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十字架

沈黙の響き (その139)

「沈黙の響き その139」

 人生の転機をもたらした前川正さん

神渡良平

 

キリスト教への反発

 

一難が去った昭和23年(1948)、幼なじみで2歳年上の、北大医学部3年生の前川正さんが見舞いにやってきました。前川さんは結核にかかって自宅療養をしていました。アララギ派で短歌を詠んでいた前川さんは、ガリ版を自ら切ってザラ紙8ページほどの『旭川アララギ会報』を編集して配布し、毎月自宅で歌会を開いていました。旭川アララギ会へ勧誘しようと、そこへ幼なじみの堀田さんを訪ねてきました。

 

2人は当初なかなか嚙み合いませんでした。前川さんはキリスト教を信仰していて清純ですが、綾子さんはそれに反発しました。

「正さん、だからわたし、クリスチャンって大きらいなのよ。何よ、君子ぶって……。正さんにお説教される筋合いはないわ」

 

 クリスチャンはものごとを良い方に良い方にと解釈し、ことを荒立てたりしません。しかし綾子さんは、世の中はそんなきれいごとだけじゃすまされないと反発しました。自分が教師を辞めるとき起きたごたごたもあって、世の中に対する激しい反発心が彼女を怒らせるのです。

 

「クリスチャンなんて、偽善者でしょ。お上品ぶって、自分もバーに行きたいくせに、バーになんか行く奴は救い難き罪人だというような目をするじゃない?」

 酒もタバコも飲む綾子さんは、クリスチャンの禁酒禁煙も受け入れられませんでした。品行方正な人にありがちな「上から目線」を前川さんにも感じたのでしょう。

 

「クリスチャンは精神的貴族だね。わたしたちを何と憐れな人間だろうと、高い所から見下しているんじゃないの?」

 辛辣なクリスチャン批判です。一見、品行方正なように見えるクリスチャンに向けられた不信感が透けて見えます。前川さんは綾子さんの度重なる拒絶に面くらいました。

 

短歌を詠み始めた綾子さん

 

とは言え、綾子さんは前川さんの勧めに応じて、短歌を作り始めました。短歌は詠んでみると、不思議な魅力がありました。三浦さんは『ごめんなさいといえる』(小学館文庫)に嬉々として語っています。

 

「何かを作り出すということは、たとえ短歌のような短詩型であっても、エネルギーの凝縮を必要とします。虚無というエネルギーの拡散された状態からわたしを救い出すために、短歌を勧めたというのは多分よい手段でした。とにもかくにも不毛の状態の人間が、貧しいながら一つの実を実らせるのです。そのはじめての歌が土屋文明選の『アララギ』に載った次の第1作でした」

 

  夜半に帰りて衣服も()えず寝る吾を

この頃父母は(とが)めずなりぬ

 

この歌はいささか稚拙ではあったとしても、精神の荒廃から立ち上がった堀田さんの祈念すべき道標でした。前川さんはめげずに綾子さんの病室を訪ねました。虚無的にものを見、投げやりな綾子さんの心の在りようを何とか正したいと思ったのです。綾子さんにキリスト教を伝えたいとは思いましたが、それ以上に綾子さんを捨て鉢な精神的荒廃状態から救いだしたいと思ったのです。

 

捨て鉢な綾子さん

 

綾子さんは前川さんと交際するにつれ、彼の真摯な態度は綾子さんを揺さぶりました。前川さんは綾子さんにいつも真剣に問いかけ、前向きにならせようとしました。

「綾ちゃん、いったいあなたは生きていたいのですか、いたくないのですか」

 前川さんの声は少しふるえていました。

 

「そんなこと、どっちだっていいじゃないの」

 実際の話、堀田さんにとって、もう生きるということはどうでもよかったのです。むしろいつ死ぬかが問題でした。小学校の教師をしていたころの、あの命もいらないような懸命な生き方とは逆な意味の“命のいらない”生き方でした。

 

「どちらだってよくはない。綾ちゃん、お願いだから、もっとまじめに生きて!」

 前川さんは哀願しました。綾子さんはそれでもなお反発し、嫌味な言葉が口をついて出ます。

「正さん、また説教なの。まじめっていったいどういうことなの? 

何のためにまじめに生きなければならないの。

 

戦争中、わたしは馬鹿みたいに大まじめに生きてきたわ。まじめに生きたその結果はどうだったの。もしまじめに生きなければ、わたしはもっと気楽に敗戦を迎えることができたはずだわ。生徒たちにすまないと思わずにすんだはずよ。正さん、わたしはまじめに生きて、ただ傷ついただけじゃないの」

堀田さんのあらがった言葉に、前川さんはしばらく何も言いませんでした。

 

郭公(かっこう)が朗らかに啼き、空は澄んでいました。黙って向き合っている二人の前を、蟻が無心に動き回っていました。

(……この蟻たちには目的がある)

堀田さんはふっと淋しくなりました。すべてに虚無的になっていた綾子さんでしたが、実は心の底で、これでいいのだろうかと迷っていたのです。

 

(このままで決して良くはない。何に対しても虚無的で投げやりで、これでは死んだも同然だわ。この状態のままでは決してよくない。この状態から抜け出さなければ……。何とかしたい。でもどうやって抜け出したらいいの?)

ついに彼女の本心が、光を求めて動きだしたのです。

十字架

写真=十字架