サイト管理人 のすべての投稿

沈黙の響き (その30)

 

ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その30)        123

教育はいのちといのちの呼応です!⑲

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 

 今回、ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」をLINEHPに載せ、いろいろな方から返信をいただき、楽しい交流をしています。そうしたなか、オーストラリアの東海岸ブリスベーン郊外に住んでいる心友・西澤利明さんからメールが届きました。西澤さんがクイーンズランド州政府観光局日本局長だった時代、しばしば来日して日本政府と交渉をされていましたが、その際、私はしばしばお会いさせていただき、意見を交換していました。

 私たち2人の関心は「日本と欧米を融合させるものは何か?」でした。

西澤さんはオーストラリアのグリフィス州立大学を卒業したあと、欧米社会で仕事をしました。だからいつも脳裏を離れなかったのは、思考の根幹にある仏教(儒教)とキリスト教のことでした。

西澤さんはビジネス社会のまっただ中で活躍されていますが、日常的に起こる現象に振り回されることなく、東洋と西欧の精神的原理という視点で分析して、行動されていました。奥さまはオーストラリア人なので、家庭生活もキリスト教文化と切り離すことはできません。それらをいつも“日本”という視点で眺め、分析し、自分の行動指針とされていました。

 私は西澤さんがJTBのゴールドコースト支店長時代に知り合いました。その後、西澤さんはオーストラリア・クイーズランド州政府にヘッドハンティングされ、クイーンズランド州政府の観光行政に関わるようになりました。オーストラリア人の同僚たちには西澤さんの観点はとてもユニークに感じられ、日本との観光行政でも結果を出し、とうとう州政府観光局日本局長というトップに昇りつめたのでした。

 私が下手な解説をいろいろ述べる前に、西澤さんから届いたメールを読んでいただきましょう。おそらくそこに視点の斬新さを感じられるのではないかと思います。

 

≪隻手の音には存在の本質が隠されている≫

「神渡さんが今回のタイトルとされた『沈黙の響き』は、それ自体が深いメッセージを秘めたものです。世の中は“見えないもの”“聞こえないもの”で満ち満ちていますが、現象の背後にある息づかいに触れる貴重な感受性があってこそ、書かれた言葉を通して、読む側に貴重なメッセージを与えてくれます。

 禅に『隻手(せきしゅ)の音』と言う公案がありますが、片方の手が出す音、つまり聞こえないものの“静かな沈黙”にこそ、存在の本質が隠されているということでしょうか。

『沈黙』をまた量子力学的に“心情の波動”として捉えれば、至るところに全体として充満していることになります。それが言葉を通して意識化されると、一つの実体としてのメッセージとなるように、思います。

芸術の素晴らしさはその“沈黙の響き”を音楽に、あるいは文学にと具現化できるからです。具現化された文章にそれぞれの感性が反応すると、神が沈黙を破り、一人ひとりの心に現れるのです。詩人は詩を書き、画家はキャンバスに絵をかき、音楽家は弦の響きでそれを表現しようとします。

東洋は沈黙を空性として、何もない絶対無の世界だと捉えますが、絶対無はまた絶対有でもあるように思います。そこには汲めども尽きない無限の心情の宝庫があって、聖者はそれを“不二一元の真如”すなわち“真我”と呼んだのでした。

 神渡という名前は神のメッセンジャーという意味です。神渡さんの感性を通して伝わる“沈黙の響き”に耳を澄ませば、138億年の宇宙史の声が聞こえて来るのではないでしょうか。

 人間はどんなに小さな存在であったとしても、この世に生きたということこそが最大の奇跡であり恩寵です。日々の喧騒から離れ、しばしこの沈黙の響きを魂の奥で咀嚼できれば、語りかけてくる“大いなるもの”が私自身を通して現れ、表現しようとされていることに気づきます。

 私の目を通して、私の耳を通して、五体全ての感性は即仏性であり神性そのものです。まさに、『神を見しもの、我を見るなり』です。神渡さんが書いておられる『沈黙の響き』を読みながら、こうした感想を抱きました」

 

≪「沈黙の響き」が意味するもの≫

 西澤さんのメールで嬉しかったのは、私の「沈黙の響き」に共感し、日本文化の中心には「沈黙の響き」に聴き入ろうとする姿勢が連綿とあると評価されたことでした。しかしながら出版社はそのことがよくわからず、「哲学的過ぎ、抽象的でわかりづらい」などという感想が示されました。

 日本文化の特質を欧米キリスト教文化に注ぎ込むことによって、欧米文化=キリスト教が斬新に復活すると思うのですが、この点の理解はいまいちでした。

 それだけに西澤さんが示された理解に、「我が意を得たり」と思った次第でした。

 

≪「一隅を照らす」ことで、存在意義を示すことができる≫

 西澤さんは3年前に政府を退職し、現在はブリスベーンの郊外の自宅で、自分の人生の思想的な総括をしているそうです。そこで改めて“一隅を照らす”という生き方に共鳴したといいます。

「最後に残るものは、結局、どれだけ世のために尽くしたかということに尽きると思うようになりました。別に大それたことをしなくともいい、自分に与えられた天命に気付き、その与えられた場所で“一隅を照らすこと”が人生を手応えのあるものにできると思うようになりました。

ビルの清掃をする人も、コンピューターを操作する人も、政治を司る人も、与えられた仕事に真心を込めて励めば、その恩恵が人々に行くからです」

西澤さんの口から“一隅を照らす”という言葉が飛び出したので驚きました。

「私は従来のキリスト教の“天のどこかにいらっしゃる神”という考え方から、“人間を通して現れる神”というものに重きを置くようになりました。私の行為を通して、神そのものが顕現されるのであり、神ご自身の眼差しは自分の中にも重なって存在していると思うのです」

 西澤さんのこういう神観、宇宙観を聴いていると、無味乾燥に陥りがちな神学論争が吹き飛んでしまいます。先のメールに書いておられた「神を見しもの、我を見るなり」ということが、決して傲慢な発想から出たものではなく、人間存在の意義を重たく捉えているからです。

西欧世界は神と人間を切り離し過ぎたために、神不在となってしまいました。しかし日本に生きている「自分の行為が神そのものだ」という考え方を欧米社会に注入するとき、その文化は大きな脱皮をすることができると確信します。私は日本が欧米社会に真に貢献できる時代がやってきたように思います。


