『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』の書影

沈黙の響き (その39)

「沈黙の響き(その39

「人がその友のために自分の命を捨てることよりも大きな愛はない」

 

 

 前回は三浦綾子の『塩狩峠』(新潮文庫)の話を書きました。自分の命を投げ出して客車の下敷きになり、多くの乗客の命を救った長野政雄さんのことを小説化したものです。『塩狩峠』の主人公の話を知って、私はキリスト教の奥深さに驚きました。私自身はキリスト教の信者ではありませんが、その精神には深く共感しています。数多くある三浦綾子さんの作品の中で、これはもっとも優れた作品ではないかと思っています。そこで今回もそれに類する話を取り上げてメッセージを書きます。

 

≪“あほ忠”とあざけられた少年≫

 

キリスト教の伝道者であり社会運動家の賀川豊彦の親友に、松崎里彦という伝道者がいました。松崎先生は元救世軍の伝道者でしたが、ある事情があって救世軍を辞め、和歌山県の南部(みなみべ)で、開拓伝道を始めました。伝道のかたわら、農村の青年を集めて聖書を教え、共に労働をし、塾のようなものを始めました。その塾に労働の「労」と、祈祷の「祷」を用いて「労祷(ろうどう)学園」と名付け、共に祈り、共に労働しました。

 

 主宰者の松崎先生のあだ名は「ごもくた先生」、つまり「ごみため先生」で、先生の周りに集まってくる青年は問題児が少なくありませんでした。その中に山本忠一君という知恵遅れの少年がいました。山本君は幼いころ、脳膜炎を患って白痴になってしまったのです。

初めのころは親類の者が世話をしていたのですが、大飯食らいで、しかも寝小便をしていつも臭いので、あいそを尽かされ捨てられてしまいました。山本君は物乞いをして生きており、“あほ忠”と呼ばれていました。

 

 乞食で白痴の山本君が学園にやってきたので、近所の人は労祷学園の門柱にアホ学園と落書きをして、あざけりました。松崎先生は山本を一生懸命教育しましたが、結局山本君が覚えたのは讃美歌214番「北の果てなる氷の山」だけで、いつもその歌を口ずさんでいました。

 

近所の人たちがあまりに「労祷学園はアホ学園」といって馬鹿にするので、他の健常な入園者たちは我慢できなくなり、松崎先生のところに7人全員で談判にやってきました。

「あほチュウを追い出すか、さもなければ自分たちが出ていくかどっちかにしてください」

 そう言われて、松崎先生は本当に困りました。

 

でも、「丈夫な人に医者はいらない、いるのは病人である。ある人に100匹の羊があり、その中の1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を探しに出かけないだろうか」という聖書の言葉に従って、山本君を取りました。

結局、7人の入園者たちは労祷学園を去って行き、その混乱の中でまもなく山本君も去ってしまいました。数年後、松崎先生は風の便りに、山本君は機帆船で働いていると聞きました。

 

 昭和15年(1940)、たっぷり潮焼けした精悍な中年の男性が松崎先生を訪ねてきました。

「あなたは何年か前に山本忠一という子どもをお世話くださった方ではありませんか」

「はい、そうですが。あなたは忠やんの消息をご存じなんですか。今どうしていますか。機帆船に乗っていると聞きましたが」

「実はその忠やんが自分の身を投げ出して、私たちの船が沈没するのを防いでくれました。それでこれを忠やんの形見として届けにやってきたのです。どうぞ受け取ってください」

そう言って「幸重丸」の舵輪を差し出したのです。潮焼けした男性は山本君が乗り組んでいた「幸重丸」の船長でした。

 

船長によると、事件の顚末はこうでした。ある日、「幸重丸」は荷物を満載して、紀州の尾鷲を出帆しました。ところが出帆後間もなくして海が時化だし、新宮沖に差しかかったとき操船できなくなり、ついに暗礁に乗り上げてしまって浸水が始まりました。

