澤田美喜と子どもたち

沈黙の響き (その122)

「沈黙の響き(122)」

威勢のいい鯛を閉じ込めていた金魚鉢

神渡良平

 

◇直木賞作家の深田祐介さんの澤田美喜評

『炎熱商人』(文藝春秋)で直木賞を取った作家の深田祐介さんは、澤田廉三・美喜さんの千代田区一番町の鉄筋コンクリート4階建ての英国風大邸宅「サワダハウス」の隣に住んでいました。千代田区一番町というと皇居の北隣になる超一等地ですが、深田家は代々江戸城の大奥のご用向きを扱う商人だったので、そんな土地に住んでいたのです。

 

深田祐介さん自身は美喜さんよりも30歳も歳下ですが、隣なので近所づきあいがあり、しかも澤田家と深田家の女中同士の間に漏れ出てくる話に裏打ちされているので、より素顔の美喜さんを感じることができます。深田祐介さんの弁。

「奥さまはきわめて自由奔放ですが、旦那さまの廉三さんはものすごいジェントルマンでした。暁星小学校に通っていたぼくが歩いているのを見つけると、何十メートルも向こうで帽子を取って挨拶されたもんです」

 

 一番町界隈でも岩崎家というのは特別な存在で、それが深田さんの話っぷりからも感じられます。

「そりゃあ美喜さんはやっぱり三菱財閥の岩崎家のお嬢さまで、格上でした。それにまたとても傍若無人で、威張っていました」

 深田さん自身、日本航空に勤めており、ロンドン支店勤務時代に見聞したことを書いた『新西洋事情』が大宅壮一ノンフィクション賞を得ていますが、そうした交流が言葉の端々に現れています。

「美喜さんは(当時有名な赤星というゴルファーにも)『おい赤星、最近の調子はどうなの?』という調子で話しかけるし、同じ町内の端に住んでいらっしゃった哲学者の串田孫一先生にも『孫ちゃん、元気?』って調子です。推して知るべしです」

 

『GHQと戦った女沢田美喜』(新潮社)を書いた青木冨美子さんが深田さんに、

「威張っていて嫌な感じ? それともざっくばらんでおもしろい人?」

 と尋ねると、極めて率直な返事が返ってきました。

「それは後者、ざっくばらんでおもしろい人でした。美喜さんは隣組常会でいつも奔放な発言をするので、近隣のスター的存在だったのです」

 美喜さんは深窓の令嬢だったのではなく、隣近所の人たちから愛されていたのです。

 

◇美喜さんの熱心な信仰とそれに裏打ちされた実行力

美喜さんがエリザベス・サンダース・ホームを開設して混血孤児たちを養育し始めると、口さがない人たちはいろいろ取り沙汰しました。深田さんは美喜さんに対する噂が、

「何てもの好きな……日本を滅ぼした敵の子ですよ」

とか、

「パンパンが産んだ子を養育するとは何事だ。捨てておけ」

「ああ、あのコレクション好きがまた始まった。収集癖がこうじて、今度は混血の孤児たちを集め出したわよ」

などと、冷ややかな感じで語られていたと言います。しかし、孤児たちの養育を始めたことに対して深田さんは、

「でも、収集癖だけでは混血孤児の世話はできませんよ。美喜さんは非常に熱心なキリスト教徒でした。それに裏打ちされた熱い信仰があり、その発露としてあの社会福祉をされたはずです。それを見落すと美喜さんの社会福祉事業の真意を見落とすことになると思う」

 と、敬意を隠しません。

 

 深田祐介さんは美喜さんのことを「隣のオバサン」と表現して親近感を表します。それだけに、美喜さんをマスコミがあたかも“聖女”であるかのように書き立てると、

「それはちょっと違うんだよなあ」

と、疑問を投げかけます。

 

「ぼくは今でも美喜さんという隣のオバサンにはすごく親近感を持っています。でもマスコミが聖女みたいに書くのは間違っています。美喜さんは平気で、

『洗濯が間に合わないもんだから、いま主人の猿股はいているのよ』

なんて言うんです。隣でご主人が咳払いをしていました。あんなスケールがでかかったお嬢さんはいなかったなあ」

 そんな表現に美喜さんの実像が浮かび上がってくるようです。

 

◇人に謝ることができなかった人

 聖路加(ルカ)病院のチャプレン(施設付き聖職者)をしていて、美喜さんとも日常的な交流があった竹田真二司祭はこんな経験を語ります。竹田司祭は聖公会の聖職者でもあります。

 竹田司祭が美喜さんのあまりのわがままさに耐えきれなくなり、

「勝手にしなさい」

 と、怒鳴ったことがありました。それに対して美喜さんも負けておらず、

「ああ、いいですよ。勝手にさせてもらいます!」

 と、啖呵を切り、喧嘩別れをしたことが一度ならずありました。

 

 でもしばらくすると美喜さんのほうから竹田司祭に電話がかかってきて、

「築地においしいお寿司屋があるんですけど、出ていらっしゃいませんか?」

 と、誘うのです。それでやむなく竹田司祭が出掛けていき、いっしょに寿司をほおばっているうちに、いつのまにかうやむやになって元の鞘(さや)に納まってしまいます。美喜さんからはお詫びの一言が出たわけでもありません。

 美喜さんを知る人は、「人に謝ることができない人だった」と述懐します。複数の人が語っているところを見ると、これまた美喜さんの哀しい性(さが)だったようです。

 

母を家に閉じ込めておくのは、勢いのいい鯛を金魚鉢に入れておくようなもの

 美喜さんをいつも突き動かしていたのは、顔負けの行動力でした。美喜さんの長男の信一さんが母親の美喜さんのことを、

「母を家に閉じ込めておくのは、勢いのいい鯛を金魚鉢に入れておくようなものです」

 と評していますが、実に当を得た観察です。美喜さんはあり余るエネルギーを持て余していて、もっと社会に出て何かをしたかったのです。三菱財閥をつくり上げた祖父の岩崎彌太郎の事業欲が美喜さんの中で渦巻いていて、エリザベス・サンダース・ホームというアイデアで噴き出したと言えるようです。

 

長男の信一さんはじめ、長女の恵美子さんは「自分だけの母親」でいてほしかったようですが、金魚鉢で鯛は飼えません。家を飛び出して社会福祉に一生懸命になった母親に、寂しい思いもしたようです。恵美子さんは国連大使になった父親廉三(れんぞう)さんのお世話をニューヨークでしているうち、ある大手の宗教団体の活動にのめり込んでいきました。家庭的には必ずしも平穏だったわけではなかったようです。

 

 まわりの人にそう評価されていると知ってかどうか、美喜さんはジャーナリストの青木冨美子さんに自分をこう語っています。

「私の外となる心は、ドン・キホーテのごとく大見得を切りますが、内なる心は、夜子どもたちが寝静まって一日の戦いが終わると、くず折れるように、寝室の壁にかけられた十字架にひざまずいて祈ります。涙の中に祈り明かしたことが幾夜もありました」

 

 家族の賛成を必ずしも得られないまま乗り出した社会事業の困難さに、十字架の前で一人泣いている美喜さん――何とも痛ましい限りです。イエスはそんな美喜さんの哀しみを知っておられました。

澤田美喜と子どもたち

写真=昭和23年、ホームを始めたときの8人の子どもたちと美喜園長