希望館の館長時代の徳永宗起さん

沈黙の響き (その24)

2020.12.12 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その24

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑬

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

≪少年保護事業所・大阪の希望館≫

 昭和14年(1939)、宗起さんは大阪少年審判所管内の少年保護事業である希望館の第四代館長代理になりました。前館長が病気で倒れたので、急遽指名されたのです。

 家族をつれて赴任してみると、わずか12名の寮生が起居している希望館なのに、窓ガラス38枚も割れたままで補修されておらず、荒れた状態でした。

 

 集合と声をかけても、のろのろとしか集まってこず、笑顔を忘れ、白い目で絶えず周囲をうかがっています。履物をはかせると脱走が多くなるというので、靴を履くことを禁止されていました。だから裸足で庭に降り、そのままその足で廊下に上がるので、廊下も講堂も礼拝堂も2階の居室も裸足の跡で汚れていました。布団は長いこと陽に干さないのか湿っており、寝室は異様な臭気が漂っていました。経営状態が悪いので、3度の食事は顔を見合わせるような粗食と量しか出ませんでした。

 

 先任の職員たちはサジを投げたような批評ばかり述べます。

「連中はタチの悪い悪質者ばかりで、箸にも棒にもかからない手合いです」

「とても粗暴で、油断も隙もできません」

「みんな危険な連中で、いつ不穏、不祥事が起こるかわかりません」

「やつらは改善感化の対象にふさわしくない連中ばかりです」

 これでは職員と少年たちがかみ合うはずがありません。

 

 職員たちが不平をこぼしたように、2週間経ち、3週間経っても、少年たちは一向に打ち解けてくれません。物心ついてからこの方、長い年月の間、彼らは家庭でも学校でも職場でも不良の烙印が押され、警戒され、白眼視されてきたので、硬い殻に閉じこもっており、簡単に敗れるものではありませんでした。彼らはすべての大人たちを疑っていて、指導者は眉唾ものと決め込んでいて、難攻不落なように見えました。

 

 これは絶好の神の摂理だ!

 どうやってこの壁を突き崩そうかと思案していたとき、ある考えが湧いてきました。

(私は4年で卒業して教壇に立つことができたのに、遠回りして、導かれるままに救世軍に身を投じた。そして結核療養所で一命を取り留め、その後、各地で178年間、任務を遂行し、いま思いもかけず、青少年の教育現場で働くようになった。

この青少年の教育というのは私がもともと志していたことではないか! ひねくれてかなり手ごわい相手だけれども、これを神の摂理、神の恵みといわず、何と言おうか。

 この境遇は世に貧民学校と指さされたころのペスタロッチの境遇と似通っている。私はこの少年たちを立ち直らせる力をつけるために、方々に遣わされて訓練され、いまここに遣わされたのだ! ここはすばらしい人生道場だぞ)

 そう思い至ったとき、宗起さんは神の配剤の妙なることに心打たれる思いがしました。だから俄然力が湧き、少年たちに対する愛と希望が燃え上がりました。すると不思議なことに、少年たちを悪く考える気持ちが消えてゆき、非行少年に対する世間の冷たさを見聞きすると、逆に非行少年たちの味方になり、かばっていました。

 協力的な職員が入院してしまって戦力から外れたり、非協力的な職員が割に合わない勤務から去っていったりして、希望館の混乱は続きましたが、宗起さんは悲観しませんでした。

 

≪私は掃除夫、妻は炊事係だと割り切る≫

 宗起さんは、私の肩書は館長代理かもしれないが、実際は廊下や各居室を掃除し、整理整頓する掃除夫で、妻は3度3度の炊事係だと思い込みました。毎朝、不承不承に起き出して、いやいやながら掃除をし、見えないところで手抜きする掃除が良かろうはずはありません。なるべく少年たちの目につかないよう、少年たちの勉学時間や労作時間を見計らって、便所、洗面所、居室と雑巾(ぞうきん)がけをしました。するとそれを続けているうちに、三吉という少年が「館長、手伝いまっさ」と申し出て、拭き掃除を始めました。