西澤利明さん


沈黙の響き (その29)

ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その29)        116

教育はいのちといのちの呼応です!⑱

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 現在、小文は致知出版社が『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』が出版すべく、2月中旬出版を目標に、編集作業を進めてくださっています。うれしいことに、私の人生の師である鍵山秀三郎先生(イエローハットの創業者)から推薦文が届きました。今回のウィークリーメッセージはそれを披露します。

推薦文

汗を流して具体的に行動する――これこそが教育の原点です

イエローハット創業者 鍵山秀三郎

 今回、人々に(やす)()菩薩と称えられた徳永康起先生の教育の全貌が明らかにされたことを大変喜んでいます。徳永先生はそれまで六年間務めていた校長職を辞し、昭和二十七年(一九五二)、一平教員に戻ると、念願だった教え子たちの魂の成長に心魂を傾けられました。

 担任している学級の子どもたちが提出する日記にていねいにコメントを書き、家では朝三時に起きて三畳の板の間の仕事部屋で、授業で生徒たちに配布する資料のガリ切りをされました。小さな火鉢があるだけの部屋は、先生自身〝寒室(かんしつ)(かん)()〟と呼んでおられたように、冬は凍えるほどに寒かったけれども、〝愛の実弾〟はそこから生まれました。

学校で一番汚かった、校庭の隅にあった八角(はっかく)便所のこびりついた汚れを、先生もいっしょになって瓦の欠片(かけら)でそぎ落とし、新聞紙や何かで詰まっている便器を通るようにし、黄色くなっていた便器を磨きました。徳永学級の絆はそんなところから生まれていきました。

 教え子たちの結びつきは固い絆となり、教え子たちは小学校卒業後十五年目に、自分たちの手で記念文集『ごぼく』4号を出しました

それを読んだ多くの教師たちは、「教師が心魂傾けた努力はここまで教え子たちの心に刻み込まれるのか」と感動しました。その記念文集は、森先生がいつも語っておられた「魂に点火する教育」が、実際にどういうふうに行われたのか示している具体的な証しだったのです。

この文集を森信三先生が激賞されたことから、浪速社がこれを『教え子みな吾が師なり』(徳永康起編)として出版してベストセラーになりました。八代市の一小学校で行われていた教育が全国的に知られるようになるまで、実に十八年もの歳月が経っていました。急がず、先を争わず、目の前のことを一つひとつ丹念に仕上げていったとき、それが歴史の地平を切り開いたのです。かくして徳永先生は、森先生を囲む教師たちの研鑚の場である実践人でも、中心的な役割を担うようになりました。

石川理紀之助翁が示しているもの

 今回、『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』を読んでみて、私は明治から大正時代にかけて、秋田県の農村指導者だった石川()紀之(きの)(すけ)(おう)のことを想起します。石川翁は毎朝三時に掛板(かけいた)を打ち鳴らして村人たちを眠りから起こし、まだ夜が明けきらないうちから農事に専念し、困窮した村を再建していきました。

ある猛吹雪の朝、理紀之助翁がいつものように午前三時に掛板を打ち鳴らし、雪まみれになって家に戻ると、奥さんが「吹雪の朝に掛板を打ったところで、誰にも聞こえないでしょう。ましてこの寒さでは誰も起きて仕事などしやしない……」と咎めるように言いました。でも理紀之助翁は平然と答えました。

「そうかもしれない。でも私はこの村の人々のためだけに掛板を叩いているのではない。ここから五百里離れた九州の人々にも、五百年後に生まれる人々にも聞こえるように叩いているんだ」

 そうした心構えだったから、理紀之助翁は少々のことでは失望せず、ひたすらな努力が疲弊していた農村を立ち直らせ、「秋田の二宮尊徳」と呼ばれるようになりました。明治二十一年(一八八八)、四十四歳とき、井上(かおる)農商務大臣の招請を受け、秋田県の農業改革の実績を報告するほどになりました。

 また二十七年(一八九四)から翌年にかけて、北白川宮の命を受けて九州七十四か所で講演や実地指導を行い、さらにその翌年は四国や千葉県での指導が続きました。

 その石川翁の自戒の言葉は「寝ていて人を起こすことなかれ」でした。「自分は動かないで他人にやらせることはできない。自分が先頭に立って手本を示してはじめて人を動かすことができる」というのです。

 先の徳永先生もまさに〝寒室寒坐〟し〝鉄筆の聖者〟と称えられたほどに努力されたから、教え子たちが感化され、それぞれの人生が花開いていったのです。

 この書は私たちに一番必要とされていることは何かを、気づかせてくれます。そして何よりもわが国に地下水脈のように流れている文化の特質が何であるか教えてくれます。営々と努力して立派な文化国家をつくりあげた先人たちを持ち、私たちはとても幸せです。私たちもそれぞれの持ち場で徳永先生に続いていきたいものです。


黒板の上に掲げてあった色紙「自分を育てるのは自分である」

沈黙の響き (その28)

ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その28)        19

教育はいのちといのちの呼応です!⑰

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 

≪熊本県を代表する先進地区・八代市≫

 

昭和27年(1952)4月、新任地は八代市の太田郷小学校に決まりました。

八代は熊本県を代表する工業都市です。明治時代になって、天草と熊本の間に広がる不知火(しらぬい)海に面した八代港が近代的な港湾として整備されました。明治23年(1890)に九州第1号のセメント工場ができたのを皮切りに、十条製紙(現日本製紙)や三楽酒造(現メルシャン)が相次いで進出し、八代臨海工業地帯を形成しました。

太田郷小学校の校区にはそのうち3大工場がある先進的な地区です。一方では、市内を日本3大急流の一つ球磨川(くまがわ)が流れており、あちこちに風光明媚な景勝があります。

 

 熊本には加藤清正が築城した熊本城があります。銀杏(ぎんなん)城とも呼ばれ、日本を代表するような勇壮な城郭です。その一角に高さが180メートルもある壮大な「百間石垣」があります。熊本では男一匹思い切ってやってのけることを、「熊本城百間石垣後ろ飛び」といいます。徳永先生はそれをやってのけたのです。

 

≪子どもたちの期待を集めたニコニコ先生

 

