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幾多の困難を乗り越えて輝いている劉薇さん

沈黙の響き (その81)

「沈黙の響き(その81)」

素晴らしかった劉薇さんの「来日35周年ヴァイオリンリサイタル」

「今日の劉薇(リュウ・ウェイ)さんはとても美しかった!」

 と書き出している澁谷美知子さんのFacebookへの投稿が私の目を惹きました。女性ならではの感性が劉さんのドレスアップを鮮やかに描写していました。

「第1部は燃えるような深紅のしなやかなドレス。第2部は淡い金茶に赤い花と雲をあしらったチャイニーズドレスにコバルトブルーのパンツがとても似合っていました」

 その日の舞台衣装はとてもあでやかでしたが、ヴァイオリストとして世に認められるまでは、一般の人には考えられないような苦難の道がありました。

≪文化大革命のさなか、隠れてヴァイオリンを練習≫

「劉さんは自分のことを“鉄の女”と称しておられますが、私も“筋金入りの不屈の魂の持ち主”だと感じており、とても尊敬しています。劉さんは中国奥地の敦煌(とんこう)近くの蘭州で生まれ育ちました。狂気が荒れ狂った中国の文化大革命のさなか、西洋音楽であるヴァイオリンはブルジョワ音楽として迫害されましたが、劉さんは隠れて練習を続けました。

父は医師だったので、壁新聞でブルジョワ的だとして糾弾され、批判を受けました。ヴァイオリンが見つかれば敵性楽器として壊され、譜面も焼かれます。楽譜が手に入らないので、父は音楽をこっそり聴いて記譜して薇さんに与え、練習を支えました。

ヴァイオリンを練習していることが発覚すれば紅衛兵に吊し上げられ、農村送りになるのは必定です。そんな状況のなかで隠れて密かに練習が続けましたが、練習自体が命掛けだったのです」

劉さんが紅衛兵の目をかいくぐっておこなった練習は、澁谷さんの学生時代の思い出を想起させました。

「私が大学生のころ、大学は学生運動で荒れに荒れていました。私は政治闘争に関心を示す人はまずいない女子大で学んでおり、学内では社会の騒乱はまったくわかりませんでした。

しかしテレビニュースでは学生たちの投石や乱闘事件が毎日のように報道され、私も帰宅途中、新宿騒乱事件に遭遇し、電車が2時間も止まったことがありました。

私たちの日常すら異常事態でしたが、テレビニュースで毎日報じられる中国の文化大革命の様子はもっと恐ろしいものでした。私は震えあがってしまい、日本に生まれた幸せに、毎日胸を撫で下ろしたことでした。

友人の紹介で初めて劉さんのコンサートに行ったとき、劉さん父子は文化大革命中でもヴァイオリンの練習を続けたとお聞きし、何と勇気ある父子だろうと心から尊敬しました。

≪作曲家の馬先生も迫害される≫

劉さんは中国の西安音楽学院を卒業後日本に渡り、桐明学園を経て、東京芸術大学大学院で音楽博士号を取得しました。自分の音楽を伸ばすこともさることながら、文化大革命で中国を追われた大作曲家である馬思聰(マー・スツォン)先生の曲を世に広めたいという大きな志を抱いています。

共産党政権に必ずしも同調しなかった馬先生は迫害の末に出国し、アメリカに亡命しました。ところが追い打ちをかけるように売国奴として断罪され、フィラデルフィアで客死しました。当時は馬先生の名前は口にすることも許されなかっただけに、劉さんの馬先生に寄せる思いは並々ならぬものがあります。

≪腎不全を克服≫

その後、劉さんは腎不全を患い、人工透析を宣告され、悩みに悩んでどうしても受ける気にならなかったので、独自の食事療法や薬膳法、漢方薬で治そうと努めました。劉さんの闘病生活を支えたものに、こんな閃きもあったと澁谷さんは語ります。

「劉さんがさまざま困難な出来事に真正面から向かう立ち向かう精神力の強さは、お子さんを産むとき努力したこんな感動的なストーリーに現れています。

劉さんは妊娠後期、中毒症にかかって高血圧に苦しんだそうです。血圧を下げるため、大きいお腹を抱え、弁当と毛布を持って、遠い毎日公園まで15千歩あるいていき、日向ぼっこをして過ごしました。こうしてお日さまに当たっているうちになんと血圧がどんどん下がってきて奇跡的に助かりました。

そんな劉さんを見ていると、“天は自ら助くるものを助く”という言葉を思いだします。そこまで努力すると、最後は神風が吹き、天が救うのですね。

また2年前、ご主人から腎臓移植を受けました。現在では文字通り、一心同体の2人3脚で、完全に健康を回復されました。腎不全から19年、人工透析を拒(こば)んで独自の薬膳法や漢方薬で治療を始めてから10年が経ちました。医師たちはそんなに持たすことができた人はいないと驚いているそうですが、今では薬膳料理の本を出すまでになりました。こういうふうに立ちはだかる難関と闘い、異文化をも乗り越え、さらには難病を乗り越えて、独自の音楽世界をつくり上げました。

≪闘病生活が劉さんの音色を変えました!≫

 澁谷さんは劉さんの演奏をとても称えます。

「劉さんの生き方は当然彼女の演奏にも反映し、迫力、たくましさ、不屈の精神に溢れています。劉さんのヴァイオリンの音色はしなやかで、どこまでも伸びやかで明るく、しかも清らかなのです。本当に違う次元に尽きぬけたような感じがします。

劉さんは6月の演奏会のとき、これからもっともっと進化していきますと語っておられましたが、その予告通り、さらに進化し、脱皮しておられました。

――それが今日の音楽だったのか! 

劉さんの人生は重く、困難の連続でしたが、重荷を受けて立ち、その先に光があることを信じて1歩1歩前に向かって進み、とうとう結果を出しました。劉さんの人生に乾杯せずにはいられません」

リサイタルの会場だった六本木のサントリーホールはコロナ禍のため、演奏終了後の演奏者の挨拶やブラボー、アンコールは禁止され、写真撮影は着席したまま、5分だけ許されました。劉さんは撮影のため、ヴァイオリンを持ってポーズを取っていましたが、アンコールとしてハンガリー音楽であるチャルダッシュの演奏を始めました。

その演奏の素晴らしく、澁谷さんの隣に座っているご主人は禁止されているブラボー を声高らかに叫んだほどでした。

幾多の困難を乗り越えて輝いている劉薇さん

写真=幾多の困難を乗り越えて輝いている劉薇さん


大自然を彩る秋

沈黙の響き (その80)

「沈黙の響き(その80)」

リッツカールトンの心を打ったおもてなし

 

 

 先日大阪での講演のあと、夜リッツカールトン大阪で懐石料理を提供する「花筐」(はながたみ)に連れていっていただきました。「花筐」とは花を盛っている箱のことで、何を大切にしているか、店名が語っています。

 

私は心のこもった料理を堪能しました。出されてくる料理の皿にそっと紅葉が添えられていました。日本料理にはいつも季節の花が添えられていて、盛り付けの基本になっています。茶席でも床の間に一輪の花を生けて季節の香りを楽しみますが、それが料理の盛り付けにも生かされています。

 

――これが日本料理の良さだなあ、紅葉した紅葉を添えて季節の香りを反映し、料理がいっそう引き立てられている。

 

私は添えられた紅葉をそっと取り分けました。いただいて帰ろうと思ったのです。

 会食が終わってお開きになり、いざ帰ろうとすると、仲居さんがそっと封筒を手渡してくれ、ひと言おっしゃいました。

「これは料理長からです」

 何だろうと思って開けてみると、数葉の紅葉が入っていました。

 言葉に表せないほど感動しました。

 

 しかし、料理長は私が添えられた紅葉の鮮やかさに惹かれているのを感じとり、帰り際にそっとプレゼントされたのでした。

(これがリッツカールトンのおもてなしか!)