 

「三吉君、ありがとう。とても助かるよ」と感謝すると、敏捷な三吉君が館長の雑巾をひったくり、「ぼくに任せておくんなさい」とまめに掃除するので、だんだん廊下に泥が上がらなくなりました。

「こりゃすごい。廊下が、ぼくが髯を剃るとき使う鏡の代用になるほど、ピカピカに磨き上げてくれ」

 と館長は励ましました。三吉君が一生懸命やっているので、他の少年たちも協力するようになり、泥足の習慣はいつの間にか改善されました。廊下の輝きが増すにつれ、三吉君の人相も輝きを増していきました。

「おい、三吉君。ついでに君の心も磨けよな」

 と言うと、館長の冗談に三吉君は首を縮め、ぺろりと舌を出して照れました。

 奥さんは乏しい財政のなか、足繁く市場に通い、なるべく栄養価の高くて鮮度のいい食品を買い求め、満腹感を覚える献立つくりに苦心しました。食卓に心のこもった工夫のあとがありありと見え、食事の時間が華やいでいきました。奥さんは4人の小さい子どもたちの子育てをしながらだったので、寝る時間もありませんでした。

 

 ≪あっぱれ! A少年の井戸掘り≫

 12名の少年の中に、大阪の今宮辺りを根城に、恐喝、空き巣、かっぱらいをくり返していた(ちょう)()(きゅう)のワルがいました。ご多分に漏れず、彼には罪悪感など微塵もなく、悪の(かたまり)のようでした。

 

 ところが夕食後、庭で遊んでいる宗起さんの子どもたちが無邪気に、「〇△□のお兄ちゃん」と呼んでじゃれています。赴任するとき、小さな子どもたちのいっしょに行くというので、それは止めた方がいいと引き留められたのですが、無邪気な子どもたちの信じ切った笑顔が性悪たちの気持ちをほぐしていました。

 

A少年と子どもたちの交流が深まるにつれ、心なしかA君の人相も変ってきました。ある夕方、屑鉄(くずてつ)拾いに興味を持つA君が、庭の片隅で埋もれていた鉄片を掘り出しました。

「徳永先生、鉄板らしいものが埋もれていました。もっと掘ってもよろしうおますか?」

 許可すると、嬉々として掘り起こし、作業に熱中しています。

「A君、その調子で掘れば、水が出ないだろうか? そこに井戸ができると、庭木の潅水(かんすい)や洗濯、行水に便利なんだけどなあ」

 

 するとA君は「先生、やってみますか?」と請け負い、毎夕、休憩時間に独力で穴掘りを続け、とうとうきれいな水を掘り当てました。コンクリートの井戸枠を4、5本入れるころには他の少年たちも手伝い、ついに完成しました。徳永館長代理も奥さんもみんなも大喜びし、庭の打ち水に庭木の潅水に洗濯、行水にと、大助かりです。

 徳永館長や奥さんやみんなに感謝されて、A君はすっかり自信を持ちました。以後、亜鉛カン作業に抜群の成績を上げるようになり、とうとう退館(卒業)に漕ぎつけました。そして退館後は、道路一つ隔てた鉄工所で一番の働き手になり、重宝がられました。

 

 一つのことに自信を持ち、誇りを持てば、次の能力開発につながり、人間を立ち直らせることをA君は如実に示しました。そういう事例がどんどん出てきて、希望館は建設的な笑い声で満ちあふれるようになり、希望館は大阪で模範的な少年保護事業所に変っていきました。そして松下乾電池㈱の亜鉛カン作りを委託されたり、海軍監督工場である大正重機協同組合工場に生産挺身隊を送るよう要請されるようになりました。(続く)

 


希望館の館長時代の徳永宗起さん