平和の祈り

沈黙の響き (その103)

 

「沈黙の響き(その103)」

監獄の父に面会した混血孤児のマイク

神渡良平

 

 

 前回、『黒い十字架を背負わされたアガサ』で、混血児のアガサがたどった悲しい人生を紹介しました。しかし澤田さんはその4年前に上梓された『黒い肌と白い心――サンダース・ホームへの道』(日本経済新聞社。昭和38年刊)に、

「私は(混血孤児の養育を通して)一生忘れることができない最高の体験も与えられました」

とも書いています。今回はそのことについて書きます。

 

◇終身刑で収監された父親

 戦後まもなく、大磯のエリザベス・サンダース・ホームにちっちゃな黒人の男の子が送られてきました。父に当たる米兵クレモント・ジョンソン兵曹は相手の女性とまじめに結婚することを考え、家まで購入していました。ところが同僚と酒の上での口論から、同じ部隊の兵士を射殺してしまい、軍法会議にかけられて有罪となり、本国に送還されて終身刑で収監されてしまいました。

 

 ジョンソン兵曹は獄中から刑務所内の労働で得た収入から、まだ見ぬ息子マイクに送金し続けて7年にも及び、同時に母親にも毎週手紙を書き続けました。そんなことがあったので澤田さんはアメリカに講演旅行に行くとき、兵曹が夢にも忘れたことがない息子のマイクの写真を持って、ミズーリ州レブンワース刑務所を訪ねようと考えました。

 

 澤田さんはニューヨークでもワシントンでも講演のたびに、有力な人びとにジョンソン兵曹の話をして、面会の助力を頼みました。実は死刑囚には親族以外の面会は許されていないので、澤田さんは面会できません。だからどの人も、法律で決まっているのだから無理だとあきれて、協力してくれませんでした。

 

ところが、『大地』などでノーベル文学賞を得たパール・バック女史とフィラデルフィア・バブテスト教会のパルマ―牧師が協力を申し出てくれ、法務省に掛け合ってくれました。

パール・バック女史は後にサンダース・ホームを訪ねている親しい仲です。三菱財閥の総帥の令嬢だからそういう交友関係も持っており、それらを積極的に活用しました。

 

 同じミズーリ州カンサスシティにはホームから2人の子どもが養子としてもらわれてきていたので、その一人アームストロング家に泊って彼らと再会を喜び合っていると、ジョンソン兵曹が収監されているレブンワース刑務所から電話が掛かってきました。ワシントンの特別な配慮によって、面会が許可されたというのです。

 

 澤田さんがレブンワース連隊付きの牧師に伴われて州立刑務所を訪ねると、7階建てのガラス張りの明るく白い建物が見えてきました。日本の刑務所と違って、中が見えるようになっており、太陽がさんさんとふり注いでいました。

 係官に「本人との関係は?」と問われると、付き添いの牧師が「ウオー・ブライド(戦争花嫁)です」と答えました。終身刑の囚人の面会は、親か配偶者か子どもに限られているので、戦争花嫁とごまかしたのです。

 

◇父親としての責務を遂行したジョンソン兵長

 しばらくするとジョンソン兵曹が看守に付き添われて、面会室に入ってきました。澤田さんは一目見て、マイクの父親だとわかりました。褐色の肌、ニキビでぼこぼこ顔の快活な人柄、どれもこれもマイクを髣髴させました。空色の獄衣を着た兵曹は目を輝かせて、 

「7つになったぼくのマイクは元気ですか? 大きくなったでしょうね」

 と、語りかけました。

 

元気いっぱいのマイクの写真を見せると、嬉しさではちきれそうです。でも次の瞬間、兵曹の顔が曇りました。

「刑務所に入っている現在のパパを、マイクはもう忘れた方がいいのかもしれない……」

 

 澤田さんはあわてて否定しました。

「そんなことはありません。私はホームを始めて5年になり、これまで247名の子を育ててきましたが、その中で父としての責務を取ったのはあなたがひとりだけです。私がここを訪ねられるように骨折ってくださった方々は、あなたが父親としての責任を取られる姿に感動されています。どうか希望を捨てないでください。あなたのお母さんも減刑運動をされており、この重い鉄の扉が開くときはきっと来るはずです」

 

 ジョンソン兵曹の目が潤んで、涙が頬を伝いました。看守が時間だと合図したので、澤田さんは再会を約して面会室を出ました。

 

 翌年、再び渡米し、澤田さんは重い足取りでレブンワース刑務所を訪ねました。実はマイクの母親が終身刑の夫を待ち疲れて、再婚してしまったと告げなければならないのです。でもその結婚は不幸に終わってしまい、彼女は改めてジョンソンの誠実さがわかったので、お詫びの手紙を書きました。その手紙を手渡そうと持ってきたのです。

 

 黙って一部始終を聞いた兵曹はたったひと言、きっぱりと意志表示しました。

「どんなことが彼女の身に起ころうと、ぼくは最初彼女に懐いた愛は今も変わりません。日本に帰ったら、彼女にそう伝えてください」

 

