山本彗莉さん

沈黙の響き (その101)

 

「沈黙の響き(その101)」

山本彗莉さんが流した涙

 

 

 山本彗莉(えり)さんというすてきな女性がいます。全国各地でマナーの講習会を開き、また講演にひっぱりだこです。あい☆えがお代表をつとめる山本彗莉さんの人柄に触れ、その包み込むような笑顔に接したら、誰も忘れられなくなるから不思議です。

 

「愛と笑顔で地球をつつみましょう。目の前にいてくださる方に幸せ・安心を届けましょう」 

と、呼びかける彗莉さんのメッセージは極めてシンプルですが、その呼びかけは誰しもの心にストンと落ち、深く納得できるのです。彗莉さんのやわらかい≪笑顔≫には強い伝播力があるようです。

 

 彗莉さんは25歳で結婚し、ご主人の父親替わりになっていた叔父が社長をしている高級洋品店を手伝いました。仕立てをするオーダー専門店で、ご主人は3代目を継ぐ予定でした。ところがご主人は外面がいいばかりであまり働かない人でした。ご主人の働きが悪くても自分ががんばれば、お客様や問屋に愛される日本一の洋服店になれるはずだと思い、夜も寝ずに働きました。

 

お店の経営と2人のお子さんの世話に追われ、1日わずか3時間の睡眠が続きました。28歳のときには鬱になりましたが、ファッションショーのモデルさんの笑顔の力で助けられて、人生を変えよう、生き方を変えようと思って努力を続けました。

 

彗莉さんは経営全般のことは知らされていなかったのですが、その間経営不振は続き、家も土地も全部抵当に入っており、しかも夫は連帯保証人の判を捺していたので、とうとう立ち行かなくなり、5年後、家業は破産してしまいました。これほど努力したのに何がいけなかったのかと思うと、声を出すのも怖くなりました。

 

足元がガラガラ崩れていき、このまま奈落の底に落ちていきたくないと思っていた矢先、新聞広告で話し方教室があることを知りました。

「この教室に行ったら何かが変わるかも知れない!」

と、藁にもすがる思いで見学に行きました。すると笑顔のすてきな河本栄味子先生があたたかくやさしく指導していらっしゃいました。

 

見学しているうちにこわばっていた心も体も癒されて、少しずつ温かくなってきました。

河本先生から、せっかく見学にいらっしゃったのですから、お名前だけでも話して帰りませんかと言われ、彗莉さんはおずおず壇上に立ちました。

破産という混乱した状態のときだったので、人前に顔を出すことさえ自信がなく、言葉が出てきません。それでもみんながニコニコして待っていてくださいます。やっとの思いで少し話しました。でも何を話したか、全然覚えていません。

 

実家の母に電話して話し方教室に通いたいと告げると、母が、

「こんなときだからこそ 通いなさい。どんなことがあっても、教室に通うお金ぐらいは出してあげるから」

と励ましてくれました。週に1度、1時間半のレッスンが、次の週まで彗莉さんに生きる力を与えてくれました。必死の取り組みが2年ほど続いたある日、河本先生がご自分の師でもあるトータルマナー研究所の創始者森恭子先生のアシスタントをしませんかと言われました。

 

先生は彗莉さんが自分に自信を持てず、うつ病になっていたところから立ち直ったので、話し方教室が伝えようとしていることを本当に理解していると思われたのでしょう。特訓のお陰で、話し方教室講師とトータルマナー研究所の講師になることができました。

 

◇修養団の中山靖雄先生との出会い

そんなある日、彗莉さんが司会を担当した人間学の勉強会に、伊勢修養団の中山靖雄先生が講師として呼ばれてこられました。中山先生は失明されていたので、奥さまの腕につかまって、会場に入られました。その瞬間、300人はいる会場の空気が、不思議にも赤味がかかったオレンジ色に変わったように見えました。

先生が歩かれるにつれて、赤い色の波動が波のように寄せてきます。先生は自由に明るく話をされ、会場全体が大笑いし、ときにぼろぼろと涙を流して聴き入りました。

 

その後、中山先生を紹介してくださった木南一志さんのお蔭で、中山靖雄先生に会いに行けることになり、中山先生からは誰でも連れていらっしゃいと言われたので、子どもたちと友人ふたりに声をかけ、初めて伊勢の修養団に伺いました。

