『許されて生きる 西田天香と一燈園の同人の下坐に生きた軌跡』廣済堂出版

『許されて生きる』のプロローグの紹介

プロローグです。
11月20日、いよいよ『許されて生きる 西田天香と一燈園の同人の下坐に生きた軌跡』が廣済堂出版から発売されます。私は学生時代、もっとも影響を受けた一燈園の西田天香さんのことを書いてから死にたいとずっと願っていました。年齢が70歳に達し、ようやくものが見え始めたので、今こそ天香さんのことを書くべきだと思って筆を執り、数年がかりで書き上げました。
 幸いなことに「掃除の神さま」と言われる鍵山秀三郎さんの推薦文をいただき、感謝しています。「プロローグ」をご笑覧ください。

 

※これは『許されて生きる 天香さんと一燈園の同人たちが下坐に生きた軌跡』の導入部分です。十一月二十日、廣済堂出版から発売されます。

プロローグ

 

 

 青春の模索

「一回しかないこの人生を、私はどう生きたらいいんだ……」

 大学は医学部に通学していたものの、人生に立ち向かう姿勢がまだできていませんでした。1昭和四十年代(一九六五)、キャンパスは政治の嵐が吹き荒れて、静かな思索にふける雰囲気はありませんでした。赤や黒のヘルメットを被り、手拭いで顔を隠した学生運動の闘士たちが、ハンドマイクのボリュームを最大にして、政府を非難し、がなり立てていました。

 緑の並木が美しいはずのキャンパスには、がさつな金釘文字で乱暴に書きなぐった立て看板が中核や革マル、反帝学評など、各セクトごとに林立し、学問の都の雰囲気をいっそう殺伐(さつばつ)なものにしていました。大衆団交があると、それら学生運動の闘士たちが学長や学部長を罵倒し、つるし上げ、総括を迫って阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)(ちまた)と化していました。

 学内は革命の先進国(?)である中国をまねて、文化大化革命時の「造反(ぞうはん)(ゆう)()」(()(ほん)には道理がある)という理屈が声高に叫ばれ、怒号が渦巻き、狂気が支配していました。

 そんなとき、私は岡田武彦九州大学教授(中国哲学)の薦めで、大正十年(一九二一)に刊行され、大正時代を代表する大ベストセラーになった西田天香さんの『(ざん)()の生活』(春秋社)を読みました。そこには「自分が悪かった」と懺悔し、相手の魂を拝み、譲り合う謙虚な世界が広がっていました。それを読んだとき、これこそが人間本来の睦まじい生き方だと共感しました。もうかれこれ五十二年前のことです。

 それ以来、私は天香さんの一連の書『一燈()(じん)』『幸福なる者』『(ほうき)の跡』『光明祈願』(共に春秋社)など読し、人生の指針とするようになりました。だからますます、政治闘争に明け暮れ、阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)(ちまた)と化した大学と波長が合わなくなり、大学を中退しました。学歴も国家資格も何もない人間が生きていくのは大変でしたが、それは自分で選んだ道でしたから、甘んじて受けました。

 

 気がついたら、周りはみんな〝地涌の菩薩〟だった!

 その後に訪れた試練は、三十八歳のとき脳梗塞で倒れ、救急車で病院に運ばれたことです。一命は取り留めたものの右半身が麻痺し、寝たきりになりました。加えて職を失い、無収入になり、経済的にも崖っ縁に立たされました。踏んだり蹴ったりで、これでもか、これでもかと責め立てられました。私は意気消沈し、悲観的になりました。

 そんなとき、孔子が弟子の(ぜん)(きゅう)を諭された話を『論語』で知りました。

冉求はあるとき政府から仕官の申し出を受けましたが断りました。理由は自信がないというのです。それを伝え聞いた孔子は冉求を諭しました。

「私は人間というものは宇宙の森羅万象を形成している〝天〟が地上に結晶化した存在だと思う。その人間にいろいろな経験を積ませて有能な人材に育てあげ、しかるべき仕事をさせようと導いておられるんだと思う」

