「沈黙の響き(その52)」
イエスが流された涙
≪ゲッセマネの園の悲しみのイエス≫
先週は闘病中病床で聴いた「ユー・レイズ・ミー・アップ」にまつわる話をしました。この歌を検索すると、イエスを讃美する歌として解釈したバージョンがヒットしました。曲の背景として、イエスが深夜のゲッセマネの園で、
「願わくば、この苦杯を取り除いてください」
と血の汗を流して祈られたときの状況が描かれていました。当時イエスはユダヤ社会を刷新する精神的指導者として急速に頭角を現しましたが、一方保守的なユダヤ教の指導者たちは、モーセ以来の伝統を破壊している異端者だと嫌悪されていました。ユダヤ教の指導者たちの扇動は功を奏して、イエスはだんだん追い詰められ孤立化していきました。そのまま行けば異端者として断罪され、十字架に付けられて殺されてしまいます。
その劣勢を挽回し、新指導者として受け入れられるよう起死回生しようとして臨んだのがゲッセマネの園での祈りでした。起死回生できる条件はただ一つ、ペテロ、ヤコブたち3人の弟子がイエスと一つになって祈り、苦境を跳ねのけることでした。イエスは生死を賭けて祈っていたのです。
ところが真剣な祈りを終えて弟子の所に戻ってみると、彼らは睡魔に勝てずに眠りこけていたのです。人間社会の運命を決める決定的な霊的闘いのとき、イエスを支えることができなかった弟子たち! 最も肝心な闘いのときだったのに!
イエスはとても落胆されました。イエスは再度談判祈祷されましたがそのときも、さらに3度目のときも弟子たちは支えになることができず、イエスは生きて使命を果たす道は閉ざされ、後に残されたのは十字架の道だけでした。
濃い靄(もや)がかかった木立ちの中でのそのシーンは、それらの人々が黒いシルエットで表現されていたので、裏切られたイエスの悲しみがいっそう強く胸に迫ってきます。そんな情景を背景にして、「ユー・レイズ・ミー・アップ」が流れるのです。
イエスの足手まといになっている人間……
そんな人間たちを支え、励まされるイエス……
イエスに励まされ背中を押してもらえたから、私はがんばって頂上を極めることができ、荒海も恐れずに渡れるようになった……
切々と訴える曲を聴きながら、私はこの歌が欧米キリスト教世界ではこういうふうにも解釈されているのかと胸をふたぎました。
≪イエスと罪びとの絆を示す歌≫
この解釈は姦淫を犯した現場で捕らえられ、イエスのところに引き立てられてきた女のことが書かれている「ヨハネによる福音書」第8章の有名な話に通じます。律法(トーラー)では姦淫を犯せば石打ちの刑で死刑に処すと定められているので、イエスがユダヤの律法を守るのであれば、この女は石打ちの刑にしなければなりません。だから祭司、律法学者、それにパリサイ人(びと)などのユダヤの指導者たちは、女を引き立てイエスの前に突き出しました。
律法とは神が祭司や預言者を通じて示した生活と行動の細かい規範のことで、狭義では『モーセ五書』に依拠します。パリサイ派、もしくはパリサイ人とは、律法を厳格に守り、細部に至るまで忠実に実行することによって神の正義を実現しようとする人々ですが、形式に従うだけで内容をかえりみず、偽善に陥ってしまったので、しばしば偽善者とみなされるようになりました。
律法学者やパリサイ人が『モーセ五書』を持ちだして裁く限り、誰も反対することができず、姦淫を犯した女は石打ちの刑によって殺されるしかありません。律法学者やパリサイ人は姦淫の女をイエスがどう裁くかを見ることによって、イエスは正統派のユダヤ教徒なのか、それとも異端者なのかを判別し、イエス糾弾の根拠としようとしたのです。一歩間違えば、イエス自身が糾弾の矢面に立たされてしまいます。
≪姦淫の女を裁かなかったイエス≫
イエスは身をかがめ、黙って指で地面に何か書かれ、騒ぎに巻き込まれません。祭司や律法学者、パリサイ人がやかましく責め立てるので、イエスは身を起して言われました。誰も責めることはせず、静かで哀しみさえ含んでいる口調で言われました。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」
思いがけない、しかしずしりと重たい言葉が発せられました。祭司や律法学者たちはみんな絶句してしまい、振り上げていた拳を下すことができません。気まずくなって、一人去り、二人去りして、みんないなくなってしまいました。
ついに女だけになると、イエスは身を起して訊かれました。
「女よ、みんなはどこに行ったのですか。あなたを罰する者はなかったのですか」
女は涙声で答えました。
「主よ、……誰もありません」
イエスはひとこと言われました。
「わたしもあなたを罰しません。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」
そこには咎(とが)めるような態度は全然ありません。
石打ちの刑になり、石を投げられ、頭を割られ、血まみれになってもおかしくない状況なのに、イエスは文字通り矢面に立って、女を律法学者やパリサイ人の糾弾から守ってくれました。
「こんな私なのに……イエスさまは身をもって守ってくださった」
と涙ながらに感謝する姦淫の女――。
たった一匹の迷える子羊を探して助けられるイエス。
たった一人を誰よりも大切にされたイエス……
女は天地の理法の前に厳然と立たされました。もう罪は決してくり返すまい――女は本当の意味で堅く堅く誓ったのです。これが、イエスがもたらした変化だったのです。この解釈が示すように、You raise me up というフレーズは、「主よ、あなたが私を助け起こし、気持ちを強く持たせ、背中を押してくださったのです!」という意味でもあったのです。
≪天に引き上げられたイエス≫
さらに、You raise me up にはこんな意味もありました。新約聖書の4つの福音書のうち、「ヨハネによる福音書」を除く「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」の共観福音書は、ゴルゴダの丘でのイエスのはりつけのシーンを克明に書いています。
そのとき神は霊的闘いに勝利したイエスを天高く引き上げられ、復活の道を開かれましたが、ここでもraiseという単語が使われています。「神はイエスを高く引き上げられた」というのです。こう見てくると、raiseという単語の奥深さに驚くばかりです。
人々が「ユー・レイズ・ミー・アップ」を聴いてしばし涙するのは、無意識のうちに自分に差し伸べられたイエスの手を連想するからではないでしょうか。(続く)
写真=雲間から射す日の光