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かっこちゃん先生に抱きついて喜びを表す子どもたち

沈黙の響き (その77)

「沈黙の響き(その77)」

山元加津子さんと特別支援学校の子どもたち

 

 

 12世紀、イタリアで育ったアッシジのフランチェスコは小鳥たちと無邪気に遊びたわむれたそうです。小鳥たちはすっかり警戒心を解いてフランチェスコの周りを飛び回りましたが、天真爛漫さを回復させる心は現代社会がもう一度取り戻さなければいけないものです。そのことを私たちに気づかせてくれる事例をたくさんお持ちの人が日本におられます。

 

長年、石川県の特別支援学校に勤務していて、7年前に退職された山元加津子(かつこ)先生はみんなから「かっこちゃん」と呼ばれて慕われています。そこで私も僭越ながら「かっこちゃん」と呼びます。かっこちゃんはもう60数歳ですが、今でも少女のような心持ちの人なので、誰もが裃を脱いで無邪気になってしまいます。

 かっこちゃん先生が担当する障害児たちが奇跡的な回復と成長を見せるので、保護者たちは愛の働きかけが持っている不思議な力に目覚めていきました。

 

≪目も見えず、動くこともできないちいちゃん≫

かっこちゃん先生が教員になって初めて担任した女の子は柵が付いたベッドに寝かされていました。目が見えず、手足も動かず、何も考えていないと思われていました。同じ部屋の子どもたちは胃に穴を開けてチューブで栄養を入れて生きていました。両親とは何年も会っていません。というのは、重い障害児が生まれると、その施設の園長でもある医師は親御さんにやんわりと言いました。

 

「この子は施設の子どもとして、わたしたちが大切に育てます。だからあなたがたはこの子にかかずらわずに、ご自分の人生を歩みだしてください」

 ちょっと首をかしげたくなるアドバイスです。かっこちゃん先生も園長先生から言い渡されました。

「あなたが明日から担当する女の子は無脳症です。つまり大脳半球は委縮してまったくありません。その結果、神経管欠損症を発症していて反応しないんです。大脳が機能していないから何をやっても無駄です」

 

 そう言われても、かっこちゃん先生にとってはちいちゃんは初めて担任する子どもだったので、とりわけかわいかった。お母さんはかわいい赤ちゃんが泣いたら抱き上げて揺らし、小守り歌を歌って、大好きだよと頬ずりするものです。かっこちゃん先生もそうしたくなりました。

 

 赤ちゃんは何もしないで置いておくと背骨は曲がらなくなり、手足は硬直し、骨ももろくなり骨折しやすくなります。それで看護師さんも怖いので触れないようにし、トイレとご飯の世話以外は一切しませんでした。

 

 でも、かっこちゃん先生は病室には誰も来ないし、見つからないからいいだろうと思い、ちいちゃんを抱き上げて抱っこして体をゆすり、歌を歌って、大好きだよと話しかけていました。そんな毎日が続いたある日、看護師さんが「大変なことがわかりました!」とかっこちゃん先生を呼び止めました。かっこちゃん先生は間違ってちいちゃんの骨でも折ったのではないかとドキッとしました。

 

「そうではなくて、大変なことがわかったんです。ちいちゃんがいる病室はどの子も寝たきりで動けず、胃瘻(いろう)カテーテルで栄養補給をしているので、とても静かなんです。ところが山元先生の足音が聞こえてくると、ちいちゃんが手足をバタバタ動かすんです。他の人の足音では決してバタバタしません。まさかと思ったけれども間違いありません。あの子は山元先生と他の人の足音を聞き分け、先生の足音だと喜んでいるんです」

 

 山元先生はちいちゃんが自分のことを特別な人と思って待っていてくれるんだと思ったら、胸がいっぱいになり、涙が止まりませんでした。

 

≪「大好き!」は魔法の言葉≫

 山元先生がちいちゃんに「大好きだよ、かわいいね」と語りかけると、にこっと笑います。「今日はもう帰るね」というと泣きます。ちいちゃんがなぜそうした言葉の意味がわかるのか、わかりませんでした。

 

手遊びで、「一本橋、こーちょこちょ」とくすぐる遊びをしました。最初は何の反応もありませんでしたが、続けているとある日、「階段上って、こーちょこちょ」とくすぐると、声を挙げて「わー」と笑いました。

 

 山元先生は嬉しくなって園長先生のところに飛んでいき、「ちいちゃんは全部わかっています。こうやったら笑いました」と報告すると、現下に「そんなことはあり得ません。あの子は大脳がないんだから、ただの機械的反射に過ぎないでしょう」と否定されました。

 

 翌日もまたちいちゃんと「一本橋、こーちょこちょ」をやって遊びました。そして「一本橋、こーちょこちょ。階段上って」とやって、そこで止めてみました。するとちいちゃんが「あれっ、そろそろくすぐってくれるはずじゃないの?」と怪訝(けげん)そうに首をかしげます。これはくすぐっていないから反射的反応ではありません。次にくすぐってくれるはずだと“予測”する力があることを示しています。こうしてちいちゃんの隠れていた潜在能力に気がついていきました。

 

 あるとき、子ギツネとお母さんギツネの絵本を読み聞かせしていて、

「子ギツネはお母さん、お母さーんと泣きました」

 と読むと、ちいちゃんの目に涙が溜まりました。山元先生は、ちいちゃんはお母さんに長いこと会っていないから、母の愛情はわからないはずだし、キツネとか冬とかも知らないはずなので、物語がわかるはずがないと不思議に思いました。

 

 ところが翌日、「お母さんが心配でたまらない子ギツネは、お母さーん、お母さーんと泣きました」という部分を読んだら、またちいちゃんはポロポロ涙をこぼしました。山元先生は胸がいっぱいになって、ちいちゃんをぎゅっと抱きしめ、「大丈夫、わたしがいるよ」と慰めました。

 

 山元先生はそれまで、人は教育によっていろいろなことを学ぶのだと思っていました。でもそれだったらちいちゃんは何も知らないはずだから、そこで涙をこぼさないはずです。だから人間は生まれる前から全部わかっていると思うしかありません。どんなに障害が重くても、どの子もわたしたちと同じように深い思いを持っているとしか思えません。

 

 たとえ脳に重たい損傷があったとしても、体を起こし、揺らし、大好きだよと語りかけ、音楽を聴かせたりすると、脳幹を刺激して活発になるのです。山元先生はこうした経験から、医師や看護師に、「子どもたちはみんなわかっていて、回復する力があります」と説いても、「かっこちゃんマジック」とか、「ミラクルかっこちゃん」などと茶化されて、なかなかわかってもらえませんでした。(続く)

かっこちゃん先生に抱きついて喜びを表す子どもたち

写真=かっこちゃん先生に抱きついて喜びを表す子どもたち


祈りは結晶化する!

