海鳥

沈黙の響き (その137)

「沈黙の響き (その137)」

婚約のその日に発病

神渡良平

 

 

綾子さんは虚無的になっていたものの、元々才気煥発で新進の気鋭に富む女性だったので、2人の青年から結婚の申し込みがありました。1人はグライダーの教官、もう1人は海軍から帰還した青年です。綾子さんは昭和211946)4月、後者の西中一郎さんと婚約しました。ところがその西中さんから結納が届く日、貧血を起こして気を失ってしまったのです。

 

堀田さんが暗い淵に引き込まれ、こんこんと眠っている間に、結納を持ってきた西中さんの兄は帰ってしまい、水引きをかけた結納の袋がむなしく床の間に飾られたままになっていました。

かつて一度も貧血を起こしたことがないのに、どうしたんだろうと不吉な予感に襲われました。1週間寝込んだが微熱は去りません。診察した保健所長は肺浸潤と診断し、即刻入院となりました。

 

当時、医者は患者を気づかって、肺結核でも肺浸潤と告げるのが常でした。だから堀田さんは、とうとう肺結核になってしまった! と落ち込みました。落胆すると同時に、

(ざまあ見ろ! いい気味だ。自業自得だわ)

 と、自嘲する気持ちもありました。

 

(誤った教育をした罪や、重複して婚約をしたことなど、もろもろの罪の償いをするのだ。それらがなかったかのように口を拭ったまま、無事結婚できるはずがない……)

 投げやりになっていた堀田さんは2人の人と婚約してしまったのです。教師という社会的責任が伴う生活を捨て、家庭の中に逃げ込もうと思っていたので、好きだから結婚するというよりも、社会的責任から逃避するための結婚だったのです。

 

だから申し込まれるとあいまいに返事し、ついダブってしまったのです。自分が投げやりになっているだけならまだしも、人を巻き込み、相手を傷つけてしまいました。綾子さん自身、不誠実な自分に傷ついていました。

 

 ところが婚約した西中さんは本気でした。知床半島の付け根、オホーツク海に面した斜里(しゃり)町から十数時間も汽車に揺られて、旭川まで見舞いに来てくれました。あるときは療養に使ってほしいと給料を全額差し出し、あるときは、肺結核患者は栄養をつけなければいけないと、肉や筋子(すじこ)を持って見舞ってくれました。

 

結納金を返して婚約を解消

 

でも肺結核になった以上、結婚するわけにはいきません。相手に重荷を負わせてしまいます。堀田さんは西中さんとの結婚を断念し、西中さんが住む道東の斜里町まで結納金を返しに行きました。

 

西中一郎さんの家に着くと、彼はびっくりして堀田さんを迎えました。二人きりで海岸端の砂山に登り、堀田さんは切り出しました。

「長いこと、心配かけてごめんなさい。わたし、結納金を返しに来たの」

 西中さんは彫りの深い美しい横顔を潮風にさらしながら黙っていました。だがしばらくして、静かに言いました。

 

「ぼくは綾ちゃんと結婚するつもりで、その費用にと思って、十万円貯めたんだ。綾ちゃんと結婚できなければ、もうそのお金に用はない。結納金の十万円も綾ちゃんに上げるから、持って帰ってくれないか」

 彼はそう言って、じっと海の方を眺めていました。

 

「向こうに見えるのが知床だよ。ゴメが飛んでいるだろう」

 そう言ったとき、西中さんの頬を涙がひとすじ、つつーっと流れました。

はるか右手に白い雲がたなびいている知床半島が見えました。オホーツクの海を眺めながら、カゴメが気持ちよさそうに滑空していました。西中さんは普通では考えられないほど広やかな愛情を持っていて、婚約を破棄した堀田さんを責めることはありませんでした。

 

入水自殺を図る 

 

22歳の乙女にとって、結納金を返すことは死んでお詫びすることを意味していました。だからその夜綾子さんは入水自殺してお詫びしようとしました。

 

時計が12時を打ちました。堀田さんはその音を、1つ2つと数えていました。数え終ると静かに起き上がり、そっとレインコートを羽織りました。田舎なので、玄関に錠を下ろしていません。堀田さんは靴を履いて、そろそろと玄関の戸を開けました。その戸を閉めて空を仰ぐと、星明りさえない真っ暗な夜でした。風が堀田さんの髪を乱し、はるか下の方から潮騒が聞こえました。

 

 家を出るとすぐ横の坂を、1歩1歩踏みしめるように下って行きました。やがて石がごろごろと転がっている歩きにくい浜に出ました。大きな軽石でした。その軽石に足を取られながら歩きなずんでいると、目の前に真っ暗な海がごうごうと音を立てていました。

 

何も見えません。真っ暗な海の匂いがし、潮騒の音だけが騒いでいました。1歩行ってはハイヒールが石に取られ、2歩行っては体がつんのめり、体を支えるのがやっとです。すぐそこの目の前の海にたどりつくのに、時間がかかり過ぎました。

 

波が堀田さんの足を冷たく洗ったとき、懐中電灯の光が一閃、海を照らしました。白いしぶきが目の前で躍ったかと思うと、堀田さんは男の手にしっかりと肩をつかまえられました。西中さんでした。西中さんは黙って堀田さんに背を向け、堀田さんを背負いました。

 

すると堀田さんの体から不意に死に神が離れたようで、堀田さんは素直に西中さんの肩に手をかけました。堀田さんはまるで何事もなかったように、

「海を見たかったの……」

とつぶやきました。

 

西中さんは堀田さんを背負ったまま、懐中電灯で足元を照らしながら、砂浜を黙って登って行きました。しばらくして砂山に登ると、

「ここからでも海は見えるよ」

 と言って、堀田さんを砂の上におろしました。二人は砂山に腰をおろしたまま、見えない真っ暗な海を眺めました。

「駅の方に行ったのかと思って、先に駅の方に走っていったんだよ」

 西中さんはぽつりとそう言いました。何事もなかったように、あとは何も語りませんでした。暗い海が何もかも吞み込んでくれたようで、風だけが激しく吹いていました。

 

 西中さんは綾子さんを身投げから救いました。それによって死に神は去り、再び生きていこうと思い直しました。しかし綾子さんは精神的支柱を失っていたので、なおもさすらいは続きました。その発病がその後13年間も続く闘病生活の始まりだとは、誰も知りませんでした。

海鳥

写真=高く低く滑空するカモメ