 

 日本経済聞は毎年購読者の投票によって、日本のホテルランキングをしていますが、長年首位に選ばれていたホテル・オークラを抜いて、リッツカールトン大阪がトップに躍り出たのは周知の通りです。

 

 ホテルに帰ると、早速リッツカールトンの日本支社長をしていた高野登さんに電話しました。今はホスピタリティ研究所を主宰して、全国のホテルや企業の指導をされています。

「高野さん、今夜リッツカールトン大阪の『花筐』で接待をされたんですが、こんなことがあり、心を打たれました」

 

 そして料理長から紅葉をプレゼントされたことを話しました。高野さんは大変喜んで、

「そういう形で後輩たちががんばってくれていますか! さりげない心遣い……それが何よりも一番心に響きますよね。うれしい話を聞かせていただきました。早速大阪の支配人に今の話を伝えておきます」

 と、喜びを隠せないようでした。アメリカに長年住んでいたので、率直に感情の表現をされます。

 

リッツカールトン大阪が日本のホテルランキング1位に輝いたとき、シュルツ社長(当時)がアメリカから飛んでこられて、高野支社長(当時)に訊かれました。

「どうやってこれだけのレベルに持っていったんですか?」

「ええ、アメリカのリッツカールトンで学んだホスピタリティに、日本のおもてなしの精神を加えて、きめ細やかなホスピタリティをつくりあげたんです」

 それを聞いてシュルツ社長は全世界のリッツカールトンの支配人を大阪に集め、リッツカールトン大阪のきめ細かいサービスを味わってもらい、研修会を持ちました。

 

 そんな思い出話が弾んで、輪がどんどん広がっていったありがたい夜でした。

大自然を彩る秋

写真=大自然を彩る秋


わくわくまったりチャンネル

わくわくまったりチャンネル ZOOM 開催 のお知らせ

ZOOMによるオンライン対談が始まります。
ふるってご参加ください。

以下チラシより抜粋

2022 年 1 月より 12 月迄の毎月第一土曜日 20 時から 21 時 30 分迄
神渡良平先生によるスペシャル対談を開催致します。神渡先生ならで
はの幅広い人脈から実現となりましたオンライン対談(対談1時間&
質疑応答 30 分)。長年のご親交がある方々とならではの魂に繋がる深
いお話が伺えます。ご参加を心からお待ち申し上げております。

〈主 催〉 日光安らぎの家 光のしずく
〈受講料〉 3,000 円 (開催日翌日アーカイブ録画を配信致します。同料金にての録画視聴のみも可能。)
〈お申込み先〉nikkohikarinoshizuku.com (光のしずくホームページ)
〈お問合せ〉 上記ホームページ若しくは、電話 080-9343-1188 岡村まで
〈支払方法〉 参加お申込み後にお振込み(ゆうちょ銀行)のご案内をお送り致します。

わくわくまったりチャンネル

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ママさんたちへのアドバイスがキラリと光る木村まさ子さん

沈黙の響き (その79)

「沈黙の響き(その79)」

「感謝して食物のいのちをいただきしょう」と語る木村まさ子さん

 

 

 121日夜、「光の雫」が主宰するZoomの「わくわくまったりチャンネル」で、映画俳優の木村拓哉さんを育てた木村まさ子さんと対談しました。ちょうど前日、木村拓哉さんが第46回報知映画賞で映画「マスカレード・ナイト」によって主演男優賞を受賞されたところだったので、そのお祝いを述べて対談が始まりました。

 

 木村さんとは渋沢栄一さんのお孫さんで今年100歳になった鮫島純子(すみこ)さんが主賓のお茶会などでご一緒することがあり、言葉を交わすたびに、「すてきな方だな。鮫島さんと同じようにやわらかいオーラに包まれていらっしゃる」と思っておりました。

 鮫島さんは良家の子女という以上に、天性の天真爛漫なものをお持ちの方で、ご一緒しているとこちらもいつの間にか裃を脱いで、自由闊達になってしまいます。

 

 木村まさ子さんもまた木村拓哉さんを育てた人という以上に、聴く人を元気にしてくださる講演家として知られています。

「お話をお聴きするうちにやさしいオーラに包まれ、すっかり元気をいただきました!」

 昨夜の対談のあと、涙を浮かべて感想を述べた方もありました。屈託のない人柄が愛されて、バブル以前は講演が月に15回は下らないぐらいあったそうです。私も対談しながら、すっかり心が満たされてしまいました。

 

≪子どものころ、狭いアパートに突然引っ越しせざるを得なくなった!≫

「まさ子さんのお人柄はどうやって形成されたんですか。よほど立派な家でお育ちになったのでしょうね」と問いかけると、やんわり否定されました。

「いえ、普通の勤め人の家庭です。でも小学生のとき、とても学ばされた出来事がありました。父が友人の保証人になったことから一夜にして家や財産を失ってしまい、狭いアパートに引っ越さざるを得なくなりました。子どもの私は突然襲った激変が理解できなくて、父に食ってかかりました。

 

『こんなに迷惑を受けたのに、お父さんはどうしてお友達を怒らないの?』

 すると父はお前たちに迷惑を掛けて申し訳ないと詫びながら、

『でも私は友人を恨まない。私はこの程度のことはまだ耐えられるから大丈夫だよ。それに窮地に陥っている友達の再起を手伝えるから、むしろいいことだと感謝している』

 と、あっけらかんとしているんです。父の口から恨み言は一切出てきませんでした。

子どもの私には理解できませんでしたが、とてつもなく懐が広い父だなと思いました。そんな父の生き方が陰に陽に私に影響を与えました」

 

 まさ子さんはそんな家庭で育ったので、私が話した大阪の辻光文(こうぶん)先生(故人)が気づかれたことに大きく共感されました。

 

≪生きているだけではいけませんか?≫

 大阪府は非行少年少女たちの更生教育として、しっかりした教師夫妻の家庭に子どもを預け、親子の絆を育てることから更生教育を実効あるものにしようして、高槻学園を始めました。辻光文先生はもともと臨済宗の僧侶ですが、葬式仏教になってしまっているお寺に嫌気がさして、自分をもっとも必要としている非行少年少女たちの教育に挺身しようと更生教育界に入った人です。

 辻先生は長年預かった子どもたちを立派に立ち直らせ、巣立ちさせました。ある年、1人の少女が入所してきました。B子さんは影響力がある子だったので、またたく間にボス的存在になり、せっかく落ち着いてきた子どもたちがその子に引きずられ、再び恐喝や万引きをするようになってしまいました。

「あぁあ、せっかく落ち着いてきたのに、これじゃあぶち壊しだ。あの子さえいなかったら、こんなことにはならなかったのに……」

 と、ついつい愚痴が出てしまいます。教師たるものがこんなことを思っちゃいけないと思いますが、どうしてもB子さんを排除する気持ちが出てしまのです。

 