沈黙の響き (その76)

「沈黙の響き(その76)」

モアイの修復に日本が貢献

 

≪多田野弘タダノ会長がイースター島のモアイ像の修復を申し出る ≫

昭和63年(1988)、日本のあるテレビ局が世界7不思議の一つと言われているイースター島のモアイ像の特集を組んで放映しました。

イースター島は南米チリの西方約3千8百キロ沖合の南太平洋に位置しており、日本からは赤道を超えて太平洋を南下して約1万5千キロ離れている絶海の孤島です。

 

 この島は1722年、オランダ人堤督ヤコブ・ロッへフェーンが西欧人として初めてこの島に上陸しましたが、その日がちょうどキリスト教のイースター(復活祭)だったため、その島をイースター島と名づけました。島には12世紀から15世紀ごろ建造されたらしい巨大な石像が何体も立っていました。

 

 この島は全土に大きな椰子(やし)の木が生い茂っている緑豊かな平和な土地でした。ところが乱開発が進み、家や舟の建材を得るために樹木が伐採され、森林が急速に減少し、土地がやせていきました。加えて長年にわたる部族間抗争によって人口減少が続き、1万人もの人々が住んでいた島が、1774年にイギリス人探検家ジェームズ・クックが上陸したときにはわずか6百人に減少していました。さらに昭和35年(1960)にチリを襲った大地震によって、遺されたモアイも倒壊してしまいました。

 

テレビ映像は28年間倒壊したままになっている無惨なモアイ像を映しだし、世界の文化財の修復こそ平和に貢献する日本の役割ではないかと訴えました。

その特集番組を観て、高松市に本社を置くクレーンメーカー()タダノの多田野弘(ただのひろし)会長が振るい立ち、ぜひわが社で修復を引き受けたいと申し出ました。多田野会長は何か社会に貢献できることはないかと探していたのです。

多田野会長の熱意に呼応して、奈良国立文化財研究所、および飛鳥建設が協力して、モアイ修復委員会が結成されました。この申し出にチリ政府は大感激し、チリ大学イースター島博物館がさまざまな情報を提供して準備が始まりました。

 

こうして平成2年(1990)から約3年間かけて、5百年から8百年もの間、潮風にさらされてもろくなった、10トン以上もある大きなモアイ像をクレーンで吊り上げて、アフという台座(祭壇)に安置しました。こうして倒壊していたモアイ像15体は完全に修復され、イースター島はユネスコ世界遺産に「ラパヌイ国立公園」として登録されました。ラパ・ヌイとはポリネシア語で「大きな島」という意味で、島に住む人々は現在も自分たちの島をラパ・ヌイと呼んでいます。

 

≪日本にモアイ像の復刻が特別に許可された!≫

 平成6年(1994)1月、西田多戈止さんはさっそく㈱タダノの本社を訪ね、多田野会長に会いました。

「モアイを日南海岸に移築することは可能でしょうか。私どもが日南海岸に持っている和郷牧場跡地を再開発することになったので、ここに天香さんが説いている光明祈願『不二の光明によりて新生し許されて活きん』を体現した祈りの場をつくろうとしているのです」

 と、牧場跡地で得たインスピレーションを語りました。

 

「太陽からのメッセージを受けて、地球に許される生き方に気づく場所にすべく、そこにモアイ像を設置したらどうかと考えました」

 するとそのプロジェクトに、今度は多田野会長が驚きました。

「お陰さまでイースター島のモアイは無事修復され、世界遺産に登録される運びとなりました。イースター島の長老会は日本の修復チームに大変感謝し、お礼にモアイ像を日本で復刻することを許可してくださったのです。世界で初めて復刻が許可されたので、信じられないような思いです。

 

しかし、一体5メートルを超す巨大なモアイ像を7体も設置する場所は、相当広い面積を必要とするので、通常の場所ではとても無理です。でも、西田当番がお申し出のように、日南海岸の牧場跡地だったら最適です」

そこで構想は一気にまとまり、プロジェクトが動き出しました。飛島建設の石工の左野勝司さんが凝灰岩(火山灰が固まってできた柔らかい石)を刻んで復刻しました。平成8年(1996)年4月、地球の平和を願って、太平洋をはるかに見晴らす日南海岸の景勝地に開設された「サンメッセ日南」にモアイ像7体が設置され、マスコミがこぞって報道しました。

 

≪諸宗教団体が祈りの運動に呼応≫

一方、西田当番は諸宗教に、サンメッセ日南に「地球感謝の鐘」を設置しようと呼びかけました。一燈園はかねてから宗教の壁を超えた超教派活動を熱心に行っていたので、各宗教団体が賛同して参加を申し込んできました。

 

山田恵諦(えたい)天台座主(ざす)は「地球よありがとう。地球よごめんなさい」というメッセージを送ってきました。立正佼成会の庭野日敬(にっきょう)開祖は「かけがえのない地球に住む縁に感謝」と表現されました。カトリック東京大司教区の白柳誠一枢機卿は「主よ、揺れ動く地の裂け目をなおしてください」とメッセージを送り、大本山池上本門寺の田中日淳(にちじゅん)貫主(かんしゅ)は「大地の恵みを合掌で頂き、いたみは感謝の涙で清めます」という言葉をくださいました。

 

海外からはフランシスコ会修道会のマクシミリアン・ミッツィー神父が聖フランシスコの詩「太陽讃歌」から一句選んで送ってきました。チベットのダライ・ラマも「手遅れになる前に行動しなくては」というメッセージを送りました。こうして16教団から提言の言葉をいただき、17教団からは建設資金も提供されました。

 

春分の日と秋分の日には、真東の海の向こうから昇った太陽が、7体のモアイ像の背後から射してサンメッセ日南の中央の「太陽の階段」を駆け上り、頂上に設置されている「地球感謝の鐘」の真ん中に差し込むという素晴らしい施設ができあがりました。

 

幸いなことにサンメッセ日南は令和2年(2020)4月13日に24周年を迎えました。この年の3月11日には入場者数が4百万人に達し、一燈園のメッセージが少しは伝わったような気がします」

 

沈黙の響きに心耳を澄まし、かそけき内なる声に耳を傾けると、そこから大きな気づきがやってきます。物事の背後にはこうした善意の祈りがあり、日南海岸に立つモアイ像も建立にかかわった人々の祈りが結晶化したものでした。

冒頭に引用した安岡先生と同じように大変な炯眼(けいがん)の持ち主で、特に学校の教師たちに支持者が多く、「実践人の家」という自己啓発の会を主宰した森信三元神戸大学教授は名著『修身教授録』(致知出版社)で、私たち人間のことをこう述べておられます。

 

「われわれ一人びとりの生命は、絶大なる宇宙生命の極微の一分身といってよい。したがって自己をかくあらしめる大宇宙意志によって課せられた、この地上的使命を果たすところに、人生の新意義はある」

 この人間観は宗教が説く普遍的な叡智に通じており、それを目指す私たちを“持続可能な”人間にしてくれています。沈黙の響きに耳を澄まし、内なる声を聴きとる努力を重ねたとき、私たちは私たちの社会をかけがえのないものにすることができるように思います。(続く)

祈りは結晶化する!