徳永先生にとって太田郷小学校は、一平教員に戻って本物の人間教育をしようとした最初の学校だったので、思いがこもりました。一方、子どもたちは新学期に向けてどういう組替えになるか、期待わくわくでした。その子どもたちが、よその学校から新しく着任した徳永先生をどう見ていたかを示す恰好な作文があります。卒業記念文集の『ごぼく』1号に掲載された(やす)(あな)(せい)()(旧姓盛谷(もりたに))さんの文章です。

「5年生になって、組替えになりました。どの先生になるか、どの組になるか、みんなさわいでいました。私と登紀代ちゃんと二人はまだ徳永先生の名前を知らず、いつ見てもニコニコして生徒たちと遊んでおられるので、とりあえず“ニコニコ先生”と呼んでいました。私たちはあの“ニコニコ先生”が担任になればいいなあと思っていました。

 

最初の日は組替えだけがあって、うれしいことに、私と登紀代ちゃんは同じ組になりました。あくる日の朝、庭に山のように土をもりあげ、それにどうかあのニコニコ先生になりますようにとおがんで、ごはんもろくに食べないで学校に行きました。

いよいよ講堂に集まって発表をききました。だんだん進んで、白木先生が、『次は5年五組!』と言われたとき、私たちはシーンとしずまり返りました。いよいよ5組の担任の先生の発表です。

 

『5組は徳永先生!』

(わあ、徳永先生になったわ! ばんざ~い!)

私と登紀代ちゃんはあまりにもうれしかったので、登紀代ちゃんの家で歌を作ってあそびましだ。やがて十条製紙の四時の終業のサイレンが鳴ったので、私は門のところで母を待ちました。仕事が終わって工場を出てきた母に、さっそく、担任はニコニコ先生になった! と話すと、母は、それはよかったね、そんなに好きな先生になったら、いっそう勉強も手伝いもがんばらないとねと言いました。私ははり切って、うん、今日から何でもする! と答えました。早いものであれから2年もたち、とうとう卒業を迎えてしまいました」

徳永先生は5年5組となった子どもたちに心から迎えられたようです。

 

≪日記によって始まった先生と子どもたちの“いのちの呼応”≫

 

一方、徳永先生は公簿に記載されている4年生まで評価を丹念に読みました。中にはかなり一方的で浅薄な児童観察が書かれていたりするので唖然としたり、むらむらと反発を感じたりしました。

(これじゃあ子どもの芽が枯れてしまう。大魚を教師の小さい洗面器で泳がせてはならないよな。よーし、一年経ったら、公簿に全然逆なことを記入しよう)

児童生徒に遠くから大きな声で「おはようー」と呼びかける徳永先生の声はバンカラそのもので、子どもたちは誰もがおはようございます! と返してきます。教室の黒板の上には、

 

自分を育てる者は自分である

 

と書いた額を掲げました。これを5年5組の心意気にしようというのです。徳永先生は教育事実を作るためには、日記によって一人ひとりと、いのちの呼応を始めるのが一番だと思いました。亡くなった田中君の枕元に残されていた日記がその思いを後押ししてくれたのです。毎朝、先生の教卓の上に子どもたちが日記を提出し、それに休み時間に先生が赤ペンでコメントを書き添えて、子どもたちとの心の交流が始まりました。

 

先生は学業の優中劣の評価は、人間としての優中劣の評価とは必ずしも一致しないと考えていたので、折に触れて授業でも話し、子どもたちの日記にも書き添えました。そうやって子どもたち一人ひとりの持ち味を引き出そうと苦心しました。

 

≪便所磨きは徳永学級の得意技≫

 

太田郷小学校は2千人に近い生徒数の大規模校です。徳永先生の学級は特に便所掃除に力を入れる学級でした。しかも“便所掃除”とは言わず“便所磨き”と呼び、先生もいっしょになって便器を磨きました。

校庭の隅に八角形の便所がありました。造られた当時は、校舎は木造なのに八角便所はコンクリート造りのモダンな便所で、最先端を行っていました。しかし寄る歳つきのため、コンクリートは腐食して変色し、汚れがしみ込んで、用を足すのもはばかられるほど汚くなっていました。徳永先生の発案で、ここをみんなで掃除しようということになりました。

 

でも、あまりにも汚いので、最初の間は気持ちが悪く、腰が引けてしまいました。しかし、徳永先生は粘り強い熱意でみんなをひっぱり、瓦のかけらで床のしつこい汚れをそぎ落とし、詰まって水はけが悪くなっていた排水孔の通りをよくしました。こうしてあれほど汚かった便所が一日一日ときれいになっていきました。

 

するとみんなは便所みがきの楽しさがわかるようになり、毎朝の便所磨きはみんなが先を争ってやるようになり、明るい活気で満ちるようになりました。こうして学校一汚い便所が学校一きれいな便所に変身したのです。

 

ある朝、ラジオ体操が終わって便所掃除に行くと、とてつもなく大きな大便が、便器にかかって、どっしりと乗っかっていました。みんなは、よくもこんなに大きい大便をする子がいるなあとびっくりしました。

「こりゃほんまに人間がしたんかな! おそろしくでかいなあ」

 と、先生もみんなも大笑いし、吐き気をこらえて棒切れで大便を落とし、水で流してやっときれいになりました。こうして5組は便所みがきを誇りとするようになりました。

 

 どでかい大便を、吐き気をこらえて洗い流した少年の日記には、先生のこんなコメントが書かれていました。

「すまん、すまん。ほんとうにすまんだったね」

 私は読みながら笑ってしまいました。率直に詫びる先生! ほのぼのとしたクラスの雰囲気が伝わってきます。何て自由で闊達な教室なんだろう。みんなが誇りにしているのがわかります。

 

≪ぼくたちが太田郷小の伝統を作るんだ≫

 

ある子は便所みがきについて、日記にこう書いています。

「朝の自習時間に、5組は勢ぞろいして、瓦のかけらで西便所の小便器のふみ台みがきをやりました。そこに小便をしに来た男の人が、してよかですか? とことわり、もうしわけなさそうにされました。私たちが一生けんめいにみがいていると、はやし立て、冷やかする人もいますが、ありがたく思ってくれる人がいるかと思うととてもうれしいかった。

 