もうだめだ、船が沈む! と動転していると、破れた船底から叫ぶ声がしました。あわてて駆け下りてみると、山本君が腰まで海水に浸かって狂ったように、「船を、船を出して、陸に接岸して」と叫んでいます。不思議なことに水は少しも増えていません。

 

船員が急いで水を掻い出してみますと、なんと驚いたことに山本君が船底の破れた穴に自分の太股をグッと突っ込んでいるのです。こうして「幸重丸」は遭難をまぬがれ、船員たちは九死に一生を得ましたが、山本君はかわいそうに右大腿部をもぎ取られ、出血多量のため、息を引き取りました。

 

山本君は寝小便をするような自分を抱きしめて一緒に同じ布団で寝てくれた松崎先生の心の温かさに触れ、「松崎先生に喜ばれたい」という一心で、一命を投じたのです。現在、労祷学園の屋根の一番上に、山本君を記念して「幸重丸」の舵輪が飾られています。

「ヨハネによる福音書」第1513節に「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とありますが、山本君は文字通り、そういう生き方をしたのです。

 

≪発売された『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』≫

 

私はこの3月、『人を育てる道――伝説の教師
徳永康起(やすき)の生き方』を致知出版社から上梓しました。山本君の話はこの本の主人公・徳永先生の生き方を髣髴させます。

 徳永先生と言ってもご存知でない方も多いかと思いますが、森信三神戸大学元教授が「100年に1人出るか出ないかの超凡破格の教師!」と驚嘆された人物です。徳永先生の教え子たちとの交流は、担任をしていたときだけではなく、卒業後も続き、教え子たちが小学校を卒業して15年目、先生との交流を書きつづった文集を出版したことにも現れています。

 

その文集は多くの教職者の心を打ち、昭和45年(1970)、『教え子みな吾が師なり』と改題されて浪速社から単行本化され、ベストセラーになりました。その徳永先生は熊本県の山奥の小学校で、みんなからのけ者にされ、ひねくれていた炭焼きの貧しい少年を抱いて寝て、凍てついていた心を先生の体温で溶かして、すっかり立ち直らせました。

 

 世の中にはどうしても勝ち組と負け組があるものです。世の中の傾向は勝ち馬の尻についていき、自分もなにがしかの恩恵を得たいと思うものです。そしてついつい負け組を遠ざけ、無視してしまいます。その結果、負け組はひねくれていくものです。

小学校の教室にもそれがあります。それは人間の悲しい性のようなものです。しかし徳永先生は負け組を見捨てるのではなく、彼らも励まし、勝ち馬にしようと努力されました。

 

 その姿勢を見た負け組の生徒たちは先生への信頼を深め、一生懸命勉強するようになり、生き生きとなっていきました。家庭が裕福で、成績も優秀な勝ち組の生徒たちも、「この先生は誰も見捨てない!」と信頼を寄せ、いっそう慕うようになりました。こうして徳永学級は和気あいあいとなり、深くて太い信頼の絆が育っていきました。

 

 徳永学級の教室の壁に掲げられていたモットーは、「自分を育てるのは自分である」と書かれていました。人を責めず、人のせいにせず、すべては自分の責任だと自覚する生き方はあっぱれで、さわやかですらありました。

 そんな徳永先生の教育のことを書いたのが『人を育てる道』です。この本を読まれたイエローハットの創業者鍵山秀三郎先生は、「この本は学級運営がうまくいかず、人知れず悩んでいらっしゃる現場の先生方に具体的なヒントを与えてくれます」と激賞されました。

 

 3月1日発売の雑誌「致知」4月号が全ページの広告を出してくれ、私も読者に出版案内のハガキを出したところ、多くのサイン本の申し込みがあり、3月12日の店頭販売の前に、すでに400冊あまりの扉書きをして送りました。徳永先生の生き方に多くの方々が共鳴され、その反響の大きさに驚いている次第です。(続く)

『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』の書影

写真=『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』の書影