写真=祈りは結晶化する!

 


太平洋を見晴るかすサンメッセ日南のモアイ像

沈黙の響き (その75)

「沈黙の響き(その75)」

モアイ像を日本に導いた暁の祈り

 

 

 

≪人間は無限なる存在が肉体を持って有限化した存在だ!≫

 大正から昭和にかけて世の中に多大な影響を与えた東洋思想家安岡正篤先生は『運命を開く』(プレジデント社)のなかで、実に深遠な人間観を語っておられます。

「人間というものは、ある全きものでなければならない。人間の生命というものは、無限にして永遠なるものです。その偉大な生命が何らかの機縁によって、たまたま一定の存在になり、一つの形態を取るのです。

そこで我々が存在するということは、すでに無限の限定である、無限の有限化であるということを知る必要がある。この有限化を常に無限と一致させるということが真理であり、道理であり、道徳であります」

 

つまり大宇宙の本質である究極実在が何らかの機縁によって有限化して、目に見える形になっているのが人間だというのです。人間はその人生をかけて不断の努力をして人格を神にまで高めていくことが求められていると説いておられます。人生とは自分をいつも祈りによって啓発し、根源なる存在と一致させるものだと説かれます。

 

≪日南海岸に設置されたモアイ像≫

祈りを通して、いま何をなすべきかということがだんだん明確になってくるという好例が、一燈園が日南海岸で経営しているサンメッセ日南開設の事例です。

一燈園は昭和の後半、日南海岸にある25へクタールもの和郷(わきょう)牧場で、黒毛和牛を生産していましたが、経営に行き詰まって閉鎖していました。しかし、平成5年(1993)、地元の日南市宮浦は村おこしのためにも、牧場跡地を何らかの形で再開発してほしいと希望してきました。そのプロジェクトに2つの企画案が上がっていましたが、一燈園当番(代表者)の西田多戈止(たかし)さんはどちらの案にも決めかねて迷っていました。

 

 日南市と宮崎市を結ぶ国道220号線脇のドライブインで企画会議を行っていたのですが、なかなか結論が出ず、重苦しい雰囲気になっていました。多戈止さんは気分転換に会議を抜け出し、牧場跡の丘に登りました。広大な牧草地の前方には紺碧の大海原がどこまでも広がっていました。

 

 それを眺めていると、いつの間にか日が暮れ、あたりを静寂が包んでいました。崖下の国道を走る車のヘッドライトも上までは上がってきません。ふと気がつくと、前方の海に小さな灯りが点々と点いていました。漁火(いさりび)です。漁師たちが漁をして、大海原から大自然の恵みをいただいているのです。

 

その灯もいつしか消え、頭上には満天の星がきらめきだしました。多戈止さんは自ずから瞑想に入り、夜空に銀の砂をまき散らしたような銀河の淵にたたずんで、忘我の世界に遊んでいました。夜の冷え込みもさして気にならず、坐ったままうとうととしていました。

 

≪暁に祈り、太陽からのメッセージを受け取った!≫

うたた寝からふと目が覚めると、東の空が白々と明け始め、水平線が左右にゆっくり広がっていきました。目の前で荘厳な日の出が始まり、ただただ無心に見入りました。

太陽が水平線に近づくにつれ、水平線上の雲の輪郭が光で白く縁どられ、(あかね)色に染まっています。太陽が水平線から顔を出すと、光の帯がサーッと海面を走り、キラキラと輝いて、多戈止さんのところに届きました。

 

その瞬間、(光の帯を通して、太陽が私に話しかけているようだ! 私たちは心が通じ合っているのだ……)と思いました。光の帯をたどって幻想が広がっていきます。

(太平洋の向こうには何があるのだろうか……

ハワイだろうか……何の島だろうか……

さらにその向こうには南太平洋が広がっており、イースター島があるんだろうな……)

 

太陽は多戈止さんをイースター島に結びつけてくれたのです。

(イースター島といえば世界の7不思議といわれるモアイ像がある……

その昔、高さ5メートルを超す巨大な石像が建造されたそうだけど、その目的も何もわからないまま謎に包まれ、石像はただ南太平洋の海原をじーっと見詰めている……)

思いがイースター島に及ぶと、思考の焦点が定まってきました。

 

(そうだ! もしイースター島のモアイ像をここに持ってきて、太平洋と南太平洋を間に挟んで、イースター島のモアイと日南海岸のモアイに地球環境について対話させたらどうだろう。

もうこれ以上地球を汚してはいけない。このまま地球汚染を放置しておくと、イースター島がたどったような滅びの道に陥ってしまうと、地球再生という大きなメッセージを投げかけてくれるのではなかろうか)

 

 暁の祈りのなかで、多戈止さんはモアイ像を設置しようという結論に導かれていきました。

 ドライブインでの会議に戻ると、多戈止さんは昨晩満天の星空の下、太平洋を眺めながら考えたことを話しました。

「もしモアイ像を設置したら人々の関心を引くでしょうし、地球再生という大切なメッセージを送ることができると思いますが、どうでしょうか?」

 

 すると検討チームの一員からすぐさま反応がありました。

「モアイ像というアイデアはすばらしい。誰もが興味を持ちますよ」

 すると他の人が新たな情報を語りました。

「この間テレビニュースで、日本のチームがイースター島で倒壊したモアイを修復していると報じられていました。確か、クレーンのタダノが資金を提供し、奈良国立文化財研究所と長年石の建造物を扱ってきた石屋さんと一緒になって修復に乗り出したとか」

 

 タダノと聞いて多戈止さんはびっくりしました。

「多田野弘会長ならよく知っています。タダノは一燈園の研修に社員や奨学生を参加させているんです」

 そう答えながら、モアイを日南海岸に建造することは可能かもしれない、いやできそうだと予感しました。多戈止さんが暁の祈りのなかで着想を得たとき、地球の反対側のイースター島では修復工事が進められていたのです。さっそく調べてみると不思議な事実が判明しました。(続き)

太平洋を見晴るかすサンメッセ日南のモアイ像

写真=太平洋を見晴るかすサンメッセ日南のモアイ像


朝日の輝き

沈黙の響き (その74)

「沈黙の響き(その74)」

森先生を触発した二宮尊徳

 

 

 

≪自分が立っているところを深く掘る≫

私は森先生の哲学に接して驚嘆し、従来の学者の哲学には見られない独創性と実践性はどこから来るのだろうかとずっと模索していました。

普通、学者の論文はその分野の著名な学者の見解を引用し、その上で私はこう推論するという体裁を取るものです。ところが森先生の著書にはそういう引用が少なく、聡明な叡智と思われるご自分のひらめきが書き表わされています。そこで思索がたどりつくところは、森先生が開眼の契機となったといわれる二宮尊徳翁が詠まれた、

 

音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくり返しつつ

 

です。つまり森先生は万巻の書物を渉猟する書物の虫となることを止めて、天地の響きに聴き入ったのです。先生がくり返し強調された真理に、「真理は現実のただ中にあり」とありますが、現実のただ中に沈思黙考するとき、確かなものが見えてきました。そして確信して、

