52歳で旅立っていった石原裕次郎

沈黙の響き (その71)

「沈黙の響き(その71)」

石原裕次郎の最後の曲「わが人生に悔いなし」

 

 

 昭和61年(1986)夏、銀幕の大スター石原裕次郎さんが作詞家のなかにし礼さんをホテルに呼び出し、歌作りを依頼しました。なかにしさんはまだ裕次郎さんの歌は手がけていませんでしたが、菅原洋一の『今日でお別れ』や細川たかしの『北酒場』などを書いており、人生の深い色合いを描くのには長けています。

 

石原さんは脂が乗り切った52歳、絶頂期を迎えていました。ところがそれとは裏腹に体調がすぐれず、一向に良くなりません。実はそのころ裕次郎さんはガンに蝕まれていましたが、掛かりつけの医者も周囲もひたすら隠して告知しなかったのです。

 

しかし、本人はうすうす感じていました。

「みんな何も言わないけど、俺はガンに罹っているんじゃないか。まだ52歳だよ。人生はこれからおもしろくなるというのに。ここで死ぬわけにはいかない」

生に執着したものの、死期が迫っていると予感していました。

 

 だからなかにしさんは、これはただの新曲依頼ではなく、「俺の最後の歌になる」という思いが込められていると直感しました。企画を聞いて、

「裕次郎さんが発している死の匂いをすくい取らずして、どうして作詞家だと言えるか!」

 と、歌詞に彼の思いを織り込もうと奮闘しました。

 

「俺は夜遅く帰宅すると、台所で独り飲み直すんだよ。日本酒をトクトク注いで、食器棚に映る自分に乾杯してね」

 そんな言葉の端々から裕次郎さんの日常を感じさせる情景を歌詞に織り込んで、新曲のフレーズを書きました。それは18年前、1969年、フランク・シナトラがポール・アンカの作詞による『マイウェイ』を絶唱して世界大にヒットしましたが、なかにしさんはそれを予感して歌詞作りしました。

 

  ♪鏡に映るわが顔に/グラスをあげて乾杯を/たった一つの星をたよりに

  はるばる遠くへ来たもんだ/長かろうと短かろうと/わが人生に悔いはない

 

 作曲をお願いした加藤登紀子さんに歌詞を渡すと、

「よくもこんな歌詞を書いたわね。自分の人生をふり返っての絶唱よ」

 と驚かれました。それはそうでしょう。裕次郎さんは自分の死に直面しながら、逃げも隠れもしていませんでしたから。加藤さんはなかにしさんの真意を理解し、すてきな曲を書いてくれました。

 

  ♪この世に歌があればこそ/こらえた涙いくたびか/親にもらった体一つで

  戦い続けた気持ちよさ/右だろうと左だろうと/わが人生に悔いはない

 

 でも裕次郎さんの周囲にいる人たちは難色を示し、「これは死に臨んだ歌だ。ちょっとまずいな」と躊躇しました。ところが誰よりも本人自身が気に入ってくれ、採用しました。なかにしさんはリハーサルのとき、裕次郎さんに注文を付けました。

 

「この歌は未練を断ち切り、一人の男として達観したように歌ってほしい」

 裕次郎さんはその意図するところを受け止めて素朴に歌い、実にいい味に仕上がりました。

 

 昭和62年(1987421日、「わが人生に悔いなし」と名づけられた新曲が発売されました。裕次郎さんは一切の未練を断ち切って、あっけらかんと歌いました。そこには男らしさがあふれていました。歌は大ヒットし、カラオケの上位にランクされました。

 

裕次郎さんはそれからわずか3カ月後の717日、肝細胞ガンで亡くなりました。訃報を知らせるテレビニュースには、元気だったころの裕次郎さんの映像とともに、この曲が流れ、の最後のメッセージとなりました。

 

  ♪桜の花の下で見る/夢にも似てる人生さ/純で行こうぜ。愛で行こうぜ

生きているかぎりは青春だ/夢だろうと、現実だろうと/わが人生に悔いはない

わが人生に悔いはない

 

 青春のシンボルであり、戦後を象徴する大スターだった裕次郎さんの死は国民に大きな衝撃を与えました。811日、東京・青山葬儀場で行われた告別式には1万人以上のファンが詰め掛け、テレビには泣きはらす顔が映し出されました。別れを惜しむファンに裕次郎さんは、「純で行こうぜ。愛で行こうぜ。生きているかぎりは青春だ」と、どこまでもポジティブに歌い掛けました。(続く)

52歳で旅立っていった石原裕次郎

写真=52歳で旅立っていった石原裕次郎