっくりしました。というのはそれまでの担任の先生はできの悪い柴藤君を鼻から無視していたので、炭焼きの子は先生からも相手にされないんだとひがんでいたのです。徳永先生から目を掛けられるようになると、柴藤君はすっかり明るくなり、成績も上がって、みんなに溶け込むようになりました。

とはいえ、貧しい家の経済状態はよくなったわけではありません。とうとう6年生を満足に終わることができずに卒業していきました。

この話の主人公の徳永先生は伸長170センチぐらいで、声は太く中低音、固太りで70キロぐらいありました。鼻が高く、彫りの深い顔にメガネをかけ、古武士然としておられました。でもいつもニコニコほほえんでおられるので、いかつい外貌もそれで救われていました。森先生が主宰されている教育者の集いである実践人の家の夏季講習会では、第二部の会を仕切っておられ、話が上手いので評判が良かったようです。

熊本の男はよく「肥後もっこす」といわれます。純粋で正義感が強く、一度決めたら梃子(てこ)でも動かないほど頑固で、曲がったことが大嫌いな性質を指してそう言います。「津軽じょっぱり」「土佐いごっそう」とともに日本三大頑固者といわれていますが、徳永先生は典型的な肥後もっこすでした。おそらく合志義塾で学んでいるとき、慕っていた工藤塾長から「一度決めたら梃子(てこ)でも動かない」性格にいっそう磨きをかけられたのでしょう。

 

 農家の下男、招集、そしてシベリア抑留……

 柴藤君は小学校を卒業すると、農家の下男として働きました。続いて徴用工となり、さらに軍隊に招集され、満州に派遣されました。しかし終戦となって、違法に侵攻してきたソ連軍に抑留され、シベリアに送られて重労働に伏しました。

シベリアでは戦友の間を駆けまわって世話をし、みんなに希望と勇気を与えました。5年に及んだ抑留がようやく解かれて、昭和25年(1950)、シベリアから引き揚げました。

 柴藤さんは佐賀県の伊万里(いまり)に落ち着くとカマボコの行商を始めましたが、石炭不況のあおりを受けて商売はうまくいかず、転職を余儀なくされました。

それで軍隊時代に身に着けた自動車の運転技術を生かし、昭和36年(19611月、伊万里自動車学校の教官に採用されました。

 柴藤さんは教官としても優秀で、彼が指導する教習生の合格率は高く、長崎県から優良指導者として表彰されました。表彰された教官は2人でしたが、その1人が柴藤さんでした。(続く)

※写真=徳永康起先生


中川さんのラジオ番組の収録

沈黙の響き (その11)

2020.9.12 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その11

「言葉は人格形成の中核だと気づきました」④

  中川千都子さんが闘病生活でつかんだもの

神渡良平

 

最後の手術のときに聞こえた声

その年は手術を5回くり返し、最後に手術をしたのがその年の12月でした。

その日、いつものように朝日の見えるところで、「ありがとうございます」と唱えて祈っていると、誰も周りに誰も人がいないのに、

「肉体は自分じゃない!」

という声が聞こえてきました。思いがけない声に驚き、その言葉を反芻(はんすう)していると、涙がブワッと込み上げてきました。

(そうか! 肉体は自分じゃないんだ。わたしの“いのち”はもっと大きく、永遠のものなんだ。何時間か後に大きな手術を受けるけれど、私が損なわれることはまったくないんだ。安心してゆだねたらいいんだな)

はっとした次の瞬間、まるで広い空に抱きかかえられたような味わったことのない大きな安堵感(あんどかん)に包まれました。だから中川さんはまったく不安がゼロの状態で手術を受けることができたのです。

 

中川さんはもともと論理思考で、不思議なものは信じないタイプでした。しかしこのような体験を通じて、神仏といった人知を超えた世界があると思うようになりました。

病室の天井を眺めながら、何度も手術を繰り返しては、こうしてまた生かされているわけを考えるようになりました。それまでは傲慢にも自分の力で生きていると思っていました。でも、間違いなくこの小さな自分を支え、守り、生かす大いなる力が存在する! そして次第に、この大きな力に恩返しをしなくてはと思うようになりました。

 

