『沈黙の響き』(その47)
はるかなる宇宙からの呼び声(2)
≪最初から悪い子なんておらんよ≫
今はすっかり白髪になってしまった故辻光文(こうぶん)先生は、自分に転機をもたらしてくれたS子ちゃんのことをこう語りました(インタビューは2015年)。
「問題はS子ちゃんにあったのではなく、S子ちゃんを全面的には受け入れていなかった私にあったのです。ことわざに『窮鼠(きゅうそ)猫を噛む』とあるように、猫よりも弱いネズミは普段猫に嚙みつきませんが、追い詰められると猫にでも噛みつきます。
問題児といわれる子は追い詰められてそうなっており、その事情を理解せず、問題児というレッテルを貼っていた私の方に問題があったのです。S子ちゃんはそのことを私に教えてくれたのでした。
学園に新しい子が来るとみんな決まって、先生、今度来る子ってどんな悪さをやらかした子なの? と訊くもんです。でも私はみんなを諭します。
『最初から悪い子っておらんよ。あんたらもここに来るときは、どんなところに行かされるんやろと心配やったろ。それと同じや。ほやからその子がどんな無茶をしようが腹を立てんと、仲ようしてあげてよ。よう面倒見てあげるんやで』
すると、よっしゃ、わかった、まかしとき! と受け入れ態勢をつくるもんです。子どもの内からの叫びを聞いてあげたとき、錨を下ろす港がなくてほっつき歩かざるを得なかった子どもは落ち着いてくるんです」
ややもすると私たちは、表面上、当座はおとなしくしている問題児の行動を近視眼的な目で見て、「教育の効果が出た」などと喜んでいます。ところが自分の期待に反する行動に直面すると、「裏切られた」と怒り、訳知り顔に「一度道を踏み外した者が立ち直るのは難しい!」などと憤慨します。
でも、そうなんでしょうか。
そうではないと辻先生は断言します。子どもたちは辻先生から大きく受け入れられたから、自由で屈託なく過ごすようになりました。子どもたちは落ち着きを取り戻し、情緒が育ち、辻さんの家庭学寮は錨を下ろすことができる母港になり、ごく普通の子どもになっていきました。子どもたちと辻先生の心の交流を支えた「交流日記」は実に800冊あまりになりました。そういう目に見えないコツコツとした努力が、問題を抱えた子どもたちを立ち直らせたのです。
≪生きているだけではいけませんか?≫
小舎夫婦制という教師夫婦の献身的努力に支えられた教護教育は、子どもたちと生活しながらの24時間教育なので大変です。しかし、子どもたちは裏表のない真実の愛に敏感に反応してくるので、極めて効果が上がります。
学園の教師たちは問題を起こした子どもを引き取りに警察署に行ったりして、なぜ誠意が子どもに通じないのかと途方に暮れたりします。辻先生も子どもたちに翻弄されてくたくたに疲れることもありましたが、それでも不思議な充実感に満たされました。
「教護教育の効果があったとか、なかったとか、そんなこざかしい思いを超えて、子どもの体の中で息づいている“いのち”を見ると感動します。みんな、途方もなく広い宇宙の厳粛なる“いのち”をいただいて尊く輝いているのです。私たちはその“いのち”を感謝して、精いっぱい生きればいいのです」
辻先生は子どもたちの“いのち”にみ仏の力を感じていたのです。そして驚くべき信条に言及されました。
「だからこそ絶対肯定! そして絶対肯定! さらに進んで絶対肯定! 何があっても絶対的に肯定します。それがみ仏を信じ、その子を信じるということです」
信じるということはそういうことかと思わざるを得ませんでした。南禅寺の柴山老師が太鼓判を押したように、辻先生の“受容”には絶大なものがありました。
辻先生はそれを「生きているだけではいけませんか!」という詩で表現しました。長い詩なので、ここでは最後の三分の一ほどの部分を紹介します。
そもそも人間とは、
そしていのちとは、
この自分とは何なのですか?
「いのちはつながっている!」と平易に言った人がいます。
それはすべてのものの、きれめのない、つなぎめのない、
東洋の「空」の世界でした。
障害者も、健常者も、子どもも、老人も、病む人も、あなたも、わたしも、
区別はできても、切り離しては存在し得ない“いのち”。
“いのち”そのものです。
それは虫も、動物も、山も、川も、海も、雨も、風も、空も、太陽も、
宇宙の塵の果てまでつながる“いのち”なのです。
劫初(ごうしょ)よりこの方、重々無尽(じゅうじゅうむじん)に織りなす“いのち”の流れとして、その中に今、私がいるのです。
すべては生きている。というより、生かされて、今ここにいる“いのち”です。
その私からの出発です。
すべてはみな、生かされている。
その“いのち”の自覚の中に、宇宙続きの、唯一、人間の感動があり、
愛が感じられるのです。
本当はみんな愛の中にあるのです。
生きているだけではいけませんか。
大自然の“いのち”はそこここに、これ見よかしと噴出し、わが世の春とばかりに謳歌しています。そのことを誰よりも感じている辻先生は“いのち”を謳歌することを全面的に支援されています。
「“いのち”は全部つながっているのです。そして私たちはお互い助け合うようになっています。自分の物差しに合わないからと切り捨ててはいけなせん。遠い太古の昔から、重々無尽に、子どもたちに流れ込んでいる“いのち”を生き切るようお手伝いしたい。それが私の役目だと自覚しています」
≪〝いのち〟のよび声に耳を澄まそう!≫
辻先生は、ややもすると四角四面の規則を押し付けることになりがちな道徳教育を脱して、子どもたちそれぞれがみ仏から授かっている〝いのち〟を全うさせようとされた〝いのちの教育者〟でした。
“いのち”は響きを持っています。あるか無きかのかそけき響きですが、メッセージを発しています。忙しくしている人の耳には届きませんが、しかしとても重要なメッセージです。辻先生のような繊細な魂はその〝沈黙の響き〟を聴き取ってその人とのコミュニケーションがなり立ち、手を差しのべました。
“沈黙の響き”は“いのち”が発している声です。その声を聴き分ける人は魂を救う人であり、世の救いです。そんな人がいる社会は決してみずみずしさを失いません。だから辻先生のような“沈黙の響き”に耳を傾ける人が、ここにもあそこにも必要なのです。こうして私たちのコミュニティは心豊かな人間社会に一歩一歩近づいていきます。かそけき声に耳を傾けることはとても大切なことでした。
ああ、はるかなる宇宙からの呼び声よ!
ただただ心耳を澄まし、ありがたく合掌し、自分の務めを果たていくばかりです。(続き)
写真=宇宙からみずみずしいいのちの惑星・地球に見入っているあなた