中村天風「幸せを呼び込む」思考 神渡 良平著 講談社+α新書 - 十七 最高のホスピスを目指して

桑原健輔さんの抜粋の第17回目です。今回が最終回となります。

中村天風「幸せを呼び込む」思考     神渡 良平著  講談社+α新書

神秘的な朝の太陽
神秘的な朝の太陽

 

十七 最高のホスピスを目指して 

 

  「そもそも生きているという不思議な命の力は、肉体にあるのではなく、霊魂という気の中に霊妙な働きを行う力があり、それはあたかも回っている扇風機にそれを回す力があるのではなく、電気がこれを回しているのと同様である。この例でも人間の力を正しく理解できるはずだが、人間だけは、肉体それ自身に活きる力があるように思うところに大変な間違いがある」(『運命を拓く』中村天風著 講談社)

 

 

 心に響いた、ある患者の訴え 

 久しく西の京と呼ばれ、古風な町並みが人々のゆかしさを感じさせる山口市の東部、約九千八百坪の敷地に、山口赤十字病院が堂々たるビル群を見せている。緩和ケア病棟は全国に百九十二施設あるが、そのモデルとなっているのが、末永和之緩和ケア科部長が率いる緩和ケア病棟だ。そのため全国から病棟医師や医学生の視察や看護師研修生が絶えず、今や山口赤十字病院の看板ともなっている。

 末永部長が人生の最期の時を過ごす緩和ケア病棟づくりに真剣に取り組むようになったのは、四十歳ごろ、末期ガンの患者に出会ったことからだ。その患者はある病院の四人部屋に入院しており、直腸ガンが肺に転移して末期になっていた。その病室では隣のベッドの患者が食事をしている横で、カーテンを引いてポータブルトイレを使わざるを得ない環境だった。だから、ある会合でこう訴えたのだ。

「私は死に直面しているとはいえ、まだ、『死に体』ではなく、最期の最期まで『生き体』なのです。なのにこんなみじめったらしい環境に我慢しなきゃいけません。これが日本の大病院の大部屋の実態なんです。これを改善せずに何を改善せよというのでしょうか」

 その魂の叫びが末永部長をしてホスピスの改善へと向かわせ、ハード面、ソフト面の両面で患者の尊厳性を損なわない環境づくりをしていった。その創意工夫が認められて緩和ケア病棟が評判になってくると、病院の経営者は病院を改築するにあたって、「山口赤十字病院の目玉」ともなるような緩和ケア病棟づくりを推進してくれたのだ。

 末永部長は在宅ホスピスケアにも力を入れる。住みなれた家で最期を迎えられるように、訪問看護体制を充実させているのだ。末永部長は笑いながら、こんなことがあったと話してくれた。

「ある患者さんに、『医者は来んでもええ。看護師さんだけでええ』と言われました。猫いらずではあるまいに、医者いらずとはね

 終末期になると、患者は全身が倦怠感に襲われるので身の置き所がなくなり、とても辛くなる。医者は少しでも楽にしようと注射し、薬を投与するのだが、もう効かない場合が多い。患者にしてみれば、楽にすると言われたが、少しも楽にならん。だからもう医者いらずだというわけだ。

「そんなとき、訪問看護師が患者の下を丁寧に洗い、温かいタオルで体を拭き、話を聴いてあげると、患者さんは満たされた気持ちになっていきます。そして自分の人生に納得し、これまで生きてきた人生に意味を見いだすのです。このとき看護師は医者以上に役に立っているといえます。だから猫いらずではないが、医者いらずとは、私たちの看護体制がうまく機能しつつあるといえるのではないでしょうか」

 病院では医者が一番偉く,看護師はその補助的役割としかみなされないことが多いが、末永部長は違う。ある面では看護師は医者以上の仕事ができると讃える。だから末永部長のもとでは,医師、看護師、コメディカル(薬剤師、理学療法士、作業療法士、音楽療法士、医療ソーシャルワーカー、管理栄養士などの医療従業者)やボランティアからなる医療チームが生き生きと機能するのだ。

 

 

 入院が内観を誘ってくれた

 その末永部長が、平成二十(二〇〇八)年七月二十九日、裂孔原性網膜剥離のため緊急入院した。その朝、通勤のため車を運転していて、右目の鼻側の上側が霞がかかったように見えるのに気がついた。左目を閉じるとはっきりわかるが、左目を開けるとよくわからない。末永部長は軽い糖尿病の気があったが、多忙のため教育入院する時間もなく、食事療法もしていなかった。