「かくして現実の中から把握せられた真理にして、はじめて現実を変革する威力を有する」

と断言されました。

 

思えば中国の古典『大学』にある思想「格物致知(かくぶつちち)」、すなわち「物を格(ただ)して、知に致(いた)る」という考え方も同じことを言っています。物、すなわち現実は深く沈思黙考するとき、宇宙の叡智を開陳してくれるのです。

 

ドイツの哲学者ニーチェも沈思黙考することの大切さを次のように語っています。

「怯(ひる)むことなく、お前の立っているところ、そこを掘れ。地下深く。その下にはきっと泉がある。ぼんやりした連中にはほざかせておけ、『下にあるのは決まって地獄だ』と」

 私はニーチェの達観は森先生の思索の本質を言い当てている炯眼(けいがん)だなと思いました。

「そこを掘れ、地下深く。そこにこそ創造の泉があるのだ」と。「沈黙の響き」に耳を傾け、沈思黙考することは、洋の東西を問わず、叡智が開ける重要な条件のようです。

 

 ≪逆境は天の恩寵的試練である≫

 森先生はいかにしてああした叡智を獲得されたのかと模索する私に、天王寺師範での授業で学生たちにしばしば、

「酔生夢死の人生、つまり酔っ払っているのか、夢を見ているのか、そんな人生を送ってはならない。私たちにぼやぼやしている時間はないんだ」

と語っておられます。森先生は私たちがついうっかりと、ぼやぼやした時間を過ごしていることに警告を発しておられるのです。考えてみると、森先生は、尋常高等小学校を卒業後、旧制中学に進学したかったけれども、家が貧しくて進学できず、やむなく師範学校に進むために、一年間小学校の給仕をされました。裕福な家庭の子どもたちが塾に通い、いっそう学力をつけて旧制中学に進学するのがうらやましくてなりませんでした。

 

愛知第一師範学校を卒業後、地元の横須賀尋常小学校に奉職しましたが、向学心は抑えがたく、東京高等師範学校を受験したものの不合格。ところが、そこまで向学心に燃えているのだったら学資を出そうという人が現れたので、今度は広島高等師範を受験して合格し、広島高師に入学しました。その後、京都帝国大学に進み、西田幾多郎教授の許で研鑚に励み、天王寺師範の講師になりました。学資を出してくれる人の期待に応えるためにも、ぼやぼやしてはおれなかったのです。

 

考えてみれば、生きていくためにぼやぼやしておれなかったのは、天の配剤だったとしか思えません。貧しい境遇だったからこそ切磋琢磨して、出色の人物になることができました。

もちろん、森先生が持って生まれた資質は私たちとは全然違っていたこともありますが、その資質が磨かれ、世を照らす光にまでなれたのは、天の導きがあったからだと言えます。自分の境遇をはかなむのではなく、それを真っ正面で受け止めて刻苦勉励したからこそ、世の光となれたのでした。だから森先生は「逆境は神の恩寵(おんちょう)的試練なり」と言わずにはおれませんでした。

「身に振りかかることは、すべてこれ天意なり」

 という森先生の箴言は私たちに人生に立ち向かう覚悟を迫っています。

 

≪複写はがきに込めた思い≫

ところで私に『修身教授録』の同志同行社版の序文を送ってくださった田村先生は、京都市で長らく小学校と中学校の教師をされましたが、その間、森先生の影響を受けて、複写はがきにも精魂されました。複写はがきの祖といえば徳永先生ですが、その徳永先生に毎日はがきを差し上げる「一日一信」を始められました。その動機はこうです。

 

「私が最初に実践人の夏季研修会に参加したのは、昭和四十八年(一九七三)で、森門下の逸材である徳永先生とご縁ができたのはもっと後のことでした。香川県の因島の教師・岡野孝司先生が徳永先生と一日一信をされていると聞いて、私もご縁を求めて一日一信をお願いしました。

晩年の徳永先生はご病気され、それでも病床から返信してくださいました。私はとても恐縮し、お体にさわってはいけないと思い、こちらからはがきを差し上げるのは遠慮しました」

 

 一日一信は約千日、二年半余り続きますが、徳永先生との交流を通して、多くのことを学ばれたようです。

 徳永先生から複写はがきを書くことを勧められ、人生が豊かになったという坂田道信さんはいま「複写はがきの伝道者」と呼ばれ、講演で全国を飛び回っておられます。私が複写はがきを書くことの効用をお訊きしたら、こう答えられました。

 

「複写はがきは一種のアンテナでもあります。複写はがきは多くの人が生活されているこの日本の中で、自分と共に歩いてくださる方を探し出す一つの道具であるように思います。複写はがきは思いもよらぬ多くの人と自分を結びつけてくれ、その人たちとネットワークを作ってくれ、人生を切り開いてくれるのです。やがて同じ波長の人たちとつながり、結ばれ、自分が本来持って生まれている使命を果たしていくことになります」

 

なるほど、複写はがきは自分と同じような波長の方を探し出すツールだとは、長年、複写はがきを書いてこられただけに至言です。複写はがきを書き続けることによって、人生は確実に豊かになっていくようです。(続き)

朝日の輝き

写真=森先生の沈思黙考から宇宙の叡智が引き出された


どこへでも気軽に出かけた森信三先生

沈黙の響き (その73)

「沈黙の響き(その73)」

森信三先生の魅力

 

 

≪斯道会のガリ版刷りの序文に寄せられた炯眼≫

ところで芦田先生が読まれた斯道会(しどうかい)版に、発行した斯道会の序文が載っています。おそらく天王寺師範での教え子で、教師になった山本正雄会長が書かれたものと推測されます。山本会長は長らく森先生の訓育を受け、思想的に深く共鳴されていたので、『修身教授録』の本質は何であるかを見事に活写されています。そこでその前半部分を引用します。

 

「友邦満州国建国の礎石として、昨春四月、遠く新京なる建国大学教授の任に赴かれた吾らの恩師森信三先生が我が国教育界の一隅に残された偉大なる業績は、それが本質的であるだけに、いまだ十分に世人の知るところとならぬが、この複雑繁多なる現代の時代と世相の下にあっては、容易にその比を見い出しがたき種類のものと思われる。しこうしてその趣きの一端は、まずこの一連の記録を通してもうかがい知られることであろう。

 

よくよく教育の真諦は師弟一心一体、熱烈なる求道の一路を歩むところにみられるが、しかも師の深大なる自證の光が、一転化他の慈光となって、深く弟子の心魂に徹するとき、そは必ずや何らかの形態にまで結実しきたらずんばやまないものである。

かくして古来、時の古今、洋の東西を問わず、いやしくも真教の行わるるところ、そこには期せずしてその記録の伝わり存するものがあるのである」

 

そう説いて、筆者は孔子における論語、キリストにおける聖書、さらには二宮尊徳の夜話などを挙げ、いずれの人の真実の言葉が子弟を感動させ、景仰の念が極まり、ついにその言動を記録するに至ったといいます。