≪ただただ助かってほしい……≫

そんなある日、B子さんが脳腫瘍と診断され、緊急手術しました。辻先生は手術室の前の廊下で、どうか助かってほしいと祈り続けました。手術が終わって手術室から出てきた医師はこわばった表情をして、あるいは助からないかもしれないと洩らしました。辻先生は毎日病室に通って看病を続けました。いい子にならなくてもいいから、ただただ助かってほしかったのです。

 

 辻先生の親身の看病を受け、B子さんはどんどん明るくなり、反抗的な態度が消えていきました。そこで辻先生はハッと気づきました。

(私はB子にあああってほしい、こうあってほしいと願望ばかり抱いてきたけど、本当には受け入れていなかったのではないか。私のそんな思いがB子を反抗的にしていたのではないか。……ああ、私は間違っていた。私は無条件であの子を受け入れ、むしろ生きているだけでありがたいと思うべきだったんだ)

 教育云々の前に、生徒たちの魂に手を合わせて拝むことが必要だったと気づきました。辻先生が大きく変わったので、学舎に笑い声が満ちあふれるようになりました。

 

 大阪府教育委員会は高槻学園が大きく変わったのを見て、矯正教育に携わっている教師たちの研修会は辻先生を招き、Bさんを通して目覚めたことを話ししてもらいました。

 辻先生は目から鱗が落ちた経験を、「生きているだけではいけませんか?」と題して語りかけました。

「親が社会的メンツに駆られて価値観を一方的に押し付けると、子どもは絞めつけられたように感じて不自由になってしまいます。すると反抗して教育どころではなくなってしまいます。その子に対して祈りや感謝に裏打ちされて向き合わないと、子どもの内的生命は阻害されてしまいます」

 辻先生方の話は他の先生方にしみ込み、大阪府の更生教育は一段と深くなりました。

 

≪感謝して食物の“いのち”をいただきましょう!≫

 まさ子さんはその話に共感を覚え、心身障害者の施設に呼ばれていったときのご自分の体験を話されました。収容されている子どもの中には、口に鉛筆をくわえて字を書き、足の指にボールペンを挟んで書くなどしなければならない重度の障害を持っている子もいます。まさ子さんが与えられたテーマは“いのち”が、その子たちが背負っている十字架と同じように、重たいテーマでした。

 

 まさ子さんは以前、東京都で13年ほどイタリアンレストランを経営していたことがあり、食についていろいろ気づかされることがありました。料理の味はもちろん大切ですが、みんなでおいしく食事ができる雰囲気もそれと同じように大切です。そこでその点にも心を配り、お客様に喜んでいただける評判のレストランとなりました。まさ子さんはそのときの経験を話そうと思いました。

 

「食べるということは野菜や魚やお肉の“いのち”を自分に移し替えることなんだよ。だから感謝していただこうね。ニンジンさんやキャベツさんの“いのち”を感謝していただくと、食べた物はみんなの“いのち”を内側からもっともっと燃やしてくれるの。ありがたいね」

 そんな話がみんなの心にしみ入ったようでした。

 

 すると数日してみんなから感想を書いたお礼の手紙が届きました、口に鉛筆をくわえ、足の指にボールペンを挟んで書いたので、わずか数行の手紙でも何時間もかかったに違いありません。ありがたい手紙だったので、まさ子さんはまた訪ねていきました。今度は保護者も一緒に聴いておられます。

 

「最近は子どもを抱いてあやしながら、スマホをやっているママもあると聞きました。でも“気”って伝わるんですよね。心がそこにないと形だけのことになってしまい、うつろな親子関係を作ってしまいます。気をつけたいですね」

 

 まさ子さんが語る話は極めて具体的なので、ママさんの中にはハッとする人もいました。

「一つひとつに思いを込めて、よりよい絆を作っていきましょうね」

 まさ子さんの活動はどんどん広がっていっているようです。

ママさんたちへのアドバイスがキラリと光る木村まさ子さん

写真=ママさんたちへのアドバイスがキラリと光る木村まさ子さん


みんなの希望であるかっこちゃん先生

沈黙の響き (その78)

「沈黙の響き(その78)」

障害を持っていることが嬉しいと語る障害児たち

 

 

 もう一つの事例を紹介しましょう。かっこちゃんの大切なお友達の一人に久美ちゃんという女の子がいます。久美ちゃんは生まれたときから目も見えず、耳も聞こえず、従って学校にも行っていませんでした。昼夜がわからず逆転しているので、育てるのが大変でした。それに自分の気持ちが通じないと暴れて、家具を倒したり、両親の髪を引っ張ったりして、抵抗しました。だからとても粗暴な子と思われていました。

 

久美ちゃんは食欲が旺盛なのでどんどん食べてしまい、150キログラムになってしまいました。あるとき暴れる久美ちゃんを押さえようとして、お父さんの肋骨が折れてしまい、入院しました。お母さん一人ではとても世話ができないので、中学校の隣の施設に入所しました。

 

 久美ちゃんは突然、両親がいなくて勝手がわからない施設に入れられたのでパニックになって暴れました。暴れると教職員がはがい絞めにして押さえ込みますが、それは久美ちゃんにとっては恐怖でしかありません。ますます暴れ、それを押さえようとしてある教職員は骨折し、ある教職員は髪を掴んで振り回されて、髪が抜け落ちてしまいました。

 

≪目も見えない、耳も聴こえない久美ちゃんに起きた奇蹟≫

中学2年生になった久美ちゃんは担任がかっこちゃん先生になりました。誰もが、かっこちゃんもすぐ骨折するよと同情しました。しかし久美ちゃんは、この人は危害を加えない先生だと感じたのか、ハグしてくれました。かっこちゃんはどうやって久美ちゃんとお話ししようかと考えました。

 

視覚も聴覚も駄目なら触覚がある――これを使って久美ちゃんの心に届く方法はないかと工夫して、手を胸に当てて指を使って、

「わたしは“かっこ”と言うの。あなたは“くみこ”ちゃんという名前があるの」

とくり返し教えました。周りの先生たちは絶対無理だと言いましたが、かっこちゃんは駄目でもいいと思って根気よく続けました。するとある日、久美ちゃんがかっこちゃんの手を懐に入れ、「かっこ」と綴ったのです! 

 

かっこちゃんは、え~! と驚き、毎日くり返したから覚えたのかなと思いました。次の日、久美ちゃんは自分のことを指して“くみこ”と言いました。こうして驚きと感動のごちゃまぜの中でコミュニケーションが始まりました。

 

≪かわいい! と言われることが大好き

久美ちゃんは「かわいい!」と言われることが大好きです。そこで久美ちゃんの手に、「一緒にお風呂に入ろう。そうするともっとかわいくなるよ」と書き込みました。久美ちゃんは喜んでお風呂に入りました。

 実は久美ちゃんはお風呂が大嫌いで、それまで10年間も入っていませんでした。(あか)は1センチくらい溜まっていて臭いがしており、髪も洗わないので、スズメの巣よりもひどい状態でした。

 

ところが石鹸をつけて体を洗い、たくさんの垢が取れると真っ白な肌が現れました。髪もきれいに切っておかっぱにしたので、日本人形のようにかわいくなりました。かっこちゃんは久美ちゃんを抱きしめてキスし、手のひらに指でメッセージを送りました。

「すごい、すご~い。久美ちゃん、最高にかわいいわよ!」

 