 先生は私たちをこう言ってはげましてくださいました。

『ああ、これですっかりきれいになったなあというまでは、あと2か月はかかる。こんなことはいっぺんにできるものではない。時間を見てはたんねんにみがきあげなければならないんだ。君たちが全校のみんなに、便所をきれいにしようと思い込ませることに成功すると、日本一きれいな小学校になる。

 

しかし、そう思いこませるには1年はかかる。それまでには君たちは卒業している。でも、次の5年生が跡を継いでみがいてくれたら、それが伝統になって、日本一の小学校になるだろう。君たちは伝統を作っているんだ』」

 このように徳永先生の教育は体験学習であり、実地教育でした。

 

 徳永先生の業務日誌の11月4日の項にこう書かれています。

「このごろの便所みがきは、磨く人の心のごとく、ますます磨かれてきた。ありがたいことだ」

 それが徳永先生の狙いだったのです。そして、「みんなが嫌がることを率先してやろう」という生き方が学級の中に定着していきました。(続く)

黒板の上に掲げてあった色紙「自分を育てるのは自分である」黒板の上に掲げてあった色紙「自分を育てるのは自分である」


徳永先生学校執務

沈黙の響き (その27)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その27)        1月2日

 

教育はいのちといのちの呼応です!⑯

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

昭和20年(1945)8月、長く続いた戦争がやっと終わりました。徳永康起先生は出征兵士として送り出した教え子のうち27名を戦死させていたので、その償いをし、供養をしたいと思いました。

一方で、徳永先生は類まれなる教育者だったので、教職15年目の昭和22年(1947)4月、田浦村の井牟田小学校の校長を拝命しました。しかし、前述の思いは強くなるばかりで、学校経営に携わるよりも、学級を担任し、子どもたちと直接携わりたい、それが教師としての自分が一番果たさなければならないことではないか……。

でも、自ら降格を願い出て、一教員にしてほしいと要請するのは、なかなかできることではありません。校長職に就任するというのは、教育委員会や教師仲間から評価されたことを意味するし、教師が切磋琢磨して努力する目標でもあります。それを捨て去るということは、立身出世の価値観を捨て、別な価値観に立たない限りできません。

私でなければできないようなことは何か……。

教育界で評価されて校長になることか。

それとも学級を担任し、子どもの成長に直接かかわることを最優先するべきか。

校長職はやってみると、教師の質の向上という重要な役割があるものの、学校経営に力を裂かれてしまい、肝心な子どもたちとの直接的な交わりから離れてしまうという問題がありました。これではいけない。もう一度、日々子どもたちと接触していたいと、思いは日増しに強くなっていきました。

それを後押ししたのが、兄が瀬戸内寮で示した百発ビンタの出来事でした。イエスの涙に触れ、人を責めるのではなく、痛みを分かち合うことが重要なんだと自覚し、それを実行することで瀬戸内寮がものの見事に変わっていった事実は、徳永先生の中に強烈に焼き付きました。

そこにこそ教育が持つ厳粛な力があり、自分も子どもたちとの交わりでそれを実現したい、そのためにはクラス担任となって、子どもたちの魂の成長に深く関わりたいと思いました。

≪教育界における立身出世主義≫

それともう一つ問題にしなければならないことがありました。それは教育界における立身出世主義です。どの職業においても優れた能力を示す者は抜擢され、指導するポストにつけられます。それはそれとして良いことですが、生徒の精神を教育する立場にある教師の場合、立身出世主義には警戒しなければならない要素があります。

教師の役割は、子どもたちの魂の成長に付き添い、芽が出たばかりの双葉には特に心を配り、すくすく伸びていくよう介添えを立て、土が乾き過ぎないよう潅水を施す必要があります。だからひと時たりとも手を抜くことはできません。

しかし、教師が立身出世主義に捉われ、学年主任や校長を目指してしまうと、子どもたちはないがしろにされ、繊細なケアをしてもらえない嫌いがあります。いかなる場合も、子どもの成長のために時間を割きたいと思っている徳永先生は、立身出世主義には目に見えない阻害要因が隠されていると感じました。

≪法然も驚いた仏教界に巣くっている立身出世主義≫

かつて比叡山で天台教学を学んで修行した法然(ほうねん)は、最初、西塔北谷の源光(げんこう)の下で修行し、ついで当代一流の碩学・皇円(こうえん)について学びました。ところが出家して俗世の欲望から解き放たれているはずの僧侶の世界に、権力争いや立身出世主義が横行しているのを知って愕然としました。法然はわずか三年で皇円の下を去り、西塔黒谷の叡空(えいくう)の下に遁世してしまいました。遁世というのは出家した者がさらに出家することをいい、仏教界での立身出世を拒否して、ただ一筋に求道の世界に生きることを意味します。

真摯な求道を続けた末、法然は「南無阿弥陀仏」という六字の名号を寝ても覚めてもひたすら唱えることで、弥陀の本願である救いが自分の身の上に成就すると確信しました。かくして浄土宗という新しい一派を切り拓き、しかも親鸞という逸材を育て上げ、浄土真宗を確立しました。法然は天台宗の頂点である天台座主にはなれなかったけれども、日本仏教の刷新を果たしたのです。

徳永校長は法然の生き方を鑑みたとき、改めて、

「どの世界であれ、立身出世主義は自分をそこなうことになりかねない! だから少なくとも自分は自分の中の名利を求める部分と闘い、あえて子どものために時間を割く教師であろう」

と思いました。

森先生の見解を調べてみると、やはり教育界における立身出世主義は教師自身をそこなってしまうと注意を喚起しておられました。では、実践するしかありません。ならば校長職を辞し、一教師に徹して自分の人生を終ろうと思いました。(続く)

徳永先生学校執務
徳永先生学校執務

 

※致知出版が『いのちの響き合い――徳永先生と子どもたち』を緊急出版してくださいます。暮れと正月が重なってしましましたが、それでも1月半ばには校了に漕ぎつけ、2月中旬には発売しようという意気込みです。多くの方々に教育に全集中された徳永先生の事績に触れ、暗くなりがちな世相を吹き飛ばしてもらえればと願っております。


イエスと羊たち 

沈黙の響き (その26)

2020.12.26 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その26

教育はいのちといのちの呼応です!⑮

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 

≪涙ながらの悔い改め≫

 

