エリザベス・サンダース・ホーム正門

沈黙の響き (その114)

「沈黙の響き(その114)」

エリザベス・サンダースさんから寄贈された献金

神渡良平

 

 

◇不思議な人望を持つラッシュ教授

不思議なことは続くもので、澤田美喜さんがニューヨーク時代、ニューヨーク聖公会のチェーズ司祭と同じように、兄妹のように親しくしていたポール・ラッシュ教授も米軍少佐として来日したので、100万人の援軍を得たような気になりました。

 

ラッシュさんは大正14年(1925)、関東大震災ですっかり破壊された東京と横浜のYMCA(キリスト教青年会)会館を再建するために来日しました。美喜さんはそのころラッシュさんと知り合って親交を結ぶようになりました。ラッシュさんはその仕事を終えると立教大学の教育宣教師となり、同時に経済学教授として教壇に立ちました。

 

人づきあいがよくて仲間作りにたけたラッシュ教授は各大学で教えるアメリカ人やイギリス人の教授たちと「日本外国人教師連盟」をつくりました。また彼らに働きかけて、各大学にESS(イングリッシュ・スピーキング・ソサエティ)をつくって英語劇を行うなど、活動範囲は全国に広がっていきました。

 

ラッシュ教授のオーガナイザ―としての手腕はなかなかなもので、聖路加(せいルカ)病院のルドルフ・トイスラー院長の手助けもしました。トイスラー博士は明治33年(1900)、米国聖公会の医療ミッションとして日本に派遣され、築地の粗末な木造病院で医療活動をしていました。しかし一日も早く、現代医療設備が完備した米国式の病院を建てたいと念願していました。

そのために必要な資金はざっと計算しても265万ドル(現在の貨幣価値で130億円超)です。博士はそれをアメリカの市民や民間団体から集めようと、ラッシュ教授に声をかけました。

130億円という途方もない金額が集められるものかどうか、皆目わかりません。頼みの綱は米国聖公会です。このイギリス系のキリスト教団体は初代大統領ジョージ・ワシントンを初め、アメリカの上流階級に信徒が多いことが特徴です。初代駐日総領事のタウンゼント・ハリスも、進駐軍の総帥ダグラス・マッカーサー元帥、あるいは超富裕層のモルガン家も熱心な信徒でした。

 

昭和3年(1928)、トイスラー博士とラッシュ教授はエンパイアステートビルの36階にオフィスを構え、米国の政財界に寄付を呼びかけました。トイスラー博士の人脈は広く、3年間で予定額をほぼ達成し、これを資金にして、昭和8年(1933)、新しい聖路加国際病院が新たに開院しました。

 

日本に帰ってきたラッシュ教授は八ヶ岳の清里高原に、青少年を訓練するキャンプ場をつくる構想を立ち上げ、キープ会を設立して募金活動を始めました。そして清里のグラウンドでアメリカン・フットボールを教えました。そのため、後年ここがアメリカン・フットボールの殿堂と言われるようになりました。

 

◇エリザベス・サンダースさんから寄贈された献金

ところで日本政府から大磯の別荘を払い下げるという通知をもらった澤田さんは、400万円の金策に走りました。もちろん財産を処分し、欧米で買い求めた油絵や貴金属、外套などを売り払って当面の200万円を工面しました。

 

そのころ、三井家の子息の養育係(ガバネス)として働いていたイギリスの女性エリザベス・サンダースさんが76歳で他界しました。エリザベス・サンダースさんは大正の初めに一度英国に帰国しましたが、再度請われて来日し、再び三井家に仕えました。以来33年間、一度も祖国に帰ることなく働きました。

サンダースさんは日本での40年間の勤労で得た全財産170万ドル(約6億1200万円)を日本聖公会の社会福祉事業に遺贈したのです。

 

エリザベス・サンダースさんが遺贈した寄付金の活用を任されたのは、同じ英国人のルイス・ブッシュ早稲田大学教授でした。そのブッシュ教授の親友だったポール・ラッシュ教授が米軍の将校として再来日していました。ラッシュ教授は親友の澤田さんから、大磯の別荘を買い取って混血孤児を養育したいという構想を持っていると聞いていたので、ブッシュ教授に澤田さんがやろうとしている社会福祉事業に役立てたらどうかと進言したのです。

 

◇海外の友人たちに手紙を送って孤児院開設の寄付を募る

美喜さんは海外の友人たちに日夜ぶっ通しで5千通もの手紙を書き、戦争孤児たちの養育院を開きたいので、財政的な援助をしてくれるよう頼みました。美喜さんは不眠不休で手紙を書き続けたので、目は因幡(いなば)の白うさぎのように真っ赤な目になったといいます。

 

美喜さんはニューヨーク時代、ニューヨーク聖公会の日本部の委員長を務めるなど、交友範囲は広かった。それでも5千名もの宛先を知っていたとは思えません。おそらくラッシュ教授が聖路加病院の寄付に応じた団体や個人の宛先を教えたのではないかと思われます。

 

ラッシュ教授のアドバイスはとてもきめ細かく、

「募金を依頼するにはただ印刷物を送るのではなく、1枚1枚タイプして、心を込めて丁寧にサインを入れること。それに記念切手を集めておいて使うこと」

などと伝授したようです。

 

美喜さんの訴えに応えて、海外からの義援金は1万5千ドル(当時の金で約540万円)に達し、第一の関門を突破できました。しかし、海外からの送金を管理していた人が着服して使い込んでいたことが発覚し、善意が踏みにじられたこともありました。世情が混乱していたこともあって、船出は容易ではありませんでした。

美喜さんは買い取り資金の残りの200万円を、カリフォルニアで成功した日系二世の実業家から1か月1割という高利で、しかも米ドルで支払うという法外な金利で借り受けました。

 

日本聖公会はブッシュ教授の進言を入れて、サンダースさんの献金をそっくり澤田さんに贈り、孤児院開設の一助としました。澤田さんはサンダースさんの遺志に感激し、彼女の名前を冠して、施設をエリザベス・サンダース・ホームと命名しました。

 

ホームの発起人には聖公会関係者のほかに、ダグラス・オーバートン横浜副領事などの名前も入っています。ポール・ラッシュ教授をはじめ、彼の人脈がずらりと並んでいます。そういう人々を動かす力があるというのも、美喜さんならではです。彼女でなければ、GHQや日本政府を動かして、ホームを設立することはできなかったでしょう。

設立は昭和23年(194821日、澤田さんが46歳のときでした。

エリザベス・サンダース・ホーム正門 

写真=大磯駅のすぐそばにあるエリザベス・サンダース・ホームの入り口