ウィークリーメッセージ

沈黙の響き (その16)

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑤

2020.10.17 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その16

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑤

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

 ≪便所磨きは徳永学級の得意技≫

 徳永先生は教職についてから15年目、36歳の若さで校長に抜擢されました。2つの学校で約5年間校長を勤めましたが、行政的な用事が多くて困りました。そこでもっと直接子どもたちに接して学び合い、共に成長したいと考え、“一教員”への降格を願い出ました。前代未聞のことで、県の教育委員会は困りました。

 

それでも先生の希望が受け入れられ、太田郷小学校に赴任しました。徳永先生にとって太田郷小学校は一平教員に戻って本物の人間教育をしようとした最初の学校だったので、思いがこもりました。

 

八代市の(おお)()(ごう)小学校は2千人に近い生徒数の大規模校です。5年5組の徳永先生の学級は便所掃除を受け持ちました。先生の学級では“便所当番”とは言わずに“便所磨き”と呼びました。先生もいっしょになって便器を磨きました。

 

校庭の片隅に八角便所と呼ばれていている便所があり、とても汚れていました。徳永先生の発案で、みんなで掃除することになりました。みんなはいつもより早く登校し、瓦の欠片(かけら)で壁や床のしつこい汚れをそぎ落とし、数日後にはピカピカになりました。

あるとき便所に行くと、とてつもなく大きな(ふん)がしてあり、便器にかかって汚れていました。

「こりゃほんまに人間がしたんかな!」

 と、先生もみんなも驚き、大笑いして糞を洗い落としてきれいにしました。こうしてみんなにとって便所は汚いところではなく、ピカピカに磨き上げるところになり、だんだん5組が誇りとするようになりました。

 

 ≪犬を飼っていた徳永学級≫

 徳永先生が担任をしている5年5組は毎日日記を付けて、朝提出しています。その中に井村知子さんが学級で飼っている子犬のゴロ(五郎)のことを書いています。

「五の五には犬が一匹います。名前はゴロでとてもかわいらしいのです。ろうかをふいていると後ろから走ってきます。女子も男子も宝物のようにかわいがっています。明日も犬がいると思うととても楽しみです」

 

 ゴロは日本犬の雑種で、まだ生後3、4か月の子犬です。校庭に迷い込んできたので、みんなで育てようということになりました。ゴロの首輪に誰かが、「ぼくは50人の一人です」と書いていたので、徳永先生は吹き出してしまいました。徳永先生は、「動物をかわいがる子どもの気持ちを妨げてはならないし、子犬を通じて子どもたちのものの見方も向上するのでは」と思い、飼うことを許しました。休み時間になるとみんなで汗だくだくになって運動場を走らせ、食事は給食のミルクやパンを与えました。それに自宅からみんながご馳走を持ってくるので、余り過ぎるくらいです。

 

徳永先生は破顔して喜びました。

「ゴロが来てから、50人の気持ちが一つに固く結ばれた。みんな明るく、喧嘩はなくなったし、何よりも気持ちが和やかになって、素直さが増したよ」

 そしていつしか“クラスの歌”が生まれ、

「♪5年5組は、いつでも、どこでも、みんなの心が輪をつくる……」

 と歌いました。このユニークな「愛犬学級」のことを聞きつけて、を朝日新聞が取材に来て、新聞に載りました。こうしてゴロは学校中の人気者になりました。

 

 ≪パイロットになった教え子≫

徳永先生の教え子に、父親が無く、母親の手一つで育った植山洋一君がいました。ひねくれて育ってもおかしくない環境でしたが、

「たとえ父親が無かったとしても、この子を一人前の立派な人間にしなければならない」

という母親の祈りに支えられて、曲がることなく立派に育ちました。人をお世話することに少しも労を惜しまない植山君は言います。

 

「私には学歴も何もありませんが、ただ一つ、宝の母があります。私を育てるために、母はどんなに苦労したかわかりません。私は母に連れられて、足手まといになりながら、母と一緒に雑貨を売り歩いたこともありました。母は昼間、雑貨を売り歩き、夜は針仕事をしていました。

 

でもだんだん目が悪くなってきたので、私が母の手を引いて雑貨を売り歩きました。母は乏しい収入の中から工面して、半月ほど私を幼稚園にやってもらったことが、今でも忘れられません。小学校に上がると、目の悪い母のために、20本ぐらいの針に糸を通して学校に行きました」

 

そんな植山君に徳永先生の言葉は身に沁みました。

(みょう)()の芽が出るころ、私は決まって母のことを思います。祈ることだけ知って、その他のことは知らなかった母でした。だから母の最後の写真一葉は肌身離さず持っています」

 植山君自身がそうだったからです。

植山君は母に学資の迷惑をかけないで自分で自分の道を切り拓こうと、中学を卒業すると陸上自衛隊に入り、後に輸送ヘリの操縦士となって、普賢岳災害、阪神淡路大震災などの復興にも従事しました。そして忙しい隊務のかたわら、クラス会の小学校卒業15周年記念文集の編集を引き受け、大阪在住の教え子5人で見事にやり遂げました。

 

森先生の言葉は折につけて徳永先生の心を引き締めました。

「真の教育者は、一眼はつねに民族の行く手を展望しつつ、他の一眼は、自己の眼前に居並ぶいとけなき子らの魂への浸透に向けなければなるまい」

 師の的確な言葉は徳永先生をますます思いやりの深い教師に仕立て上げていきました。先生を囲む卒業生たちの集まりは、太田郷ごぼく会、免田十年会、伊牟田大木会、大阪ごぼく会、ごぼく八代会、阿蘇ごぼく会と増えていきました。植山さんは卒業後66年になる現在も、クラス会の事務局として会の連絡をとっています。(続く)

 

上自衛隊の大型ヘリの前で沖縄・石垣島の子どもたちと写った植山洋一さん上自衛隊の大型ヘリの前で沖縄・石垣島の子どもたちと写った植山洋一さ