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沈黙の響き (その144)

「沈黙の響き(その144)」

病ほど魂を磨いてくれるものはない!

神渡良平

 

 この「沈黙の響き」でわたしは今、作家の三浦綾子さんの魂の成長の足跡をたどっています。人間は成長の過程でさまざまな人に出会い、影響を受けて成長していくことをまざまざと見せられます。三浦綾子さん(旧姓福田)も最初の恋人で彼女にキリスト教を伝えた前川正さんや、洗礼式に出席してくださった洋生のニシムラの西村久蔵社長などを通して大きく脱皮しました。 受洗して教会に行くようになった堀田綾子さんが見たものは、痛みや哀しみの人生を歩いてきた人たちが見事に復活し、嬉々として生きている姿でした。

 

◇神は愛なればこそ、わたしに障がいを与えられた!

 

三浦綾子さんは日記形式の自叙伝『この病をも賜(たまもの)として』(角川書店)に、無名の詩人の島崎光正さんのことを書いています。

母の胎内で()(ぶん)脊椎(せきつい)症(にぶんせきつい)という難病に侵され、大正8年(1919)に生まれた奇形児は、足首が内側にそり返っていました。誕生すると光正と名づけられ、祖父に引き取られました。不幸にも医師の父は治療した患者の病に感染して亡くなりました。母は息子を引き取りに祖父を訪ねましたが、願いを果たせずに追い返されてしまいました。その後、20年間精神病院に閉じ込められ、会えないまま亡くなりました。だから光正さんはお母さんを写真でしか知りません。

光正さんは足首が奇形だったため普通の靴を履けず、ゴム長靴を履いて松葉杖をついて通学しました。排尿が難しいため、朝礼のときや授業中によく失禁してしまい、みんなから笑われました。自分はどうしてこんな星のもとに生まれてきたのだろうと運命を悲しく思っていましたが、手塚縫蔵(ぬいぞう)校長先生がいつも励ましてくれました。手塚校長は敬虔なキリスト者で、

「光正君の悲しみを一番ご存知なのは神さまだよ。決して見捨てられてはいないんだ。悲しみに負けないでね」

と励ましてくれました。光正さんは長靴を履いて重荷を引きずるようにして、悲しみを抱えたまま、毎週教会に通いました。するとイエスさまは光正さんの悲しみを誰よりも知っておられ、誰よりも泣いてくださいました。それがどれほど慰めになったかわかりません。だから28歳のときに洗礼を受けました。

それからの光正さんは詩で神の愛を伝える伝道者になりました。正さんが自叙伝を『星の宿り』(筑摩書房)としたのは、「自分にも神の恵みが宿っている」と感じたからです。病魔に支配された人生ですが、その病魔が彼の魂と詩想を磨いてくれたのです。だから、

「神は愛なればこそ、私は生まれてからこのかた、このような立場に置かれ続けたのです」

 あるいは、

「神は今、真に頼るべき存在として、ご自身を現わすべく、一対一の出会いのために、孤絶の荒野に私を導かれたのです」

 と言い切ることができました。からっと晴れ上がった人生観に見事に変わりました。驚くほどの目覚めです。もうはかなみませんでした。この目覚めと受容こそがキリスト者の強みです。島崎さんは身体障害者キリスト教伝道協力会会長として活躍し、平成12年(200011月、81歳で天に召されていきました。

 

 ◇30年間寝たきりのご婦人

 

島崎光正さんのようにイエスさまの涙に出合ったことから、自分の重荷を真っ正面で受け止めるようになり、もう二度と悩まず、嬉々として過ごしている人は他にもありました。埼玉県川口市に住んでいた矢部登代子さんもそういう人の一人です。

矢部さんは10歳のとき関節を患ったことから、立つことができなくなり、寝たきりになってしまい、それから30年間、一度も立ったことがありませんでした。普通なら半年や一年寝込むと、世をはかなみ、そんな人生を余儀なくされている運命を呪うものですが、矢部さんはさらに過酷な人生を歩まされていました。

長いこと矢部さんを世話してくださったお母さんが高血圧になり、世話ができなくなったのです。そんなことで矢部さんは寝たきりの不自由な体なのに、自分で自炊しなければならなくなりました。すでにキリスト教の信仰を持っていた矢部さんは自分に言い聞かせました。

「わたしは今こそ試されているんだわ。わたしが正真正銘のキリスト者であることをここで示さなければいけない!」

矢部さんがそう思えたのは、自分よりもっと重い重荷を背負っていたイエスが挫けることなく、すべてに勝利されて「神のみどりご」としての栄冠を授けられたと知ったからです。もし、矢部さんがイエスに励まされていなかったら、人生を悲観して毎日愚痴を言い、暗い一生を送ったに違いありません。

矢部さんはベッドの脇に水道を引き、腹ばいになって米を研ぎ、炊飯器でご飯を炊いて自活しました。矢部さんは悲壮感をもってそうしたのではなく、主がたどられた道をわたしも遅ればせながら歩めるという喜びからだったのです。その姿が近所の人々に感銘を与え、慕われるようになりました。

だから矢部さんが近所の子どもを集めて日曜学校を開くと、子どもたちは嬉々としている矢部さんの話を聞きたいと集まるようになりました。矢部さんは10歳のときから立ったことがない人でしたが、矢部さんの病室が日曜学校の教室となり、枕元に置かれたマイクで話をするのです。

やがてこの日曜学校は評判になり、大人も参加するようになりました。矢部さんのところに噂を聞いた人々が全国から訪ねてきて話を聞き、矢部さんの美しく明るい笑顔に励まされて勇んで帰っていくのです。こうして彼女に導かれて受洗した人の数は30名を超えるまでになりました。

 三浦綾子さんが訪ねたとき、彼女の病室は新築された家の2階に移っており、元の病室はキリスト教の集会室に変わっていました。人々は元の病室に集まって、マイクを通して矢部さんの話に聞き入りました。三浦さんが訪ねた日、矢部さんが日曜学校で教えた子だという大学生が訪ねていました。小学校も4年生までしか行っていない矢部さんを、大学生が師として慕っている姿を見て感銘を受けました。矢部さんは30年間寝たきりだとしても、かくも大きな働きをすることができるという実例でした。

 そういう事実に触れると、三浦さんは自分のキリスト教理解が頭の中でしかなく、イエスの涙はもっと奥深いものだと思うのでした。そういう経験をしてみて、堀田綾子さんは、

「病ほど魂を磨いてくれるものはない」

 と思うのでした。

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写真=今年もたわわに赤い実をつけたトキワサンザシ