その後、徳永宗起寮長は一人寮を出て、海辺に行きました。暗い海面に月の光が穏やかにキラキラ反射し、一条の光の道ができていました。肌寒い夜の潮風が吹いていて、思わず襟を立てました。百発ものビンタを食らって腫れ上がった両頬と切れた唇を潮風に冷やしていると、さまざまな反省が浮んできました。寮長はいつしかひざまずいて祈っていました。

「天なる父よ、元はといえば私が悪いのです。お腹を空かしている彼らをもっといたわっていれば、お飾り餅を失敬して食べはしなかったと思います。親としての育む情が薄かった私をどうぞ許してください。いま彼らが一番欲しがっているのは、育くんでくれる親の愛でした……」

祈っていると溢れる涙を抑えることができません。冬だというのに、どこかで虫がチチチ……と鳴いています。澄み切った月が地上に穏やかな光を投げかけており、祈りの声はいつしか嗚咽に変わりました。

 

「いつの間にか、私は彼らを箸にも棒にもかからない連中だと見なし、更生させてやるんだと力んでいました……。でも、彼らが必要としていたのは叱責ではなく、育くんでくれる親の愛でした。それなのに私は居丈高に接し、立ち直らせてやろうと思っていたのです……。

 気がついてみると、瀬戸内寮は彼らを立ち直らせる場所である前に、私の愛を育てる道場なのでした……。私が成長して変れば、彼らがそれだけ自由になり、大きく成長できるのでした。それなのに私は自分のことは棚の上にあげて、彼らを更生させようと思っていたのです。折檻する直前になってそのことに気づかせていただき、罪を上塗りぜずにすみました。本当にありがとうございました……」

 

 祈り終わって目を開けると、奥さんが隣でいっしょに祈っていました。

「お前、申しわけなかった。気苦労ばかりかけて……はらはらしただろう。でもようやくイエスさまのことがわかってきた。キリスト教に入信してもう何年にもなるというのに、私はイエスさまの愛の奥行きの深さを全然知らず、ただ表面をなぞっているだけだった。今度のことで私はようやく神の秘跡に触れ、真に生まれ変わったように思う」

 静かな口調でそう言うと、奥さんはわっと泣きだしました。そして泣きはらした顔を上げて、ポツリと答えました。

「今まで少しも支えになることができず、申し訳ありませんでした。でもやっと曙光が見えましたね。これで瀬戸内寮も変わっていくでしょう。イエスさまに感謝します」

こうして瀬戸内寮は世間の人たちが一目置くような模範的な施設に変わっていきました。

 

≪規則が人を変えるのではない!≫

宗起さんがキリスト教に入信して洗礼を受けたので、父親は怒って勘当し、音信不通になりました。しかし弟の康起さんにはおおむね生活状況は知らせていました。康起さんは教師として就職すると、学校が夏休みに入る期間は毎年、救世軍で更生活動をしている宗起さんを訪ね、希望館や孝子寮、そして瀬戸内寮を手伝いました。

 

救世軍の更生活動を手伝うたびに、それは半端ではなく、義務教育の学校教育はまだまだ甘っちょろいと反省しました。徳永先生が恵まれない子どもたちに親身になって目をかけるようになったのは、宗起さんの感化だったといえます。

康起さんは昼間、保護少年の更生活動を手伝い、夜は寮長室で兄の話を聞きました。宗起さんは浴衣の胸を広げ、団扇で仰いで涼を取っています。明け放した窓から涼しい風が吹いてきて、窓辺に吊るされた風鈴をチリーンと鳴らしていました。

「昨冬起きた瀬戸内寮での往復ビンタのことを聴いて、あれが兄さんの更生教育の転換点になったと知りました」

 

 弟の質問が自分の更生教育の核心に触れたので、宗起寮長は心を込めて語りました。更生活動は信仰の具体的実践だったのです。

「そうなんだよ、あの日までは俺の中には、『こいつらの性根を叩き直して、まともな人間にしてやる』という思いがあった。一応、これでもキリスト教信者の端くれだから、表面からは居丈高なものは消しているんだが、本音では俺はあいつらのようにてれんぱれんしとらんと思っていた。だからおこがましくも、矯正してやろうなどという高慢な姿勢があったんだ」

「ところが意外な展開になって、直前になって、自分の姿勢をこそ正さなければいけないと気づいたんですね……」

 

「俺は『ヨハネによる福音書』8章に書かれているイエスさまのことがずっと頭にあった。姦淫の場で捕らえられた女が律法学者やパリサイ人によってイエスさまの前に引きずり出し、『モーセは律法に従って、こういう女は石で打ち殺せと命じている。さあ、お前はどうする!』と責めたてた……」

この箇所は「ヨハネによる福音書」の最も有名なところで、イエスの姿勢を端的に示しています。康起さんは兄の勧めによって聖書を読んでいたので、そのエピソードはよく知っていました。

 

「ところがイエスさまは身を屈めて、指で地面に何かを書いておられた。しかし、パリサイ人たちがやんやと責め立てるので、イエスさまは身を起こして彼らに言われた。

『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』

 それを聞くと、律法学者やパリサイ人たちは一人ひとり去ってしまい、ついに誰もいなくなった……。

あのとき、イエスさまは『あなたがたの中で罪のない者が………』と言われた。そう言われると、みんな思い当たることがいくつもあった。だから石を投げつけることができず、広場から去っていった……」

寮長の目が見る見るうちに潤んでいきました。そして件の聖句をそらんじました。

 

≪人を変えるのは〝愛〟なのだ!≫

 

「『女よ、みんなはどこにいるか? あなたを罰する者はなかったのか?』

『いえ、誰もございません』

『私もあなたを罰しない。さあ、行きなさい。今後はもう罪を犯さないように……』」

薄暗い電灯が宗起寮長を照らし、その光が窓の外の芝生の庭をほのかに照らしています。

「康起、俺はイエスさまが罪を犯した女に対して取られた姿勢をずっと考えていた。イエスさまは罪を犯した女を全然責めてはおられず、むしろそうなってしまった女の事情を汲みとり、いっしょに泣かれたのではないか。女はイエスさまが自分のことで胸をつぶし、泣いておられると感じたとき、はらはらと涙をこぼし、イエスさま、ごめんなさいと心からお詫びした。