 ところが冉求は話をさえぎりました。

「私など滅相もありません。取るに足りない存在です。買いかぶらないでください」

 でもそれは孔子には空しい謙遜としか聞こえませんでした。

「お前は自分で自分を見限って卑下しているが、お前の可能性はそんなものじゃない。お前が授かっている賜物は今後ますます磨かれ、大きな仕事を果たせるようになっていくのだ。

天はお前の良さも欠けたところも全部お見通しの上で導いておられるというのが、まだわからないのか。汝、限れり!」

「……」

 それは重大な指摘でした。お前は自分で自分を見下して卑下しているというのです。それは一見、謙遜しているように見えるけれども、その実、自分に与えていただいているものを信じていないということでもあります。孔子が冉求を(さと)された内容は、私の心にも響きました。というのは私も自分を見限っていたのです。

「もうおれの社会的人生は終わった。あとは車イスで家の中を動き回っているだけだ」

 体が麻痺している状態も私を磨こうとされる天の意図なのに、当の私は悲観してもうだめだと投げ出しかけており、逆境は天が私を磨いてくださる導きなのだとは気がつかずにいたのです。ようやく転機が訪れました。

「私の出発点はここなのだ。この導きを無駄にせず、一つひとつ踏み上がってゆこう」

 気持ちが切り替わったとき、リハビリも効果を上げるようになり、とうとう社会復帰に漕ぎつけました。社会復帰できたことはありがたかったけれども、それ以上にありがたかったのは、私の周りはみんな()(ゆう)の菩薩ばかりだということに気がついたことです。

『法華経』に、菩薩さまは天から光り輝く雲に乗ってしずしずと下りてこられるのではなく、泥の中から涌きだすように現れるのだと説かれているそうです。まさに泥の中から涌き出したような方々がいらっしゃることに気付きました。

それに「平成」の年号を推薦された安岡正篤(まさひろ)先生が常々おっしゃっています。

「有名ではあるけれども、その実あまり内容がない人もあるのも世の中です、。ところが社会的には無名ではあるものの、頭が下がる生き方をされている人がおられる。世の中の健全さはそういう人によって支えられています。お互いそういう人間になっていきたいものです」

 まさしくそうでした。私は自分が倒れて苦渋を味わわなければ、それに気付かずにいたのです。そしてそのことに天香さんは三十七歳のときに気付き、人々を拝む生活をされていました。

 お陰さまで私は社会復帰することができ、その経験を元にデビュー作『安岡正篤の世界』(同文舘出版)を書きました。幸いにもそれが好評を得て作家としての道が開け、執筆に明け暮れることになりました。

 

  内観によって取り戻した親子の絆!

もう一つ大きな出来事がありました。私は医学部を中退し、父母の願いに叶わなかったこともあって、親子の絆がおかしくなっていました。命の絆ともいうべき親子の関係がこじれたままでは、私の人生は、社会的には成功したとしても、空虚なものに過ぎないと感じていました。そんなとき、ある人から、

「命の中核部分を修復するには、内観するといいよ」

と勧められ、私は栃木県さくら市()(つれ)(がわ)町の「瞑想の森内観研修所」に柳田鶴声(かくせい)先生を訪ねました。内観とは、狭い一坪ほどの屏風の囲いの中で、生まれてからこれまでの父母や兄弟、妻子とのことをこと細かに振り返ります。特に次の三つの点、

一、やっていただいたこと

二、してお返ししたこと

三、迷惑をお掛けしたこと

を詳しく調べます。それを二時間ごとに訪ねてこられる先生に打ち明けます。何だそんな単純なことと思われますが、これが意外に深い気づきに至る方法なのです。

人間は意外に自分の観点でしかものを見ていません。思い込みが激しく、自分勝手です。ところが内観によって身調べをし、相手の事情を探るようになると、見落としていた意外な事実が見えるようになります。そしてコペルニクス的転換が起きるのです。

最初は意外なほど何も思い出せません。足がしびれた、腰が痛い、外の空気が吸いたいなどと気が散ってしまい、とても内観になりません。ところが二日経ち、三日経ってくると心のさざ波が消え、さまざまな出来事が浮かんでくるのです。こんなことがありました。

