沈黙の響き (その36)

沈黙の響き (その36)

沈黙の響きから曲想を得る作曲家

 

世界でたった一人の音楽巡礼者 西村直記の世界

 

「沈黙の響き」は私たちに天来の声を伝えてくれ、創造の源泉です。毎週いろいろな方々の意見を読んでいたら、本物の音楽家から投稿がありました。作曲家・シンセサイザー奏者の西村直記先生も初回から「沈黙の響き」を読んでおられ、私たちの創造論の展開に興味津々だったようです。

 

 実は西村先生と私はコラボして、先生が演奏されるシンセサイザーのメロディーをバックに、私が自作の詩を朗読し、CD『いと高き者の子守唄』を制作したことがあります。そのとき、 ニューヨーク州立大学の病院のロビーに掲げられている詩『神のおもんぱかり』も朗読し、多大な反響を得ました。

 

 西村先生は郷里の松山にいたころは神童と呼ばれ、注目の的だったそうですが、西村先生に言わせると、「東京芸大に進学してみると、まわりはみんな神童ばっかりなので驚いた!」そうで、みんなを笑わせている気さくな面もあります。

西村先生はテレビやコンサートで私たちを魅力的な宇宙の旅に誘ってくださっていますが、今日は文章によって「西村直記の世界」を味わっていただきましょう。

 

「私たち人間は、すべての生き物を含めて豊かな感性が備わっています。私の場合、自然からのメッセージに感じ入り、それを音楽で表現しています。私が作曲し、演奏した曲を聴いて感動し、涙を流したという感想を聴くと、ああ一緒に楽しんでくださったんだなと嬉しくなります。

 

音楽家は自身の才能とは別に、天(神仏)から降ってくるものを表現しようと努めます。さらに会場で聴いていらっしゃる方々たちからの波動も一緒に共有します。これはものすごく大きな影響力があります。上質の観衆たちの心は演奏者に伝わり、その結果、奏でる音楽も相乗作用によって深く感動的なものになります。

 

決して演奏家一人だけの力ではありません。演奏者と観客が一体となることは、作曲した作品を伝えるためにとても必要なことです。私の場合、演奏を始める前、毎回上に向かって手を挙げるポーズを取りますが、これは天からのメッセージ(霊感)を頂くために行うものです。その姿と奏でられる響きが、みなさんに伝わると思っています。

 

この『沈黙の響き』で、西澤利明さんをはじめ、澁谷美知子さん、柏木満美さんなどの投稿を読んで一人感心していました。沈黙の響きから得たインスピレーションがどういうふうに私の創作活動に影響しているか、ささやかな体験を書かせてもらおうと思います。

 

 私が30歳のとき、人生の転機となった大事故が起きました。東京芸大を卒業し、松山市を拠点に音楽活動をしているとき、妊娠5ヶ月の妻と4歳だった長男が大事故に遭いました。救急車で病院に運ばれ、救急措置を受けました。脊椎や脚を損傷していたため、医者からは『助からないかもしれません。助かったとしても、一生寝たきりになるかもしれません』と宣告されました。

 

私は目の前が真っ暗になり、病院をふらふらさ迷い出て、どこをどう歩いたかわからないまま、ふと気がつくと、幼いころ遊んでいた石手寺に来ていました。石手寺には線香の煙が立ち込め、手を合わせて一心不乱に拝むお遍路さんの読経の声が満ちていて、とても心が和みました。

 

そんな光景に包まれてぼーっとしていると、光が見えてきました。ひょっとしたら妻子は助かるかもしれない、そして自分もこの苦節を経て、新たな次元に引き上げられるのではないかと予感したのです。

  

 そんな思いを感じて帰宅し、母にそのことを伝えると、『石手寺は四国八十八か所の51番札所のお寺だよ』と教えられました。不思議に私の中に八十八か所のお遍路をやろうという気持ちが大きくなってきたのです。

『無意識のうちに導かれて、八十八か所の札所に詣でていたのは何か意味があるのではないか。私もお遍路をし、家族を助けてくださるよう祈ろう』

 そこで毎朝水を被り、一時間あまり読経し、神仏に祈るようになりました。

 

 こうしてお遍路が始まりましたが、不思議なことにお寺を訪れるたびごとにメロディーが浮かんできました。それらを書きとめ、7年半かけて八十八か所すべてのお寺を巡りました。私にとってお遍路は物見遊山の旅ではなく、家族を救ってください! という切実な祈りの旅だったのです。音楽は当然祈りの音楽となり、組曲が全曲完成しました。

 幸いにして妻子は多少の後遺症は残ったものの、助かりました。でも毎朝の水業と読経はあれから40年経った今でも続けています。

 

 NHKがお遍路の番組を企画したとき、私に白羽の矢が立って音楽を担当しました。だから番組の視聴者はリアルな四国八十八か所を体験できて大好評だったようです。それがいま販売されているNHKエンタープライズのCDDVD『心を旅する四国八十八か所』です。

 

 昭和63年(1988)2月3日、四国八十八か所の到達点である高野山を訪れました。そのとき、高野山は四国八十八か所の到達点でもあるけれども、新しい出発点でもあると感じました。それからのことは、天の導きとしかいいようがありません。自分の意思を超えたサムシング・グレートの導きのまま、思ってもみない方向に進んでいきました」

 これがご縁となって西村先生は出家得度し、新たな音楽活動が始まりました。

 

世界音楽巡礼への旅立ち

 

