ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その28) 1月9日
教育はいのちといのちの呼応です!⑰
超凡破格の教育者 徳永康起先生
神渡良平
≪熊本県を代表する先進地区・八代市≫
昭和27年(1952)4月、新任地は八代市の太田郷小学校に決まりました。
八代は熊本県を代表する工業都市です。明治時代になって、天草と熊本の間に広がる不知火(しらぬい)海に面した八代港が近代的な港湾として整備されました。明治23年(1890)に九州第1号のセメント工場ができたのを皮切りに、十条製紙(現日本製紙)や三楽酒造(現メルシャン)が相次いで進出し、八代臨海工業地帯を形成しました。
太田郷小学校の校区にはそのうち3大工場がある先進的な地区です。一方では、市内を日本3大急流の一つ球磨川(くまがわ)が流れており、あちこちに風光明媚な景勝があります。
熊本には加藤清正が築城した熊本城があります。銀杏(ぎんなん)城とも呼ばれ、日本を代表するような勇壮な城郭です。その一角に高さが180メートルもある壮大な「百間石垣」があります。熊本では男一匹思い切ってやってのけることを、「熊本城百間石垣後ろ飛び」といいます。徳永先生はそれをやってのけたのです。
≪子どもたちの期待を集めたニコニコ先生≫
徳永先生にとって太田郷小学校は、一平教員に戻って本物の人間教育をしようとした最初の学校だったので、思いがこもりました。一方、子どもたちは新学期に向けてどういう組替えになるか、期待わくわくでした。その子どもたちが、よその学校から新しく着任した徳永先生をどう見ていたかを示す恰好な作文があります。卒業記念文集の『ごぼく』1号に掲載された秦穴征子(旧姓盛谷)さんの文章です。
「5年生になって、組替えになりました。どの先生になるか、どの組になるか、みんなさわいでいました。私と登紀代ちゃんと二人はまだ徳永先生の名前を知らず、いつ見てもニコニコして生徒たちと遊んでおられるので、とりあえず“ニコニコ先生”と呼んでいました。私たちはあの“ニコニコ先生”が担任になればいいなあと思っていました。
最初の日は組替えだけがあって、うれしいことに、私と登紀代ちゃんは同じ組になりました。あくる日の朝、庭に山のように土をもりあげ、それにどうかあのニコニコ先生になりますようにとおがんで、ごはんもろくに食べないで学校に行きました。
いよいよ講堂に集まって発表をききました。だんだん進んで、白木先生が、『次は5年五組!』と言われたとき、私たちはシーンとしずまり返りました。いよいよ5組の担任の先生の発表です。
『5組は徳永先生!』
(わあ、徳永先生になったわ! ばんざ~い!)
私と登紀代ちゃんはあまりにもうれしかったので、登紀代ちゃんの家で歌を作ってあそびましだ。やがて十条製紙の四時の終業のサイレンが鳴ったので、私は門のところで母を待ちました。仕事が終わって工場を出てきた母に、さっそく、担任はニコニコ先生になった! と話すと、母は、それはよかったね、そんなに好きな先生になったら、いっそう勉強も手伝いもがんばらないとねと言いました。私ははり切って、うん、今日から何でもする! と答えました。早いものであれから2年もたち、とうとう卒業を迎えてしまいました」
徳永先生は5年5組となった子どもたちに心から迎えられたようです。
≪日記によって始まった先生と子どもたちの“いのちの呼応”≫
一方、徳永先生は公簿に記載されている4年生まで評価を丹念に読みました。中にはかなり一方的で浅薄な児童観察が書かれていたりするので唖然としたり、むらむらと反発を感じたりしました。
(これじゃあ子どもの芽が枯れてしまう。大魚を教師の小さい洗面器で泳がせてはならないよな。よーし、一年経ったら、公簿に全然逆なことを記入しよう)
児童生徒に遠くから大きな声で「おはようー」と呼びかける徳永先生の声はバンカラそのもので、子どもたちは誰もがおはようございます! と返してきます。教室の黒板の上には、
自分を育てる者は自分である