そして後代の人々はこれらの文書を愛誦し、その偉大なる精神は時代を超えて脈々と貫通し、教学として定着するようになりました。序文はさらに続きます。

 

「今この書は先生が数奇なる運命の下に、その類稀(たぐいまれ)なる聡叡(そうえい)の資を内に包んで、十有余年の長歳月を、一師範教師として歩まれた、いわば先生下学(かがく)の歩みの忠実なる記録ともいうべきであって、なるほどその外見からはあくまでも平明懇切、志業の念いまだ発せざる年少学生を相手に、じゅんじゅん説いて倦まざるの趣きを髣髴(ほうふつ)せしめるが、しかもその根柢に至っては、まさに哲学者としての先生の深奥なる世界観、人生観に基づくものと言わざるを得ない。

したがってこの書は真の意味における『国民教育者の道』であると共に、また実に現代の新たなる形態における『人となる道』というべきであろう」

 

森先生は芦田先生が同志同行社から出版させてほしいという懇請を快く承諾し、渡満準備をしている最中の多忙のときでしたが、丹念克明に補訂の筆を加え、一段と精彩を増した原稿に仕上げて、芦田先生に手渡されました。

 

≪下学雑話の魅力≫

この『修身教授録』の各講の最後に、しばしば「下学(かがく)雑話」というコラムが挿入されています。「下学」とは、身近で容易なことから学んで、だんだんに高度で深い道理に通じることを意味します。これは孔子が、

「下学シテ上達ス、我ヲ知ル者ハ、其レ天カ」(論語・憲問篇)

と言われていたことに準じた森先生の、身近なことをおろそかにしない学問の姿勢を指すものです。例えば第二十四講の最後に挿入された「下学雑話」にはこう書かれています。

 

「人間下坐(げざ)の経験なきものは、未だ試験済みの人間とは言うを得ず。只の三年でも下坐の生活に耐え得し人ならば、ほぼ安心して事を委(まか)せ得べし」

人生を送る上での貴重な箴言(しんげん)ともいうべき言葉です。

 

再び序文に戻ると、この書によって啓発された方々は一歩進んで、森先生が上達の歩みとして達せられた『恩の形而上学(けいじじょうがく)』(致知出版社)その他の思想的高峰に向かって登攀(とうはん)の一歩を踏み出されることを切望してやまないと述べています。実践人のグループは、読書が読書で終わることなく、「思想的高峰に向かって登攀」であると捉え、お互いの精神的成長を励まし合っています。ありがたい集団です。(続き)

どこへでも気軽に出かけた森信三先生

写真=どこへでも気軽に出かけた森信三先生


全国各地でモデル授業を行った芦田惠之助先生

沈黙の響き (その72)

「沈黙の響き(その72)」

森信三先生を世に紹介した芦田恵之助先生

 

 

≪『修身教授録』同志同行社版の序文≫

令和3年(2021)3月、拙著『人を育てる道――伝説の教師
徳永康起の生き方』が致知出版社から上梓されました。それに先立ち、私は日ごろお世話になっている方々に、徳永先生の信条だった「教え子みな吾が師なり」と扉書きして送りました。

それに雑誌『致知』4月号が全ページ大の出版予告を出してくれていたので注文が相次ぎ、半月余りで5百冊もの本に扉書きして送りました。そうした中に元小学校・中学校の教師の田村晃(あきら)先生があり、昭和14年(193912月、同志同行社から出版された『修身教授録』(全5巻)に同社の芦田伸三社長の父・芦田惠之助(えのすけ)先生が寄せておられる序文を送ってくださいました。芦田先生とは今でいう綴り方運動の元祖みたいな人で、子どもたちに作文を書かせて、その能力を引き出しておられました。

 

この序文は残念ながら平成元年(1989)3月に発行された竹井出版(現致知出版社)の初版には掲載されていなかったので、私は初めて拝見しました。芦田先生の序文はとても核心をついており、ぐいぐい引き込まれました。

芦田先生が読まれた斯道会(しどうかい)発行のガリ版刷りの『修身教授録』とZ、昭和12年(1937)ごろ、森先生が大阪の天王寺師範学校の本科で人間学を講義Zされ、それを生徒たちが筆録筆記したものに筆を入れてでき上ったものです。これをご自分が主宰されていた月例勉強会である斯道会で、出席者で読み、討論するためにごく少部数ガリ版印刷されました。

 

≪同志の教師たちの所依経にしたい!≫

その一部を森先生が芦田先生に送ったところ、芦田先生は瞠目し、ぜひともこれを自分たちの機関誌『同志同行』に連載して全国の教師たちに知らしめ、さらに連載完了の暁には同社から出版して同志の教師たちの所依経(しょえきょう)としたいと申し出られました。所依経とは拠りどころとなるお経のことです。

芦田先生とはわが国の国語教育の第一人者で、多年にわたって全国的に教壇行脚を続け、教師たちにモデル授業を披露されており、教師の間で絶大な支持を得ておられました。教師たちにモデル授業をし、乞われれば飛び入り授業もされ、実際どういうふうに子どもたちに対しておられるかを示しておられました。

 

 ≪芦田先生が子どもたちに接する様子≫

 芦田先生は輝やいたお顔で絶えずニコニコしておられ、そのニコニコ顔が教室の雰囲気をつくっていました。このニコニコ顔に接して子どもたちは緊張感が取れ、何でも自由に先生と交流できたようです。

それに芦田先生は子どもたちの回答を聞くとき、ゆっくりと「そうなのね」と相槌を打たれました。まるで親身なおじいさんのような言いっぷりです。「そうです」という権威めいた言い方や「よろしい」という返答とも違って、いかにも「いたわり深い、底の底まで抱擁しつくしている心持ちのあらわれ」という感じがほとばしり出ているようです。だから自然に子どもの心を解きほぐし、親しみを感じさせ、安心を覚えさせました。

これは見学している教師たちが口をそろえて述べる感想です。だからモデル授業をやってほしいと、全国から引っ張りダコでした。その芦田先生が森先生に出会い、そのご著書を読んで、ぞっこん惚れ込まれました。

 

≪森先生を師として仰いだ芦田先生≫

森先生は京都帝国大学大学院卒の突出した秀才でしたが、まだ京都や大阪周辺でしか知られていませんでした。だから全国的に有名な芦田先生がぞっこん惚れ込んで紹介されたので、森先生に着目する人が全国的に一気に増えました。同志同行社版の序文に芦田先生はこう書いておられます。

 

「ここに私が年来遺憾としていましたことは、我ら同志間の所依経とすべきもののないことです。所依経と仰ぐ典籍を持たないことは、実に淋しいことです。それとともに行も進みません。

 私はたまたま森先生の『修身教授録』を拝して、これこそ私が年来求め来たりしものだと思いました。朝夕に読誦景仰(どくしょうけいぎょう)すべき書であると思いました。幸いにその刊行を私にお許しくださいました。この上は、私の一生をこの書の流布につとめて、同志と共に、教育革正の行にいそしもうと存じます。

