朝日の輝き

沈黙の響き (その74)

「沈黙の響き(その74)」

森先生を触発した二宮尊徳

 

 

 

≪自分が立っているところを深く掘る≫

私は森先生の哲学に接して驚嘆し、従来の学者の哲学には見られない独創性と実践性はどこから来るのだろうかとずっと模索していました。

普通、学者の論文はその分野の著名な学者の見解を引用し、その上で私はこう推論するという体裁を取るものです。ところが森先生の著書にはそういう引用が少なく、聡明な叡智と思われるご自分のひらめきが書き表わされています。そこで思索がたどりつくところは、森先生が開眼の契機となったといわれる二宮尊徳翁が詠まれた、

 

音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくり返しつつ

 

です。つまり森先生は万巻の書物を渉猟する書物の虫となることを止めて、天地の響きに聴き入ったのです。先生がくり返し強調された真理に、「真理は現実のただ中にあり」とありますが、現実のただ中に沈思黙考するとき、確かなものが見えてきました。そして確信して、

「かくして現実の中から把握せられた真理にして、はじめて現実を変革する威力を有する」

と断言されました。

 

思えば中国の古典『大学』にある思想「格物致知(かくぶつちち)」、すなわち「物を格(ただ)して、知に致(いた)る」という考え方も同じことを言っています。物、すなわち現実は深く沈思黙考するとき、宇宙の叡智を開陳してくれるのです。

 

ドイツの哲学者ニーチェも沈思黙考することの大切さを次のように語っています。

「怯(ひる)むことなく、お前の立っているところ、そこを掘れ。地下深く。その下にはきっと泉がある。ぼんやりした連中にはほざかせておけ、『下にあるのは決まって地獄だ』と」

 私はニーチェの達観は森先生の思索の本質を言い当てている炯眼(けいがん)だなと思いました。

「そこを掘れ、地下深く。そこにこそ創造の泉があるのだ」と。「沈黙の響き」に耳を傾け、沈思黙考することは、洋の東西を問わず、叡智が開ける重要な条件のようです。

 

 ≪逆境は天の恩寵的試練である≫

 森先生はいかにしてああした叡智を獲得されたのかと模索する私に、天王寺師範での授業で学生たちにしばしば、

「酔生夢死の人生、つまり酔っ払っているのか、夢を見ているのか、そんな人生を送ってはならない。私たちにぼやぼやしている時間はないんだ」

と語っておられます。森先生は私たちがついうっかりと、ぼやぼやした時間を過ごしていることに警告を発しておられるのです。考えてみると、森先生は、尋常高等小学校を卒業後、旧制中学に進学したかったけれども、家が貧しくて進学できず、やむなく師範学校に進むために、一年間小学校の給仕をされました。裕福な家庭の子どもたちが塾に通い、いっそう学力をつけて旧制中学に進学するのがうらやましくてなりませんでした。

 

愛知第一師範学校を卒業後、地元の横須賀尋常小学校に奉職しましたが、向学心は抑えがたく、東京高等師範学校を受験したものの不合格。ところが、そこまで向学心に燃えているのだったら学資を出そうという人が現れたので、今度は広島高等師範を受験して合格し、広島高師に入学しました。その後、京都帝国大学に進み、西田幾多郎教授の許で研鑚に励み、天王寺師範の講師になりました。学資を出してくれる人の期待に応えるためにも、ぼやぼやしてはおれなかったのです。

 

考えてみれば、生きていくためにぼやぼやしておれなかったのは、天の配剤だったとしか思えません。貧しい境遇だったからこそ切磋琢磨して、出色の人物になることができました。

もちろん、森先生が持って生まれた資質は私たちとは全然違っていたこともありますが、その資質が磨かれ、世を照らす光にまでなれたのは、天の導きがあったからだと言えます。自分の境遇をはかなむのではなく、それを真っ正面で受け止めて刻苦勉励したからこそ、世の光となれたのでした。だから森先生は「逆境は神の恩寵(おんちょう)的試練なり」と言わずにはおれませんでした。

「身に振りかかることは、すべてこれ天意なり」

 という森先生の箴言は私たちに人生に立ち向かう覚悟を迫っています。

 

≪複写はがきに込めた思い≫

ところで私に『修身教授録』の同志同行社版の序文を送ってくださった田村先生は、京都市で長らく小学校と中学校の教師をされましたが、その間、森先生の影響を受けて、複写はがきにも精魂されました。複写はがきの祖といえば徳永先生ですが、その徳永先生に毎日はがきを差し上げる「一日一信」を始められました。その動機はこうです。

 

「私が最初に実践人の夏季研修会に参加したのは、昭和四十八年(一九七三)で、森門下の逸材である徳永先生とご縁ができたのはもっと後のことでした。香川県の因島の教師・岡野孝司先生が徳永先生と一日一信をされていると聞いて、私もご縁を求めて一日一信をお願いしました。

晩年の徳永先生はご病気され、それでも病床から返信してくださいました。私はとても恐縮し、お体にさわってはいけないと思い、こちらからはがきを差し上げるのは遠慮しました」

 

 一日一信は約千日、二年半余り続きますが、徳永先生との交流を通して、多くのことを学ばれたようです。

 徳永先生から複写はがきを書くことを勧められ、人生が豊かになったという坂田道信さんはいま「複写はがきの伝道者」と呼ばれ、講演で全国を飛び回っておられます。私が複写はがきを書くことの効用をお訊きしたら、こう答えられました。

 

「複写はがきは一種のアンテナでもあります。複写はがきは多くの人が生活されているこの日本の中で、自分と共に歩いてくださる方を探し出す一つの道具であるように思います。複写はがきは思いもよらぬ多くの人と自分を結びつけてくれ、その人たちとネットワークを作ってくれ、人生を切り開いてくれるのです。やがて同じ波長の人たちとつながり、結ばれ、自分が本来持って生まれている使命を果たしていくことになります」

 

なるほど、複写はがきは自分と同じような波長の方を探し出すツールだとは、長年、複写はがきを書いてこられただけに至言です。複写はがきを書き続けることによって、人生は確実に豊かになっていくようです。(続き)

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写真=森先生の沈思黙考から宇宙の叡智が引き出された