 

 それに引き換え、俺はどうだ。みんなを責め、あまつさえ罰を加えようとしていた。律法の厳守を唱えて、正義面していたパリサイ人そのものじゃないか! そのことに気づいたから、俺はみんなに罰を下すことを止め、代わりに寮長である自分自身を罰することにしたんだ……」

「そうだったんですか。すんでのところで思いとどまったんですね。もし、あのままみんなを罰していたら、寮長と寮生の間にはもう越えることができない決定的な溝ができたでしょう」

「そうなんだ。瀬戸内寮は手をつけられないほどに混乱していただろう。

俺も寮生も共々、イエスさまに助けられたんだ」

 

「なるほど、正義を振り回すパリサイ人であってはならないというのはそういうことなんですか! 私は全然気づかなかった……。イエスさまの愛って深遠なんですね。もう一度静かに祈ってみます」

事の顚末を聞き、康起さんはイエスの教えの奥深さに改めて驚嘆し、祈り、黙想することの大切さを知りました。夏休みのたびに兄を訪ね、いっしょに活動して、康起さんは教師として一皮も二皮も剥けました。(続く)

 


イエスと羊たち 


涙をこぼされるイエスさま

沈黙の響き (その25)

2020.12.19 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その25

教育はいのちといのちの呼応です!⑭

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 

≪お供えの飾り餅を食べてしまった!≫

昭和16年(1941)1月、宗起さんが寮長として香川県坂出市の少年収容施設・瀬戸内寮に勤めているときのことです。大阪の希望館が模範的な産業挺身隊に変わっていったように、瀬戸内寮も新しい徳永寮長の元、変わりつつありました。

ところが寮長が不在のとき、保護少年たちが食堂に供えられていた正月の飾り餅を焼いて食べるという不祥事が起きました。大東亜戦争が始まって物資や食糧が欠乏していたので、腹を空かせた少年たちが飾り餅を焼いて食べてしまったという事情はわかります。しかし宗起寮長は少年たちを厳しい口調で叱りました。

「君たちは、何という情けないことをしたのか。これは普通の餅じゃなくて、神さまへのお供えの餅だぞ。こんな愚かな行為で、私たちの産業挺身隊全体の名誉を傷つけてしまったではないか。()(さい)な行為とはいえ、私は不問にすることはできない。不問や見逃しは次の失敗に繋がるからだ。従ってしっかりとケジメをつける必要がある」

 50名ほど寮生がいる瀬戸内寮は産業挺身隊の名前で造船所や鉄工所などに人員を派遣し、優秀な成績を収めて表彰され、それが誇りとなっていたのです。でも、少年たちはたかが飾り餅を食べたぐらいで何だと軽く考え、せせら笑いすら浮かべていました。でも寮長は真剣です。

「今から、その責任者を処罰する。だがその前に君たちは私の言い付け通りに実行することを誓うか!」

と全員に、「従います」と強引なまでに約束させました。

その瞬間、寮長の中にイエスの声が臨みました。

(罰されるべきなのは彼らじゃない、お前だ。お前の姿勢は私のものとは似ても似つかず、パリサイ人そのものだ!)

それにはギョッとしました。明らかにイエスの声です。

(人を悔い改めさせるのは律法ではない! 愛だ。あの女が悔い改めたのは、『姦淫してはならない』という律法によってではなく、私があの女に流した涙ゆえだった。いま寮生たちを罰したら、みんなは態度を硬化して、お前をますます拒否し、逆の結果を招くことになってしまうぞ)

寮生を罰すべきではないという瞬時の教えでした。

 

≪罰として往復ビンタ百発!≫

「罰として責任者には、みんなで左右往復2発のビンタを食らわせる。いいな!

この寮の最高責任者はこの私だ。真っ先にお詫びしなければいけないのは私であって、懲罰を受けるべきなのは私だ。サアみんなで私を処罰して、ビンタを食らわせ!」

そう言って頭を差し出しました。一同は唖然とし、動揺が走りました。寮長はちっとも悪くないのに、なぜ寮長をお仕置きするの? でも、寮長は一人ずつ前に進ませ、順番に自分の頬を平手打ちさせました。遠慮して軽く叩いた者には、「駄目だ! もう一度やり直せ」と叱責し、再度叩かせました。

そのため宗起寮長の両頬は何十発もの往復ビンタを食らい、頬が赤く腫れ上がり、口の中が切れ、唇から血がしたたり落ちました。まさかの展開に寮生が涙声で、「先生、許してください。とても叩けません」とお詫びしました。でも寮長はふらふらして傾いてしまう体を奮い起こし、「駄目だ、約束だ。ちゃんとお仕置きしろ」と怒鳴りました。

みんなは正視できなくて、ある者はうつむき、ある者は天を仰いで必死に涙をこらえています。列の中で誰かが口を押えて嗚咽しています。叩く順番が回ってきた者が、

「先生、駄目です。かんべんしてください。とても叩けません」

と泣きだしました。徳永寮長は立っているのもやっとでふらふらで、よくぞ気を失わなかったものです。こうして50名全員が終わるころにはみんな泣いていました。

「先生、すみません。もう二度とやりません」

「さあ、終わった。みんな、厳しく折檻してくれてありがとう。私も心を入れ替える。これから瀬戸内寮が新しく出発する。お祝いしよう!」

 寮長は腫れあがった顔で、血糊がついた手のままで一人ひとりと握手し、再出発できたことを喜び合いました。(続き)

 


涙をこぼされるイエスさま

 

 


希望館の館長時代の徳永宗起さん

沈黙の響き (その24)

2020.12.12 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その24

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑬

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

≪少年保護事業所・大阪の希望館≫

 昭和14年(1939)、宗起さんは大阪少年審判所管内の少年保護事業である希望館の第四代館長代理になりました。前館長が病気で倒れたので、急遽指名されたのです。

 家族をつれて赴任してみると、わずか12名の寮生が起居している希望館なのに、窓ガラス38枚も割れたままで補修されておらず、荒れた状態でした。

 

