立花先生

沈黙の響き (その128)

「沈黙の響き(その128)」

魂を磨かずして歴史の開拓者になることはできない!

神渡良平

 

 私は毎週グループLINEに「沈黙の響き」をアップしており、もう2年が経ちました。その間、投稿してくださる方々やお電話に励まされ、続けることができました。投稿されたメッセージを読んだり、電話の声をお聞きして、「ああ、この連載はこれらの方々との共同で執筆できているんだな」と思っています。

 

 先日、かねがね尊敬している立花之則(ゆきのり)先生からお電話を頂戴し、「沈黙の響き」(その127)に書いた沖永良部島(おきのえらぶじま)に島流しされ、幽閉されていた西郷隆盛の話を読んだ感想をうかがいました。幽閉されていた西郷さんが置かれた状況は、脳出血で倒れて右半身が麻痺し、しかも言語中枢がやられて、アーアー・ウーウーとしか言えない状態に陥った立花先生自身の状況に極めて似通っているというのです。

 

立花先生の声は話ができない苦境があったとは思えないほど明瞭でした。

「私は4年前、脳出血で倒れました。運悪く発見が遅れたため致命傷となり、3か月ほど絶望状態が続きました。4か月経ってやっと蘇生し、リハビリが始まりましたが、やれどもやれども麻痺した手足は一向に回復の兆しは見えませんでした。

 

でもこのままでは終われないと、歯を食いしばってリハビリに努めました。通常の言語リハビリだけでは効果があがらないので、カラオケで歌を歌うことを始め、来る日も来る日も大声で好きな歌を歌い続けました。これが功を奏してろれつが回るようになり、とうとう退院に漕ぎつけました。その成果が医師や他の患者をビックリさせ、症例として学会でも発表されました。

 

私自身、そういう辛い経験をしたので、西郷さんは幽閉されたからこそ、内なる声に耳を澄まし、天に導かれて大きく脱皮して新境地をつかんだということがよくわかります。西郷さんがもしあのまま権謀術数の多い諸藩との折衝に明け暮れていたら、裏表のある政治的人間にはなったとしても、真に人々を糾合させる明治維新という青写真は描けなかったはずです」

なるほど、立花先生の指摘は事の本質を衝いていました。

 

◇日本の復興を目指して、まだま村を立ち上げる

 立花先生は北大阪の茨木市の郊外の山里で、葦葺(あしぶ)き屋根の縄文竪穴式の家「まだま村」を営み、そこで研修会を催して多くの人を啓発してこられました。まだま村は交通の不便な山里にありますが、ここは師と仰ぐ松井浄蓮(まつい・じょうれん)に啓発されて開村したところです。

 

松井先生とは終戦後、滋賀の比叡山麓に田畑を開墾され、終生一百姓として自給自足を貫き、生命を大切にする生き方と農の営みを実践された人です。下坐行の実践者である一燈園の西田天香さんとも親交があり、90歳を過ぎてもなお矍鑠(かくしゃく)として農業に精出しておられ、多く人々が集って学んでいました。その一人が青年のころの立花先生でした。

「まだま村開村の立役者はなんといっても松井先生です。陶芸家の河井寛次郎先生は松井先生を“大地を造形する人”として尊敬されていました」

 

ひょっとすると松井先生が率先して立花先生たちと切り拓かれたという竹林は、現在まだま村が建っている場所ですかと問うと、その通りですとの返事。

「今では想像もつきませんが、元々は昼でもなお暗い鬱蒼と茂った竹林でした。長年放置してあったので、数千本の竹が手の付けられないほどビッシリと生えていたのです。

 

日本人の心を喚起するような縄文竪穴式の葦葺きの家を建てたいという私の、まだ海のものとも山のものとも解らない雲をつかむような話を聞いて、松井先生は今すぐやろうと行動を起こし、先頭に立って竹切りをされました。10人ばかりの友人知人とともに数千本の竹を切って整地しました。こうして竹林がパーっと明るくなり、まだま村の計画は一気に加速して具体化していきました」

 

まだま村とは不思議な名称ですねと問うと、その由来を説明されました。

「バブルが頂点に達した平成元年(1989)ごろのことです。松井先生や坂村真民先生など、私の3人の師が異口同音にこのままだと、モノだけ栄えて、心が滅びる時代がきっと来ると嘆いておられました。私はそれに触発され、“美しい日本の心”を失ってはならないという意気込みで、全財産を投じて山の中に縄文竪穴式のまだま精舎(しょうじゃ)を建てました。心を取り戻す勉強会の根拠地にしようと思ったのです。

開村に当たって、救世教の紛争を調停された松本明重(あけしげ)先生が、

 