私が小学校二年生のときでした。父が酒に酔って帰ってきて母と喧嘩になりました。売り言葉に買い言葉、挙句の果ては父が母を殴り蹴るなどしました。母は泣きながら抗弁しました。

「そこまでおっしゃるなら、私はもうついていけません。実家に帰ります」

そう言ってタンスを開けて、自分の荷物をまとめはじめました。私は子ども心に、

「これはいかん。母ちゃんは本気だ。家を出て行く!」

と感じ、母の袖にしがみついて泣きじゃくりました。もう一方の袖には妹が抱き着き、かあちゃん、かあちゃんと泣きじゃくっています。一番下の弟はまだ赤ん坊でした。二人の子どもに抱きつかれ、泣かれたら、母はどうすることができません。泣きじゃくる私たちを抱きしめてこう言ったのです。

「母ちゃんはかわいいお前たちを捨てては家を出ていけない。母ちゃんはここに残る。お前たちといっしょだ。お前たちは母ちゃんの生命だ。生きる力だ。もう泣かんでいい」

 そう言いながら母が泣いています。その涙が私の顔に掛かります。涙でぐちゃぐちゃになってみんな泣きました。そんなシーンがよみがえってきて、母は私を自分の生命であり、生きる力だと思っていてくれたんだと思いました。それが私の背後にあった母の祈りを再発見させてくれたのです。それなのに私はそんなことはすっかり忘れて、

「私は頑張ってここまでやり遂げた。自分一人で道を(ひら)いてきた!」

 と錯覚していたのです。何と傍若無人で、破廉恥な男でしょうか。育てていただいたご恩を忘却の彼方に押しやっていたのです。

そのことに気付き、私は畳にひれ伏して泣いて詫びました。

「申し訳ありません。育てていただいたご恩を忘れて、自分ひとりで大きくなったように思っていました」

 それからの内観は塞がれていた溝が通ったように一気に進み、父母だけではなく、親戚や近所の人や小学校の先生にも愛され、励まされていた私だったことに気付きました。気がつけば私は人々の恩愛に包まれて、花園の中で大きくなっていたのです。

 一週間の内観が終わって外に出た私の目に、空の青さ、木々の緑、足元の花壇の色とりどりの草花の輝きが飛び込んできて、

「私はこんなに美しい総天然色の世界に住んでいたのか! モノクロの無感動な世界に住んでいるとばかり思っていた」

 自分に向けられていた父母の愛を再発見したことは、それほど大きなできごとだったのです。この内観によって、私の足はようやく大地に着きました。

 

 〝許されて生きる〟という天香さんの生き方

天香さんが長浜の八幡神社境内にある愛染明王堂で、ある朝赤ん坊の泣き声とともに得た「お光の無限の愛」について得たインスピレーション(啓示)に比べて、私が内観で得た父母の愛について得た覚醒は比すべくもないほどに小さなものですが、極めて似かよったものだったように思います。天香さんは、この宇宙は愛に満たされているのだ、宇宙の根本原理に目覚め、それにすべて委ねて生きようと、

「許されて生きる」

 というコペルニクス的転換を果たされました。深いところで満たされていたから、自ら先にお詫びすることができたのです。

 天香さんが赤ん坊の泣き声が契機となって気付かれたものは絶大なものがあったと思いました。その後、私は天香さんのまねことをして生きてきましたが、私の中にずっとあったのは、私の目から鱗を落としてくれた天香さんのことを、人生の最後に書いてから死にたいという願いでした。()()(きょく)(せつ)が多い人生でしたが、私は七十歳を迎えてようやく宇宙の真理や物事の道理が見えてきて、天香さんがその歩みを通して投げかけておられるものが何だったのか、いよいよもって明確になってきました。

そこで宿願だった天香さんの評伝を書こうと思い立ち、手掛けたのが本書です。私の人生はこの書を書くためにあったように思います。本書を心からの感謝をもって世に送り出します。

に思います。本書を心からの感謝をもって世に送り出します。