 集合と声をかけても、のろのろとしか集まってこず、笑顔を忘れ、白い目で絶えず周囲をうかがっています。履物をはかせると脱走が多くなるというので、靴を履くことを禁止されていました。だから裸足で庭に降り、そのままその足で廊下に上がるので、廊下も講堂も礼拝堂も2階の居室も裸足の跡で汚れていました。布団は長いこと陽に干さないのか湿っており、寝室は異様な臭気が漂っていました。経営状態が悪いので、3度の食事は顔を見合わせるような粗食と量しか出ませんでした。

 

 先任の職員たちはサジを投げたような批評ばかり述べます。

「連中はタチの悪い悪質者ばかりで、箸にも棒にもかからない手合いです」

「とても粗暴で、油断も隙もできません」

「みんな危険な連中で、いつ不穏、不祥事が起こるかわかりません」

「やつらは改善感化の対象にふさわしくない連中ばかりです」

 これでは職員と少年たちがかみ合うはずがありません。

 

 職員たちが不平をこぼしたように、2週間経ち、3週間経っても、少年たちは一向に打ち解けてくれません。物心ついてからこの方、長い年月の間、彼らは家庭でも学校でも職場でも不良の烙印が押され、警戒され、白眼視されてきたので、硬い殻に閉じこもっており、簡単に敗れるものではありませんでした。彼らはすべての大人たちを疑っていて、指導者は眉唾ものと決め込んでいて、難攻不落なように見えました。

 

 これは絶好の神の摂理だ!

 どうやってこの壁を突き崩そうかと思案していたとき、ある考えが湧いてきました。

(私は4年で卒業して教壇に立つことができたのに、遠回りして、導かれるままに救世軍に身を投じた。そして結核療養所で一命を取り留め、その後、各地で178年間、任務を遂行し、いま思いもかけず、青少年の教育現場で働くようになった。

この青少年の教育というのは私がもともと志していたことではないか! ひねくれてかなり手ごわい相手だけれども、これを神の摂理、神の恵みといわず、何と言おうか。

 この境遇は世に貧民学校と指さされたころのペスタロッチの境遇と似通っている。私はこの少年たちを立ち直らせる力をつけるために、方々に遣わされて訓練され、いまここに遣わされたのだ! ここはすばらしい人生道場だぞ)

 そう思い至ったとき、宗起さんは神の配剤の妙なることに心打たれる思いがしました。だから俄然力が湧き、少年たちに対する愛と希望が燃え上がりました。すると不思議なことに、少年たちを悪く考える気持ちが消えてゆき、非行少年に対する世間の冷たさを見聞きすると、逆に非行少年たちの味方になり、かばっていました。

 協力的な職員が入院してしまって戦力から外れたり、非協力的な職員が割に合わない勤務から去っていったりして、希望館の混乱は続きましたが、宗起さんは悲観しませんでした。

 

≪私は掃除夫、妻は炊事係だと割り切る≫

 宗起さんは、私の肩書は館長代理かもしれないが、実際は廊下や各居室を掃除し、整理整頓する掃除夫で、妻は3度3度の炊事係だと思い込みました。毎朝、不承不承に起き出して、いやいやながら掃除をし、見えないところで手抜きする掃除が良かろうはずはありません。なるべく少年たちの目につかないよう、少年たちの勉学時間や労作時間を見計らって、便所、洗面所、居室と雑巾(ぞうきん)がけをしました。するとそれを続けているうちに、三吉という少年が「館長、手伝いまっさ」と申し出て、拭き掃除を始めました。

 

「三吉君、ありがとう。とても助かるよ」と感謝すると、敏捷な三吉君が館長の雑巾をひったくり、「ぼくに任せておくんなさい」とまめに掃除するので、だんだん廊下に泥が上がらなくなりました。

「こりゃすごい。廊下が、ぼくが髯を剃るとき使う鏡の代用になるほど、ピカピカに磨き上げてくれ」

 と館長は励ましました。三吉君が一生懸命やっているので、他の少年たちも協力するようになり、泥足の習慣はいつの間にか改善されました。廊下の輝きが増すにつれ、三吉君の人相も輝きを増していきました。

「おい、三吉君。ついでに君の心も磨けよな」

 と言うと、館長の冗談に三吉君は首を縮め、ぺろりと舌を出して照れました。

 奥さんは乏しい財政のなか、足繁く市場に通い、なるべく栄養価の高くて鮮度のいい食品を買い求め、満腹感を覚える献立つくりに苦心しました。食卓に心のこもった工夫のあとがありありと見え、食事の時間が華やいでいきました。奥さんは4人の小さい子どもたちの子育てをしながらだったので、寝る時間もありませんでした。

 

 ≪あっぱれ! A少年の井戸掘り≫

 12名の少年の中に、大阪の今宮辺りを根城に、恐喝、空き巣、かっぱらいをくり返していた(ちょう)()(きゅう)のワルがいました。ご多分に漏れず、彼には罪悪感など微塵もなく、悪の(かたまり)のようでした。

 

 ところが夕食後、庭で遊んでいる宗起さんの子どもたちが無邪気に、「〇△□のお兄ちゃん」と呼んでじゃれています。赴任するとき、小さな子どもたちのいっしょに行くというので、それは止めた方がいいと引き留められたのですが、無邪気な子どもたちの信じ切った笑顔が性悪たちの気持ちをほぐしていました。

 

A少年と子どもたちの交流が深まるにつれ、心なしかA君の人相も変ってきました。ある夕方、屑鉄(くずてつ)拾いに興味を持つA君が、庭の片隅で埋もれていた鉄片を掘り出しました。

「徳永先生、鉄板らしいものが埋もれていました。もっと掘ってもよろしうおますか?」

 許可すると、嬉々として掘り起こし、作業に熱中しています。

「A君、その調子で掘れば、水が出ないだろうか? そこに井戸ができると、庭木の潅水(かんすい)や洗濯、行水に便利なんだけどなあ」

 

 するとA君は「先生、やってみますか?」と請け負い、毎夕、休憩時間に独力で穴掘りを続け、とうとうきれいな水を掘り当てました。コンクリートの井戸枠を4、5本入れるころには他の少年たちも手伝い、ついに完成しました。徳永館長代理も奥さんもみんなも大喜びし、庭の打ち水に庭木の潅水に洗濯、行水にと、大助かりです。

