※『自分の花を咲かせよう 祈りの詩人 坂村真民の風光』は五月中旬、PHP研究所から発売されます。
プロローグ
神渡良平
坂村真民先生の詩に魅せられて、松山市郊外のタンポポ堂に初めて訪ねたのは平成五年(一九九三)二月のことでした。八十四歳になる真民先生はすっかり枯れ切っておられ、透明な秋の空気のように澄み切っておられました。
玄関脇の八畳ほどの応接間での取材は深みに導かれ、あっという間に一時間半あまり経ってしまいました。では、近くのレストラン開花亭で食事をしましょうと立ちかけると、真民先生は「ちょっと待っていなさい」と言い残して、二階の書斎に上がっていかれ、二枚の色紙を持って降りてこられました。見ると墨痕鮮やかに、
聞法因縁五百生
対面同席五百生
と書いてありました。お釈迦さまの人に対する姿勢を表している言葉だそうで、〝聞法因縁五百生〟とは、五百回の人生を生まれ変わって、ようやくみ仏の法を聴くことができる因縁が成就するのだという意味だそうです。〝対面同席五百生〟とは、対面して同席するような出会いは五百回生まれ変わってやっと実現できるようなありがたいものだというのです。
お釈迦さまは一人ひとりをそういう慈しみのまなざしで見詰め、なつかしい気持ちで対しておられました。人々が群がるように会いに行っていた理由は、迎えるお釈迦さまの心の姿勢にあったのです。真民先生はそれをお手本にしているとおっしゃるのです。
開花亭で真民先生の前に坐り、著を取り出そうと著袋を手にすると、そこに真民先生の詩「一字一輪」が書いてありました。それを目にした瞬間、私は釘づけになってしまいました。
字は一輪でいい
一字にこもる
力を知れ
花は一輪でいい
一輪にこもる
命を知れ
詩人が自分の思いを表現する言葉を選びに選んでいる真剣さがびしびし伝わってきます。私は散文家なので多少違うとはいえ、自分の志を表現する言葉を選ぶのにまだまだ真剣さが足りなかったと反省させられた次第でした。
凛とされている真民先生はこの詩を書いたころを振り返って言われました。
「この詩は失明の危機を脱し、加えて内臓疾患から救われて、生きていく希望と光がようやく差し込んできた四十七歳のころの作品です。当時は一遍さんについてまだ何も知りませんでしたが、いま読み返してみると、一遍さんに近づいていこうとする気魄のようなものが感じられます」
お話をお聞きして、この詩には死に直面して人生のどん底で苦しみ、そこから立ち直った覚悟が表明されていることを知りました。この詩が持っている気魄はそこから来ているのでした。
真民先生の詩に出合ってから二十七年になりました。このたび縁があって評伝を書くことになりましたが、まさに「対面同席五百生」の思いです。私にとって坂村先生は〝先生〟と呼ぶべき存在ですが、生前先生は、「私を先生と呼んでくださるな。一遍さん、良寛さんと同じように、親しみを込めて〝さん〟と呼んでくださったほうがありがたい」とおっしゃっていました。そこで本書ではあえて〝真民さん〟と書くことにしました。
真民さんの詩は修辞を凝らした詩ではありません。そこに感得した人生の知恵が表現されているからこそ、私たちの人生の応援歌になっています。この評伝で、あなたの人生も〝大いなる存在〟に導かれていることを確信してくだされば、こんなにうれしいことはありません。