◇マイクを養子にして米国に連れてこれないかしら……

 その態度があまりにも立派だったので、澤田さんは胸がいっぱいになりました。そして失意の彼を慰めたいと思うと、天から啓示があったかのように閃きました。

 

(マイクをジョンソン兵曹の姉の養子にして、アメリカに住まわせたらどうかしら。そうしたらもっと頻繁に会えるし……)

そのことを兵曹に伝えると、失意の中にあった彼の目に光が射しました。彼は信じられないという顔をして大喜びし、

「この国で息子のマイクが待ってくれていると思うと、希望が湧きます。でも、そんなことが可能ですか!」

 

「可能ですかって? 私には不可能なことは何一つありません。これまでも不可能なことだらけで、ホームも閉鎖一歩手前まで行ったのに、諦めずに挑戦し続けたら道が開けました。私が現にここに来ているということ自体、何よりもその証拠です」

 

 そう断言すると、彼の目から涙があふれ出ました。

「私は明日、あなたのお母さんと姉さんに会って、マイクを養子にしてアメリカに迎える話を進めます」

 彼は感動のあまり、声が出ませんでした。2人はしっかり握手して別れました。

 

 そのとき澤田さんは、

(この次、ここに来るときは、マイクを連れてきます)

と、言いたくて、声が出かかったのですが、かろうじて口を閉じました。空約束をして失望させたら申し訳ないと持ったからです。

 

 ジョンソン兵曹の家は貧しい黒人街のゴミゴミした町にありました。澤田さんは母親と姉に会って養子縁組の了解を取り付け、さまざまな書類を揃えました。そしてマイクの養子縁組と兵曹の助命嘆願を州選出の上院議員に提出しました。

 

 その次の年、つまり初めてジョンソン兵曹に会ってから4年目の春の終わり、ワシントンDCから正式な通知があり、マイクの養子縁組と移民が認められました。とうとうマイクは実の父親に会えることになったのです。

 

 澤田さんは6人の混血孤児と一緒に渡米し、マイクといっしょに刑務所を訪ねました。刑務所の門をくぐり、大きなエンジュの並木道を抜けて、クルマをレブンワース刑務所の建物に付けると、係官が覚えていました。

「やあ戦争花嫁さん、3度目ですね。今度はお子さんを連れてこられたのですか」

 と、歓迎してくれました。

 

◇涙ながらの父子の再会

刑務所の長い廊下。突き当たる二重扉。がちゃがちゃ鍵を開ける時間――。

澤田さんはマイクの手を握りしめて小走りに駆けだしたい思いを押さえて、見覚えのある広い面会室に行きました。陽光がさんさんとふり注いでいる面会室で、

「マイク、もうじきあなたのパパに会うのよ……」

 と言い聞かせていると、石の廊下を歩いてくる足音が響いてきました。間もなく小さな潜り戸が開いて、マイクのパパの大きな体が現れました。

 

 兵曹は澤田さんの腕にぶら下がっている男の子を見た瞬間、両手を上げ、

オー・マイ・ゴッド! 

と、驚きの声を発しました。駆け寄ってきた彼に、澤田さんはマイクを抱き上げて、面会人との間を仕切っている低いガラス越しに、マイクを手渡しました。

 

 彼はこの7年間、片時も忘れたことがなかった息子をしっかり抱きしめ、おいおい泣きました。彼の口から片言の日本語が飛び出しました。

「マイク、コンニチワ、オハヨウ、ワタシハ、パパデスヨ……」

 日本にいたとき覚えた日本語を息子に会えたら語りたいと思い、忘れないようにいつも練習していたのです。マイクも父の真情に触れ、父の手をしっかり握りしめました。長いこと別れていた親子が抱き合っている姿は、美しい名画のようでした。

 

 面会の時間は刻々と過ぎてゆき、とうとう面会時間が切れてしまいました。看守ももらい泣きしています。澤田さんは心を痛め、この幸せな父子をどうして引き離してしまうのと抗議の目を向けると、看守も目配せし、もう少しいいよと合図してくれました。

 こうして規則を超えること20分、合計50分も再会を喜ぶことができました。

 

 別れ際、兵曹は澤田さんに万感の思いを込めて、お礼を言いました。

「ミセス・サワダ、あなたはぼくの母親のようにさえ思えます……」

 それ以上の賛辞はありません。澤田さんは何度も何度もうなずいて、刑務所を後にしました。澤田さんはただ孤児を引き取って養育しただけではありませんでした。一人ひとりの人生が開けていくようしっかりサポートし、数々の骨折りをしていました。この場合も、ジョンソン兵曹は「ぼくのママのような存在だ」と言ったのでした。

 

 数年後、ジョンソン兵曹の刑は25年に減刑されて出所し、父子いっしょの生活が始まりました。失われた時間が長かっただけに2人の絆は急速に深まっていきました。記録には残っていませんが、お母さんも渡米して合流し、一家3人の生活を楽しんだことでしょう。

 この話には後日談があるので、それは来週お伝えします。

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