 服はそれまでおじさんが着るようなグレーのジャージーを着ていたので、女の子らしいかわいい服を着せたいと思いました。でも150キロもある巨漢の服なんてどこにも売っていません。そこでかっこちゃんは自分でミシンを踏み、ワンピースを縫って着せました。久美ちゃんは、「わー、最高にすてき!」と称えられて、とってもうれしてはしゃぎました。久美ちゃんは女の子なので、おしゃれしたかったし、かわいいよと頭を撫でられたかったのです。

 

 4月、桜が満開に咲く季節、面会の日がやってきました。久美ちゃんは髪に桜を飾って大好きなお母さんを迎えました。お母さんは久美ちゃんが大好きなお餅や食べ物を持ってやってきました。かっこちゃん先生をすぐ見つけて挨拶されましたが、隣にいる女の子が誰なのか気づきませんでした。でも、ひょっとしたら久美子かもしれないと思い直した瞬間、久美ちゃんだと気がついてあっけに取られ、荷物をポトンと落としてしまいました。

 

「そうですよ。久美ちゃんです!」

「えっ、信じられない! 一体全体、何が起きたんですか?」

 そこでかっこちゃん先生は一部始終を話しました。

「久美ちゃんは頭がいいんです。こんなふうに全部わかるんですよ」

「そのやり方を全部教えてください」

 

 お母さんはすぐにやり方を覚えて、お母さんと久美ちゃんのコミュニケーションが始まり、生まれて初めての母子の会話がなされました。お母さんは「久美子~」と言って泣き、久美ちゃんはそのお母さんを抱きしめ、涙を拭き、頭を撫でました。こうして一週間後、久美ちゃんはお母さんに連れられて家に帰っていきました。

 このように少女のように純粋無垢なかっこちゃん先生に担当されると、障害児たちに奇蹟が起きたように開放されていくのです。それはフランチェスコの周りを飛び交った小鳥たちと同じでした。

 

≪ドキュメンタリー映画『1/4の奇跡――本当のことだから』≫

平成11年(1999)、山元先生はたまたま、NHKスペシャルで「驚異の小宇宙 人体Ⅲ――遺伝子」が放映されたのを観ました。障害を抱えた子どもたちを長年世話してきたので、この子どもたちはなぜこんな十字架を背負っているのだろうと、ずっと問題意識がありました。テレビ番組はその問題意識に科学的に答えてくれたのです。

 

アフリカのとある村でマラリアが大発生し、絶滅しそうになりました。幸いにして踏みとどまり、絶滅は免れました。そこで医師や科学者たちが詳細に原因を調べた結果、不思議なことが判明しました。その村にはマラリアにかかりにくい

人がいるというのです。

通常、私たちの赤血球はハンバーグをつぶしたような形をしています。ところがマラリアにかかりにくい人は草を刈る(かま)のような形をした「鎌状赤血球」を持っていました。この遺伝子を持っている人たちの家族や親戚を調べると3つのグループに分けることができました。

 

Aグループ:鎌状赤血球を持っておらず、障害も持っていない人たち。全体の1/4。

Bグループ:鎌状赤血球を持っていて、障害もない人たち。全体の2/4。

Cグループ:鎌状赤血球を持っていて、その遺伝子が原因で障害を持っている人たち。全体の1/4。

マラリアが大発生したとき、Aグループは全員死亡し、生き残ったのは鎌状赤血球を持っているBとCのグループでした。テレビ番組では、マラリアに強くて障害がないBグループが存在すると、必ずある一定の割合で障害を持ったCグループも存在するという事実を突き止めました。つまり、障害を引き受けた1/4のCグループがなければ、健常なBグループは存在せず、その村は絶滅したに違いないというのです。

 

山元先生は感銘深く番組を観終わって、深く納得するものがありました。

「もし、障害者はいらないと排除してしまったら、マラリアに強くて障害も持っていない人は決して生まれてこないといえる。今こうして私たちが元気でいられるのは、障害を持ち、苦しんで生きている人たちのお陰で、障害者は私たちにとってかけがえのない存在なのだ」

 

≪必要でない人は一人もいない!≫

山元先生は常々障害児たちが素晴らしい力を秘めていると感じていたので、その気づきを話すと、みんなが共鳴してくれました。ある日、重度の障害を持っている雪絵さんがかっこちゃん先生にお願いしました。

「私の障害と病気には大切な意味があるのね。病気や障害も大切。そして一人ひとり違うことも大切。誰もが大切なんだということを、世界中の人が当たり前に知っている世の中に、かっこちゃんがして!」

 

約束したいのは山々ですが、一介の介護学校の教師でしかない自分に一体何ができるのでしょう――山元先生は考え込んでしまいました。ところがかっこちゃんのメッセージに共感した主婦の入江富美子さんが家庭用のハンディ・カムで記録を撮り始めました。考古学者からインカ文明の話を聞くと、障害児たちと共通するものがありました。そこでインカ帝国や宇宙の神秘とのつながりも紹介し、一人ひとりの存在理由をスピリチュアルな視点からも探っていきました。

 

かねてからかっこちゃんの大ファンである脳科学者の村上和雄筑波大学名誉教授(故人)も「大自然が作った最高傑作が人間です」と述べ、かっこちゃんの直感を裏付けてくれました。こうして命の尊さを異次元の世界から説く心温まるドキュメンタリーが完成しました。

 

それがドキュメンタリー映画『1/4の奇跡――本当のことだから』です。この映画は上映と同時に評判を呼び、英語版ができ、フランス語版ができるなどして、海外でも上映されています。ハーバード大学でも上映され、予期しないことに、スタンディング・オベーションまで受けました。

 

映画を観たある観客はこんな感想を述べました。

「こんな映画もあるんだと素直に泣け、心が洗われました。こんなにも優しく温かいメッセージを与えてくれるとは。心の目を凝らし、心の耳を澄まして観てください」

映画はすでに9か国語に訳されて19か国で上映され、これまで30万人余りが観るほどのヒットとなりました。あれよあれよという間に、雪絵さんとの約束が果たされました。

 

現在、障害児たちとの交流を描いたかっこちゃんの著書は、『きいちゃん』(アリス館)をはじめ、38冊に及んでいます。講演は毎週どこかの市町村で行われており、年に約50回は下らず、子育て最中のご婦人たちに多大なヒントを与えています。神さまは見事にかっこちゃんを用いて、人類の新しい未来を切り開いておられるようです。

みんなの希望であるかっこちゃん先生

写真=みんなの希望であるかっこちゃん先生


かっこちゃん先生に抱きついて喜びを表す子どもたち

沈黙の響き (その77)

「沈黙の響き(その77)」

山元加津子さんと特別支援学校の子どもたち

 

 

 12世紀、イタリアで育ったアッシジのフランチェスコは小鳥たちと無邪気に遊びたわむれたそうです。小鳥たちはすっかり警戒心を解いてフランチェスコの周りを飛び回りましたが、天真爛漫さを回復させる心は現代社会がもう一度取り戻さなければいけないものです。そのことを私たちに気づかせてくれる事例をたくさんお持ちの人が日本におられます。

 

長年、石川県の特別支援学校に勤務していて、7年前に退職された山元加津子(かつこ)先生はみんなから「かっこちゃん」と呼ばれて慕われています。そこで私も僭越ながら「かっこちゃん」と呼びます。かっこちゃんはもう60数歳ですが、今でも少女のような心持ちの人なので、誰もが裃を脱いで無邪気になってしまいます。