昭和63年(1988)9月3日、高野山根本大塔で西村先生が世界音楽巡礼の旅に出発するための儀式が行われました。全国から参加された88人の方たちが22人ずつ東西南北に並び、金剛界曼荼羅の儀式にのっとって、西村先生たち4人の演奏に合わせて金剛界曼荼羅図のまわりを廻りました。こうして88人の方々が西村先生の世界音楽巡礼の旅の立会人になりました。

 夜は野外の特設ステージでコンサートが行われ、西村先生が作曲した『スペースオデッセイ 宇宙巡礼 如来(にょらい)寂音(しずね)』が演奏されました。バリトン歌手は鎌田直純、シンセサイザーは西村先生、箏は吉崎克彦、尺八は横山勝也です。

 こうして、ニューヨークやハワイ、ベルリン、エルサレム、南京、第二次世界大戦中にタイとビルマ(現ミャンマー)をつないでいた泰緬鉄道など世界各地の紛争地を訪れ、和解と癒しのためのコンサートを開きました。平成2年(199012月にはバチカンを訪れ、和解と癒しのコンサートをする予定でした。

ところがヨハネ・パウロ二世ローマ教皇は思いのほか、世界音楽巡礼の旅の趣旨を理解してくださり、謁見のときは御前で『宇宙巡礼・イン・バチカン』を演奏することになりました。演奏が終わって教皇にご挨拶すると、『世界の平和のために、この世界音楽巡礼を続けるように』と祝福をくださり、強く後押しされました。

 

西村先生のプロとしての最初のデビューアルバムCD『宇宙巡礼・イン・バチカン』の中に、ヨハネ・パウロ二世教皇のお言葉に添えて、ご一緒に写った写真が同封されています。世界音楽巡礼で、カーネギーホールやニューヨークの国連本部、あるいはハワイ大学など、欧米各国で演奏するときには、いつもこの作品を演奏しています。

 

≪とうとうやってきた大ブレーク!≫

 

私は前々から西村先生に尋ねたいことがありました。

「西村先生は奥さまとご長男が事故に遭われたとき、病院からふらふらさ迷い歩いて、石手寺に行かれましたね。あのとき、もうもうたる線香の煙に包まれ、巡礼者たちの読経の声を聴いているとき、この苦境を乗り超えたら、新しい次元の人生が始まるのではないかと予感されましたが、それが実現したのですね」

それは大変ポイントをついた質問だったようで、西村先生は右手で顎髭をいじりながら、当時を思い出して返事されました。

「ヨハネ・パウロ二世との謁見演奏のライブは東京でレコーディングされて発売され、新聞や雑誌などがこぞって書きたてました。私はすでに42歳になっていましたが、おじさんがプロデビューしたのです。それほどローマ教皇の前での謁見演奏は画期的なことでした」

「やっぱり新しい歯車が回りだしたのですね」

「私の同級生たちはとうの昔にデビューしていたので、おそらく私が最後のデビューでしょう。NHKエンタープライズが売り出したCDDVD『心を旅する四国八十八か所』は人々の心を大変打ったようで、総本山大覚寺、高野山金剛峯寺、仁和寺、醍醐寺など、各地の名刹が相次いでCD制作を依頼してきて、大忙しとなりました。

 そこでこれを機に10年間務めていた愛媛大学を退官し、生徒が40人いたニシムラピアノアカデミー(音楽教室)もやめ、音楽制作に専念することにしました」

 

やはり劇的な変化があったのです。その後、西村先生はアニメ映画などの音楽を担当し、フジテレビのテーマ音楽や大型番組の音楽を担当するようになりました。世に知られるようになり、ファンができると、ライブコンサートも手がけました。海の中の魚たちの視点で有名になった詩人金子みすゞの全詩512篇を作曲し、キングレコードから発売したのもこのころです。

 

「幸いにもNHKが四国お遍路物なら西村直記だと評価し、『心を旅する四国八十八か所』のテーマと全88曲を放映し、CD4枚組とDVDNHKエンタープライズから発売しました。その後、制作した『ユネスコ認定 世界遺産ビデオ』(10本組)が50万セット売れ、世界音楽巡礼でできた借金を全部返済できました。これはCDアルバムが500万枚売れたのと同じ計算になります」

 

 しかしながら、良いことだけが続いたわけではありませんでした。平成18年(20188月、エストニア男性合唱団を経て、世界トップクラスの混声合唱団、エストニアフィルハーモニック室内合唱団員として活躍していた長男の英将(ひであき)さんがガンで亡くなりました。自分より先に息子に死なれることほど辛いことはありません。それも受けて立たなければならない試練でした。

 

 西村先生は音楽活動のかたわら、現在も『世界八十八か所音楽巡礼の旅』を続けています。この一年はコロナ禍で中断していますが、現在3巡目の旅を行っている最中で、イスラエルで24か所目を終えました。

 西村先生は最後に、「沈黙の響き」と人間との関係についてこう語ります。

「私の人生の大方を歩いてきてつくづく感じているのは、神仏に委ねることの大切さです。取るに足らない存在ですが、どうぞ私を用いて、人々を励ましてくださいと祈ることです。それで随分肩の力が抜け、神仏が使いやすくなることを請け合います」

天の導きはただ単に音楽そのものだけでなく、西村先生の人生そのものを大きく変えました。そんな天と人間との関りを、音楽を通して表現している昨今です。(続く)

①シンセサイザーを演奏中の西村直記先生

②話題となったヨハネ・パウロ二世ローマ教皇との謁見

③西村先生の近影

写真=①シンセサイザーを演奏中の西村直記先生 ②話題となったヨハネ・パウロ二世ローマ教皇との謁見 ③西村先生の近影