そこで一人でも多くの人に、自分の体験を踏まえて、

「人生は何があってもOKです。どんなところからでも立ち上がれるんです」

と伝えたいと、心理カウンセラーとして起業しました。幸いにも企業や個人に受け入れられてひっぱりだこになり、講演や講座などに忙しくなりました。それにラジオMBC松原インターネット放送で毎週木曜日午後1時から1時間、「中川千都子の“ありがとうのじかん”」を放送するようになり、関西圏のみなさんに楽しんでもらっています。そんな経験を経て、中川さんはつくづく思いました。

 

「私たちは間違いなく“サムシング・グレート”(大いなるもの)に生かされており、“天意を生きる”ことが一人ひとりの役目だと思います。真の幸せから外れて“我”を生きると、かつての私のようにしんどくなるんです。

天意を生きることの具体的な方法は“言葉を変える”ことです。常に心の中で“ありがとうございます”と唱えることで、天とつながりやすい自分でいることができます。“ありがとうございます”はすべての調和をもたらす祈りの言葉です」

 

 体験に裏打ちされた中川さんの言葉には説得力があります。それに、生き生きと輝いている中川さんの表情が、語られるメッセージを裏打ちしています。

 私は中川さんの話を聞いていて、つくづく「人間は強いなあ!」と思いました。人間はタフで、少々のことではへこたれません。どんな状況に陥っても必ず道を見つけだし、ついに“全体調和”に至り着きます。人間はもともと全体調和の世界の主人公だからです。

 

 自分を育てるのは自分自身です

もともと私たちは全体調和の世界に生きるようになっていました。そこへガイドしてくれる道が「魔法の言葉」なのです。何があろうとも、「ありがとう」と感謝することで、私たち自身とその周囲に次第に調和の世界が現れてきます。

 

私たちが住んでいる世の中が、誰かの力によって昇華して調和の世界に変わるのではありません。あなた自身の努力でまずあなたの中に調和の世界が顕現し、それが次第に周囲に広がっていくのです。だからそういう世界が顕現するかどうかは、一重に私たち自身の努力に掛かっているのです。“自分を育てるのは自分自身である”という真理は今も昔も変わりません。

 

※写真はラジオ番組収録中の中川千都子さんとアシスタントの樋口真奈美さん

 

(中川さんについての連載は今回で終わります。次回からは「鉄筆の聖者」といわれた熊本の教育者・徳永康起先生についてです)


中川千都子さん講演

沈黙の響き (その10)

2020.9.5 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その10

「言葉は人格形成の中核だと気づきました」③
  中川千都子さんが闘病生活でつかんだもの

神渡良平

 

とうとう薬を服用することをやめた!

その後も抗ガン剤などの治療は続きました。でも抗ガン剤は正常な細胞にもダメージを与えてしまうなど、必ず副作用があります。それで思い切って、「薬を止めたいのですが」と申し出ました。すると主治医は「何を考えているんですか? 薬を使わないなんて非常に危険です」と反対されました。使用していた薬は5人に1人の割合で別の部位に癌を発症する可能性があるとされているものでした。中川さんは内心、そんな薬に頼るのではなく、「ありがとうございます」という言葉の効用に賭けてみたいという思いがありました。医師との話し合いの末、定期検診は受けるという条件で、すべての薬の治療はやめることになりました。

 

 そうこうするうちに、次の検診の日がやってきました。その間、何ら医療的な処置をしていないにもかかわらず、ガンマーカーの値が下がっていたので、医師はびっくりしました。「ありがとうございます」という言葉は単に心地よいという程度のものではなく、現実に働きかける力があるということを科学的データで歴然と見せてくれたのです。

中川さんは病院に通う必要がなくなり、通院は止めました。「魔法の言葉」はガンに効くだけではなく、日常生活も仕事もすべてにおいてどんどん好転していきました。

 

すわ、再発!