 頭をよぎったのは眼底出血である。病院で眼科を覗くと、山内一彦医師が新患を診ておられた。網膜を扱えるドクターとしては県内屈指だ。末永部長が外来診察をしている途中で眼科に呼ばれたので、眼底を診てもらった。

 ところが山内ドクターの診断はシビアだった。

「糖尿病による網膜症の変化はまったくなく、眼底出血もありません。ですが、裂孔原性網膜剥離を起こしており、かなりひどい状態です。今からすぐ入院してください。絶対安静で、歩行してもいけません。目を振動させることを避けなければいけません。これからは車椅子で移動してください」

 即刻入院と言うのだ。頭を動かすことも禁止され、二十四時間やや右向きで頭をやや前屈させた姿勢で固定され、四十八時間ほぼその姿勢で、手術日に備えることになった。

 体を動かせないことは苦痛以外のなにものでもない。まさに禅の修行と同じだ。光を遮断した真っ暗な部屋で、同じ姿勢を取っていると、自然と内なる世界に導かれていった。 自分を見詰める手法に内観というものがあることは本を通して知っており、それまで一度内観を受けてみたいと思っていたが、多くの入院患者を抱える身では、思うように時間が取れなかった。ところが絶対安静を強いられた今度の病気で、思いもかけず内観する時間に恵まれた。何と幸運なことであるか、末永部長はそのことに感謝した。

 内観とは、親、兄弟、配偶者、子供など、身近な人とのことを振り返り、

 ①世話になったことは何だったか

 ②それに対して、何をしてかえしたか

 ③迷惑をかけたことはなかったか

と振り返り、面接者に思い出したことを話すことによって、自分の記憶をクリーニングし、自分の人生に対する主体性を確立することである。

 人はそれぞれ自分の人生の主人公であるように見えるけれども,実際はそうでなく、過去の記憶に振り回され、自分がなぜそう行動してしまっているのか、わからないことが多い。主体性を持って行動しているように見えるけれども、その実歪んでしまっていて不本意な選択をしてしまい、意に添わない結果になってしまっている。それを根源から正そうというのが内観なのである。

 不思議なもので、忘れかけていた過去の記憶を顕在化させ、心からおわびすると、罪の意識が消えていき、晴れ晴れとした気持ちになっていく。本当の意味で、和解が成立したのだ。

 そして自由で、屈託のない自分がよみがえってくる。内観は失われた本来の自分を蘇生させる方法だった。末永部長はそれを体験したのだ。

 

 

 末永部長の三つの懺悔

  末永部長の脳裏に一番最初に浮かんできたのは、昭和五十一(一九七六)年、結婚して以来、忍の一字で家庭を守ってきてくれた奥様のことだった。

 奥様は小さい三人の子供を抱えて、家を出ようかと思ったこともあったが、子供たちの心に傷を残してはならないと思い返し、忍の一字で耐えた。奥様はよく末永部長に言ったものだ。

「夫婦は所詮、他人のようね。でも、母親は違うの。私は自分のお腹を痛めて生んだ子供たちのためなら、どんなことでも我慢して頑張ることができる。母親は子供たちとは切っても切れない関係なの。この子供たちは私の宝物なのよ」

 そのことを思い出したとき、涙があふれ出た。他にも至らないことがたくさんあり、辛い思いをさせてしまったことが思い出された。土下座して頭を下げて謝った。

 二つ目は年老いた母親のことだった。母親は八十四歳のとき認知症が始まり、直近の記憶が欠落し始めた。それにトイレットペーパーをぐるぐる巻いて腹の中に入れ、家の廊下をぐるぐる歩き回るという奇行をするようになった。

 ある日、末永部長が書斎で仕事をしていると、母親がドアを開け、何か言いたそうにした。けれども末永部長は、「今は忙しいの。そこのドアを閉めて」と言ってしまった。そのとき、母親はとても寂しそうな表情を見せた。

「思い出したのは、その寂しそうな表情でした。認知症で直近の記憶は欠落したとしても、感情は普通のままです。とても傷ついたに違いありません。あのときもっと優しく、『おばあちゃん、大丈夫かね』と声をかけてやればよかったと思うと、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」

 三つ目は、大学院時代にお世話になった法医学の教授に対する背信行為だ。教授は日本の法医学の継承と発展のため、法医学を目指す数少ない弟子を育てようと、一生懸命に手ほどきをし、学資の減免も図ってくれた。