 かっこちゃん先生が担当する障害児たちが奇跡的な回復と成長を見せるので、保護者たちは愛の働きかけが持っている不思議な力に目覚めていきました。

 

≪目も見えず、動くこともできないちいちゃん≫

かっこちゃん先生が教員になって初めて担任した女の子は柵が付いたベッドに寝かされていました。目が見えず、手足も動かず、何も考えていないと思われていました。同じ部屋の子どもたちは胃に穴を開けてチューブで栄養を入れて生きていました。両親とは何年も会っていません。というのは、重い障害児が生まれると、その施設の園長でもある医師は親御さんにやんわりと言いました。

 

「この子は施設の子どもとして、わたしたちが大切に育てます。だからあなたがたはこの子にかかずらわずに、ご自分の人生を歩みだしてください」

 ちょっと首をかしげたくなるアドバイスです。かっこちゃん先生も園長先生から言い渡されました。

「あなたが明日から担当する女の子は無脳症です。つまり大脳半球は委縮してまったくありません。その結果、神経管欠損症を発症していて反応しないんです。大脳が機能していないから何をやっても無駄です」

 

 そう言われても、かっこちゃん先生にとってはちいちゃんは初めて担任する子どもだったので、とりわけかわいかった。お母さんはかわいい赤ちゃんが泣いたら抱き上げて揺らし、小守り歌を歌って、大好きだよと頬ずりするものです。かっこちゃん先生もそうしたくなりました。

 

 赤ちゃんは何もしないで置いておくと背骨は曲がらなくなり、手足は硬直し、骨ももろくなり骨折しやすくなります。それで看護師さんも怖いので触れないようにし、トイレとご飯の世話以外は一切しませんでした。

 

 でも、かっこちゃん先生は病室には誰も来ないし、見つからないからいいだろうと思い、ちいちゃんを抱き上げて抱っこして体をゆすり、歌を歌って、大好きだよと話しかけていました。そんな毎日が続いたある日、看護師さんが「大変なことがわかりました!」とかっこちゃん先生を呼び止めました。かっこちゃん先生は間違ってちいちゃんの骨でも折ったのではないかとドキッとしました。

 

「そうではなくて、大変なことがわかったんです。ちいちゃんがいる病室はどの子も寝たきりで動けず、胃瘻(いろう)カテーテルで栄養補給をしているので、とても静かなんです。ところが山元先生の足音が聞こえてくると、ちいちゃんが手足をバタバタ動かすんです。他の人の足音では決してバタバタしません。まさかと思ったけれども間違いありません。あの子は山元先生と他の人の足音を聞き分け、先生の足音だと喜んでいるんです」

 

 山元先生はちいちゃんが自分のことを特別な人と思って待っていてくれるんだと思ったら、胸がいっぱいになり、涙が止まりませんでした。

 

≪「大好き!」は魔法の言葉≫

 山元先生がちいちゃんに「大好きだよ、かわいいね」と語りかけると、にこっと笑います。「今日はもう帰るね」というと泣きます。ちいちゃんがなぜそうした言葉の意味がわかるのか、わかりませんでした。

 

手遊びで、「一本橋、こーちょこちょ」とくすぐる遊びをしました。最初は何の反応もありませんでしたが、続けているとある日、「階段上って、こーちょこちょ」とくすぐると、声を挙げて「わー」と笑いました。

 

 山元先生は嬉しくなって園長先生のところに飛んでいき、「ちいちゃんは全部わかっています。こうやったら笑いました」と報告すると、現下に「そんなことはあり得ません。あの子は大脳がないんだから、ただの機械的反射に過ぎないでしょう」と否定されました。

 

 翌日もまたちいちゃんと「一本橋、こーちょこちょ」をやって遊びました。そして「一本橋、こーちょこちょ。階段上って」とやって、そこで止めてみました。するとちいちゃんが「あれっ、そろそろくすぐってくれるはずじゃないの?」と怪訝(けげん)そうに首をかしげます。これはくすぐっていないから反射的反応ではありません。次にくすぐってくれるはずだと“予測”する力があることを示しています。こうしてちいちゃんの隠れていた潜在能力に気がついていきました。

 

 あるとき、子ギツネとお母さんギツネの絵本を読み聞かせしていて、

「子ギツネはお母さん、お母さーんと泣きました」

 と読むと、ちいちゃんの目に涙が溜まりました。山元先生は、ちいちゃんはお母さんに長いこと会っていないから、母の愛情はわからないはずだし、キツネとか冬とかも知らないはずなので、物語がわかるはずがないと不思議に思いました。

 

 ところが翌日、「お母さんが心配でたまらない子ギツネは、お母さーん、お母さーんと泣きました」という部分を読んだら、またちいちゃんはポロポロ涙をこぼしました。山元先生は胸がいっぱいになって、ちいちゃんをぎゅっと抱きしめ、「大丈夫、わたしがいるよ」と慰めました。

 

 山元先生はそれまで、人は教育によっていろいろなことを学ぶのだと思っていました。でもそれだったらちいちゃんは何も知らないはずだから、そこで涙をこぼさないはずです。だから人間は生まれる前から全部わかっていると思うしかありません。どんなに障害が重くても、どの子もわたしたちと同じように深い思いを持っているとしか思えません。

 

 たとえ脳に重たい損傷があったとしても、体を起こし、揺らし、大好きだよと語りかけ、音楽を聴かせたりすると、脳幹を刺激して活発になるのです。山元先生はこうした経験から、医師や看護師に、「子どもたちはみんなわかっていて、回復する力があります」と説いても、「かっこちゃんマジック」とか、「ミラクルかっこちゃん」などと茶化されて、なかなかわかってもらえませんでした。(続く)

かっこちゃん先生に抱きついて喜びを表す子どもたち

写真=かっこちゃん先生に抱きついて喜びを表す子どもたち


祈りは結晶化する!

沈黙の響き (その76)

「沈黙の響き(その76)」

モアイの修復に日本が貢献

 

≪多田野弘タダノ会長がイースター島のモアイ像の修復を申し出る ≫

昭和63年(1988)、日本のあるテレビ局が世界7不思議の一つと言われているイースター島のモアイ像の特集を組んで放映しました。

イースター島は南米チリの西方約3千8百キロ沖合の南太平洋に位置しており、日本からは赤道を超えて太平洋を南下して約1万5千キロ離れている絶海の孤島です。

 

 この島は1722年、オランダ人堤督ヤコブ・ロッへフェーンが西欧人として初めてこの島に上陸しましたが、その日がちょうどキリスト教のイースター(復活祭)だったため、その島をイースター島と名づけました。島には12世紀から15世紀ごろ建造されたらしい巨大な石像が何体も立っていました。

 

 この島は全土に大きな椰子(やし)の木が生い茂っている緑豊かな平和な土地でした。ところが乱開発が進み、家や舟の建材を得るために樹木が伐採され、森林が急速に減少し、土地がやせていきました。加えて長年にわたる部族間抗争によって人口減少が続き、1万人もの人々が住んでいた島が、1774年にイギリス人探検家ジェームズ・クックが上陸したときにはわずか6百人に減少していました。さらに昭和35年(1960)にチリを襲った大地震によって、遺されたモアイも倒壊してしまいました。

 