ところが平成21年(2009)、予想外の部位にがんが認められました。主治医に恐る恐る「前の乳ガンが再発したんですか?」と訊ねると、「再発ではなく、まったく別の原発性のガンが認められました」との返事に、中川さんは「ああ、よかった」と(あん)()しました。というのは、転移とか再発だったら、抗ガン剤を止め、治療を続けなかったことが失敗だったということになるからです。

そうではなかったことがせめてもの幸いでした。それに前回のガンから得たものが大きかっただけに、今度のガンからは何が学べるんだろうと思い、不安はありませんでした。

 

とはいえ、新たなガンの手術は肉体的にはダメージが大きく、寝たきりとなり、寝返りが打てない状態にもなりました。食事は自分ひとりではできず、下の世話もしてもらいました。かつての“勝ち組志向”のままなら、何とも惨めで情けない状態になりました。

しかし、このときの中川さんはただただ感謝でいっぱいだったので、どういう状態であっても心の中で「ありがとうございます」をずっと言い続けました。そのうちに体が半分だけ動かせるようになり、自分で食事を摂ることができるようになりました。寝たきりから車イスとなり、洗面所にも自力で行けるまでになりました。

 

水をジャーっと出し、洗顔料を泡立てて、自分で顔を洗えることもすごいことだなあと気づきました。考えてみたら生きている毎日というのは奇跡的なことの連続なのに、その奇跡にまったく気づいていなかったのです。やがて車イスから歩行器に移り、さらに自分の足で歩けるまでになりました。毎日発見する奇跡に驚いて感謝し、心楽しくありがたい日々でした。

 

ところがその後、またも新たな原発性のガンが違う部位に見つかり、何度も手術を余儀なくされ、入退院を繰り返しました。それでも、何があっても、「ありがとうございます」を心の中で言っていると、「これも意味あることに違いない」と、前向きに思えてくるから不思議です。

 

それでも、“ありがとう”と感謝し続けた

たび重なる手術をし、さらなる手術が控えているのにもかかわらず、いつも陽気で心配などなさそうな中川さんの様子に、同室の患者さんたちが不思議がって訊きました。

「怖くはないの? 何でそんなに楽しそうなの?」

そんな問いかけに中川さんは返事しました。

「だって生きてるってすごいことやなぁっと感じて、うれしいの。今こうして確かにここに生きていることが本当にうれしくて、ありがたい! こんなに美しくて不思議な地球というワンダーランドに生きていることが楽しくて、おもしろくて、ありがたくて、感謝しかないのよ」

 中川さんの瑞々(みずみず)しい感性は、毎日新しい不思議を発見して、ひとり感動し、興奮していました。(続く)

 

※写真:企業や地域の集まりで体験を語る中川さん


中川千都子さんと筆者神渡良平

沈黙の響き (その9)

2020.8.29 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その9)

「言葉こそは人間形成の中核だと気づきました」

神渡良平

 

ユダヤ人が教えてくれた「人生を変える魔法の言葉」

そんな頃、中川千都子さんは友人から、五日市(いつかいち)(つよし)さんの講演録『ツキを呼ぶ魔法の言葉』(とやの健康ヴィレッジ)をプレゼントされました。五日市さんは二十六歳のころ、悩むことがあって心が折れたままイスラエルに旅行したそうです。その旅で一人のおばあさんに出会い、その方の家に泊めてもらいました。その晩、おばあさんに自分の悩みを打ち明けると、

「人生を変える魔法の言葉があるんだけど、あなた、知りたいと思わない?」

()かれました。人生を変える魔法の言葉? そんなものがあるわけはないと思いつつも、教えてくださいと頼むと、意外な返事が返ってきました。すごく簡単なことで、「ありがとうございます」と「感謝します」の二つの言葉をことあるごとに唱えるといいというのです。

半信半疑でしたが、そのおばあさんには妙にその気にさせるものがありました。それ以来、五日市さんはこの二つの魔法の言葉をくり返し言うようになり、人生が驚くほどに好転していきました。

こんな不思議な話は、中川さんがもし切羽詰まっていなかったら、まったく頭に入ってこなかったでしょう。しかしこのときは素直に、「そうなのか、言葉がキーポイントなんやな」と思えました。自分を振り返ってみると、「辛い」「しんどい」「悲しい」「情けない」「運が悪い」「痛い」といった否定的な言葉を使っていたことが多かったことに気づきました。

 

成功した人の多くが、「言葉を変えれば人生が変わる」と本に書いていると、知識としては知っていましたが、このとき中川さんは初めて「ありがとうございます」を日常の中でもっとたくさんくり返してみようと思いました。

 

