「沈黙の響き(その142)」
前川正さんの死
神渡良平
束の間の愛と不安
綾子さんにようやく精神的な春がやってきました。前川さんに愛され、自分も前川さんを愛し、2人きりで会って話しすることはとても楽しかったでした。しかしその幸福感は、2人ともそう長くは生きられないのではという暗黙の予感に裏打ちされていました。束の間の幸せは不安を伴なっていました。
ある日病室を見舞った前川さんが、いつもはさわやかなものを感じさせるのに、何か気分が優れないようでした。怪訝(けげん)に思った綾子さんは率直に問いました。
「正さん、あなたはどこかお悪いんじゃないの」
前川さんは淋しい微笑を見せ、
「やっぱり綾ちゃんにはわかるんですかね。心配させるといけないからと思って、父にも母にも言わないんですけど……実はこのごろ、時々血痰(けったん)が出るんです」
堀田さんは自分の顔から血の気がすーっと引いていくのを感じました。血痰が出るとは、明らかに手術の失敗を物語っています。8本もの肋骨を切除してもなお、前川さんの胸の空洞は潰れなかったのです。堀田さんは思わず涙ぐみました。彼が一人その事実に耐えている気持ちが、手に取るようにわかったからです。
綾子さんは直感が当たったので、うろたえました。
その後、前川さんから来る手紙の文字は、かつては流麗だったのに、ぎこちないカタカナに変わり、ついにはひどく乱れた字になりました。そして昭和29年(1954)、綾子さんが32歳のとき、天に召されていきました。綾子さんは自叙伝にその夜のことをこう書き綴っています。
〈――夜も更けて、やっとわたしは前川さんの死を現実として肌に感じ取りました。毎夜9時には、わたしは祈ることにしており、そして必ず前川さんの病気が1日も早く治るようにと、熱い祈りを捧げていました。しかし今夜から、彼の病気の快癒をもう祈ることはないのだと思うと、わたしは声を上げて泣かずにはいられませんでした。
堰(せき)を切った涙は容易に止まりませんでした。ギプスベッドに仰臥したままの姿勢で泣いているので、涙は耳に流れ、耳の後ろの髪を濡らしました。ギプスベッドに縛られているわたしには、身もだえして泣くということすら許されなかったのです。悲しみのあまり、歩き回ることもできませんでした。ただ天井に顔を向けたまま、泣くだけでした〉
綾子さんは再び虚無の中に突き落とされてしまいました。しかしクリスチャンとして、有限な世界を超えた悠久な世界の手ごたえを感じつつあったので、もう底なし沼に落ち込むということはありませんでした。
写真=大自然の夕暮れ