黄色いバラ

沈黙の響き (その141)

「沈黙の響き その141

信仰のお手本、西村久蔵社長

神渡良平

堀田綾子さんが札幌医大病院に入院していたとき、洗礼を受けるときも参加して祈ってくださった「洋生(ようなま)の店ニシムラ」の西村久蔵社長が見舞いにやってきました。社長がお見舞い品を渡そうとすると、綾子さんは辞退して言いました。

 

「わたしは長い療養中の身なので、人様からいつもお見舞いをもらうのを当たり前に思うようになりました。でも人様からものをもらうのに馴れると、人間が卑しくなります。どうぞお見舞いの品はご心配くださらないようにお願いします」

 

 西村社長は大きな声で磊落(らいらく)に笑い、

「ハイハイわかりました。でもねえ綾子さん、あなたは毎日太陽の光を受けるのに、今日はこの角度から受けようとか、あちらの角度から受けようかしらと、しゃちこばって受けますか? そんな生き方って窮屈ですよね」

と軽く受け流されました。ごく自然体の西村社長の対応に綾子さんは自分のしゃちこばった生き方が恥ずかしくなりました。

 

「ところであなたは札幌に、親戚のように甘えることができる人がいますか?」

「いえ、札幌には誰も知っている人はいません」

「だったらわたしを親戚と思って甘えてください。何でもお世話します」

 

そして次に見舞いに来たときは、あろうことか綾子さんの(たん)が入った汚い痰壷を洗ったのです。何十人もの従業員を使って洋菓子やパンを製造し、全道に販売している社長さんとは思えないほど腰の低い人でした。

 

あるときは奥さまが作られた手料理を鍋に入れて、9丁ほど離れた自宅から運んでこられました。3人部屋に入っているときは3人分、6人部屋のときは6人分が入った鍋でした。その細やかさには驚くばかりです。

 

独りで肺結核患者の埋葬をやった西村さん

 

イエスに仕える人は、あああるべきだ、こうあるべきだと能書きを垂れる人ではなく、額に汗して即実践する人で、人知れず行うことをよしとしました。

あるとき、北海道の(みす)(まい)結核療養所で命を終えた薄幸の女性がありました。その人の夫も同じ療養所で病にふけっていました。この人には身寄りがなかったのか、あるいは親類縁者揃って結核恐怖症だったのか、葬式を出してくれる人がありませんでした。だから葬式を頼む人がいなくて困っていました。

 

しかし、風の頼りに西村社長なら引き受けてくれるかもしれないと聞いたので、その情けにすがりました。西村社長は心臓の持病を持っていて、普通の人の4分の1しか働いていません。肉体労働は辛いのですが、依頼を聞いた西村社長は快く引き受けてその亡骸(なきがら)をソリに乗せ、かなりな距離の雪道を1人火葬場まで運んでいって荼毘(だび)に伏しました。

 

西村社長にしてみれば、みんなが恐れる肺結核患者の遺骸の埋葬なので、病気がうつるといけないからと気を遣い、1人で荼毘に伏したのでした。それを聞きつけた従業員や教会の後輩たちが、どうしてわたしたちに手伝えとおっしゃってくださらなかったんですか と、抗議しました。

 

そのころ、伝染病の肺結核がどれほど恐れられていたかを伝える逸話があります。本州のある地方では、肺結核になった人は山の中に床下の高い小屋を造ってそこに入れ、ふもとから食事を運んで看病していました。なぜ床下の高い小屋かというと、患者が死ぬと、床下に薪を積み、小屋もろとも死骸を焼くためです。肺結核はそれほど恐れられていたのです。だから西村社長は従業員に肺結核患者の葬式を手伝ってほしいとは言えなかったのです。頼めばみんなやってくれたでしょうが、みんなを危険に晒したくなかったので、一人で行ったのでした。

 

 誰よりも身を粉にして働くというのが西村社長の信条でした。親に先立たれた子どもたちを何人も引き取って育てておられました。西村社長のそういう生活を見て、それまでクリスチャンに何となく疑いを抱いていた綾子さんは、考えを改めなければと思いました。

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