一人ひとりの魂を拝み、心から感謝できるようになる

心の中で、「ありがとうございます」とくり返し言っていると、ある朝、顔を洗ったとき全然染みないことに気がつきました。何と皮膚炎が治っていたのです。そのときは半信半疑でしたが、これはもしかしたら〝ありがとうございます〟とくり返し言っていたからかもしれないと思い、もう少し続けてみようと思いました。すると次は目の病気が治り、さらに、口内炎や婦人科の病気も治って元気になり、減っていた体重もだんだん元に戻ってふっくらしてきました。

 

何があっても「ありがとうございます」と言っていると、自分の中で驚くべき変化が起きていきました。病欠の期間を終えて会社に復帰すると、会社の入口に守衛さんが立っていました。それまで中川さんは守衛さんのことなど気にも留めず、当然名前も知りませんでした。ところが守衛さんがニコっと笑って、

「お帰りなさい」

と言ってくれたのです。明らかに中川さんが長い病欠を終えて、久々に出勤したと知っていたようです。自分が長い間、気にも留めていなかった守衛さんが、自分のことを気遣ってくれていたとは!

「そのときの感動と喜びは今も忘れられません」

 中川さんの価値観が変化し始めました。

 

 会社に復帰してしばらくたったある日、地下鉄の階段を降りていたとき、みんなはどうしてこんなによくやってくれるんだろうとありがたくて、涙があふれでました。それまで当然だと受け止めていたことが当然ではなく、

「何とありがたいことだろう!」

と思え、一人ひとりに手を合わせて拝みたいほどでした。

「人さまのお陰で、ものごとがうまく回っているんだ。自分が知らなかったところで、助けられていたんだ! 感謝しなかったら罰が当たってしまう」

 そう思うと、踊りだしたいほどでした。新しく何かが動き始め、中川さんの中で物事の受け止め方が変わっていきました。自分が日々の生活で使っている言葉が人間形成の中核なんだと思うようになりました。(続く)


中川千都子さん

沈黙の響き (その8)

2020.8.22 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その8)

「言葉こそは人間形成の中核だと気づきました」①

神渡良平

 人生は予想もしなかったようなさまざまなことが起きるものです。世の中には「ショック療法」という言葉がありますが、そういうことを経験してみると、実に言い得て妙な言葉だなあと思います。

わたしたち人間は否応もなくショッキングなことに遭遇すると、それを乗り越えようとして必死になります。そのお陰で何とか窮地を脱することができ、以来、以前の生き方とはすっかり変わってしまうことが多々あります。

一方で、その危難を乗り越えられなくて死を迎える人があるのも厳然たる事実です。そこには容易には乗り越えられない厳しい分岐点があります。だから安易には「人生の大道」などということは言うことができません。背水の陣を敷いて本気で取り組まないと乗り越えられませんし、死ぬ覚悟で取り組まないと、道は拓(ひら)けないように思います。

わたしたちは試行錯誤をしながら、人生の理(ことわり)を一つひとつ身に着けて、成長しているように思えます。そこで今回から三週にわたって、一人の女性がどうやって新しい生き方を身に着けるようになったかを紹介したいと思います。

突然ガンに襲われた中川千都子さん

 大阪で心理カウンセラー、産業カウンセラーとして活躍し、ラジオ番組も持っている中川千都子(ちづこ)さんもそういう苦渋の期間を経て、新しい生き方をつかんだ人です。中川さんは十年前まで、ある企業で管理職としてバリバリ働き、海外出張にも派遣され、全身をブランド物で身を固めたカッコいいキャリアウーマンでした。

中川さんは小さい時からがんばり屋さんで負けず嫌いでした。お母さんが「あんたはやれないことはない。何やっても成功する」と言って育ててくれたため、がんばったら大概のものは手に入れることができたし、いつもがんばって頂点を極めていました。

仕事でも、女性で初めて管理職として登用され、成功しました。本人はそれでも満足することなく、上を上をと目指していました。

 ところが平成十八年(二〇〇六)九月のある日、乳房のしこりに気づきました。ひょっとすると思いつつ、病院で検診してもらうと、

「乳がんです。即刻手術が必要で、五年は持ちません」

と告げられました。

「えっ、五年ですか! そんな、どうしてなの?」

これまで営々と築き上げてきた人生のすべてが、がらがらと音を立てて崩れていくようでした。

即刻乳房を切除する手術を受けたものの、精神的なショックはとても大きく、手術後も放射線治療と抗ガン剤の治療が続きました。自分の人生はこの先どうなるのか、とても不安でなりませんでした。

 壊れていく自分がどうにもならなかった!

