週刊 「先見経済」  連載100

人の役に立ってこそ生きている喜びを実感するのが人間

週刊 「先見経済」  連載100

「我々は何のために学ぶのか」――これは安岡正篤が『知命と立命』(プレジデント社)の中で発している言葉である。太古の昔から今日に至るまで、生を享けた者は誰もが発してきたこの問いは、こうも置き換えることができる。
「我々は何のために生きるのか?」
 この苦悶があるがために、人間は時間を徒労にすることなく、目覚め、発憤して、見事な人生を生きることができる。それゆえにこの自問を発することができる人間は幸せだといわなければならない。
 安岡はこの自問に同著でこう答えている。
「平たく言えば、内面的には良心の安らかな満足、またそれを外に発しては、何らかの意味において、世のため、人のために自己を献ずるということである」
安岡がこう答えた背景に、中国古典の思想「自靖自献」がある。
――道を求め、書物を読むのは、点地の理をつかんで、安心立命に至り、自分が命を奉げる課題を見いだして、世のため、人のためになることである。
この「自靖自献」の自覚ほど人間の精神を溌剌とさせるものはない。人のお役に立てているという思いは、この世に生まれてよかった、私でも生きる価値があるという満足感を生み出すのだ。
 先日ある精神科医からメールをいただいた。クライアント(患者)の悩みに耳を傾け、彼の心のしこりをほぐす立場にありながら、彼を自殺させてしまい、「私は本当にクライアントのお役に立てているのだろうか」と悩み、落ち込んでいるというのだ。
何度かメールのやり取りをし、この方の苦しみを聞いたあと、私はこうメールを送った。
「私はあなたがプロフェッショナルな精神科医だと自信を持ってクライアントに臨まれるよりも、自分の資質に疑問を抱き、迷いながら、謙虚に耳を傾けられる方がいいと思います。その方がクライアントはこの先生は本当に私のことを理解しようとしてくださっていると感じるのではないでしょうか。
 人は説教し、アドバイスしてくれる人ではなく、ひたすら耳を傾けてくれる人を求めています。いっしょに涙を流してくれる人を求めているのです。
 だから大いに悩み、苦しんでください。その闇を経てこそ、真に聴く力を持った精神科医になれるのではないでしょうか」
 そして私は拙著『マザー・テレサへの旅路』(サンマーク出版)でも紹介した、マザー・テレサは本当に聴く耳を持った方だったというエピソードを紹介した。
自分が輝くのではなく、人を輝かせるために汗を流すのである。人のお役に立ちたいと念願した人は黒子に徹することができる。産婆役に徹し、縁の下の力持ちに徹すると、逆にその人は必要とされ、輝き出し、ますます真価が発揮されていくのだ。