光は分け隔てをすることなく、すべての人を包みます

沈黙の響き (その55)

「沈黙の響き(その55)」

光はすべてのものを包み込む

 

心に響く名曲「ユー・レイズ・ミー・アップ」の歌詞で使われているraise について述べているうちに、セキレイの母子を例に“いのち”に賦与されている親が子をいたわる思いが、実は存在すべてに潜在しているものであり、それは宇宙の根本実在から来るものではないかと言及しました。

 

そしてさらに最近の科学の成果として、アーヴィン・ラズロたちが宇宙は無機質で伽藍洞(がらんどう)な空間ではなく、“意思”を持つ巨大な生命体だと主張していることに言及しました。科学者たちがそういう解釈を始めていることに私は新しい潮流を感じます。

 

ダマスコ途上でパウロに起きた異変≫

さて、ここでもう一度「ユー・レイズ・ミー・アップ」に返り、raise についてもう一つの解釈に言及したいと思います。raise me up のフレーズは、イエスが人々を助け起こし、励ましてこられたことと関連して解釈されてきました。実は初代教会の立役者の一人となったパウロもこの言葉と切り離すことはできません。パウロもイエスに「ユー・レイズ・ミー・アップ!」(主よ、あなたが私を助け起こしてくださったのです)と語っているのです。

 

パウロは「人は行い(律法)によるのではなく、神の恩恵により、信仰のみによって義とされる」と説き、ユダヤ教とイエスの教えの違いを鮮明にし、キリスト教が成立するのに大きな役割を果たしました。アウグスティヌスはこの「信仰義認論」を高く評価し、さらにルターなどの宗教改革者たちが唱える「信仰義認論」の核心となりました。パウロはキリスト教が世界宗教として飛躍するうえで決定的な役割を果たしています。

 

パウロがユダヤ教からキリスト教に回心するに至ったダマスコ(現シリアの首都ダマスカス)に行く途上で、こんな出来事がありました。ユダヤ教の正統派ともいうべきパリサイ派の熱心な信徒だったサウロ(パウロのへブル名)は、ユダヤ人でありながら律法を軽視すると見られるキリスト教徒を許しておけず、先頭に立って彼らを責め立てていました。

 

モーセの律法を遵守してユダヤの伝統を守ろうと思ったら、イエスはその伝統を破壊する者にしか見えなかったのです。サウロは大祭司から、ダマスコのユダヤ人でイエスに従う不届きなユダヤ人を拘束して、エルサレムに連行する権限を与えられてダマスコに向かいました。

 

≪敵対する者に言葉が臨んだ≫

その旅の途上、突然天から強い光が射してサウロを照らし、憂いに満ちた声が臨みました。

「サウロよ、サウロ、なぜ私を迫害するのか……」

 普通、敵対する者を訊問するときは難詰する調子になるものですが、その声はそんな調子では全然なく、悲しい響きすらありました。

 

〈えっ……なぜ……〉

その声の主はあまりに神々しい光に包まれていたので、サウロは目が眩(くら)んで昏倒(こんとう)してしまいました。そしてふり仰いで、悲しみの声の主に問い返しました。

「あなたは……一体、どなた……ですか?」

 悲しみの声の主はさめざめ涙を流しているようでした。

 

「……私はお前が迫害しているイエスだ」

「えっ、イエス? 私が迫害しているイエス?」

「そうだ。お前は間違ったことをしている。私がしようとしていることを阻むとは……、そんなことにお前の貴重な人生を費やしている暇はないのだ」

 

 イエスの声色(こわいろ)にはサウロを責める響きは全然ありません。それよりも無意味なことに時間を費やしてはいけないと諭す口調です。

「さあ、立ち上がりなさい。ダマスコに行けば、そこでお前がこれから何をしなければならないかわかるだろう」

 

その声に助け起こされ、立ち上がろうとしましたが、サウロは目が見えなくなっていました。まわりの人々に何か声が聴こえなかったかと訊ねても、みんなは口々に何も聴こえなかったとかぶりを振ります。

〈あれは幻聴だったのか? そんなはずはない。私は確かに聞いた。それに目が見えなくなっている。何かが起こったんだ〉

 

サウロは手を引かれてダマスコ市内に入り、ユダの家に泊まりました。あまりにもショックだったので、一体何が起きたのか、ひたすら祈り求めました。

〈あのまばゆいほどの光に包まれ、絶大な威厳があったイエスというお方は一体何者ですか? これまでイエスはモーセの律法を軽んじてユダヤの伝統を壊す者だと思い、それを阻止しようと急先鋒に立ってきましたが、私はとんでもない思い違いをしていたのですか……? どうぞ答えてください〉

 

両の頬を涙が伝い、床を叩いて祈り求めました。しかし、静寂な空間は何も答えません。小机の上に置かれたランプの炎が揺らいでいます。真実を明かしてくださいと祈り求める声は3日間続き、食べることも飲むこともしませんでした。それほど真剣だったのです。

 

≪私は敵対する者の手当などできません!≫

一方、イエスは信徒のアナニヤに霊的に現れて、サウロの目を癒してくれるよう頼みました。

「アナニヤよ、ユダの家にサウロというタルソ人(びと)が泊っている。私はサウロに、お前が訪ねてきて目に手を当てて祈り、再び見えるようにしてくれると伝えている。訪ねていって介抱してあげなさい」

 

でも、アナニヤはその要請には素直に従うことができません。

「主よ、あの男はエルサレムで信徒たちにどんなにひどいことをしたか、私は多くの仲間から聞いています。彼がダマスクにやって来たのも、祭司長からキリストに従うユダヤ人を捕縛してエルサレムに移送するよう権限を与えられているからです。そんな憎き敵対する者の手当なんかできません!」

ところがイエスは、アナニヤの抗議を意に留めず、サウロは自分が選んだ者で、これから大きな役割を果たしてもらわなければならないのだと言われました。

 

「サウロは異邦人や諸国の王たちに私のことを伝える者として、私が選んだ者です。私のことを伝えるために、これからサウロがどんなに苦しむことになるか……それを思うと辛い。でも、この福音は国境を越えて、多くの国々に伝えられなければならないのだ。それがサウロに与えられた使命なんだ」

 

 イエスは敵とか味方とかという区別は全然しませんでした。諸国への伝道において、サウロが背負わなければならない役割を語りました。とうとうアナニヤが折れ、サウロを訪ねて目を癒してやり、元通り見えるようにしてやりました。目が見えるようになったサウロはイエスに従う者たちに与えられている不思議な権能に驚き、バプテスマ(洗礼)を受けて回心しました。

 

この劇的な回心以後、サウロはイエスの熱心な証し人として、特に異邦人への伝道を使命として、小アジア、マケドニアなど、エーゲ海沿岸一帯に前後3回にわたって福音を伝えました。しかもパウロが旅先から小アジアの信徒たちに書き送り、心の持ち方について説いた深遠な手紙は、聖書を編纂(へんさん)される際に採用され、キリスト教の根幹を形成しました。

 

そのサウロが「主よ、あなたは敵対している私をも抱きしめ、助け起してくださいました」と告げていたことを考えると、感慨深いものがあります。

以上述べたように、欧米キリスト教圏では恋人を慕う歌も“大いなる存在”と重なって歌われることがしばしばのようです。(続き)

光は分け隔てをすることなく、すべての人を包みます

写真=光は分け隔てをすることなく、すべての人を包みます