 会社から長期の休みをもらって静養したものの、病院の外には新たな悲しみがありました。

「街を歩いていると、道行く人がみんな幸せそうに見えるんです。特に女性を見ると、この人たちはみなさんきれいなおっぱいをされているんだと思ってしまいます」

そう思うと、辛くて悲しくて、幸せそうな人がやたらまぶしく、サングラスなしでは街を歩けないほどでした。そんな状態ですから、家事などできるはずもありません。会社員のご主人や、当時中学一年生だった息子さんは気を遣って優しく接してくれたものの、心が折れている中川さんはその気遣いさえわずらわしく感じました。

そんなある日、息子さんが体操服を忘れて学校へ行きました。息子さんは普段から忘れ物が多かったので、珍しいことではなかったのですが、なぜかその日は猛烈な怒りが込み上げてきました。その怒りは息子さんが学校から帰ってくるまで止まりませんでした。

夕方、息子さんが「ただいま」と明るく帰ってくるやいなや、中川さんは体操服を入れた袋で息子を叩きまくり、「なんで体操服を忘れるんや!」とわめきました。それ以前は息子さんに手をあげることなどなかったのに、です。

息子さんはとてもびっくりしました。

「お母さんは病気だからこんなふうになってしまった……

と口をぎゅっと結び、「ぼくが我慢したらいいんだ」と叩かれるままにしていました。中川さんは感情が爆発して、自分を止めることができませんでした。(続き)


パウロ

沈黙の響き (その7)

2020.8.15 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その7)

 

ダマスコに行く途上、パウロに起きた異変

神渡良平

 

わたしはこのウィークリーメッセージで、名曲「ユー・レイズ・ミー・アップ」がさまざまなシ-ンで人々を助け起こし、励ましてきたと語りました。初代教会の最大の立役者パウロもこの言葉と切り離すことはできません。パウロもイエスに「ユー・レイズ・ミー・アップ!」と涙を流して感謝した人の一人です。

 

パウロは「人は行いによるのではなく、神の恩恵により、信仰のみによって義とされる」と説いて、ユダヤ教とキリスト教の違いを鮮明にし、キリスト教が成立するのに大きな貢献をしました。アウグスティヌスはこの「信仰義認論」を高く評価し、さらにルターなどの宗教改革者たちが(とな)える「信仰義認論」の核心となりました。パウロはキリスト教が世界宗教として飛躍するうえで決定的な役割を果たしたといえます。

 

パウロがユダヤ教からキリスト教に回心するに至ったダマスコ(現シリアの首都ダマスカス)に行く途上での出来事を、『新約聖書』「使徒行伝」はこのように書いています。

ユダヤ教の正統派ともいうべきパリサイ派の熱心な信徒だったサウロ(パウロのへブル名)は、ユダヤ人でありながら律法を軽視すると見られるキリスト教徒を許しておけず、先頭に立って彼らを責め立てていました。モーセの律法を遵守してユダヤの伝統を守ろうと思ったら、イエスはその伝統を破壊する者にしか見えなかったのです。サウロは大祭司から、ダマスコに居住するユダヤ人の中で、イエスに従う不届きなユダヤ人を拘束して、エルサレムに連行する権限を与えられてダマスコに向かいました。

 

ところがその旅の途上、突然天から強い光が射してサウロを照らし、憂いに満ちた声が臨みました。

「サウロよ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか……」

 普通、敵対する者を詰問するときは難詰調になるものですが、その声にはそんな調子は全然なく、むしろ悲しい響きすらありました。

〈えっ……なぜ、どうして……〉

 サウロはそれが意外でした。その声はあまりに神々しい光から発していたので、サウロは目が(くら)んで昏倒(こんとう)してしまいました。そして倒れたまま、悲しみの声の主に問い返しました。

「あなたは……一体どなた……なんですか?」

「……わたしはお前が迫害しているイエスだ。お前は間違ったことをしている。わたしに反対するなど、そんな無意味なことにお前の貴重な人生を費やしている暇はないんだよ」

 イエスの声色(こわいろ)にはサウロを責める響きは全然ありません。それよりもこの歴史の大きな転換点で、リード役としての役割を失敗してはならないという配慮が感じられました。

