『志が人と組織を育てる グルメ回転寿司「銚子丸」が吉田松陰に学んだ理念』
(神渡良平+堀地速男共著 廣済堂出版 税込み1404円)
この4月、『アメイジング・グレイス――魂の夜明け』(廣済堂出版)が出版された直後、グルメ回転寿司のトップメーカー「銚子丸」の創業者の堀地速男さんから、会いたいので来てほしいと電話がかかってきました。堀地さんは回転寿司業界で初めてジャスダック上場を果たし、日経ビジネスに載るほどの経営者で、私も本に書いたことのある人で、とても尊敬しています。
何事だろうと思い、指定された千葉大学付属病院の病室を訪ねました。そこで聞かされたのは、ガンが発見され、進行が意外に早く、今年末までは生きられないかもしれないということでした。
そこで5億円の私財を投げ打って山口県萩市の松陰神社に、研修会館・立志殿を寄贈することにし、10月27日にその寄贈式を行うと決めたそうです。それに間に合わせて、吉田松陰の思想によって銚子丸がどう形成されてきたかを書いて出版してほしいというのです。
尊敬する人の危急存亡のときです。何をさておいてもお手伝いしますと答え、急遽取材が始まりました。昼間は本人や幹部社員に取材し、早朝と夜間に執筆し、書き上げた部分から逐次堀地さんにチェックしてもらい、修正するという作業が続きました。
一方で、堀地さんが多大な影響を受けたという『講孟余話』や絶筆となった『留魂録』を読み返し、松陰が言わんとしたことを追究しました。
そこで重要なことに気づきました。松陰は処刑される前夜まで伝馬町の牢獄で『留魂録』を書いていましたが、29歳で人生を終えなければならない窮地に立たされて、私は実りの時を迎えないまま、死ななければならないのかと苦悶していました。
「すべての生命には春夏秋冬がある。春種を蒔き、夏繁茂し、秋収穫の時を迎え、冬は蔵に納められる。でも私の場合は何にも実らないまま中断してしまう!」
あの松陰が明らかに迷っているのです。ところがその苦悩の中で、はっと気づいたことがありました。
「そうじゃない! 私の人生は変則的で、間もなく中断されるけれども、私にも実りのときが訪れるのだ。自分では直接実りを見ることはできないけれども、私の生きざまは種子となって後世に伝えられ、そこで大きく花開いていくのだ。後世に立派な種子を残すことが私の人生の意義なのだ」
そう確信したときに、平安の境地が訪れ、従容と死んでいける準備ができました。
私は翌朝、堀地さんを病室に訪ねました。そして松陰は最後の最後「自分の人生は立派な種子を残せばそれでいい」と悟り、従容として刑場の露となって消えていかれたようだと話しました。
「堀地さん、あなたの夢は100店舗つくることでした。92店舗、年商200億円に到達するところまで漕ぎついたけれども、達成間際に病に倒れてしまいました。迷っていたときの松陰と同じように、慙愧の念でいっぱいではないでしょうか。
でも、そうじゃないと思うんです。銚子丸をここまで引っ張ってくる中で、いっしょに苦労した従業員たちの中に、種子が確実に残されているではありませんか。あなたがつくり上げた92店舗を種子として、銚子丸は次の経営者によって、ますます大きく花開いていきます。あなたは立派な種子を残しました」
そう言ったとき、堀地さんは我が意を得たりとばかりうなづき、涙ぐんでおられました。そのとき私は書きつつある本の核心はこれだと確信しました。
堀地さんのガンの進行は予想以上に早く、病室で最後の文章をチェックされたのが6月24日、そして突然の訃報が届いたのが、その3日後の6月27日でした。私は訃報を聞いたとき絶句し、愕然としました。
遺族から故人の「偲ぶ会」までには緊急出版してほしいと頼まれ、執筆にさらに拍車がかかりました。そしてようやく脱稿し、7月末の出版に漕ぎつけました。
この数か月間、自らの死に直面して、壮烈に闘う一人の人間に付き添っていて、私はいま静かに思うことがあります。人はみんな壮烈な闘いを演じています。でもみんながみんな、自分の人生の実りを目にできるわけではありません。実りを目にすることが出ないまま、人生を終わらなければならない人も大勢あります。
でも立派な種子を残すことができたら、それで満足だと思えたとき、人は愚かな執着心から解放され、人生を従容と締めくくることができるのではないでしょうか。