「沈黙の響き(121)」
自分の中の激情と闘った澤田美喜さん
神渡良平
前回の「沈黙の響き」(119)で、手に負えないワルだったM君が立ち直り、無事に結婚して、「ママちゃま(澤田美喜さん)のお陰で、ぼくは立ち直ることができた」と感謝していたことを書きました。そうすると美喜さんは誰でも受け入れてはぐくみ、聖母マリアのような慈しみにあふれた人だったかというと、必ずしもそうではなかったようです。
美喜さんは外交官夫人としてイギリス大使館に勤めていたころ、3人の子どもたちの養育をしてもらっていた女性のしつけがとても厳しかったのを見て賛同していました。だからホームで子どもたちをしつけるとき、とても厳しいものがありました。
それについて、美喜さんにホームが開設された初期からホームのメインテナンスを手伝い、子どもたちの養育も手伝った鯛茂(たいしげる)さんが興味深いことを語っています。
◇厳しい折檻
鯛さんがホームに勤務し始めて間もないころ、美喜園長が子どもたちをあまりにも厳しく折檻(せっかん)するので驚きました。怒り狂う美喜さんをいくらなだめても逆効果しかありません。美喜さんに対する怒りが爆発しそうになったので、鯛さんは慌てて聖ステパノ礼拝堂に駆け込みました。鯛さんは内村鑑三のような実直な信仰者だとして、ホームの職員たちみんなに慕われていたので、余程のことだったのでしょう。この礼拝堂は南溟の孤島で戦死した美喜さんの3男ステパノ晃さんに因んで建てられた礼拝堂です。ステパノは晃さんの洗礼名です。
深い信仰者である鯛さんは、
(20分間祈ろう。祈って冷静になり、もう一度説得してみよう……。
20分経ってまだ折檻が続いていたら、体でもって阻止しよう)
と思いました。美喜さんは財閥家の令嬢で、家では50人もの使用人にかしずかれていて、人から折檻されたことがないので、折檻されたことがなく、折檻がどんなに辛いことかわからないのだと思いました。
その20分がどんなに長かったことか――。
鯛さんが祈り終わって現場に戻ってみると、驚いたことに美喜さんは嘘のように穏やかになっていました。先ほどまで体罰していた子どもたちにカステラとジュースを与え、抱きしめてさえいました。鯛さんはあっけに取られてしまいました。美喜さんは感情の起伏が激しくて、自分の激情を抑えることができなかったのだと思いました。
そういうことがあって、美喜さんのことが少しずつわかってきました。
「美喜さんはわがままというより、幼児的だと言った方が当たっているかもしれない。人に謝ることができないから、礼拝堂で神さまに余計深く謝っているのだ……」
鯛さんは美喜さんのことを、
「昼はカミナリ、夜はマリア」
と、描写しました。いたずら盛りの子どもたちを抱えているホームを運営することは容易ではなく、美喜園長はしばしばかんしゃく玉を破裂させていました。美喜園長自身それを悔んで、夜は礼拝堂で
聖母マリアさまに独り懺悔していたのです。
古武士のように実直な鯛さんはその実情を理解すると、
(それだったら及ばずながら、どこまでも支えていこう)
と決意しました。それが長く続いた理由でした。
◇美喜さんの駆け込み寺だった聖ステパノ礼拝堂
美喜さんはこの聖ステパノ礼拝堂を自嘲気味に、
「私の駆け込み寺」
と呼んでいました。むつかしいことに出合ったとき、礼拝堂で胸を打ち叩いて、ロザリオを数珠のように繰りながら、道が開かれるよう祈っていたのです。
ロザリオはラテン語で「バラの冠」を意味します。イエスが処刑されるゴルゴダの丘に向かったとき被らされた「茨の冠」にちなんでいると言われます。10個ほどの珠が輪のようにつながり、十字架やメダイがついています。
ロザリオの祈りは、最初の一珠で「主の祈り」を唱え、そこから十個の珠をたぐりながら「アヴェ・マリアの祈り」を十回唱えます。そして結びに栄唱を唱え、ここまでで一連と呼びます。それを何回もくり返して祈ります。
“祈り”は美喜さんの力でした。自分の幼児性や激情を抑え、ホームの子どもたちや保母さんたちにやさしく当たるため、慈愛の力をいただくかけがえのない時間だったのです。
エリザベス・サンダース・ホームに併設された澤田美喜記念館には、美喜さんが長年にわたって収集した隠れキリシタンの遺品がたくさん収納されています。でも、それらは“単なる遺物”ではありません。美喜さんは礼拝堂で祈るとき、細川ガラシャ夫人がたぐったであろうロザリオを繰り、隠れキリシタンたちが仰いだ白磁のマリア観音にひたすら手を合わせたに違いありません。聖公会ではカトリックが行うように、ロザリオを繰りながら祈ることはありませんが、美喜さんは終生ロザリオを放しませんでした。
写真=イエスが被らされたというバラの冠とロザリオ