2020.11.14 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その20)
「教育はいのちといのちの呼応です!」⑨
超凡破格の教育者・徳永康起先生
神渡良平
≪親の祈りの心、察知する子どもの心≫
昭和38年(1963)10、徳永康起先生は詩人のサトウハチローが「おかあさん」の詩集三冊を出版したとき、まったく心を奪われてしまいました。
この世で一番
サトウハチロー
この世で一番美しい名前
それはおかあさん
この世で一番やさしい心
それはおかあさん
おかあさん
おかあさん
悲しく愉しく、また愉しく
なんどもくりかえす
ああ、おかあさん
その翌年、先生自身が78八歳の母親キカさんを亡くしたので、この詩が余計心に響いたのかもしれません。先生自身、55歳になった誕生日に、お母さんのことをこう書きました。
昭和47年7月3日、今日は私の誕生日です。
私はあなたの写真を拝みました。私が生まれる前の、若々しくて美しい写真です。
そしていつも思っていることを申しました。
あなたより早く亡くならなかったことが、ただ一つの親孝行でした、と。
(3年前の)あの大病から助かって、いま誕生日を迎えました。
母よ、あなたは私に命と心をくださいました。
愚かな私はまだそれを燃やしておりませぬ。私はいつも申しわけないと思っています。
亡くなられたあの夜、昭和39年12月3日、
神仏のみ心か、私一人枕辺に侍していたら、またしても、
「人さまから後ろ指を指されたことのない家柄である」
「先祖さまの名を汚してはならぬ」
と諭されました。子どものときから、母の教えはこの2つだけ。
これは大変なことだと、子ども心にシャンとなりましたっけ。
それが最後の教えとなりました。
夜が深々と更けるころ、静かな、静かな永遠の眠りにつかれました。
今日は私の誕生日です。
母のくり返し、くり返しの教えを静かに想いながら、
私の誕生日の感激を、世界一のあなたに捧げます。
ヒトサマにウシロユビを指されないように生きます。
徳永先生はいつも子どもたちに、私たちが授かっている〝いのち〟は父母から受け渡されているものだから、あだやおろそかにしてはならないと語っていました。
≪もっとも多感な女生徒を襲った悲しい出来事≫
徳永先生の教職の最後は八代市の第二中学校で、教頭を務めながら、2年生に国語を教えました。そこで生徒たちにサトウハチローの詩を五十篇選び出し、謄写版印刷をして配りました。ところがある日曜日、1人の女生徒が訪ねてきました。そして最近起きた話をし、「先生、私はどうしたらいいんですか」と言って泣きだしました。
彼女の父は母とその子を残して家を出てしまいました。そして今度はその母が3年前、祖父母とその子を置き去りにして家を出て、再婚してしまいました。しかも住んでいるところは近くで、赤ちゃんも生まれているというのです。
先生が配ったサトウハチローの詩が、逆に押さえに押さえていた悲しみを噴火させてしまったのです。先生も唖然としてしまい、どう答えていいかわかりませんでした。
それからその子は足繁く、先生の家に遊びに来るようになりました。そしてサトウハチローの詩「この世で一番」を筆で書いてほしいとおねだりしました。いろいろあったとしても、その子にとって母は一番だったのです。
「そうか。負けるなよ。がんばっていい子になれよ」
そう言って、先生も泣きながら詩を清書しました。その子はお母さんの思い出を抱きしめるかのように、「この世の中で一番」の詩を持って帰りました。悲しい家庭環境ではありましたが、ひねくれることなく、健気に中学生活が過ぎていきました。
「なあ、何があったとしても、人のせいにするのではなく、受けて立とうよな。自分を育てる者は、自分だからな。先生は、坂村真民さんの『リンリン』という詩が好きだよ。どんなことがあっても、リンとしろと自分に言い聞かすんだ」
そう言って、「リンリン」を暗誦しました。
リンリン
燐火のように
リンリンと
燃えていなければならない
鈴虫のように
リンリンと
訴えていなければならない
禅僧のように
リンリンと
鍛えていなければならない
梅花のように
リンリンと
冴えていなければならない
その子もこの詩がすっかり好きになって、暗誦してしまいました。
それから2年後、中学を卒業し、高校に進学するとき、奇跡が起きました。
「先生! 母が……、母が、高校の入学式に来てくれました。何ということでしょう。ただただ感謝するばかりです」
神さまがこの母と娘の心を温かく結んでくださったのです。
親の祈りの心と、それを察知する子どもの心ががっちり結び合い、親は癒やされ、子どもは元気に成長していきました。(続く)