「自分は役に立っている」という考えは危うい
山口県で名高校校長と呼ばれ、退職後も全国に教職者研修に呼ばれている佐古利南(としなみ)先生も辻先生の詩に注目し、新たな観点から吟味されています。辻先生は晩年体調を崩して車イス生活となり、寝たきりとなって高齢者施設に移り、認知症も併発されました。それでも生きることに悲哀を感ぜず、ベッドの中で手を合わせて、すべてに感謝しておられました。佐古先生は辻先生の詩の次の部分に注目されました。
「自分は役に立っている」というその思いのなかに
ひょっとしたら、傲慢とまでいいませんが
何か悲しい人間の自信がひそんではいませんか
人は誰でもいつの日か、何もかも喪失して
人に迷惑をかけなければ
瞬時も生きてゆけないそんな日が必ずやってきます
この「役立ち思想」の延長線上でゆくと
いつかは誰でも生きることの価値を失い、生きる資格をなくします
老いるということ、病むということ、呆けることは
そういうことだったのですか
佐古先生は平成28年(2016)7月、神奈川県の知的障がい者施設「津久井やまゆり園」で、19人が刺殺され、26人が重軽傷を負った悲惨極まりない事件を採り上げ、事件の背後にあるのが、「役に立たず、社会の荷物になっている」という皮相な考えだと指摘しておられます。地元の神奈川新聞も、「この事件は派生的に『生きるに値しない命はあるのか』という根源的な問いを私たちに投げかけた」と指摘しています。辻先生はこの事件の20年前に「役立ち思想」の持つ危うさを警告しておられたのです。
役立つことが善で、それ以外は悪で邪魔者というのではなく、〝いのち〟そのものが尊い。それは“いのち”が神仏のこの世への現われだから絶対的に尊いんだ――そんな辻先生の訴えが聞こえてくるようです。ここで論じてきた障がい者のケアの問題は、ただ単に社会福祉政策の問題ではなく、生命の根源に対する畏敬の問題だといえます。
私は障がい者支援センターあんしんを運営されてきた樋口会長のご家族がたどってこられた道を取材しながら、障がい者のケアの問題は、実は私たちの人間観と密接に関わっていると思いました。
道を踏み外してしまった子どもたちの矯正教育に携わっておられた辻光文先生は、
「お役に立たなければ、生きている価値はありませんか?」
と、根源的な問いを投げかけ、子どもたちの魂を拝んでおられました。すると子どもたちのいのちが燦然(さんぜん)と輝きだし、素晴らしい成果が上がっていきました。
障がい者のケアの問題は“いのちを拝む”以外の何物でもありません。いや人間のいのちだけではなく、生きとし生けるものすべてのいのちを拝むことにほかなりません。そしてこれは日本文化の固有な形なのでした。改めて、障がい者のケアができることを感謝せずにはおれません。
私たちの周囲に目を凝らしてみると、いのち、いのち、いのちがふんだんに満ちあふれています。まるで“いのちの花園”のなかに生息しているようです。
小学生のころ、学校から連れられて観たドキュメンタリー映画に、『砂漠は生きている』というのがありました。水一滴もなくカラカラに干からびた死の世界の砂漠で生きのびているサボテンの開花を高速度カメラで映していて、子ども心にその美しさに酔いしれました。自分が住んでいる世界がそれほど美しい世界であるとはそれまで思いもしませんでした。
その美しい世界への恩返しの一つとして、障がい者へのケアがあると思います。私たちの世界はまだまだ“弱肉強食”の世界ですが、それは変わっていかなければなりません。その先鞭をつけてくれ、血が出るような努力をして道を開いてこられた樋口さんたちに心から敬意を表します。誰一人として見捨てられない持続可能な社会づくりに私も参加できることを心から感謝します。
写真=一輪の花が宇宙を表している