テレビ映像は28年間倒壊したままになっている無惨なモアイ像を映しだし、世界の文化財の修復こそ平和に貢献する日本の役割ではないかと訴えました。

その特集番組を観て、高松市に本社を置くクレーンメーカー()タダノの多田野弘(ただのひろし)会長が振るい立ち、ぜひわが社で修復を引き受けたいと申し出ました。多田野会長は何か社会に貢献できることはないかと探していたのです。

多田野会長の熱意に呼応して、奈良国立文化財研究所、および飛鳥建設が協力して、モアイ修復委員会が結成されました。この申し出にチリ政府は大感激し、チリ大学イースター島博物館がさまざまな情報を提供して準備が始まりました。

 

こうして平成2年(1990)から約3年間かけて、5百年から8百年もの間、潮風にさらされてもろくなった、10トン以上もある大きなモアイ像をクレーンで吊り上げて、アフという台座(祭壇)に安置しました。こうして倒壊していたモアイ像15体は完全に修復され、イースター島はユネスコ世界遺産に「ラパヌイ国立公園」として登録されました。ラパ・ヌイとはポリネシア語で「大きな島」という意味で、島に住む人々は現在も自分たちの島をラパ・ヌイと呼んでいます。

 

≪日本にモアイ像の復刻が特別に許可された!≫

 平成6年(1994)1月、西田多戈止さんはさっそく㈱タダノの本社を訪ね、多田野会長に会いました。

「モアイを日南海岸に移築することは可能でしょうか。私どもが日南海岸に持っている和郷牧場跡地を再開発することになったので、ここに天香さんが説いている光明祈願『不二の光明によりて新生し許されて活きん』を体現した祈りの場をつくろうとしているのです」

 と、牧場跡地で得たインスピレーションを語りました。

 

「太陽からのメッセージを受けて、地球に許される生き方に気づく場所にすべく、そこにモアイ像を設置したらどうかと考えました」

 するとそのプロジェクトに、今度は多田野会長が驚きました。

「お陰さまでイースター島のモアイは無事修復され、世界遺産に登録される運びとなりました。イースター島の長老会は日本の修復チームに大変感謝し、お礼にモアイ像を日本で復刻することを許可してくださったのです。世界で初めて復刻が許可されたので、信じられないような思いです。

 

しかし、一体5メートルを超す巨大なモアイ像を7体も設置する場所は、相当広い面積を必要とするので、通常の場所ではとても無理です。でも、西田当番がお申し出のように、日南海岸の牧場跡地だったら最適です」

そこで構想は一気にまとまり、プロジェクトが動き出しました。飛島建設の石工の左野勝司さんが凝灰岩(火山灰が固まってできた柔らかい石)を刻んで復刻しました。平成8年(1996)年4月、地球の平和を願って、太平洋をはるかに見晴らす日南海岸の景勝地に開設された「サンメッセ日南」にモアイ像7体が設置され、マスコミがこぞって報道しました。

 

≪諸宗教団体が祈りの運動に呼応≫

一方、西田当番は諸宗教に、サンメッセ日南に「地球感謝の鐘」を設置しようと呼びかけました。一燈園はかねてから宗教の壁を超えた超教派活動を熱心に行っていたので、各宗教団体が賛同して参加を申し込んできました。

 

山田恵諦(えたい)天台座主(ざす)は「地球よありがとう。地球よごめんなさい」というメッセージを送ってきました。立正佼成会の庭野日敬(にっきょう)開祖は「かけがえのない地球に住む縁に感謝」と表現されました。カトリック東京大司教区の白柳誠一枢機卿は「主よ、揺れ動く地の裂け目をなおしてください」とメッセージを送り、大本山池上本門寺の田中日淳(にちじゅん)貫主(かんしゅ)は「大地の恵みを合掌で頂き、いたみは感謝の涙で清めます」という言葉をくださいました。

 

海外からはフランシスコ会修道会のマクシミリアン・ミッツィー神父が聖フランシスコの詩「太陽讃歌」から一句選んで送ってきました。チベットのダライ・ラマも「手遅れになる前に行動しなくては」というメッセージを送りました。こうして16教団から提言の言葉をいただき、17教団からは建設資金も提供されました。

 

春分の日と秋分の日には、真東の海の向こうから昇った太陽が、7体のモアイ像の背後から射してサンメッセ日南の中央の「太陽の階段」を駆け上り、頂上に設置されている「地球感謝の鐘」の真ん中に差し込むという素晴らしい施設ができあがりました。

 

幸いなことにサンメッセ日南は令和2年(2020)4月13日に24周年を迎えました。この年の3月11日には入場者数が4百万人に達し、一燈園のメッセージが少しは伝わったような気がします」

 

沈黙の響きに心耳を澄まし、かそけき内なる声に耳を傾けると、そこから大きな気づきがやってきます。物事の背後にはこうした善意の祈りがあり、日南海岸に立つモアイ像も建立にかかわった人々の祈りが結晶化したものでした。

冒頭に引用した安岡先生と同じように大変な炯眼(けいがん)の持ち主で、特に学校の教師たちに支持者が多く、「実践人の家」という自己啓発の会を主宰した森信三元神戸大学教授は名著『修身教授録』(致知出版社)で、私たち人間のことをこう述べておられます。

 

「われわれ一人びとりの生命は、絶大なる宇宙生命の極微の一分身といってよい。したがって自己をかくあらしめる大宇宙意志によって課せられた、この地上的使命を果たすところに、人生の新意義はある」

 この人間観は宗教が説く普遍的な叡智に通じており、それを目指す私たちを“持続可能な”人間にしてくれています。沈黙の響きに耳を澄まし、内なる声を聴きとる努力を重ねたとき、私たちは私たちの社会をかけがえのないものにすることができるように思います。(続く)

祈りは結晶化する!

写真=祈りは結晶化する!

 


太平洋を見晴るかすサンメッセ日南のモアイ像

沈黙の響き (その75)

「沈黙の響き(その75)」

モアイ像を日本に導いた暁の祈り

 

 

 

≪人間は無限なる存在が肉体を持って有限化した存在だ!≫

 大正から昭和にかけて世の中に多大な影響を与えた東洋思想家安岡正篤先生は『運命を開く』(プレジデント社)のなかで、実に深遠な人間観を語っておられます。

「人間というものは、ある全きものでなければならない。人間の生命というものは、無限にして永遠なるものです。その偉大な生命が何らかの機縁によって、たまたま一定の存在になり、一つの形態を取るのです。

そこで我々が存在するということは、すでに無限の限定である、無限の有限化であるということを知る必要がある。この有限化を常に無限と一致させるということが真理であり、道理であり、道徳であります」

 

つまり大宇宙の本質である究極実在が何らかの機縁によって有限化して、目に見える形になっているのが人間だというのです。人間はその人生をかけて不断の努力をして人格を神にまで高めていくことが求められていると説いておられます。人生とは自分をいつも祈りによって啓発し、根源なる存在と一致させるものだと説かれます。

 

≪日南海岸に設置されたモアイ像≫

祈りを通して、いま何をなすべきかということがだんだん明確になってくるという好例が、一燈園が日南海岸で経営しているサンメッセ日南開設の事例です。

一燈園は昭和の後半、日南海岸にある25へクタールもの和郷(わきょう)牧場で、黒毛和牛を生産していましたが、経営に行き詰まって閉鎖していました。しかし、平成5年(1993)、地元の日南市宮浦は村おこしのためにも、牧場跡地を何らかの形で再開発してほしいと希望してきました。そのプロジェクトに2つの企画案が上がっていましたが、一燈園当番(代表者)の西田多戈止(たかし)さんはどちらの案にも決めかねて迷っていました。

