こたつに入っている水野源三さん

沈黙の響き (その92)

「沈黙の響き」(その92

瞬(まばた)きの詩人・水野源三さん

 

 

◇“いのちの母”の愛を称えた“瞬きの詩人”

障害を克服して何ごとかをなし遂げた人は、私たちに多くのことを語ってくれます。車イスのカメラマン田島隆宏さんと同じように大変なハンディを背負った人に、詩人の水野源三さんがいます。水野さんは9歳のとき赤痢にかかって脳性小児麻痺になり、視覚と聴覚以外のすべての機能を失ってしまいました。

お母さんは幼い源三さんと何とかコミュニケーションを取ろうと模索し、50音表を指さしました。するとお母さんの指が意図するところに来ると、目をしばたいて合図を送ってきたのです。

「あっ、源ちゃんが何か伝えようとしている!」

一字、そしてまた一字、だんだん言葉になっていきます。お母さんは懸命に描き留めました。ついに源三さんの気持ちが伝わりました。もう10歳になっていたから、文章を書くことができたのです。

「源ちゃん、よかったね。とうとう気持ちが通じるようになった!」

しゃべることも動くこともできない源三さんでしたが、18歳ごろから自分の気持ちを詩に表現するようになりました。彼のなかにみずみずしい感性が育っていたのです。たとえば詩「ありがとう」にこう表現しました。

 

ものが言えない私は

ありがとうのかわりに

ほほえむ

朝から何回も

ほほえむ

苦しいときも

悲しいときも

心から

ほほえむ

 

返事をすることができない源三さんは、その代わりに、にっこり微笑んでいたのです。それは誰もが魅了されてしまうほどで、こぼれるような笑顔でした。源三さんを無音の闇から導きだし、人々と意思が疎通できるようにしてくれたのはお母さんでした。お母さんは源三さんにとって文字通り“いのちの母”でした。だからお母さんについてたくさんの詩を書きました。

 

白い雲は

母の顔

笑った顔が

泣いた顔に変わり

雨となる

 

雨の音は

私のために

祈り続けてくれた

母の声

 

雨あがりの空は

私の重荷を

になってくれた

母の愛

 

人々は源三さんの詩に心を揺さぶられ、いつしか「瞬(まばた)きの詩人」と呼ぶようになりました。

 

消しても消しても決して消えない母の姿、涙、祈り

 

源三さんの瞬きを一字一字書き取って詩を書いてくれたお母さんは、文字通り源三さんの手でした。次の「まばたきでつづった詩」は、献身的な愛で支えてくれたお母さんへの慕情がほと走り出ています。

 

口も手足もきかなくなった私を

二十八年間も世話をしてくれた母

良い詩をつくれるようにと

四季の花を

咲かせてくれた母

まばたきでつづった詩を

ひとつ残らず

ノートに書いておいてくれた母

詩を書いてやれないのが

悲しいと言って

天国に召されていった母

 

朝、母が庭で落ち葉を掃いている音が聴こえてきます。そのうち、掃いた落ち葉を燃やしている煙と臭いがただよってきます。それもこれも母の思い出につながっていました。

 

今も夢の中で老眼鏡をかけ

書きつづけていてくれる母

 

どこからか落葉掃く音が

聞こえてくる

落葉を焚く煙と臭いが漂ってくる

こんな朝は

 

消しても消しても

決して消えない

母の姿が

母の涙が

母の祈りが

 

源三さんは母が自分にとってどれほど大きなものであったか、改めて知りました。

詩の最後に、

「消しても/消しても/決して消えない/母の姿が/母の涙が/母の祈りが」

 とリフレインされますが、消しても消しても消えない面影でした。無条件の愛を惜しみなく注いでくれたお母さんでしたが、晩年はガンで苦しみ、先に天国に召されていきました。

 この詩が収録された第一詩集『わが恵み汝に足れり』(アシュラム・センター)が発行されたのは、お母さんが天国に召される5日前の昭和50年(1975)2月、源三さんが38歳のときでした。残念ながらお母さんは源三さんの詩集を見ることなく、旅立っていかれたのでした。

こたつに入っている水野源三さん

水野源三詩集

水野源三さん 版画 

写真=こたつに入っている水野源三さん