 

 私はここまで書いてきて、安んじて死ぬることができるように思います。天下の同志は、必ず今後の私の行動に熱烈なる支持を与えてくれるに違いありません。同時にわが小学教育者、ことに若き教育者の群れが、幾多救われていくことだろうと信じます。

 

 したがって次代を形成する小学生の幾十百万が救われることを想望するとき、私は嬉しくてたまりません。『正しからざる教育は悲惨だ』と年来唱えてきた私は、ここまで書いて、涙にペンの先が見えなくなりました」(※歴史仮名づかいは現代仮名づかいに、旧漢字は常用漢字に改めました)

芦田先生が『修身教授録』を自分たちの所依経としたいという熱烈たる思いが行間から伝わってきます。この出版によって芦田先生が長年かけてつちかってこられた全国の同志同行の教師たちに森先生の『修身教授録』が知れ渡っていきました。(続く)

全国各地でモデル授業を行った芦田惠之助先生

写真=全国各地でモデル授業を行った芦田惠之助先生

 

 


52歳で旅立っていった石原裕次郎

沈黙の響き (その71)

「沈黙の響き(その71)」

石原裕次郎の最後の曲「わが人生に悔いなし」

 

 

 昭和61年(1986)夏、銀幕の大スター石原裕次郎さんが作詞家のなかにし礼さんをホテルに呼び出し、歌作りを依頼しました。なかにしさんはまだ裕次郎さんの歌は手がけていませんでしたが、菅原洋一の『今日でお別れ』や細川たかしの『北酒場』などを書いており、人生の深い色合いを描くのには長けています。

 

石原さんは脂が乗り切った52歳、絶頂期を迎えていました。ところがそれとは裏腹に体調がすぐれず、一向に良くなりません。実はそのころ裕次郎さんはガンに蝕まれていましたが、掛かりつけの医者も周囲もひたすら隠して告知しなかったのです。

 

しかし、本人はうすうす感じていました。

「みんな何も言わないけど、俺はガンに罹っているんじゃないか。まだ52歳だよ。人生はこれからおもしろくなるというのに。ここで死ぬわけにはいかない」

生に執着したものの、死期が迫っていると予感していました。

 

 だからなかにしさんは、これはただの新曲依頼ではなく、「俺の最後の歌になる」という思いが込められていると直感しました。企画を聞いて、

「裕次郎さんが発している死の匂いをすくい取らずして、どうして作詞家だと言えるか!」

 と、歌詞に彼の思いを織り込もうと奮闘しました。

 

「俺は夜遅く帰宅すると、台所で独り飲み直すんだよ。日本酒をトクトク注いで、食器棚に映る自分に乾杯してね」

 そんな言葉の端々から裕次郎さんの日常を感じさせる情景を歌詞に織り込んで、新曲のフレーズを書きました。それは18年前、1969年、フランク・シナトラがポール・アンカの作詞による『マイウェイ』を絶唱して世界大にヒットしましたが、なかにしさんはそれを予感して歌詞作りしました。

 

  ♪鏡に映るわが顔に/グラスをあげて乾杯を/たった一つの星をたよりに

  はるばる遠くへ来たもんだ/長かろうと短かろうと/わが人生に悔いはない

 

 作曲をお願いした加藤登紀子さんに歌詞を渡すと、

「よくもこんな歌詞を書いたわね。自分の人生をふり返っての絶唱よ」

 と驚かれました。それはそうでしょう。裕次郎さんは自分の死に直面しながら、逃げも隠れもしていませんでしたから。加藤さんはなかにしさんの真意を理解し、すてきな曲を書いてくれました。

 

  ♪この世に歌があればこそ/こらえた涙いくたびか/親にもらった体一つで

  戦い続けた気持ちよさ/右だろうと左だろうと/わが人生に悔いはない

 

 でも裕次郎さんの周囲にいる人たちは難色を示し、「これは死に臨んだ歌だ。ちょっとまずいな」と躊躇しました。ところが誰よりも本人自身が気に入ってくれ、採用しました。なかにしさんはリハーサルのとき、裕次郎さんに注文を付けました。

 

「この歌は未練を断ち切り、一人の男として達観したように歌ってほしい」

 裕次郎さんはその意図するところを受け止めて素朴に歌い、実にいい味に仕上がりました。

 

 昭和62年(1987421日、「わが人生に悔いなし」と名づけられた新曲が発売されました。裕次郎さんは一切の未練を断ち切って、あっけらかんと歌いました。そこには男らしさがあふれていました。歌は大ヒットし、カラオケの上位にランクされました。

 

裕次郎さんはそれからわずか3カ月後の717日、肝細胞ガンで亡くなりました。訃報を知らせるテレビニュースには、元気だったころの裕次郎さんの映像とともに、この曲が流れ、の最後のメッセージとなりました。

 

  ♪桜の花の下で見る/夢にも似てる人生さ/純で行こうぜ。愛で行こうぜ

生きているかぎりは青春だ/夢だろうと、現実だろうと/わが人生に悔いはない

わが人生に悔いはない

 

 青春のシンボルであり、戦後を象徴する大スターだった裕次郎さんの死は国民に大きな衝撃を与えました。811日、東京・青山葬儀場で行われた告別式には1万人以上のファンが詰め掛け、テレビには泣きはらす顔が映し出されました。別れを惜しむファンに裕次郎さんは、「純で行こうぜ。愛で行こうぜ。生きているかぎりは青春だ」と、どこまでもポジティブに歌い掛けました。(続く)

52歳で旅立っていった石原裕次郎

写真=52歳で旅立っていった石原裕次郎


田園を散策し、楽想を練るベートーヴェン

沈黙の響き (その70)

「沈黙の響き(その70)」

ベートーヴェンを突き動かした霊感

 

 

 

以前の章の「ベートーヴェンの失意と奮起」で、ベートーヴェンは32歳のとき、難聴に悩んで前途を絶望し、ハイリゲンシュタットから弟カールとヨハンに遺書を書き送ったと書きました。ベートーヴェンは遺書を書き進うちに、何も達成しないままこのまま死ぬわけにはいかない、芸術のために再度挑戦しようと思い直したのでした。今回はその続きを書きます。

 

 ベートーヴェンはその後、いろいろ耳の治療を試みますが、なかなか効果が上がらず、人と話をするときはポケットから会話帳を取り出して筆談せざるを得なくなりました。音楽家にとって耳をやられるという苦境に陥って、人生の悲哀を感じさせられたベートーヴェンでした。

 

数々の名曲を書き表して名声を博したベートーヴェンでしたが、もう一つ、人生は思うようにいかないものだと痛感させられた出来事が起きました。

ベートーヴェンはその生涯を通して、家庭の幸福や両親の愛情に恵まれない人の一人でした。少年時代は大酒飲みの父親に悩まされ、青年から壮年にかけて、よき結婚を望んでいたものの、それを得ることができませんでした。