 

「さあ、立ち上がりなさい。ダマスコに行けば、そこでお前がこれから何をしなければならないか告げられるだろう」

イエスの声に助け起こされ、立ち上がろうとしましたが、サウロはうろたえました。目が見えなくなっていたのです。まわりの人々に何か声を聴かなかったかと(たず)ねましたが、みんなは口々に何も聴かなかったと答えます。

〈では、あれは幻聴だったのか。そんなはずはない。わたしは確かに聞いた。それに目が見えなくなっている。何かが起こったに違いない〉

 

サウロはとりあえず、他の人々に手を引かれてダマスコ市内に入り、ユダの家に泊まりました。その日起きたことがあまりにもショックで、一体どう解釈したらいいのか、ひたすら祈り求めました。

〈あのまばゆいほどの光に包まれ、絶大な威厳を持ったイエスというお方は一体何者ですか……。これまでわたしは、イエスはモーセの律法を軽んじる者だと思い、それを阻止しようと、急先鋒に立っていましたが、とんでもない思い違いをしていたのではないかと迷っています。どうぞ答えてください〉

両の頬を涙が伝い、床を叩いて祈り求めました。しかし、静寂な空間は何も答えません。小机の上に置かれたランプの炎が揺らいでいます。

 

真実を明かしてくださいと祈り求める声は来る日も来る日も続き、食べることも飲むこともできません。その間、イエスは信徒のアナニヤに現れて、サウロの目を癒してくれるよう頼みました。

「アナニヤよ、ユダの家にサウロというタルソ(びと)が泊っている。わたしはサウロに、お前が訪ねてきて目に手を当てて祈り、再び見えるようにしてくれると伝えている。訪ねていって介抱してあげなさい」

でも、アナニヤはその要請に素直に従うことができません。

「主よ、あの人はエルサレムで信徒たちにどんなにひどいことをしたか、わたしは多くの仲間から聞いています。彼がダマスクにやって来たのも、祭司長からキリストに従うユダヤ人を捕縛して、エルサレムに移送する権限を与えられたからです。そんな(やつ)の手当なんかできません」

 

ところが主はアナニヤの抗議には意に留めず、サウロは自分が選んだ者だと言われました。

「あの人は異邦人、王たち、そしてイスラエルの子たちにも、わたしの名前を伝える者としてわたしが選んだ者です。わたしの名前を伝え広めるために、これからサウロは大変苦しむことになります……」

アナニヤはようやく納得し、サウロの目を癒して元通り見えるようにしました。

目が見えるようになったサウロは、アナニヤのようなキリスト教徒に与えられている不思議な霊力に心を動かされ、洗礼(バブテスマ)を受けて回心しました。

 

この劇的な回心以後、サウロはキリストの熱心な(あか)(びと)となり、特に異邦人への布教を使命として、小アジア、マケドニアなど、エーゲ海沿岸一帯に前後三回にわたって福音を伝えました。しかもパウロが小アジアの信徒たちに書き送り、心の持ち方について説いた深遠な手紙が新約聖書の中核部分となり、キリスト教の根幹を形成しました。

 

パウロもまたイエスに「ユー・レイズ・ミー・アップ!(あなたがわたしを助け起こしてくださいました)」と告白し、その後の人生すべてをかけて恩返ししました。「つまづき倒れているわたしを抱き起し、励まし、肩を押してくださったのは、あなたでした」――わたしたちも友人にそう言われるように、誠心誠意を尽くしたいものです。

 

名曲「ユー・レイズ・ミー・アップ」にまつわる話はこれで終わり、次回から別なテーマに移ります。


カミーノイメージ画像

沈黙の響き (その6)

2020.8.8

スペインの巡礼道カミーノをもう一度歩こう!

