「沈黙の響き(117)」
NHK・WEB特集「“敵兵の子”と呼ばれて――わが子を手放した母たちの手紙
」
神渡良平
エリザベス・サンダース・ホームと澤田美喜さんのことを連載しているうち、NHKが8月26日、WEB特集で「“敵兵の子”と呼ばれて――わが子を手放した母たちの手紙
」を社会部記者の小林さやかさんが報告しました。戦後77年を経ているにもかかわらず、当事者たちの証言は当時のことを伝えています。そこで前後2回にわたって、その内容をお伝えします。
◇エリザベス・サンダース・ホームに通じる暗いトンネル
大磯のエリザベス・サンダース・ホームに通じる暗いトンネルの入り口に、幼い男の子を置いて立ち去る母親……。泣いて追いかける子どもの声がそのトンネルに響く。
でも、若い母親は耳を覆うようにして駆け去り、振り返ることはありませんでした。引き裂かれたその母親の気持ちを表すかのように、両頬は涙でぐしょぐしょに濡れていました。
終戦直後、日本人の女性と米兵などとの間に生まれた子どもたちに幾多の悲劇がくり返されました。私たちの国が否定しても否定し去ることができない負の遺産です。
今年、その母親たちが澤田美喜さんに宛てて書いた19通の手紙が発見され、NHKのWEB特集が放映されました。あの子たちはなぜ母のもとで育つことができなかったのか――戦後77年を生き抜いた卒園生の証言です。
エリザベス・サンダース・ホームに通じる暗いトンネルの入り口に立って、当時のことを語るのは、今年75歳になったホーム1期生の東谷米子さんです。
「お母さんが3歳くらいの男の子を置いて、逃げるんです。そしたらトンネルの入り口を、
ママー! ママ-!
って呼んで、追いかけるんだよ。泣いて、泣いてね。
でも、お母さんは振り返らずに、トンネルの中を駆け抜けて行く。
それを私は見てたの。毎日、毎日、同じことが繰り返されていた――」
涙なしには聞けない証言です。エリザベス・サンダース・ホームには悲しい話がいっぱい詰まっていました。
トンネルの先にある「エリザベス・サンダース・ホーム」は、戦後、日本の女性と米兵など外国人兵士との間に生まれた子どもたちを養育するため、三菱財閥の創始者である岩崎彌太郎の孫、澤田美喜さんが私財を投げだしてつくった孤児院です。
当時、子どもたちは“敵兵の子”などと呼ばれて差別されていました。昭和23年(1948)に最初の子どもを受け入れて以来、昭和55年(1980)、79歳で亡くなるまで、30年余りの間におよそ2000人を養育しました。今は一般的な児童養護施設として運営されているホームには、当時の資料が残されています。
その中からホームに子どもを預けた母親などが澤田美喜さんに寄せた19通の手紙が見つかりました。それぞれの手紙に母親たちは心の内を吐露していました。その手紙の一つは米兵とのことをこう訴えています。
「結婚するつもりだったその人は、今アメリカの本国へ帰ったまま何の便りもありません。それに最後に逢ったときは、誰れの子かわからないから養育費も出せないなどと言います。そんな! そう聞いて身が張り裂けるようでした」
恋人の米兵を米国に送り出すまで、さまざまな修羅場があったろうことがうかがえます。
「主人に捨てられ、職もなし、お金もない今、〇〇〇(子どもの名前)を抱えていたら、私はどんなにじりじりと心を乱して、飢え死にするだけです……」
明らかに生活苦からエリザベス・サンダース・ホームを頼ってきたようです。しかし信じられないような悲劇に襲われて女性もありました。
「私は池袋駅西口で進駐軍兵士2名にピストルで脅されて強姦され、妊娠し、この子を出産しました……」
大陸からの引き揚げる途中、強姦された女性、外国人兵士と恋愛関係になった女性、体を売って生計をたてた女性……手紙には母親たちが抱えた苦難が書き綴られていました。さまざまな事情の中で外国人兵士の子どもを宿し、多くの外国人兵士は女性と子どもを残して、本国に帰国するか、次の勤務地の朝鮮へ移っていきました。
当時の米国の移民法は戦地で産んだ赤ちゃんは連れて帰れませんでした。だから出産した赤ちゃんを街に遺棄されることも相次ぎました。それに残された赤ちゃんにも“敵兵の子”として社会から冷たい視線がつきまといました。
今回発見された手紙にも、母親たちが差別から子どもを守ろうとする思いが綴られていました。
「『アメリカ』『日本』など子ども同士の戦争さながらの姿を目のあたりに見て、本当に耐えられないのです。友達に
“あいの子”とさげすまされ、解せない顔で私に、あの子がこう言ったと泣いて訴えます。私は可愛くて手離すことができず、かといって手元に置いてはこれからも友達にからかわれます」
差別される子どもを抱えて苦しんでいるようすが伝わってきます。
◇「誰も遊んでくれなかった」
エリザベス・サンダース・ホームで育った1期生の黒田俊隆さん(75歳)は、米兵の父親との間に生まれました。幼い頃、母親に連れられてホームに来たことを覚えているそうです。
「ホームに連れてこられ、これからホームの人と話をするからここにいてと言われたんです。でも俺はうかつにもベッドで寝てしまった。目が覚めたときお袋はもういなかった。お袋に捨てられたと思った。それが一番最初の記憶で、当時はそういう風に解釈していたよ」
6歳になり小学校進学を控えたころ、黒田さんたちのような米兵などとの間に生まれた子どもを、地域の小学校が受け入れるべきかどうかという議論が巻き起こりました。
昭和28年(1953)、厚生省が初めて行った実態調査で、「誰も遊んでくれない」という回答が一定数あり、厚生省は「一般児童と差別されないよう、すべての児童と平等に育てるべきだ」といった通知を出しました。それを受けて文部省は一般の小学校で受け入れる方針を定めたのです。
しかし、地域の記録に「日本人の親の感情的抵抗が相当ある」と記されるなど、実際には受け入れを好ましく思わない声も上がったようです。黒田さんはその間の事情を語ります。
「あとから聞いた話だけど、俺たちが小学校に入学することを反対したらしい。俺たちが“混血児”だからだ。俺たちは誰も遊んでくれなかった。俺たちは町からも虐待されたんだ。木で叩かれたり、石を投げられたりしたんだよ」
澤田美喜さんはそうした子どもたちを守ろうと、ホームの中に聖ステパノ学園小学校をつくり、外の社会と切り離して育てました。だから黒田さんは、ホームは“楽園”のようだったと語ります。
「俺たちは、血は一切つながっていないけど、家族なんだ。あそこで育って、同じ教育を受けた兄弟で、その上にママちゃま(澤田美喜)がいた。
ママちゃまは俺たちにとってはお袋なんだ。自分が“混血”だとか、日本人だとか全然考えなかった。ホームの中は楽しかった」
今もホームの卒園生が大磯の駅前で喫茶店を開いています。いつまでもそばにいたいというのです。だから今でも同窓会が開かれています。
写真=エリザベス・サンダース・ホームの入り口にある黒いトンネル
母親たちが寄せた手紙