 

 結婚して温かい家庭を持ちたいという願望は40歳ごろにはいっそう強くなりましたが、とうとう達成できず、寂しい独身生活を送らなければなりませんでした。そんな彼に突然恵まれたのが、弟が遺していった少年カール(父親と同名)でした。もちろんカールには生母はありましたが、自堕落で養育できなかったので、ベートーヴェンが代わって養育することになりました。

 

 最初の間はこのカールによってベートーヴェンの父性愛が満たされたようにみえましたが子育ては簡単なようで簡単ではありませんでした。厳しすぎるベートーヴェンにカールはなかなかなついてくれず、学校の成績も悪く、何度も転校を余儀なくされました。

 

そしてとうとう落ちこぼれてしまい、こともあろうにベートーヴェンがもっとも嫌っている軍人になりたいと言いだしたのです。ベートーヴェンは激怒し、断固として反対したので、カールはピストルで自殺未遂をしました。肝がつぶれるほどに驚いたベートーヴェンは、最終的には軍人になることを許したので、カールの素行は改まりました。

カールはところを得たように生き生きとなり、上官や同僚の覚えもよく、軍人として立派に役目を果たすようになりました。

 

そんなこんなで、カールには散々手こずりましたが、カールのお陰でベートーヴェンは人間の機微を教えられ、厳格で気難しい性癖が少し是正されたようです。人生、何がプラスになるのか、私たちには皆目予想もつきませんね。

 

≪感動させられるものは上から来る≫

人生の晩年に入った18245月、54歳のとき、ウィーンでミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)と第九交響曲を中心としたコンサートを指揮しました。そのときには耳はほとんど聞こえなくなっていました。それでもピアニッシモはすっかり体を縮めてタクトを振り、フォルテでは腕を振り上げ、体全体で指揮するさまは往年のころそのままでした。

 

 演奏が終わると万雷の拍手が起こりました。でもつんぼのベートーヴェンにはその拍手が全然聞こえません。見るに見かねた歌手が彼の手を取って聴衆の方に向けてあげたので、割れんばかりの拍手をしている聴衆の反応が目に入り、演奏の大成功を知ることができました。

 

そんな仕草に聴衆は、ベートーヴェンはもうすっかり聴力が損なわれているのに、それでも指揮棒を振るったと知ってますます感激し、大拍手を送りました。

 

 それから4か月後、ベートーヴェンはロンドンから訪ねてきたスタンプと一緒に、ウィーンの森の東南に広がるバーデンを散策したとき、インスピレーションについてこう語っています。

 

「魂を感動せしめるものは上から来なければなりません。そうでなければ、それは単なる音楽で、精神のない肉体のようなものです。そうではありませんか。精神のない肉体とは何でしょうか? 塵か土塊(つちくれ)でしかありません。

精神はこの俗界から上昇しなければなりません。神の火花(註・人間のこと)はその俗界のなかにある期間束縛されているのです。

 

 そして農夫が貴重な種を託する田畑のように、彼は種を開花せしめ、多くの実を結ばせるのです。こうして豊かにされた精神は、そこから自分が流れ出ている根源に向かって昇っていこうと努力します。

 なぜならば、ただ確固不抜の努力と授けられた諸々の力をもってのみ、被造物は無限なる自然の創造者と維持者とを敬うことができるからです」

 

そう語ったのは亡くなる2年半前のことです。ベートーヴェンは私たち人間を「ある期間、俗界に束縛されている存在」と捉え、「自分の根源に向かって、俗界から上昇しなければならない存在」と思っていたのです。とても真面目な人間だったベートーヴェンの真骨頂だといえましょう。

 

≪音楽は啓示だ!≫

 ベートーヴェンはいつも自然の中で霊感を得ていました。心が落ち着く好きな場所は、ウィーン郊外のデープリング、ハイリゲンシュタット、ヘッツェンドリフ、それにバーデンやテプリッツなどでした。

抜けたようにどこまでも広がる青空、青々と茂った森、天高く屹立した山々、愛らしい音を立てて流れるせせらぎ、そこで田畑を耕して平和に暮らしている農夫の姿などが豊かな楽想を与えてくれました。また耳をつんざくような雷鳴が響くなか、激しい土砂降りを突いて、びしょ濡れになって何時間も歩きまわって楽想を得ていました。

 

彼のスケッチを読むと、そうしたことがふんだんに書かれています。それらインスピレーションの源である“根源”について、前述のスタンプにこうも語っています。

「自然が創り出したものに囲まれて、私はしばしば幾時間も座っています。そこでは尊厳なる太陽は、人間が作ったきたならしい屋根に被いかくされてはおらず、大空が気高い屋根です。

 

 夕方は赤く染まった夕焼けの空を、驚きの目を持って見上げています。私の魂は無限の彼方にある天空に向かってゆれ動いていきます。あらゆる被造物が生まれて流れ出、新しい被造物がそこから永遠に生まれてくる“根源”に向きあっているのです」

 

 ベートーヴェンの音楽に感激し、彼をゲーテに紹介したベッティーナ・フォン・アルニムに、

「音楽はあらゆる知恵、あらゆる哲学よりいっそう高度な“啓示”です」

と書き送り、1827326日、57歳でこの世を去りました。今の時代からすると早過ぎる死でしたが、ベートーヴェンはあらゆる創造の源である“根源”なるものについて、私たちに貴重なことを語ってくれたのでした。(続く)

田園を散策し、楽想を練るベートーヴェン

写真=田園を散策し、楽想を練るベートーヴェン

 


一世を風靡したサイモンとガーファンクル

沈黙の響き (その69)

「沈黙の響き(その69)」

サイモンとガーファンクルが歌う「サウンド・オブ・サイレンス」

 

 

 私がまだほんの子どもだったころ、つまり1960年代、ギターを弾くユダヤ系アメリカ人のポール・サイモンと、ボーカルを担当したモジャモジャ髪で背が高いアート・ガーファンクルというフォーク・デュオが歌い出しました。

 

Hello darkness,
my old friend

I’ve come to
talk with you again

 

やぁ暗闇くん、古くからの友達よ

また君と話したくて来てしまった

 

Because a vision
softly creeping

Left its seeds
while I was sleeping

 

And the vision
that was planted in my brain

Still remains

Within the sound
of silence

 

というのは、あるヴィジョン(幻)が、

僕が寝ている間にそっと忍び寄り、

かすかな痕跡を残して行ったんだ――

 

それから10年ぐらいして10代の後半、「サウンド・オブ・サイレンス」を聴いたとき、「サイモンとガーファンクルは何と哲学的で深遠な歌を歌うんだろう」と感嘆したものです。サイモンはこうした曲を書くようになった経緯をこう述べています。

「ぼくは“無音の響き”に触れてしまった――」

宇宙の根源につながっている無音の世界は、実は潤沢な創造性の泉だったというのです。ユダヤ人であるサイモンは、宇宙の根源者である“神”について考えることが多く、それが音楽にもかかわっていると気づいたのでしょう。

