ありし日の森信三先生

沈黙の響き (その41)

「沈黙の響き(その41)」

 

森信三先生を世に出した芦田惠之助先生

 

≪『人を育てる道』の大変な反響≫

令和3年(2021)3月19日、拙著『人を育てる道――伝説の教師
徳永康起の生き方』が致知出版社から上梓されます。それに先立って、私は日ごろお世話になっている方々に、徳永先生の信条だった「教え子みな吾が師なり」と扉書きして本を送りました。

それに雑誌『致知』4月号が全ページ大の出版予告を出してくれていたこともあって注文が相次ぎ、半月余りですでに500冊もの本に扉書きして送りました。徳永先生の生き方に共感なさる方々がいかに多いか、今さらながら知らされた思いです。

書店で本が発売される前に、それだけのサイン本の申し込みがあったというのは、これまで70数冊の本を出版していますが、かつてなかった反響です。1人の人間の生き方が逝去後40数年経って、ここまで社会を奮い立たせるのかと知らされ、その持ち場で「一隅を照らす」生き方をすることが大切なことを改めて教えていただきました。

そうしたなか、ある方が、昭和14年(193912月、同志同行社から出版された『修身教授録』(全5巻)に芦田惠之助(えのすけ)先生が寄せている序文を送ってくださいました。この序文は残念ながら平成5年(1989)3月に再版された竹井出版(現致知出版社)の初版には掲載されていないので初めて読みました。芦田先生の序文は非常に魅力的で、ぐいぐい引き込まれました。

芦田先生が読まれた斯道会(しどうかい)発行のガリ版刷りの『修身教授録』とは、昭和12年(1937)ごろ、森先生が大阪の天王寺師範学校の本科で人間学を講義され、それを生徒たちが筆録筆記したものに筆を入れてでき上ったものです。これをご自分が主宰されていた月例勉強会である斯道会で読むためにごく少部数ガリ版印刷されました。

 

≪同志の教師たちの所依経にしたい!≫

森先生がその一部を芦田先生に送ったところ、芦田先生は瞠目し、ぜひともこれを自分たちの機関誌『同志同行』に連載して全国の教師たちに知らしめ、さらに連載完了の暁には同社から出版して同志の教師たちの所依経(しょえきょう)としたいと申し出られました。所依経とは拠りどころとなる経典のことです。

森先生は芦田先生が同志同行社から出版させてほしいという懇請を快く承諾し、満州の建国大学に教授として赴任する直前の、出国準備をしている慌ただしいときでしたが、丹念克明に補訂の筆を加え、一段の精彩を増した原稿に仕上げて、芦田先生に手渡されました。

こうしてガリ版刷りで少部数しか発行されていなかった本が活版印刷され、全国の書店に並ぶようになりました。

芦田先生とはわが国の国語教育の第一人者で、多年にわたって全国的に教壇行脚を続け、教師たちにモデル授業を披露されており、教師の間で絶大な支持を得ておられました。森先生は京都帝国大学大学院卒の突出した非凡な秀才ではありましたが、まだ京都や大阪周辺でしか知られていませんでした。だから全国的に有名な芦田先生がぞっこん惚れ込んで紹介されたところから、森先生に着目する人が全国的に一気に増えました。

この同志同行社版の序文に芦田先生はこう書いておられます。

「ここに私が年来遺憾としていましたことは、我ら同志間の所依経とすべきもののないことです。所依経と仰ぐ典籍を持たないことは、実に淋しいことです。それとともに行も進みません。

 私はたまたま森先生の『修身教授録』を拝して、これこそ私が年来求め来たりしものだと思いました。朝夕に読誦景仰すべき書であると思いました。幸いにその刊行を私にお許しくださいました。この上は、私の一生をこの書の流布につとめて、同志と共に、教育革正の行にいそしもうと存じます。

 私はここまで書いてきて、安んじて死ぬることができるように思います。天下の同志は、必ず今後の私の行動に熱烈なる支持を与えてくれるにちがいありません。同時にわが小学教育者、ことに若き教育者の群れが、幾多救われていくことだろうと信じます。

 したがって次代を形成する小学生の幾十百万が救われることを想望するとき、私は嬉しくてたまりません。『正しからざる教育は悲惨だ』と年来唱えてきた私は、ここまで書いて、涙にペンの先が見えなくなりました」(※歴史仮名づかいは現代仮名づかいに、旧漢字は常用漢字に改めました)

 芦田先生が『修身教授録』を自分たちの所依経としたいという熱烈たる思いが行間から伝わってきます。この出版によって芦田先生が長年かけてつちかってこられた全国の同志同行の教師たちに森先生の『修身教授録』が知れ渡っていきました。

 

≪下学雑話の魅力≫

この『修身教授録』の各講の最後に、しばしば「下学(かがく)雑話」というコラムが挿入されています。「下学」とは、身近で容易なことから学んで、だんだんに高度で深い道理に通じることを意味します。これは孔子が、

「下学シテ上達ス、我ヲ知ル者ハ、其レ天カ」(論語・憲問篇)

と言われていたことに準じた森先生の、身近なことをおろそかにしない学問の姿勢を指すものです。例えば第24講の最後に挿入された「下学雑話」にはこう書かれています。

「人間下坐の経験なきものは、未だ試験済みの人間とは言うを得ず。只の3年でも下坐の生活に耐え得し人ならば、ほぼ安心して事をまかせ得べし」

人生を送る上での貴重な箴言ともいうべき言葉です。

芦田先生は、この書によって啓発された方々は一歩進んで、森先生が上達の歩みとして達せられた『恩の形而上学(けいじじょうがく)』(致知出版社)その他の思想的高峰に向かって登攀の一歩を踏み出されることを切望してやまないと述べています。森先生を師と仰ぐ実践人のグループは、読書が読書で終わることなく、「思想的高峰に向かって登攀」であると捉え、お互いの精神的成長を励まし合っています。ありがたい集団です。(続く)

ありし日の森信三先生

写真=ありし日の森信三先生