 

その夜は修養団の迎賓館に泊めて頂き、中山先生は彗莉さんたちの部屋に来てくださっていろいろと尊い話をしてくださったあと、おもむろに、「ところで彗莉さん。ご主人はどうされたの?」と訊かれました。まだ離婚は成立せず協議中で、中途半端な状態だったので、「夫と別れるつもりで、子どもと3人で暮らしています」と伝えました。

 

その頃、中山先生は糖尿病が原因ですでに失明されていたので、移動のときは奥さまの肩に手を当てて誘導されていました。失明されていたので、それだけに聴覚などはいっそう鋭敏で、彗莉さんの声の調子や雰囲気から何かを感じ取っておられたのでしょう。中山先生は静かに「あなたがわがままだったんですね」とおっしゃいました。

 

それを聞いた途端、彗莉さんは怒りで血が逆流するのを感じました。さっきまで中山先生は世界で一番やさしい神さまのような人だと思っていたのに、夫と離婚すると言った途端、理由も何も聞かずに、一方的に女が悪いと決めつけてしまうとは赦(ゆる)せない! 一緒の空気も吸いたくない、もう荷物をまとめて帰ろうと思いました。

 

ところが中山先生はこまごまとした事情は聞かないまま、

「ご主人がいらっしゃる方向に向かって手を合わせ、私が悪うございましたとお詫びし、ご主人とご主人のご先祖様にありがとうございましたと感謝の言葉を毎晩伝えなさい」

と、おっしゃるのです。彗莉さんはどうして私がそんなことをしなきゃいけないの! とむかむかしました。反論したいことは山ほどありましたが、そうしたら時間を食ってしまい、先生の滞在時間が長くなってしまうと思い、反発する気持ちを飲み込みました。

 

そこへ中山先生の奥様が呼びに来られ、明朝は6時から正式参拝にお連れする予定です、皆さんは遠くからいらしてお疲れでしょうから、そろそろお暇しましょうと言われました。そこで彗莉さんは迎賓館の階段の下まで先生をお見送りに出て、先生の背中に、

「貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました」

と、心にもないお礼を言いました。ところが中山先生がくるっとふり返って彗莉さんを抱きしめ、

「よくがんばったね。あなたがどんなに大変だったか、わかっているよ」

と、おっしゃったのです。その途端、先生の大きくて温かい波動に包まれ、

(ああ、この方は全部私のことをわかってくださっている……)

と思われ、ありがたくて、ありがたくて涙が止まりませんでした。

 

彗莉さんが泣くだけ泣くと、中山先生は静かに語りかけました。

「あなたが別れたご主人と、ご主人のお母さんやご先祖様を赦せないでいたら、あなたの大切な子どもさんたちも、自分の体の中に流れているお父さんの血を赦せなくて苦しむことになるんだよ。あなたはお母さんだからわかっているでしょう」

 

 そう聞いた瞬間、彗莉さんは頭をガツンと殴られたような気がしました。子どもがお腹に宿ったとき、夫は自分もお腹の子どもも大事にしてくれなかったので、子どもは自分と一緒に夫と闘っている≪同志≫だと思っていたのです。でも考えてみると、自分と子どもでは立場が違い、子どもたちには父親の血が現に流れているのです。否定しようとしても否定できません。

 

 彗莉さんは自分がそうすることによって子どもたちの心が救われるならばという思いで、毎晩お詫びと感謝を言うことにしました。それを半年も続けていくと、自分の中に変化が現れてきました。あのとき、自分にも配慮が足りなかったのではとか、あのときは……と反省することがいくつもあり、次第に本当のお詫びと感謝に変わっていったのです。こうして心から謝ることができたとき、感謝がこみ上げてきて、夫への恨みから解放されました。

 

(ああ、中山先生は私をこの心境に導こうとされたのだ。人を恨む心があるままでは本物の笑顔になれないし、誰も救えないと教えてくださった)

 こうして彗莉さんは本当の意味で、愛と笑顔の親善大使になることができました。

人びとは本物の和解を求めて、彗莉さんのところにやってきます。彗莉さんは中山先生から気づかせていただいた和解の話をし、今日も人々を励ましています。

山本彗莉さん

写真=春の日向のように温かい山本彗莉さん