 

≪“沈黙の響き”が導く奥深い世界≫

心臓手術を受け、大きな覚醒をいただいてからの私は著述のなかで、しばしば“沈黙の響き”に言及するようになりました。“沈黙の響き”は創造性の源泉だと思うからです。

“沈黙の響き”に耳を傾けると、宇宙の叡智の扉が開き、清らかな泉から清水がこんこんと湧き出てきます。そして自分は地上における受信局であることに気づき、その感性を研ぎ澄まし、宇宙の叡智からのメッセージをキャッチしようとします。

 

“沈黙の響き”に耳を傾けるようになると、かすかに“内なる声”が聴こえてきます。この2つは連動しているので、自分の内側に無限のソースがあることに気づくのです。そのメッセージが音楽家の場合は曲目として、画家の場合は絵画として、作家や思索家の場合は小説や思想として表現されていきます。

 

 ミクロの世界から人間社会、宇宙までを貫く原理とその構造を探究する「システム哲学」を提唱し、世界賢人会議「ブダペストクラブ」を主宰しているアーヴィン・ラズロはこのことをこういう直接的な表現でしています。

「人間は変性意識状態に入ると、現実のもっとも深く基本的なレベルである“真空”と同化することができる」

 

ラズロのいう“真空”とは“宇宙の始源”のことで、“サムシング・グレート”(大いなる存在)でもあります。変性意識状態とは通常の覚醒時のベータ波意識とは異なり、精神や肉体が極限まで追い込まれた状態で起こるものです。事故や手術などによって生命が危機にさらされると、この意識状態になります。

 

≪変性意識状態は宇宙への入り口だ≫

 変性意識状態に入ると人間は宇宙との一体感や強い至福感などを味わい、ときにその人の世界観を一変させるほどの強烈な体験を持ちます。変性意識状態は生命の危機だけでなく、宗教的修行や瞑想によっても入ることができるので、トランスパーソナル心理学は特に力を入れて研究しています。

 

ラズロが指摘していることをトランスパーソナル心理学会の創始者の一人であるスタニスラフ・グロフはこう述べています。

「深い変性意識状態では、多くの人々が宇宙そのものの意識と考えられるような意識の体験をする」

 

 世界の最先端を行く学者たちが「沈黙の響き」に注目し、研究を深めていることは心強いことです。いえ、最近の思想界の新潮流だけでなく、哲学界の大元に位置するプラトンも現象世界は宇宙の本質であるイデア界の実相が具現化したものだと説いていると、私の友人が、 教えてくれました。世界の賢人たちはこのことに気づき、思索を深めていたんですね。人間は決して有限ではなく、無限の存在であり、自分は地上のかけがえのない受信局だと思うと、喜びがふつふつと湧いてきます。(続く)

一世を風靡したサイモンとガーファンクル

写真=一世を風靡したサイモンとガーファンクル


大空と雲と光

沈黙の響き (その68)

「沈黙の響き(その68)」

とても評判がいい、ある特養施設の介護士さん

 

 

≪自助努力がもたらす効用≫

私が先週と先々週、2回にわたって、パラリンピックで熱戦をくり広げている障害者たちから得た感動を書いたからか、東真理子さんという介護の仕事をされている方からメールが入りました。東さんは先週、84歳の目のご不自由なご婦人をダンスホールにお連れするという同行援護をしたそうです。約5時間付き添われたのですが、「不思議な感動があり、私の方が元気をもらいました」と書いておられました。

 

「そのご婦人は認知症がまったく無く、足腰もとても丈夫です。ただ全盲に近く、目がご不自由なのに、ひとり暮らしで家事も洗濯もご自分でされています。それに週1回、ダンスに通うのが楽しみで、その同行援護を私がすることになりました。同行援護中、明るくお話されるご婦人に圧倒されるものがありました」

“自立する”と自分の運動機能も維持でき、頭も明晰になるようです。自助努力は結局自分のためでもあるようです。

 

 パラリンピックに出場した選手たちは口をそろえるように言います。

「パラ競技に出合ったことから、目標を持って励むようになりました。努力のかいがあってタイムが向上すると、もっと上を目指そうとさらに励みました」

 自助努力こそはその人を活かす方法であるようです。

 

≪一対多の関係から“一対あなた”という特別な関係へ≫

 東さんはもともと介護のあり方に関心があり、いろいろな施設を見学しました。その後、

お母さんが2つの介護施設で7年近くお世話になったこともあって、いっそう介護のあり方に関心を持つようになりました。そこで個別対応している施設の介護士さんの投稿をネットで読んでいると、ある特別養護老人ホームの介護士さんが、次のような投稿をされていました。さすがにポイントを突いておられたので、私に転送してこられました。教えられる内容だったので、この欄でシェアしたいと思います。

 

「私たちは入居者さんとは入所されてから関係が始まるので、出会いはまったく偶然といえます。でも、片麻痺の人、車イスの人、認知症の人といった方々をトイレにお連れしたり、ご飯を一緒に食べたり、お風呂でのんびりお話したりする日常生活の支援を繰り返しているうち、一対他の関係から“私と○○さん”という特別な関係になっていきます。というよりも、そんな関係になれるよう心がけています。

 

気になる方だからこそ、その人らしい生活を支えたいと思い、昔どうやって過ごしておられたのか、どんな仕事をしておられ、どんなことが趣味で、どんな暮らしをしておられたのか気になります。その方が大切にされていたことを尊重し、一緒に大切にしていきたいと思うのです。

 

 入居して最初は元気だった方もやはり少しずつ衰えていかれ、1日のほとんどを寝て過ごすようになられます。でも、その方がふと目を開けたとき、大切にしている思い出がすぐ目に入るよう、枕元の写真額の配置を変えたりします。

 

それは『あなたの過去を大切にしています。そして、これからもあなたのことを大切にしますね』というメッセージです。写真の選択や額の配置などに、『あなたと明日もともに過ごしたい』という思いが伝わるよう配慮しているから、大切な“今”が輝くのだと思います」

 

これを読んで東さんは心を動かされました。介護する際の一番大切な点を心掛けておられたからとても共感しました。

「ふと目を開けたとき、飛び込んでくるように配置された孫の笑顔の写真。ちょっとしたことに表れている配慮。そこにあるのは“私とあなた”という特別な関係――。その方は施設で欠けがちな、しかしとても重要な“人と人との関係作り”を大切にされているように思いました」

 

私は先に、東さんのメールを通して、自助努力の効用を紹介しましたが、それと同時にこの介護士さんはもう一つ、“その人を大切にしたい”という思いがそのお年寄りをどれほど元気付けているか、伝えておられるように思います。

 

介護現場は忙しく、どうしてもベルトコンベアー式の流れで効率優先になりがちです。だからこそちょっとした配慮が生きてきます。自助努力とともに“私とあなた”という特別な関係をつくることは、クルマの両輪のように補完し合っているように思います。

大空と雲と光

写真=私たちの心に喜びを与えてくれる愛と思いやり