 

 日南市と宮崎市を結ぶ国道220号線脇のドライブインで企画会議を行っていたのですが、なかなか結論が出ず、重苦しい雰囲気になっていました。多戈止さんは気分転換に会議を抜け出し、牧場跡の丘に登りました。広大な牧草地の前方には紺碧の大海原がどこまでも広がっていました。

 

 それを眺めていると、いつの間にか日が暮れ、あたりを静寂が包んでいました。崖下の国道を走る車のヘッドライトも上までは上がってきません。ふと気がつくと、前方の海に小さな灯りが点々と点いていました。漁火(いさりび)です。漁師たちが漁をして、大海原から大自然の恵みをいただいているのです。

 

その灯もいつしか消え、頭上には満天の星がきらめきだしました。多戈止さんは自ずから瞑想に入り、夜空に銀の砂をまき散らしたような銀河の淵にたたずんで、忘我の世界に遊んでいました。夜の冷え込みもさして気にならず、坐ったままうとうととしていました。

 

≪暁に祈り、太陽からのメッセージを受け取った!≫

うたた寝からふと目が覚めると、東の空が白々と明け始め、水平線が左右にゆっくり広がっていきました。目の前で荘厳な日の出が始まり、ただただ無心に見入りました。

太陽が水平線に近づくにつれ、水平線上の雲の輪郭が光で白く縁どられ、(あかね)色に染まっています。太陽が水平線から顔を出すと、光の帯がサーッと海面を走り、キラキラと輝いて、多戈止さんのところに届きました。

 

その瞬間、(光の帯を通して、太陽が私に話しかけているようだ! 私たちは心が通じ合っているのだ……)と思いました。光の帯をたどって幻想が広がっていきます。

(太平洋の向こうには何があるのだろうか……

ハワイだろうか……何の島だろうか……

さらにその向こうには南太平洋が広がっており、イースター島があるんだろうな……)

 

太陽は多戈止さんをイースター島に結びつけてくれたのです。

(イースター島といえば世界の7不思議といわれるモアイ像がある……

その昔、高さ5メートルを超す巨大な石像が建造されたそうだけど、その目的も何もわからないまま謎に包まれ、石像はただ南太平洋の海原をじーっと見詰めている……)

思いがイースター島に及ぶと、思考の焦点が定まってきました。

 

(そうだ! もしイースター島のモアイ像をここに持ってきて、太平洋と南太平洋を間に挟んで、イースター島のモアイと日南海岸のモアイに地球環境について対話させたらどうだろう。

もうこれ以上地球を汚してはいけない。このまま地球汚染を放置しておくと、イースター島がたどったような滅びの道に陥ってしまうと、地球再生という大きなメッセージを投げかけてくれるのではなかろうか)

 

 暁の祈りのなかで、多戈止さんはモアイ像を設置しようという結論に導かれていきました。

 ドライブインでの会議に戻ると、多戈止さんは昨晩満天の星空の下、太平洋を眺めながら考えたことを話しました。

「もしモアイ像を設置したら人々の関心を引くでしょうし、地球再生という大切なメッセージを送ることができると思いますが、どうでしょうか?」

 

 すると検討チームの一員からすぐさま反応がありました。

「モアイ像というアイデアはすばらしい。誰もが興味を持ちますよ」

 すると他の人が新たな情報を語りました。

「この間テレビニュースで、日本のチームがイースター島で倒壊したモアイを修復していると報じられていました。確か、クレーンのタダノが資金を提供し、奈良国立文化財研究所と長年石の建造物を扱ってきた石屋さんと一緒になって修復に乗り出したとか」

 

 タダノと聞いて多戈止さんはびっくりしました。

「多田野弘会長ならよく知っています。タダノは一燈園の研修に社員や奨学生を参加させているんです」

 そう答えながら、モアイを日南海岸に建造することは可能かもしれない、いやできそうだと予感しました。多戈止さんが暁の祈りのなかで着想を得たとき、地球の反対側のイースター島では修復工事が進められていたのです。さっそく調べてみると不思議な事実が判明しました。(続き)

太平洋を見晴るかすサンメッセ日南のモアイ像

写真=太平洋を見晴るかすサンメッセ日南のモアイ像


朝日の輝き

沈黙の響き (その74)

「沈黙の響き(その74)」

森先生を触発した二宮尊徳

 

 

 

≪自分が立っているところを深く掘る≫

私は森先生の哲学に接して驚嘆し、従来の学者の哲学には見られない独創性と実践性はどこから来るのだろうかとずっと模索していました。

普通、学者の論文はその分野の著名な学者の見解を引用し、その上で私はこう推論するという体裁を取るものです。ところが森先生の著書にはそういう引用が少なく、聡明な叡智と思われるご自分のひらめきが書き表わされています。そこで思索がたどりつくところは、森先生が開眼の契機となったといわれる二宮尊徳翁が詠まれた、

 

音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくり返しつつ

 

です。つまり森先生は万巻の書物を渉猟する書物の虫となることを止めて、天地の響きに聴き入ったのです。先生がくり返し強調された真理に、「真理は現実のただ中にあり」とありますが、現実のただ中に沈思黙考するとき、確かなものが見えてきました。そして確信して、

「かくして現実の中から把握せられた真理にして、はじめて現実を変革する威力を有する」

と断言されました。

 

思えば中国の古典『大学』にある思想「格物致知(かくぶつちち)」、すなわち「物を格(ただ)して、知に致(いた)る」という考え方も同じことを言っています。物、すなわち現実は深く沈思黙考するとき、宇宙の叡智を開陳してくれるのです。

 

ドイツの哲学者ニーチェも沈思黙考することの大切さを次のように語っています。

「怯(ひる)むことなく、お前の立っているところ、そこを掘れ。地下深く。その下にはきっと泉がある。ぼんやりした連中にはほざかせておけ、『下にあるのは決まって地獄だ』と」

 私はニーチェの達観は森先生の思索の本質を言い当てている炯眼(けいがん)だなと思いました。

「そこを掘れ、地下深く。そこにこそ創造の泉があるのだ」と。「沈黙の響き」に耳を傾け、沈思黙考することは、洋の東西を問わず、叡智が開ける重要な条件のようです。

 

 ≪逆境は天の恩寵的試練である≫

 森先生はいかにしてああした叡智を獲得されたのかと模索する私に、天王寺師範での授業で学生たちにしばしば、

「酔生夢死の人生、つまり酔っ払っているのか、夢を見ているのか、そんな人生を送ってはならない。私たちにぼやぼやしている時間はないんだ」

と語っておられます。森先生は私たちがついうっかりと、ぼやぼやした時間を過ごしていることに警告を発しておられるのです。考えてみると、森先生は、尋常高等小学校を卒業後、旧制中学に進学したかったけれども、家が貧しくて進学できず、やむなく師範学校に進むために、一年間小学校の給仕をされました。裕福な家庭の子どもたちが塾に通い、いっそう学力をつけて旧制中学に進学するのがうらやましくてなりませんでした。

 

愛知第一師範学校を卒業後、地元の横須賀尋常小学校に奉職しましたが、向学心は抑えがたく、東京高等師範学校を受験したものの不合格。ところが、そこまで向学心に燃えているのだったら学資を出そうという人が現れたので、今度は広島高等師範を受験して合格し、広島高師に入学しました。その後、京都帝国大学に進み、西田幾多郎教授の許で研鑚に励み、天王寺師範の講師になりました。学資を出してくれる人の期待に応えるためにも、ぼやぼやしてはおれなかったのです。