 

闘病生活中に書き上げた『沈黙の響き――宇宙の呼び声』はPHP研究所から秋には出版されることになりました。書名は多少変更されるかもしれません。私が住んでいる千葉県佐倉市は印旛沼という名勝があります。私の自宅からクルマで15分ぐらいの距離です。

 

いまこの湖畔を時間が許す日は汗だくだくになって、4時間ぐらい歩いています。お陰で真っ黒に日焼けしてしまいました。杖をついての歩行なので、1時間に2キロぐらしか歩けませんが、来年の春はスペインの巡礼道カミーノ800キロを歩く予定です。

 

1日20キロ歩くとして、40日はかかります。途中、怪我や病気で休まなければならない日もあるでしょうから、60日間、2ヵ月はかかるかもしれません。

 

実は先月、NHKで三晩にわたってカミーノを特集しており、それを見ている間、53歳のとき、カミーノを歩いたことを思い出し、そうだ、カミーノをもう一度歩こうと思いました。

しかし、昨年9月、心臓の冠動脈のバイパス手術をやり、すっかり体力が弱ってしまいました。歩けないどころか、杖をつくようになってしまいました。

 

幸いなことに、いつも通っていたスポーツジムが6月に解禁になったので、そこに通って体力回復を計っていました。そのうちに距離を歩く必要性を感じ、印旛沼の湖畔のサイクリングロードを歩くようになりました。

 

広大な印旛沼の広がりを満喫しながら歩くと、喜びを感じます。ここはかつて小出門下生の有森裕子選手や高橋尚子選手が金メダルを目指してランニングしていたところで、「裕子金メダルロード」とも呼ばれています。

 

その道を歩いていると、多くのサイクリング選手やマラソン選手とすれ違います。この炎天下、立派だなあと感心し、私も健康で若い息吹を満喫しています。

 


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沈黙の響き (その5)

2020.7.31 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その5)

イエスが姦淫の女に示した愛

神渡良平

 

 今回も名曲「ユー・レイズ・ミー・アップ」を巡って、雑感をお届けします。「ユー・レイズ・ミー・アップ」はスマホの動画を検索して聴いてください。歌詞の中で使われている「raise(抱き起す。勇気づける)からこんなことが連想されました。

 

「ヨハネによる福音書」第八章に、姦淫(かんいん)を犯した現場で捕らえられ、イエスのところに引き立てられてきた女のことが書かれています。律法(トーラー)では姦淫を犯せば石打ちの刑で死刑に処すと定められているので、イエスがユダヤの律法を遵守(じゅんしゅ)するのであれば、この女は石打ちの刑にしなければなりません。だから祭司、律法学者、それにパリサイ(びと)などのユダヤの指導者たちは女を引き立ててイエスの前に突き出し、どう裁くのかと迫りました。イエスが反ユダヤ的であると告発するのに、恰好な出来事が起きたのです。

 

律法とは神が祭司や預言者を通じて示した生活と行動の細かい規範のことで、狭義では『モーセ五書』に依拠します。パリサイ派、もしくはパリサイ(びと)とは、律法を厳格に守り、細部に至るまで忠実に実行することによって神の正義を実現しようとする人々ですが、形式に従うだけの偽善に陥ってしまったので、偽善者の代名詞になってしまいました。

 

律法学者やパリサイ人が『モーセ五書』を持ちだして裁く限り、誰も反対することができず、姦淫を犯した女は石打ちの刑によって殺されるしかありません。律法学者やパリサイ人は姦淫の女をイエスがどう裁くかを見ることによって、イエスは正統派のユダヤ教徒なのか、それとも異端なのかを判別し、イエス糾弾の根拠としようとしたのです。一歩間違えば、イエス自身が糾弾の矢面に立たされてしまいます。

 

イエスは身をかがめ、黙って指で地面に何か書かれ、騒ぎに巻き込まれません。祭司や律法学者、パリサイ人がやかましく責め立てるので、イエスは身を起して言われました。誰も責めることはしない、静かな、哀しみさえ含んでいる口調でした。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」 

ずしりと重たい言葉が発せられました。祭司や律法学者はみんな絶句してしまい、振り上げていた拳を下すことができません。気まずくなって、一人去り、二人去りして、みんないなくなってしまいました。

 

ついに女だけになると、イエスは身を起して訊かれました。

「女よ、みんなはどこに行ったのか。あなたを罰する者はなかったのですか」

「主よ、……誰もありません」

イエスもひとこと言われました。

「わたしもあなたを罰しません。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」

 そこには(とが)めるような態度は全然ありませんでした。しかし天地の理法の前に厳然と立たされ、もう罪はくり返すまいと、堅く誓いました。

 

