「百歳万歳」 連載181

名曲「アメイジング・グレイス」の誕生秘話

月刊 「百歳万歳」 連載181

かつては奴隷船の船長であったニュートン牧師が祈りを込めて書き上げた讃美歌が世界中を席巻するに至った

もう十年ほども前のことだろうか、ギリシャの歌手ナナ・ムスクーリが「アメイジング・グレイス! 何と甘美なる響き……」と歌い出したとき、私の心に電流が走った。

私のようなみじめな者を救ってくださった/かつて私は道を見失っていたが/今は見い出され/かつては見えなかったが/今は見えるようになった

 天来の響きのように、空から声が降ってくる。私は「そうだ、まったくその通りだ」と相槌を打ちながら、彼女の歌声に聴き入った。
 その感動から覚めたとき、私はこの歌はどういう歌だろうと調べ出した。どうも十八世紀頃、イギリスのジョン・ニュートンという牧師が書いたものらしいとはわかったが、それ以上のことはわからなかった。
ところが月日が経つに連れて、ニュートン牧師はかつて奴隷船の船長として奴隷貿易に従事しており、西アフリカのシエラレオネやセネガル、ガンビアで黒人を購入してアメリカ大陸に運び、綿花畑やトウモロコシ畑の労働者として売さばいていたということがわかってきた。
当初ニュートンは、当時の社会がそうであったように、黒人が労働力として社会を支えるのは当然のことだと思っていた。世の中には優秀な人種と暗愚な人種があり、優秀な人種は社会をリードし、暗愚な人種は社会の下積みとなるのだと。
しかし、理性では自分をそう説得したとしても、過酷な状況に置かれた黒人奴隷たちのうめき声は否定すべくも無かった。いかに必要悪として認めたとしても、夫婦や親子がその意思に反して引き裂かれて売られていく悲哀は否定できなかったのだ。
ニュートンは下船した。そして少年時代の夢だった聖職者になって、後半の人生を人々に奉仕しようと思い立った。それから六年の奮闘の末、ようやくオルニーという町のセント・ピーター・アンド・セント・ポール教会の副牧師になった。
牧会に従事し、祈りの生活をすると、魂が清められていく。するとますます、かつて奴隷貿易に従事したことがどんなに悪いことだったか気付かされ、その懺悔の思いから、「アメイジング・グレイス」の歌詞を書き上げたのだ。
 この讃美歌はイギリスでも歓迎されたが、イギリスから独立したばかりのアメリカに伝わって、黒人奴隷たちの心を打った。自由を奪われて南部の農場で働かされ、現世に何も希望を見い出せなかった彼らは、「アメイジング・グレイス」に激しく共感した。だからこの歌は黒人霊歌ではないかと思われるほどに親しまれ、歌われたのだ。
 黒人と同様、マイノリティ(少数民族)のネイティブ・アメリカンもまた悲しい経験をしていた。チェロキー・インディアンの居住区で金鉱が発見され、白人はそれをわずか五百万ドルで買い取って、彼らを追放した。西部への逃避行で四千人もの仲間が次々に倒れたとき、彼らは死者を荒野に埋葬し、葬送の歌としてこの歌を歌ったという。
 共感の環が白人たちにまで広がっていったのは、一九六〇年に入ってからだ。ベトナム戦争が出口の見えない泥沼の戦争と化し、政府も国民も疲弊し、もう誰も信じることができなくなっていったとき、フォーク歌手のジョーン・バエズのグループにいたジュディ・コリンズが歌いだして爆発的にヒットし、燎原の火のように全米に広がっていったのだ。
さまざまなことがわかってくるにつれて、私はイギリスに取材に行きたいと考えるようになった。取材の過程で、ストラッドフォード・アポン・エイボンに住むマリリン・ローズさんがジョン・ニュートンの詳細な研究家であることを知り、彼女を訪ねて話したいと思ったのだ。
高校や聾唖学校の教師をしていたマリリンさんは椎間板ヘルニアで寝たきりになったとき、ベッドでニュートン牧師の説教集を読んで感動したことから、彼の事跡を追い始め、現在では「ジョン・ニュートン・プロジェクト」を立ち上げて活動しているという。
私は自宅にマリリンさんを訪ね、終日話し込んだ。彼女は入手したさまざまな資料を見せて、私のさまざまな疑問に答えてくれた。そしてニュートンの生家や、彼がオルニーから移ったロンドンのセント・メアリー・ウルノス教会や、その頃、彼が住んでいた通りなどを案内してくれた。行って見てわかったのは、セント・メアリー・ウルノス教会は英国銀行や王立証券取引所が建っている金融街のど真ん中にある教会で、ロンドン市長もその信徒になっている名門中の名門の教会だった。ニュートン牧師は田舎の教会の副牧師でスタートしたものの、とうとう最高の地域の牧師職に就任したのだ。
ロンドンに移ってからのニュートン牧師は奴隷貿易禁止法の成立に心を砕き、枢密院では二度も証言台に立ち、奴隷貿易は禁止すべきだと説いた。この法案が国会を通過したのは、彼が運動を始めてから実に二十八年目の一八〇七年のことである。彼はもう聴力が失われていたが、奴隷貿易禁止法が成立したことを聞き、歓喜のうちに八十二歳の生涯を閉じたのだ。
私は来年(二〇一一年)、西アフリカにも取材し、二年後にはこの誕生秘話を書き上げるべく計画している。人類は成長の過程で内なる獣性を一つひとつ克服して、今日の社会を築き上げているのだが、その刻苦勉励を書き現わしたいと願っている次第である。