歴史は人間性に潜む神性と獣性のせめぎ合いだった

週刊 「先見経済」 連載99

安岡正篤が運営していた全国師友協会から発行した『憂楽秘帖』に次のような一節がある。
「『ハムレット』の中に、『人間というものは何と霊妙に出来たものであろう。理性に高貴、才能に無限、形も動きも優れて美しい。挙止は天使の如く、智慧は神を想わせる』とある。初めて読んだ大学生の頃、これに思わず唸ったものである。
ところが彼の喜劇『ヴェニスの商人』の中で、高利貸のシャイロックにグラシアーノをして、『貴様の、その山犬のような魂は元来狼に宿っていたのだ。その狼の魂が貴様の身体にもぐりこんだのだ』と怒鳴らせている。
執れも斉しく人間である。東洋の方にも、狼人・狼性・狼心というような、漢代からの古語がある。文明とは要するにこの身体にもぐりこんでいる狼性・狼心を叩き出して、聖性・仏性・神性に還すことに帰する」
私は名讃美歌「アメイジング・グレース」の誕生秘話を書こうとして、十一月イギリスに取材に行ってきたばかりだ。そこでこの曲の作詞者の中での神性と獣性のせめぎ合いについて考えさせられていたから、この一節は強く響いた。
この曲の作詞をしたジョン・ニュートンというイギリス人牧師は、牧師になる前は奴隷貿易に従事していた船長で、数百人の黒人奴隷を西アフリカからアメリカに運び、売りさばいていた。
ニュートンは、小麦や綿花、トウモロコシを栽培する新大陸の農業には大量の黒人労働力が不可欠で、これはビジネスなんだと割り切ろうとしていた。でも突然捕えられた黒人たちが奴隷として米大陸に連れて行かれ、厳重な監視下で酷使され、理不尽な目に遭っていたから、割り切ろうとしても割り切ることはできなかった。
七年後、病気になって下船せざるを得なくなったニュートンは、これを機会に子供の頃夢見た聖職者になろうと決意した。聖職者として叙任されるまで七年かかったが、ようやくロンドンの北西にある小さな村オルニーの教会の副牧師に任命された。
聖職者の職にあって魂が研ぎ澄まされてくると、かつて奴隷貿易にかかわったことがいかに罪なことであったか、悔やまれた。その懺悔の中で書かれたのが「アメイジング・グレース」である。
その後、ロンドンの教会に任命されると、ニュートンは牧会のかたわら、奴隷貿易禁止法の制定に奔走し、二度枢密院の証言台に立った。八十二歳で亡くなる年の一八〇七年、ついに同法の成立を成し遂げた。ニュートンの人生は人間性の内に潜む神性と獣性のせめぎ合いだったのだ。
私はセント・メアリー・ウルノス教会で鳴り響く「アメイジング・グレース」のパイプ・オルガンを聴きながら、自らの獣性を克服する過程だった人間の歴史を振り返っていた。