「沈黙の響き(その113)」
孤児院開設に向けてGHQと交渉
神渡良平
◇煮え切らないサムス准将
澤田美喜さんの交渉の相手はGHQのマーカット経済科学局長、クロフォード・サムス公衆衛生福祉局長(翌年4月、軍医准将に昇格)、それに財閥解体の推進役である渉外局のウェルチ大佐などです。孤児院問題は公衆衛生福祉局長を務めていたクロフォード・F・サムス准将が管轄しており、マッカーサー元帥の絶大な信認を得ていました。
澤田美喜さんは日本の経済界を代表する三菱財閥の3代目当主久彌さんの令嬢で、創始者の祖父の血を引き継いでおり、「女彌太郎」と呼ばれていたほどに勝気で、全然気おくれなどしません。昭和22年(1947)2月、サムス准将に訴えました。
「大磯の岩崎家別荘を戦争孤児の施設として活用させていただけませんでしょうか? この子たちは日本の国籍を持っている日本国民です。私ども日本人が責任をもって子どもたちを育てます。どうぞあの別荘を使わせてください」
外交官夫人としてイギリスで活動していたころ、医師のバナードス先生が運営する孤児院に通って奉仕していたことを話しました。
「そこはとても孤児院とは思えないような、森の中の広い別荘でした。あれだったら収容される孤児も卑屈にはならないでしょう。私は大森にある旧岩崎家の別荘を活用して、そういうレベルの孤児院を始めたいのです。どうぞお力を貸してください」
ニューヨーク聖公会のウイリアム・チェーズ司祭の忠告を守って、混血孤児という言葉は使いませんでした。
「あの別荘は財産税として物納しているので、すでに日本政府の所有になっています。GHQの許可がなければ、払い下げてもらえません。旧敵国日本からの米国移民は禁止されており、ましてや戦争孤児の米国移民など許可されません。戦争孤児たちは日本で養育するしかないのです」
◇「米軍が引き揚げるとき、戦争孤児たちも連れて帰るおつもりですか?」
しかし、准将は言を左右にして、別荘の使用を承諾しません。そこで美喜さんはいささか皮肉を込めて言いました。
「それではもし准将が、米軍が進駐を終えて日本から引き揚げるとき、米兵を父とした子どもは全員連れて帰ると確約されるなら、私は大磯の別荘を活用することは諦めます。どうでしょうか? 確約されますか?」
米軍は引き揚げるとき、問題となっている混血孤児を連れて帰国するなどとは毛頭考えていません。小柄なサムス准将は返答に窮して話題を変えました。
「われわれ米国はこの6月に起きた福井地震の被災地にペニシリンやダイアジン軟膏を送って救済しているよ。われわれ公衆衛生福祉局がいかに日本人を救っているか、この例を見たら一目瞭然だ」
美喜さんはにんまりほほえんでお礼を言いました。
「福井地震の救援にすかさず動いてくださって、ありがとうございます。私も新聞やラジオで知って、とてもありがたく思っています。それで福井地震の救援でなさっていることを、この戦争孤児の救済でも行っていただけませんか?」
GHQから神奈川県庁や大磯町に圧力が掛かっていたのです。
「GHQは、混血孤児は全国に散らして、一か所に集めるなと言われているようですが、ほんとですか? 地方では混血児を施設に受け入れないところが多いのです。
私どもは孤児院を開設するとまだ決めていないのに、九州や北海道から大磯までわざわざ連れてこられます。やむなく預かるのですが、孤児院が開設できるかどうか、まだ不透明です。子どもたちは一度捨てられて悲しい目に遭っているのに、また捨てるなんてことは私にはとてもできません。ことは急を要しています。どうぞ、開設させてください」
美喜さんの押しの強さに、サムス准将はとうとう気分を害し、
(日本人の分際のくせして、この私に抗議するとは何たる不届き者だ!)
と言わんばかり、美喜さんに灰皿を投げつけようとしました。もしそうされたら美喜さんもハイヒールを脱いで投げ返そうと思いました。まさに土佐の異骨相(いごっそう)的反応です。
ところがそのとき館内に非常ベルが鳴り響きました。火災時における非常訓練を告げるベルです。准将も即刻、退去しなければならないので、緊張した空気ははぐらかされてしまい、喧嘩にならずにすみました。
それから数日して、澤田さんはまたサムス准将の部屋を訪れ、申し入れの結果がどうなっているか尋ねました。ところがスタッフは、
「その件についてはすでに日本政府に申し渡してある。追って連絡があるだろう」
と、返事するだけで要領を得ません。澤田さんがやむなく部屋を出ようとすると、准将の部屋の入り口の席に座っていた若い女性秘書が、澤田さんにそっと紙切れを渡してくれました。
◇若い女性秘書が渡してくれたメモ
澤田さんはそれを外套のポケットに入れてエレベーターで一階に降りると、日比谷の交差点の信号が青に変わるのが待ち遠しい思いで、帝国ホテルに駆け込みました。そして小さな紙切れを取り出して読むと、こう走り書きされていました。
(あなたのご計画どおりに進んでいます。来週中にははっきりした通告があるはずです)
澤田さんは胸の高鳴りをはっきり感じとることができるほど、興奮しました。そのときの様子を澤田さんは『母と子の絆――エリザベス・サンダース・ホームの30年』(PHP研究所)にこう書いています。
「冬期の航海の荒れ狂う波にただよう船が、かすかな灯台の灯を見たような思いとでもいえようか。今はじまろうとしている大仕事の上に、ひとすじの光がそそぎ、その前途を明るく照らしてくれたような気持ちであった」
次の週の終わりに、マッカーサーの司令部から、特令により日本政府が決めた価格で大磯の別荘を買い取ることができるという通知が届きました。しかし、所有権は岩崎家ではなく、日本聖公会にするようにとの指令です。財閥家は3代にわたって、別荘の所有は禁じられておりました。
GHQの指示を受けて日本政府は譲渡価格を400万円と提示し、そのうちの200万円を6か月以内に、残り200万円を3か月以内に支払うようにと命じました。敗戦直後の経済事情のなかで、そんな大金が即金で支払えるはずがありません。
写真=GHQに掛け合った澤田美喜さん