 末永部長は大学院を卒業すると法医学教室に入り、助手として働いた。変死者の遺体の解剖をして死因を突き止める仕事は、それはそれで有意義なものだった。

 ところが一年半経ったころ、選択を迫られた。大学に残ってそのまま法医学の道を突き進んでいくか、郷里の山口に帰り、実家で一人生活をしている年老いた母親の世話をするか、である。

 末永部長は五人兄弟姉妹の末っ子の三男で、兄や姉たちは郷里を離れてそれぞれの道を歩んでいて、山口に帰れない事情にあった。帰れるとすれば、末永部長だけだった。

 末永部長は親を取るか、大学を取るか、選択を迫られた。

 法医学者として病死ではない人々の最期を見つづけてみると、人生の最期は家族に見守られて畳の上で平安に終えていくことが一番幸せなことだと感じていたから、大学の道より、親孝行することのほうが大切ではないかと思えた。

 幸いにして、山口赤十字病院の故吉富正一院長は、

「親を見るというのなら受け入れましょう。これから内科医として励みなさい」

と言ってくださった。しかしながら法医学の教授にしてみれば、六年半、手塩にかけて育てた弟子が法医学の道を捨てるわけだから、「片腕をもがれたようだ」と嘆いておられた。そのことを思い出して、心が痛んだ。

 人生では何度か大きな岐路に立たされるものだが、末永部長は教授からとてつもない恩を受けながら、心ならずも背信行為をしてしまった。ただただ頭をさげ、謝るしかなかった。

 病室で独り内観してみると、その時どきの相手の気持ちに気づかされていき、新たな発見があった。

「内観が進むにつれ、それ以外にもいろいろなことが思い出されました。迷惑をかけた方々がなんと多いことか、謝っても謝っても謝りきれることではありませんが、ごめんなさいと謝るしかありませんでした。

 多くの方々の支えによって今の私があるというのに、それに思い至らず、自分の努力で道を切り開いてきたと傲慢になっていたことに改めて気づかされました」

 ただでさえ謙虚な人なのに、末永部長はお詫びをくり返した。

「ついつい我を張り、『自分が』という世界に陥ってしまい、すべてのことが『自分が』を中心に回っているかのように錯覚してしまっていたのです。

『自分が』の『が』は我執の『が』でもあります。それが取れれば、どれだけ周囲の方々が楽になることだろうかとは思っていましたが、頭の中の知識でしかなかったのです。物事を理解することを英語ではunderstandと言いますが、これも理解するということは、『下に(under)立つ(stand)ことに他ならない』と言っています。まったくそのとおりでした。

 それに詩人の金子みすゞを世に広めた矢崎節夫さんが、『「わたしとあなた」という視点から「あなたとわたし」という視点に立ちましょう』とおっしゃっていましたが、そのことがようやくわかりました。相手の方が先で、私は後でよかったのです。

 多くの人たちに支えられて今日があるということに気づかなければいけないのは私なのでした。私が病床に伏している今日も、多くの同僚たちが私のすべき仕事をカバーして頑張ってくれていました。私はそれも感謝しなければいけなかったのです」

 末永部長は、自分の中に平安な世界が広がっていくのに驚くばかりだった。

 

 

 手術は祈りである

 手術に先だって、麻酔医は末永部長に笑気を吸わせた。マスクから笑気が流れ始め、大きく一回、二回と吸い、十回ぐらい数えたところで、吸い込まれるように意識が消えた。

 手術は眼球にバンドを掛け、顕微鏡をのぞきながら五ミリの傷を縫い上げるという難しい手術だ。だが、山内ドクターはまるで魔術師のようにやり遂げてしまった。

 昔から「医師は鬼手仏心」というが、すべての雑念を追い払い、手先に意識を集中して、自分の持てる力を最大限に発揮してようやく成功する。手術は後戻りできない真剣勝負であり、いつもうまくいくとは限らない。どの医師もまさに真剣勝負でことに当たっている。

 一方、患者のほうも医師を信頼し、心からお願いして託す以外にない。相互に信頼してこそ、医療は成り立つとつくづく思った。

「京都大学の総長をされていた平澤興医学部教授が、『手術は祈りである』とおっしゃっていましたが、祈るような気持ちでしか執刀はできません。同じような祈りが患者の側にもあってこそ、手術は成功するのだと思います。いつもは治療する側でしたが、今回まったく無力な患者という立場に立たされたからこそ気づいたことでした。よくぞ成功してくださったと感謝するしかありませんでした。そうでなければ失明していたところです」

 これまた新たな発見だった。

 

 

