ジョセフィン・ベーカー

沈黙の響き (その109)

「沈黙の響き(その109)」

褐色のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー

神渡良平

 

 澤田美喜さんが「混血孤児たちの母」として次第に目覚めていくなかで、イギリスのバナードス先生に加え、もう一人忘れることができない人がありました。それは米国セントルイス生まれの褐色のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカーです。知り合ったのはフランスで、交わりは変わることなく30数年続き、相互に影響を与え合った稀有なものでした。

 

◇ジョセフィン・ベーカーが示したお手本

大正14年(1939)の春、澤田廉三・美喜夫妻は澤田廉三さんがアルゼンチン勤務から北京に転任する途中、パリのホリベルジェール劇場で催されたジョセフィン・ベーカーのショーを見ました。セントルイスの貧民街育ちのジョセフィンはイタリア人のアバチーノ氏の指導を受け、ジャズ歌手としてめきめき才能を発揮し、全米に知られるようになりました。

 

ジョセフィンはその名声を引っさげてパリ公演を行い、「黒いヴィーナス」と呼ばれてヨーロッパ中の人々をすっかり魅了してしました。美喜さんも、舞台いっぱいに華やかさを振りまいていたジョセフィンにすっかり惚れ込んでしまいました。

 

昭和13年(1938)、澤田廉三さんは外務事務次官に就任し、その翌年、フランス大使として赴任しました。そのとき、美喜さんはある白系ロシア夫人が主催するカクテルパーティで再びジョセフィンと会ったのです。パーティのなかごろからジョセフィンが話題の中心になりました。ジョセフィンは3か月ごとに、パリのスラム街を訪問しているというのです。

 

すかさず美喜さんは「私も連れていっていただけないかしら?」とお願いしました。ジョセフィンは大きな目を見張って、えっ大使夫人のあなたが同行したいの? といぶかりました。

「パリの華やかな側面だけを知っているあなたが、もう一つのパリの裏面を見たら、きっとびっくりされるでしょうね」

 

「でも私は華やかなパリだけではなく、貧しくて恵まれない谷間の人々の生活も知りたいの」

美喜さんの真剣な眼差しにジョセフィンは納得し、

「私もぜひ見ていただきたいと思っています。あれを見られたら、私がなぜ人種差別と闘っているのか、理解していただけると思います」

こうして2人は3週間後の再会を約束しました。

 

◇パリの貧民街で

当日、ジョセフィンが運転するオープンカーに乗って、古いパリの城門に沿って市外に出て、石造りの古い6階建てのアパートに着きました。窓にもテラスの手摺りにも干し物が掛けてあり、小さな子どもたちが鉄の階段で遊んでいます。灰色で覆われた薄暗い世界を見るような気がしました。

 

ジョセフィンは階段に自動車を横付けすると、リズムを付けてクラクションを鳴らしました。するとその音を聞きつけた子どもたちが、1階から6階のすべての窓から鈴なりになって顔を出しました。ジョセフィンが彼らに手を振ると、ハチの巣でもつついたような騒ぎとなって、みんな走り降りてきました。

 

そこで各アパートの代表のような婦人たちにジョセフィンは自動車の後部座席に積み上げられた大きな包みを渡しました。包みの口を束ねてあるリボンの色で、中に入っているのが食料品なのか衣類なのかおもちゃなのか、わかるようにしてあります。ジョセフィンはそれを渡すのが楽しいようです。

 

ジョセフィンが小さな子を抱き上げたり、頭を撫でたりして、我が子のようにいつくしんでいる姿を横で見ていて、美喜さんは涙が出るほどに感動しました。それは彼女の心からほとばしり出る自然の行為で、人気のためとか、人に見せるためとかではありませんでした。ジョセフィンは収入の1割以上をこうした人々と分かち合っているというのです。

 

◇「幸せは一人では味わえない。みんなと分かち合ってこそ……」

帰りの自動車の中で、ジョセフィンは自分の経歴を明かしました。

「私はユダヤ系スペイン人のドラマーとアフリカ系アメリカ人の洗濯婦の間に私生児として生まれたの。非常に貧しい環境の中で、幾多の辛い人種差別を経験したわ。後に人種差別撤廃運動に熱心に肩入れするようになったのは、私自身言うに言われない経験をしたからなの」

ジョセフィン自身、貧民の出だと言います。幸いにしてジャズ歌手として成功したので、みんなにおすそ分けしたいのだと言います。

 

「幸せって一人で味わうことはできませんよね。みんなと分かち合い、喜び合ってこそ、本当の幸せになります」

 ジョセフィンが漏らした言葉は、美喜さんの心に深く刻み込まれました。美喜さんの一生はこのときのジョセフィンのつぶやきに動機づけられたように思います。

 

 その日から、美喜さんはジョセフィンとしばしば会うようになり、いっしょに貧民街を訪ねました。あるときは子どもが多い、貧しい家庭の病人に薬が入っている袋を渡しているのを見ました。またあるときは扁桃腺が腫れて高熱でうなされている子どもを病院に連れていって入院させ、その費用を全部払っているのを見ました。

 

 あるときは働きながら夜学に通っている青年に、自分の指からダイヤの指輪を外し、そっと手渡しました。ジョセフィンから学資の援助をしてもらったこの青年は、卒業後、建築会社の技師として就職しました。それから10数年後、彼は南仏のニースで独立し、小さな建設会社の社長となりました。

 

 三菱財閥の娘として、あるいは大使夫人として、何不自由ない生活をしていた美喜さんが、混血孤児たちの救済に一生を懸けるようになるのは、ジョセフィンから受けた影響も大きかったように思います。

ジョセフィン・ベーカー

写真=澤田さんの無二の親友となったジョセフィン・ベーカー