イエスは身をもって女をかばい、助け起こして(raise)くださいました。You raise me up というフレーズは、「主よ、あなたがわたしを助け起こし、気持ちを強く持たせ、背中を押してくださいました」という意味でもあります。こういうふうに一つの曲が二つにも三つにも異なったふうに解釈され、全世界に広がっていきました(続く)。


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沈黙の響き (その4)

2020.7.25 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その4)

楽曲「ユー・レイズ・ミー・アップ」は人生の応援歌だ

神渡良平

 

アッシジのフランチェスコはなぜあれほどまでにイエスに惹かれたのだろうか――。

わたしはその理由を窓から射す淡い星明りに照らされた病室で考えました。そのとき、どこからともなく「ユー・レイズ・ミー・アップ」(You Raise Me Up=あなたがわたしに勇気をくれた)のメロディーが聴こえてきました。

 

ユーチューブで「ユー・レイズ・ミー・アップ」を検索すると、深夜のゲッセマネの園で血の汗を流して祈られるイエスの動画を背景に、「ユー・レイズ・ミー・アップ」が流れてきました。映像は(もや)がかかった木立ちを背景にして、イエスやペテロやヨハネが黒いシルエットで描かれており、しみじみと迫ってくるものがありました。

 

 ♪とても気が滅入って 苦境に遭って心が折れそうになるとき

 静けさの中でわたしはじっと待っている 

あなたがここに来て座ってくれるのを

 

 あなたがわたしに勇気をくれた だから山頂にさえ立てるんです

 あなたがわたしの背中を押してくれました この荒波を越えるようにと

 わたしは強くなれる あなたの支えがある限り

あなたがわたしを励ましてくれました

わたしが思っている以上に

 

歌唱はサビの部分に入り、人生の伴侶によって限りない力を得て、道が開けていったことを感謝して、アーティストが声の限りに歌います。まさに魂の叫びがほとばしり出ます。

 

♪あなたはこんなわたしでも立ち上がらせてくれました

嵐が吹き荒れる荒海を乗り越えるようにと

あなたは頼りないわたしを励ましてくれました

だから山頂にさえ立つことができます

わたしは強くなれる あなたの支えがある限り

あなたが背中を押してくれました

あなたが想像している以上に

 

聴き終えた瞬間、これはフランチェスコがもっともイエスに言いたかったことではないか! と感じ入りました。フランチェスコが小さき兄弟会という修道会を立ち上げ、それがカトリック教会自体を刷新していったのも、すべてはイエスに励まされて形になったのでした。わたしは何度もこの曲に聴き入り、フランチェスコの力の源泉だったイエスのことを偲びました。

 

 この楽曲はアイルランドとノルウェーのミュージシャン、シークレット・ガーデンが作ったもので、二〇〇三年、アイルランドの歌手ダニエル・オドネルがカバーしてヒットし、その後、多くのアーティストが歌うようになりました。日本ではアイルランドの五人組ケルティック・ウーマンが歌っているカバーが有名ですが、わたしは老境に差しかかったオランダの歌手マーティン・ハーケンスが自分の人生を振り返りながら、テノールの渋い声でしっとりと歌っているのがなおいっそう心に響きます。

 

聞けばハーケンスはテノールのオペラ歌手を目指したけれども念願を果たせず、食べるためにパン職人になったそうです。その間もレッスンを続けましたが、チャンスは訪れず、挙句の果ては失職してしまいました。ハーケンスは路上ミュージシャンとなって、街頭で歌を披露し、なにがしかの献金をもらって生計を立てていました。

 

それを娘さんが見るに見かねて、本人に無断でテレビのオーディション番組に応募したところ、あれよあれよという間に勝ち抜いて、とうとう優勝してしまいました。ご褒美はCDの発売で、とうとう念願のデビューを果たしました。このときハーケンスはすでに五十七歳になっていました。ハーケンスは「ユー・レイズ・ミー・アップ」で描かれているような人生を経験し、辛酸を()め尽くしたからこそ、人々の心に響くような歌を届けることができたのです。

 

人生はうまく行っている場合だけではありません。どんなに頑張ってもうまくいかず、疲れ果て、うずくまってしまうときもあります。そんなとき、誰かが隣に座り、話を聴いてくれ、悲しみを分かちあってくれたら、どんなに気持ちが晴れ、もう一度挑戦しようという気力が沸くものです。