濁りたる世人浄めて花咲かす真魂(まだま)の人は敷島の花

 

という激励の歌をくださいました。自分のことを“真魂”と言うのはおこがましかったので、真を磨に変え、“磨魂(まだま)”魂を磨く、つまり汚れた魂を磨いて、真魂に近づく場所にしようと、人生の宿願としました」

 

 葦葺きのまだま精舎は長年茶房としてもみなさんに親しまれました。ハイキングに来た人たちが店に立ち寄り、縦横に組まれた太い梁を見上げ、囲炉裏の火にあたって、心が癒されて帰っていかれました。しかし残念ながら、茶房はコロナ禍のため閉店しなければならなくなりました。

 

 立花先生はいま空円光と名乗っておられます。その由来を聞くと、やはり天からの指し図でした。

45歳ごろ犬を散歩させていると、天から『空ハ円ナリ光ナリ』という言霊が降りてきました。私はそれが自分の目指すべき理想だと思い、80歳になったら生前戒名として空円光を名乗ろうと思いました。しかしその歳まで待てず、100回連続講演を達成したのを期に空円光と名乗るようになりました」

 

◇魂磨きこそが人生の原点

「さまざまな活動をして30年が経ち、初心に帰ろうと思っていた矢先、予想もしなかった出来事が襲いました」

 先に述べたように脳出血で倒れ、重篤な状態に陥ったのです。

「幸いに命は助かったものの、右半身麻痺という大きなハンディを背負うことになりました。右手はブラブラの状態で物がつかめません。すっかり落ち込んでしまいました。

 

 ところが辛くて悲しくて先が見えない時期を過ごして、ようやく物が見えるようになりました。私はつくづく傲慢だったと気づきました。人の痛みがまるでわかっていませんでした。至らなかったのは自分でした。一番反省しなければいけないのは私なのに、人に向かって魂を磨こうなどと説いていたのです。

 

右半身不随になったのは“意味”があったのです。天の恩寵以外の何物でもありません。懺悔することの多い日々ですが、それとともに極めて愉快で、何でも感謝して受けられるようになりました。小林秀雄は『空は実は満ち足りているのだ』と言いましたが、まったくそのとおり、満たされているのです。この闘病生活でようやく空円光という名にふさわしい心境が開けてきました」

 

立花先生の話を聞きながら、私は立花先生の恩師松井浄蓮先生の不思議な書名がついている『終わりより始まる』(法蔵館)を連想していました。立花先生は脳出血で倒れ、言語能力も失い、もう駄目だ、俺の人生は終わったと悲嘆に暮れました。しかし闘病生活を経て復活してみると、新たな心境が開けていました。松井先生がおっしゃるとおり、「終わりは終わりではなく、新たな始まりなんだ」でした。

これはもう歓喜以外のなにものでもありません。失われたものはあったけれども、それに倍するものが与えられたのです。これからは霊命を拝し、ご恩に感し、報徳に努めるばかりだと思いました。

 

 立花先生が闘病生活は天からいただいた恩寵で、“意味”があったと気づいたそうです。だから西郷さんが幽閉されていたときの苦衷がびんびん響くのです。

「西郷さんはすべての自由を剝奪されて獄中で呻吟しましたが、それが佐藤一斎の『言志四録』などに導かれて、コペルニクス的転換が起きました。もはや薩摩藩だとか倒幕勢力だとかという狭い意識を超えて、侵略の意図が濃厚な欧米列強を抑えて日本を真に独立国家として新生させなければならないという意識に変わっていかれました。

 

 もし西郷さんが旧態然として薩摩藩代表の意識のままだったら、江戸城無血開城はできなかったし、江戸は戦火に包まれて100万の市民が焼け出されたに違いありません。獄中で西郷さんが新生したから、あの危機を乗り越えて大同団結することができ、新生日本が生まれたのでした。

 

今まさに第三次世界大戦が噂されていますが、現代文明が終焉しつつあると言えます。文明の発展神話にしがみつくことなく、原点に返っていのちをおろがみ、自然に額づかねばならないのではないでしょうか。自然に帰れ、人間に帰れと魂から叫びたくなります」

 

立花先生は「逆境は人間の魂を磨いてくれる。逆境を経てこそ、歴史を切り拓いていける人格は形成されていくのだ」と、“魂を磨くこと”を人生の中核に置いたことは間違っていなかったと確信した次第でした。

立花先生

まだま村全景

まだま村の集まり

写真=➀まだま村での集いを再開した空円光立花之則先生 ②縄文の昔を髣髴させる葦葺きのまだま村 ③まだま村でのある日の集まり