と書いた額を掲げました。これを5年5組の心意気にしようというのです。徳永先生は教育事実を作るためには、日記によって一人ひとりと、いのちの呼応を始めるのが一番だと思いました。亡くなった田中君の枕元に残されていた日記がその思いを後押ししてくれたのです。毎朝、先生の教卓の上に子どもたちが日記を提出し、それに休み時間に先生が赤ペンでコメントを書き添えて、子どもたちとの心の交流が始まりました。
先生は学業の優中劣の評価は、人間としての優中劣の評価とは必ずしも一致しないと考えていたので、折に触れて授業でも話し、子どもたちの日記にも書き添えました。そうやって子どもたち一人ひとりの持ち味を引き出そうと苦心しました。
≪便所磨きは徳永学級の得意技≫
太田郷小学校は2千人に近い生徒数の大規模校です。徳永先生の学級は特に便所掃除に力を入れる学級でした。しかも“便所掃除”とは言わず“便所磨き”と呼び、先生もいっしょになって便器を磨きました。
校庭の隅に八角形の便所がありました。造られた当時は、校舎は木造なのに八角便所はコンクリート造りのモダンな便所で、最先端を行っていました。しかし寄る歳つきのため、コンクリートは腐食して変色し、汚れがしみ込んで、用を足すのもはばかられるほど汚くなっていました。徳永先生の発案で、ここをみんなで掃除しようということになりました。
でも、あまりにも汚いので、最初の間は気持ちが悪く、腰が引けてしまいました。しかし、徳永先生は粘り強い熱意でみんなをひっぱり、瓦のかけらで床のしつこい汚れをそぎ落とし、詰まって水はけが悪くなっていた排水孔の通りをよくしました。こうしてあれほど汚かった便所が一日一日ときれいになっていきました。
するとみんなは便所みがきの楽しさがわかるようになり、毎朝の便所磨きはみんなが先を争ってやるようになり、明るい活気で満ちるようになりました。こうして学校一汚い便所が学校一きれいな便所に変身したのです。
ある朝、ラジオ体操が終わって便所掃除に行くと、とてつもなく大きな大便が、便器にかかって、どっしりと乗っかっていました。みんなは、よくもこんなに大きい大便をする子がいるなあとびっくりしました。
「こりゃほんまに人間がしたんかな! おそろしくでかいなあ」
と、先生もみんなも大笑いし、吐き気をこらえて棒切れで大便を落とし、水で流してやっときれいになりました。こうして5組は便所みがきを誇りとするようになりました。
どでかい大便を、吐き気をこらえて洗い流した少年の日記には、先生のこんなコメントが書かれていました。
「すまん、すまん。ほんとうにすまんだったね」
私は読みながら笑ってしまいました。率直に詫びる先生! ほのぼのとしたクラスの雰囲気が伝わってきます。何て自由で闊達な教室なんだろう。みんなが誇りにしているのがわかります。
≪ぼくたちが太田郷小の伝統を作るんだ≫
ある子は便所みがきについて、日記にこう書いています。
「朝の自習時間に、5組は勢ぞろいして、瓦のかけらで西便所の小便器のふみ台みがきをやりました。そこに小便をしに来た男の人が、してよかですか? とことわり、もうしわけなさそうにされました。私たちが一生けんめいにみがいていると、はやし立て、冷やかする人もいますが、ありがたく思ってくれる人がいるかと思うととてもうれしいかった。
先生は私たちをこう言ってはげましてくださいました。
『ああ、これですっかりきれいになったなあというまでは、あと2か月はかかる。こんなことはいっぺんにできるものではない。時間を見てはたんねんにみがきあげなければならないんだ。君たちが全校のみんなに、便所をきれいにしようと思い込ませることに成功すると、日本一きれいな小学校になる。
しかし、そう思いこませるには1年はかかる。それまでには君たちは卒業している。でも、次の5年生が跡を継いでみがいてくれたら、それが伝統になって、日本一の小学校になるだろう。君たちは伝統を作っているんだ』」
このように徳永先生の教育は体験学習であり、実地教育でした。
徳永先生の業務日誌の11月4日の項にこう書かれています。
「このごろの便所みがきは、磨く人の心のごとく、ますます磨かれてきた。ありがたいことだ」
それが徳永先生の狙いだったのです。そして、「みんなが嫌がることを率先してやろう」という生き方が学級の中に定着していきました。(続く)