沈黙の響き (その29)

ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その29)        116

教育はいのちといのちの呼応です!⑱

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 現在、小文は致知出版社が『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』が出版すべく、2月中旬出版を目標に、編集作業を進めてくださっています。うれしいことに、私の人生の師である鍵山秀三郎先生(イエローハットの創業者)から推薦文が届きました。今回のウィークリーメッセージはそれを披露します。

推薦文

汗を流して具体的に行動する――これこそが教育の原点です

イエローハット創業者 鍵山秀三郎

 今回、人々に(やす)()菩薩と称えられた徳永康起先生の教育の全貌が明らかにされたことを大変喜んでいます。徳永先生はそれまで六年間務めていた校長職を辞し、昭和二十七年(一九五二)、一平教員に戻ると、念願だった教え子たちの魂の成長に心魂を傾けられました。

 担任している学級の子どもたちが提出する日記にていねいにコメントを書き、家では朝三時に起きて三畳の板の間の仕事部屋で、授業で生徒たちに配布する資料のガリ切りをされました。小さな火鉢があるだけの部屋は、先生自身〝寒室(かんしつ)(かん)()〟と呼んでおられたように、冬は凍えるほどに寒かったけれども、〝愛の実弾〟はそこから生まれました。

学校で一番汚かった、校庭の隅にあった八角(はっかく)便所のこびりついた汚れを、先生もいっしょになって瓦の欠片(かけら)でそぎ落とし、新聞紙や何かで詰まっている便器を通るようにし、黄色くなっていた便器を磨きました。徳永学級の絆はそんなところから生まれていきました。

 教え子たちの結びつきは固い絆となり、教え子たちは小学校卒業後十五年目に、自分たちの手で記念文集『ごぼく』4号を出しました

それを読んだ多くの教師たちは、「教師が心魂傾けた努力はここまで教え子たちの心に刻み込まれるのか」と感動しました。その記念文集は、森先生がいつも語っておられた「魂に点火する教育」が、実際にどういうふうに行われたのか示している具体的な証しだったのです。

この文集を森信三先生が激賞されたことから、浪速社がこれを『教え子みな吾が師なり』(徳永康起編)として出版してベストセラーになりました。八代市の一小学校で行われていた教育が全国的に知られるようになるまで、実に十八年もの歳月が経っていました。急がず、先を争わず、目の前のことを一つひとつ丹念に仕上げていったとき、それが歴史の地平を切り開いたのです。かくして徳永先生は、森先生を囲む教師たちの研鑚の場である実践人でも、中心的な役割を担うようになりました。

石川理紀之助翁が示しているもの

 今回、『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』を読んでみて、私は明治から大正時代にかけて、秋田県の農村指導者だった石川()紀之(きの)(すけ)(おう)のことを想起します。石川翁は毎朝三時に掛板(かけいた)を打ち鳴らして村人たちを眠りから起こし、まだ夜が明けきらないうちから農事に専念し、困窮した村を再建していきました。

ある猛吹雪の朝、理紀之助翁がいつものように午前三時に掛板を打ち鳴らし、雪まみれになって家に戻ると、奥さんが「吹雪の朝に掛板を打ったところで、誰にも聞こえないでしょう。ましてこの寒さでは誰も起きて仕事などしやしない……」と咎めるように言いました。でも理紀之助翁は平然と答えました。

「そうかもしれない。でも私はこの村の人々のためだけに掛板を叩いているのではない。ここから五百里離れた九州の人々にも、五百年後に生まれる人々にも聞こえるように叩いているんだ」

 そうした心構えだったから、理紀之助翁は少々のことでは失望せず、ひたすらな努力が疲弊していた農村を立ち直らせ、「秋田の二宮尊徳」と呼ばれるようになりました。明治二十一年(一八八八)、四十四歳とき、井上(かおる)農商務大臣の招請を受け、秋田県の農業改革の実績を報告するほどになりました。

 また二十七年(一八九四)から翌年にかけて、北白川宮の命を受けて九州七十四か所で講演や実地指導を行い、さらにその翌年は四国や千葉県での指導が続きました。

 その石川翁の自戒の言葉は「寝ていて人を起こすことなかれ」でした。「自分は動かないで他人にやらせることはできない。自分が先頭に立って手本を示してはじめて人を動かすことができる」というのです。

 先の徳永先生もまさに〝寒室寒坐〟し〝鉄筆の聖者〟と称えられたほどに努力されたから、教え子たちが感化され、それぞれの人生が花開いていったのです。

 この書は私たちに一番必要とされていることは何かを、気づかせてくれます。そして何よりもわが国に地下水脈のように流れている文化の特質が何であるか教えてくれます。営々と努力して立派な文化国家をつくりあげた先人たちを持ち、私たちはとても幸せです。私たちもそれぞれの持ち場で徳永先生に続いていきたいものです。