 徳永館長や奥さんやみんなに感謝されて、A君はすっかり自信を持ちました。以後、亜鉛カン作業に抜群の成績を上げるようになり、とうとう退館(卒業)に漕ぎつけました。そして退館後は、道路一つ隔てた鉄工所で一番の働き手になり、重宝がられました。

 

 一つのことに自信を持ち、誇りを持てば、次の能力開発につながり、人間を立ち直らせることをA君は如実に示しました。そういう事例がどんどん出てきて、希望館は建設的な笑い声で満ちあふれるようになり、希望館は大阪で模範的な少年保護事業所に変っていきました。そして松下乾電池㈱の亜鉛カン作りを委託されたり、海軍監督工場である大正重機協同組合工場に生産挺身隊を送るよう要請されるようになりました。(続く)

 


希望館の館長時代の徳永宗起さん


沈黙の響き (その23)

2020.12.5 ウイークリーメッセージ(その23)⑫

(仮)『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』の序文

                            神渡良平

(仮)『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』を脱稿しました。今、ある出版社で検討していただいています。その序文をお送りします。

 

 人はそれぞれ天から授かっている封書があるといいます。私たちは天から〝いのち〟を賜(たまわ)っており、それぞれの〝いのち〟に使命が書き記されている封書が添えられているというのです。この人生をどうまとめ上げて天にお返しするか、誰しもが感じていることであり、生きている限り、このことをくり返し問うているともいえます。

 熊本の一教師徳永康(やす)起(き)先生もこの問題を終生自分に問いかけました。

 徳永先生は出会った教え子たちの心の支えとなる教師でありたいと自分に誓いました。例えば、八代市立太田郷(おおたごう)小学校5、6年生のとき、わずか2か年担任した生徒たちが、中学、高校と進み、社会人になっても交流が続きました。そして小学校卒業後の3年目、10年目と先生の手で文集が作成され、さらに15年目、今度は教え子たちが自分たちの手で、お礼の意味を込めて文集を刊行したのです。

 わずか5百部ほどの文集でしたが、それを読んだ人々、中でも教職にある人々はショックを受けました。教師が教え子たちの魂の成長に傾注したとき、ここまで感化できるのかと、とても考えさせられたのです。

 この文集が出版社の目に留まり、『教え子みな吾が師なり』(徳永康起編 浪速社)として出版されました。これを「国民教育の友」であり、教職者たちに支持者が多い森信三元神戸大学教授が激賞されたことから一気に火がつき、ブームになりました。

 昭和五十四年(一九七九)六月、徳永先生がこの世でのいのちを終え、葬式が営まれたとき、教え子を初め、同志同行の三百名を超す人々が詰めかけ、地元の熊本日日新聞もその逝去を悼(いた)んで報道しました。

 そういう事実を見るにつけ、一人の人間が自分の使命に目覚め、その実現に向けてひたむきに努力をすればどういうことが起きるのか、本書はその忠実な記録です。

 改めて、私たちはそれぞれ偉大な使命をいただいて、地上に送られているのだと痛感します。ここでいう偉大な使命とは、世間的に評価される使命という意味ではなく、その人にしか成就できない使命という意味です。

 この本があなたの人生に少しでも寄与できれば、幸せに存じます。

 令和2年11月吉日


超凡破格の教師といわれ、「康起菩薩」とも称えられた徳永先生


沈黙の響き (その22)

2020.11.28 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その22

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑪

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

≪なぜ、徳永先生は無私の教育に打ち込めたのか?≫

 ここまで書いてくると、みなさんの中に疑問が起こるのではないでしょうか。

「徳永先生はなぜそこまで徹底して、恵まれない児童生徒たちに心を配り、その目線まで降りて抱きしめることができたのだろうか」

 私も当然その疑問を抱き、電話口で徳永先生の教え子に尋ねました。すると彼は1冊の手記を紹介して、こう言いました。

「徳永先生がもっとも尊敬されていた5歳離れた長兄の(むね)()さんが、ご自分の人生をふり返って書かれた『哀歓三十年』(私家版)という手記があります。これをお読みになったら、その疑問が解けるはずです」

 

私はその手記が郵送されてくるのももどかしく、配達されるや否や、早速読み始めました。そして没頭し、その夜は明け方まで読みふけり、なるほどそういうことだったのか! と得心しました。感銘深く読み終わってフーッと深呼吸したとき、書斎の窓の外はいつの間にか明るくなっていました。少し長くなりますが、徳永先生を勇気づけた宗起さんの手記を要約して紹介します。

 

≪ペスタロッチの精神にあこがれて教職者を目指す≫

兄の(むね)()さんが青雲の志を抱いて熊本県立第一師範学校に入学したのは大正11年(1922)のことでした。彼が教師を目指したのは、准教員養成所時代、ペスタロッチの伝記を読んであこがれ、教育こそ男の仕事だと思ったからでした。

ようやく家内制手工業の段階に入った18世紀のヨーロッパは、貧民を恰好な労働力と考え、安い賃金で酷使しました。それを見たぺスタロッチは悪習を止めさせようと、

「貧民は施し物によって救済されるのではありません。彼ら自身が自らを助け自立して、人間らしい生活をしていくのに必要な能力を身につけられるよう援助してやるとき、初めて真に救われることになるのです」

そこには“神の似姿”である人間を育てようというキリスト教的使命感がありました。

「私たちは同胞のうちにある神の似姿に対して、大きな責任を負っています。偉大な人と乞食との違いはどれほどのものだと言うのですか。本質的には違いなど、ほとんどありません」

 そう言って、貧民学校を開設して教育を施しました。ぺスタロッチのそうした実践は何度も挫折し、友人たちは彼が精神病院で生涯を終えることになるのではないかと心配しました。しかし立ち直って学校教育を続け、イヴェルドン市で開設したイヴェルドン学園はだんだん評判を呼び、ペスタロッチ主義の教育を学ぼうと、多くの教師たちが詰めかけるまでになりました。ペスタロッチの教育の成果を聞きつけて、生徒もヨーロッパ中から来るようになり、イギリスやフランスなど、各地にペスタロッチ主義の学校が開設されていきました。

政府の諮問機関はペスタロッチの教育を視察して、「彼の学校では教師は子どもの同輩のよう行動し、むしろ子どもから学んでいるようにさえ見える」と報告しています。(続き)

 



多くの教育者の模範となったペスタロッチ