 

考えてみれば、生きていくためにぼやぼやしておれなかったのは、天の配剤だったとしか思えません。貧しい境遇だったからこそ切磋琢磨して、出色の人物になることができました。

もちろん、森先生が持って生まれた資質は私たちとは全然違っていたこともありますが、その資質が磨かれ、世を照らす光にまでなれたのは、天の導きがあったからだと言えます。自分の境遇をはかなむのではなく、それを真っ正面で受け止めて刻苦勉励したからこそ、世の光となれたのでした。だから森先生は「逆境は神の恩寵(おんちょう)的試練なり」と言わずにはおれませんでした。

「身に振りかかることは、すべてこれ天意なり」

 という森先生の箴言は私たちに人生に立ち向かう覚悟を迫っています。

 

≪複写はがきに込めた思い≫

ところで私に『修身教授録』の同志同行社版の序文を送ってくださった田村先生は、京都市で長らく小学校と中学校の教師をされましたが、その間、森先生の影響を受けて、複写はがきにも精魂されました。複写はがきの祖といえば徳永先生ですが、その徳永先生に毎日はがきを差し上げる「一日一信」を始められました。その動機はこうです。

 

「私が最初に実践人の夏季研修会に参加したのは、昭和四十八年(一九七三)で、森門下の逸材である徳永先生とご縁ができたのはもっと後のことでした。香川県の因島の教師・岡野孝司先生が徳永先生と一日一信をされていると聞いて、私もご縁を求めて一日一信をお願いしました。

晩年の徳永先生はご病気され、それでも病床から返信してくださいました。私はとても恐縮し、お体にさわってはいけないと思い、こちらからはがきを差し上げるのは遠慮しました」

 

 一日一信は約千日、二年半余り続きますが、徳永先生との交流を通して、多くのことを学ばれたようです。

 徳永先生から複写はがきを書くことを勧められ、人生が豊かになったという坂田道信さんはいま「複写はがきの伝道者」と呼ばれ、講演で全国を飛び回っておられます。私が複写はがきを書くことの効用をお訊きしたら、こう答えられました。

 

「複写はがきは一種のアンテナでもあります。複写はがきは多くの人が生活されているこの日本の中で、自分と共に歩いてくださる方を探し出す一つの道具であるように思います。複写はがきは思いもよらぬ多くの人と自分を結びつけてくれ、その人たちとネットワークを作ってくれ、人生を切り開いてくれるのです。やがて同じ波長の人たちとつながり、結ばれ、自分が本来持って生まれている使命を果たしていくことになります」

 

なるほど、複写はがきは自分と同じような波長の方を探し出すツールだとは、長年、複写はがきを書いてこられただけに至言です。複写はがきを書き続けることによって、人生は確実に豊かになっていくようです。(続き)

朝日の輝き

写真=森先生の沈思黙考から宇宙の叡智が引き出された


どこへでも気軽に出かけた森信三先生

沈黙の響き (その73)

「沈黙の響き(その73)」

森信三先生の魅力

 

 

≪斯道会のガリ版刷りの序文に寄せられた炯眼≫

ところで芦田先生が読まれた斯道会(しどうかい)版に、発行した斯道会の序文が載っています。おそらく天王寺師範での教え子で、教師になった山本正雄会長が書かれたものと推測されます。山本会長は長らく森先生の訓育を受け、思想的に深く共鳴されていたので、『修身教授録』の本質は何であるかを見事に活写されています。そこでその前半部分を引用します。

 

「友邦満州国建国の礎石として、昨春四月、遠く新京なる建国大学教授の任に赴かれた吾らの恩師森信三先生が我が国教育界の一隅に残された偉大なる業績は、それが本質的であるだけに、いまだ十分に世人の知るところとならぬが、この複雑繁多なる現代の時代と世相の下にあっては、容易にその比を見い出しがたき種類のものと思われる。しこうしてその趣きの一端は、まずこの一連の記録を通してもうかがい知られることであろう。

 

よくよく教育の真諦は師弟一心一体、熱烈なる求道の一路を歩むところにみられるが、しかも師の深大なる自證の光が、一転化他の慈光となって、深く弟子の心魂に徹するとき、そは必ずや何らかの形態にまで結実しきたらずんばやまないものである。

かくして古来、時の古今、洋の東西を問わず、いやしくも真教の行わるるところ、そこには期せずしてその記録の伝わり存するものがあるのである」

 

そう説いて、筆者は孔子における論語、キリストにおける聖書、さらには二宮尊徳の夜話などを挙げ、いずれの人の真実の言葉が子弟を感動させ、景仰の念が極まり、ついにその言動を記録するに至ったといいます。

そして後代の人々はこれらの文書を愛誦し、その偉大なる精神は時代を超えて脈々と貫通し、教学として定着するようになりました。序文はさらに続きます。

 

「今この書は先生が数奇なる運命の下に、その類稀(たぐいまれ)なる聡叡(そうえい)の資を内に包んで、十有余年の長歳月を、一師範教師として歩まれた、いわば先生下学(かがく)の歩みの忠実なる記録ともいうべきであって、なるほどその外見からはあくまでも平明懇切、志業の念いまだ発せざる年少学生を相手に、じゅんじゅん説いて倦まざるの趣きを髣髴(ほうふつ)せしめるが、しかもその根柢に至っては、まさに哲学者としての先生の深奥なる世界観、人生観に基づくものと言わざるを得ない。

したがってこの書は真の意味における『国民教育者の道』であると共に、また実に現代の新たなる形態における『人となる道』というべきであろう」

 

森先生は芦田先生が同志同行社から出版させてほしいという懇請を快く承諾し、渡満準備をしている最中の多忙のときでしたが、丹念克明に補訂の筆を加え、一段と精彩を増した原稿に仕上げて、芦田先生に手渡されました。

 

≪下学雑話の魅力≫

この『修身教授録』の各講の最後に、しばしば「下学(かがく)雑話」というコラムが挿入されています。「下学」とは、身近で容易なことから学んで、だんだんに高度で深い道理に通じることを意味します。これは孔子が、

「下学シテ上達ス、我ヲ知ル者ハ、其レ天カ」(論語・憲問篇)

と言われていたことに準じた森先生の、身近なことをおろそかにしない学問の姿勢を指すものです。例えば第二十四講の最後に挿入された「下学雑話」にはこう書かれています。

 

「人間下坐(げざ)の経験なきものは、未だ試験済みの人間とは言うを得ず。只の三年でも下坐の生活に耐え得し人ならば、ほぼ安心して事を委(まか)せ得べし」

人生を送る上での貴重な箴言(しんげん)ともいうべき言葉です。

 

再び序文に戻ると、この書によって啓発された方々は一歩進んで、森先生が上達の歩みとして達せられた『恩の形而上学(けいじじょうがく)』(致知出版社)その他の思想的高峰に向かって登攀(とうはん)の一歩を踏み出されることを切望してやまないと述べています。実践人のグループは、読書が読書で終わることなく、「思想的高峰に向かって登攀」であると捉え、お互いの精神的成長を励まし合っています。ありがたい集団です。(続き)

どこへでも気軽に出かけた森信三先生

写真=どこへでも気軽に出かけた森信三先生