エリザベス・サンダース・ホーム1

沈黙の響き (その120)

「沈黙の響き(その120)」

家庭を犠牲にして運営されたエリザベス・サンダース・ホーム

神渡良平

 

 

◇母を求める子どもの思い

 令和4919日の産経新聞の「朝晴れエッセー」に、埼玉県富士見市の岡彩弥(あやね)さんの「特別な日」という手記が載りました。その手記は、子どもが母を求める思いがどんなに切実なものであるか、教えてくれました。

「私にとってお母さんと2人っきりでお出かけすることは特別なことです。なぜなら私には姉と妹がいて、お母さんと2人きりになることが少ないからです」

おやおや、どんなことを書いているのだろうと、私はその手記を読みすすみました。

「昔は姉が小学校に行っている間に2人きりで出かけることができましたが、私が幼稚園の年中組のときに妹が生まれて、そういうことが少なくなってしまいました。

 その当時、実は本当に悲しかったのですが、私はがまんすることができました。理由は、私は小さい子のお世話が好きだからです。

 今は妹も幼稚園生になり、小学校の振り替え休日に、またお母さんと2人でお出かけできるようになり、とてもうれしいです」

 ほう、お母さんと2人っきりでお出かけできることがそんなにうれしいの! と正直驚きました。お母さんとは毎日いっしょなのに、お母さんと2人きりになり、独占できることがよほど嬉しかったようです。彩弥さんの手記は続きます。

「お母さんと2人きりのときは、ふだん家では話せないことや、2人だけのひみつのことを話したり、ゆっくりごはんを食べて、映画を見たり、のんびりお買い物することができます。

 お母さんも私と2人でごはんを食べているとき、“幸せだね”と言ってくれるので、私もとっても幸せな気持ちになります」

 なるほど、お母さんが自分に注いでくれている愛情を確認できるから、とっても幸せな気分になるんだ。

「お母さん、運動会や行事のときに、朝早く起きて、お弁当を作ってくれたり、家のことをたくさんしてくれてありがとう。

 来年は妹が小学生になるので、休みの日もいっしょになることから、またお母さんと2人きりでお出かけができなくなってしまいます。私はここに書ききれないくらい、お母さんのことが大好きなので、これからもたまにはいっしょにお出かけしてください」

 小学校2年の女の子の中に、こんな思いがあったのかと知り、目頭がちょっとウルウルしました。子どもが母を求める思いには切ないほどのものがあったのです。

 

◇「私たちとホームの子どもたちとどっちが大切なの?」

 そしてはっと気づかされました。いま連載している澤田美喜さんの3人目のお子さんで

長女の美恵子さんがお母さんに食ってかかったことがありました。

「ママ、私たちとホームの子どもたちとどっちが大切なの?」

 おそらくそれは、先に引用した彩弥さんの手記が暗喩しているように、美恵子さんの必死の叫びだったに違いなく、もっとも核心を突いた声でした。

そう詰問されて美喜さんは狼狽しました。面と向かって問い正してほしくないことだったに違いありません。

次の瞬間、美喜さんは恵美子さんの頬をはたきました。お母さんにはたかれて、恵美子さんは部屋に駆けこんで泣きじゃくりました。はたいた美喜さん自身呆然自失したまま、そこに立ち尽くしました。

そこでようやく私は、美喜さんがエリザベス・サンダース・ホームを運営していく陰には、家庭を犠牲にしているという痛みがあったのだと思い至り、厳粛な気持ちになりました。

(あれはただの慈善事業ではなかったのだ。戦争の落とし子として混血孤児たちが生み落とされ、誰も世話する者もなく路傍に打ち捨てられているのを見たとき、美喜さんは、

「この子たちを打ち捨てては、戦後処理は終わらない。ならば私がそれを背負って立とう」

 と、決意したに違いありません。

しかし、夫は国を代表するような外交官であり、家庭には育ち盛りの3人の子どもたちがいます。そこに戦争孤児たちを世話する事業を加えることは尋常一様なことではありません。どれかを犠牲にしなければならないと思い、美喜さんは家庭を捧げようと思ったに違いありません。お嬢さんが泣きながら、

「私たちとホームの子どもたちとどっちが大切なの?」

 と迫ったとき、思わずお嬢さんの頬をはってしまいましたが、あのあと美喜さんは礼拝堂に駆けこんで、

(ごめんなさい、恵美子。お母さんをゆるして。エリザベス・サンダース・ホームを開き、混血孤児たちの養育と始めた以上、もう投げだすわけにはいかないの)

と、泣いて詫びたに違いありません。そんな涙があったからこそ、ホームは荒波にも何とか耐えて維持され、多くの子どもたちを育て上げ、巣立っていったのです……。

 私は、いまは主なき大磯のエリザベス・サンダース・ホームにたたずんで、そこここに涙の痕がしみ込んでいると知りました。

エリザベス・サンダース・ホーム1

写真=エリザベス・サンダース・ホーム