波乱万丈の人生だったと語る

沈黙の響き (その118)

「沈黙の響き(その118)」

自分を捨てた母を赦した東谷米子さん

神渡良平

 

◇就職でも社会から拒まれ、
アマゾンへ渡った

中学校を卒業して社会に出ると、黒田俊隆さんは就職差別という壁に直面しました。そこで澤田美喜さんはホームの卒園生たちを新天地ブラジルで農場を開拓させようと考え、5ヘクタール(東京ドーム約一個分)もの土地を入手しました。黒田さんはその第1陣としてブラジル・アマゾンに移民したのです。日本に未練はありませんでした。

 

三菱から耕作機械を提供され、美喜さんも毎年訪れ、将来はここに移住しようと考え、国籍まで取得しました。しかしアマゾンの開拓は容易ではありませんでした。黒田さんたちは10年以上奮闘したものの、アマゾン開拓の夢は破れ、ついに断念しました。

黒田さんは帰国して再出発を余儀なくされました。ようやく看護師の資格を取得し、自分のように理不尽な差別を受ける人を支えたいと思い、岩手県の精神病院で定年まで勤めました。

 

今回見つかった母たちの手紙から、黒田さんは感じたことがありました。

「お袋が産んでくれたから今の俺がいる。それは絶対間違いない。そしてホームで育てられたから、今の俺がいるんだ。

産み捨てるっていう言葉は嫌いだけど、手紙を読むと、母親たちは産み捨てるような状況じゃなかったんだ。万策尽きて、子どもをホームに預けざるを得なかった。親が悪いんじゃないんだよ。

 戦争があったから俺たちが生まれているわけであって、憤りをぶつけるとしたら戦争だ。戦争自体がダメなんだ」

 黒田さんの75年の人生に裏打ちされた言葉は重たく響きます。

 

◇付きまとう“差別”感情に苦しんで

もう一人のホーム出身者の東谷米子さんはホーム卒業後間もなくして、日本人の男性と結婚し、3人の子どもに恵まれたものの、苦労の連続でした。ホームにいたころに所得したマッサージ師の資格を頼りに、昼も夜も必死で働きました。自分と同じ思いをさせまいと懸命に子育てをしましたが、自分の子どもたちもまた混血児と言っていじめられました。

「小学校に入るとき、子どもに何でいじめられるのか説明しました。日本とアメリカの戦争で、おじいちゃん、おばあちゃんの息子が兵隊にとられて戦死されたかもしれない。そのおばあちゃんにとってアメリカは憎き敵国になる。その腹いせが、米兵との混血児のお前に向かっている。お前はそういう歴史を背負って生きているんだから耐えなきゃいけない」

 いたいけない子どもに、いじめられる理由を話さなければならないとは酷な話です。それとともに、米子さんはホームでの楽しかった体験談を語りました。

「お母さんはエリザベス・サンダース・ホームで、いい人たちに育てられたんだ。でもあんたたちは町の普通の小学校の800人の生徒の中へ、きょうだいだけで入っていかなければならない。だからいじめられるもんだって思いなさい。お前たちは責められる必要は全くないけど、これも宿命だから受けるしかない」

 

母親に会いたいの一念で……

米子さんは、同級生がまぶたの母に会いに行き、傷付いて帰ってくる姿を何度も見てきました。

「みんな大人になってから、ホームの同級生や後輩たちがお母さんを探したいって言いだすんです。私はやめなさい、訪ねていったら、あんたは2度殺されるよって言いました。1回目はホームに連れてこられ、捨てられて殺された。2度目は会いに行って邪険にされ、また殺される。

今さらお母さんに会いたいなんて言って訪ねていって、お母さんがあんたを抱きしめてくれると思うの?

 

お母さんはあんたをホームに置き去りにしてきたという後ろめたさがあるから、邪険にするわけにはいかないけれども、あまり慕ってもらっても困るんだよ。向こうには家庭があるし、過去を暴き立てられたくないという思いもある。それが現実だよ。だから遠くから見ているだけにしなと言いました。

でもね、生みの母に会いたい一心で訪ねていって、深く傷ついて帰ってくるんだ。いたたまれないたりゃありゃしない」

そう言って米子さんは目頭を押さえました。

 

◇私の母は私を抱いて、屋上から飛び降りようとしたそうです

 そう述懐する米子さんは生みの母についてこんな体験をしたそうです。

「私は自分からは母親に会いに行かないと決めていました。ところが大人になって偶然、母親の所在がわかり、自分の出生の事情を知ったんです」

 

米子さんの母親は、戦後、今のソウルから日本に命からがら引き揚げてくる途中、護衛として派遣された米兵と親しくなり、日本に到着したときにはすでに妊娠7か月になっていました。母親の家族は、出産後すぐに米子さん母子を引き離し、施設に入れることにしました。施設の人が迎えに来る前の日、母親は米子さんを抱えて病院の屋上から飛び降りようとしたそうです。

 

「それを知って、私はお母さんがかわいそうだなと思いました。私なら発狂しちゃう。子どもは絶対離したくない。でもあの時代、子どもを育てて行くことがどれくらい大変だったか。育てたくてもできなかったというのが実際です。子どもを手放したくて手放したわけじゃないんだ。非情な母親ばかりじゃない」

 米子さんは母親が自分を抱いて飛び降り自殺をしようとしてことを知り、母に同情し、母親を赦しました。

夫を看取ったあと、米子さんは今年、ひとり大磯町に引っ越してきて、マッサージ店を開業しました。残りの人生を、育ったホームのそばで過ごしたいというのです。

 

◇不朽の名著『母をたずねて三千里』

かつてイタリアのエドモンド・デ・アミーチスが書いた『母をたずねて三千里』(青空文庫)という物語がありました。アルゼンチン共和国の首都ブエノス・アイレスに出稼ぎに行ったまま、音信不通になった母アンナを尋ねて、息子のマルコがイタリア・ジェノヴァからアルゼンチンへ渡る冒険の旅を描いた物語です。

 

 旅の途中、マルコは何度も危機に陥りましたが、そこで出会った人々に助けられ、大きく成長していく物語でした。この物語はフジテレビでもアニメ化され、多くの人に感銘を与えたので、ご記憶に残っている方も多いかと思います。子が母を慕う話は永遠不滅です。母と子の絆はそれほど深いのです。

 

今回見つかった母親たちが寄せた手紙から米子さんが思うのは、今も世界で起きている戦争とそこで生まれ育つ子どもたちのことです。

「ひとたび戦争が起きたら、自分たちのように敵対する関係の中で子どもが生まれます。すると同じように差別が繰り返されます。今の時代にそんなことは起こらないと思うかも知れないけれど、戦争は絶対になくなりません。戦争だけはしてほしくない」

“敵兵の子”とレッテルを貼られ、戦後77年を生き抜いた米子さんは平和への願いを切々と訴えました。

波乱万丈の人生だったと語る

ありし日を語る東谷米子さん

写真=思い出を語る黒田俊隆さん

母を恋い慕う仲間たちを支えた東谷米子さん