 垣間見た死後の世界

 意識が戻ったのは麻酔から三時間あまり経過し、手術も終わって、病室に運ばれていたときだ。まだ笑気の臭いは消えず、意識はもうろうとしていた。麻酔が効いていた時間、末永部長は不思議な体験をしている。末永部長の表現によるとこうだ。

「とても遠近感のある風景が広がっていました。私の両側には垂直に真っ直ぐ伸びた白い建物があり、天まで届いていました。はるか遠く下の方には、奈良の東大寺のような大伽藍の広大な庭園が広がっていました。

 私はその庭園に高いところからスーッと近づいていき、本堂の扉から奥へ入っていきました。そこには阿弥陀様が安置されており、その左手に半跏思惟の姿の弥勒菩薩がおられました。阿弥陀様は横になっておられたので、あるいはお釈迦様かも知れません。

 その伽藍の奥、はるか彼方の右手には、とてもきれいな雲が横にたなびいていました。それが淡い桃色、赤紫色、青色へと変化していくのです。

 とても広い空間の左手には、ギリシャ建築によく見られるエンタシス(円柱の中ほどにつけられたふくらみ)のあるパルテノン神殿のような建物が天高くそびえ立っていました。こちらから向かって正面を見ると、右手が東方の国であり、左手が西方の国になっていました。美しい東方の雲間から淡い光がさーっと降り注いでいました。

 私の両側にそびえ立っている白い建物は、淡い桃色や赤紫色、青色に染まり、変化していくのです。とても感動的な光景で、ひょっとしてこれは浄土の世界ではないかなと思いました。死後の世界って本当にあるんですね。

 私も大いに尊敬している中村天風の世界観にはとても教えられました。

 天風先生は(この節の冒頭に引用されているように)、人間の本質は霊魂であり、その衣でしかない肉体に執着してはならないと強調しておられますが、今回のことでそれを実感しました」

 医学はこれまで霊魂の問題を避けて通ってきたが、もうそれは許されないのではないかと感じたというのだ。

 

 

 新たな緩和ケア病棟を目指して 

 私たちは天がそれぞれに与えた出来事を通して新たな気づきに導かれるものだが、末永部長は失明の危機に立たされてみて、いのちの終焉に直面されている患者さんたちをケアする者として、再度自覚させられたことがあると言う。

「私は右目の失明からかろうじて助かりましたが、自分のいのちの終焉に向きあっている患者さんの苦しみは、これとは比較にならないほど深刻なのです。痛み、苦しみ、やせ衰えていき、ついにはいのちが終わらざるをえないという厳然たる事実を突きつけられておられます。この苦しみへの寄り添いがとても大事で、それが天が私にくださった使命ではないかと思います。

 患者さんの苦痛を取り除いてあげることは、緩和ケアのとても大事な役割ですが、それは役割のほんの一部分に過ぎないように思うんです。ホスピスの神髄とは、その人の人生が終わるかもしれないという現実に直面していても、なお平安で安寧な気持ちになれるよう支えていくことだと思います。

 永遠の眠りは誰にも確実にやってきます。でもそのいのちは終わるとしても、その役割と使命は次のいのちにバトンタッチされていくのだと私には思えるのです。

 私はホスピスの道に入って二十年ちかくになり、これまで三千人あまりの患者さんを看取ってきました。そしてますます思うのは、肉体のケア以上に精神的なケアが、私のホスピスの神髄だということです。人にはそれぞれ考えがありますから、自分の考えを押し付ける気は毛頭ありませんが、患者さんが深い気づきにいたるお手伝いもしなければいけないと思うようになりました。

 多くの患者さんが次第に自分のことができなくなり、愛する家族との別れが迫っていることを感じ、自分のいのちが消え果てようとするとき、内なる世界があることに気づいたとしたら、どれほど励まされることでしょうか。

 私たちの有限ないのちは、最後は医療の力が及ばない世界に行かざるをえないという厳然たる事実があります。つまり最後は大いなる力にお任せせざるをえないということです。

大いなる力とは、神とか仏とか天、あるいは筑波大学の村上和雄先生が言われるサムシング・グレートのことです。

 人間の力では及ばない世界、大いなる世界、無限の世界にゆだねざるをえないということに気づいたとき、この有限な世界に後ろ髪を引かれるのではなく、自分の人生に納得ができ、人生万歳という気持ちで終えていけるのではないかと思います」

 末永部長は今回、失明の危機に陥ったことが偶然とは思えない、より高度な緩和ケア病棟を創出するために、天がそう仕組まれたのではないか思っている。そして新たな次元の緩和ケア病棟を創出しなければいけないと、ますます使命を感じている。