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原爆死没者慰霊碑の碑文

沈黙の響き (その64)

「沈黙の響き(その64)」

頭を傾げてしまう原爆慰霊碑の碑文

 

 

≪謝るべきは日本なのか?≫

ところで話は再び、今年の原爆慰霊式典のことに戻ります。NHKテレビにハニワ型の原爆記念碑に刻まれている碑文「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」が映しだされました。碑文には主語が書かれていないので、普通に読めば、「安らかに眠ってください。私たちは無謀な戦争を起こしたことを反省し、二度と過ちはくり返しませんから」となります。

 

前後の文意を補足すると、「日本は残虐な戦争を始め、その報復として米国は原爆を投下し、戦争を終結させました。失敗の元凶は日本です」となります。原爆被害をもたらしたのは、米国ではなく日本だと断罪しています。

果たしてそうなのでしょうか? 私はとても違和感を覚えます。

 

太平洋戦争終結のあと、GHQ(連合国最高司令官総司令部)は、太平洋戦争後の日本を占領・管理し、原爆取材には徹底した報道管制を敷き、新聞雑誌には原爆関連の情報は一切公表させませんでした。

いやそれ以前に、米軍が日本に対して行った非戦闘員(一般国民)に対する無差別絨毯(じゅうたん)爆撃は明らかな戦時国際法違反だと非難しました。にもかかわらず、米軍は絨毯爆撃を強行し、約300万人の日本国民を殺戮(さつりく)したのです。

 

それを蒸し返されるのを恐れて、「日本は残虐な戦争を始め、その報復として米国はやむなく原爆を投下し、戦争を終結させたのだ」と強弁し、東京裁判も一貫して日本悪玉論で推し進め、無謀にも戦争首謀者として7名を特定して処刑し、横浜の久保山火葬場で荼毘に付しました。しかもその粉骨灰は、犠牲者の墓が建てられて人々が慰霊碑に詣でることがないようにしようという意図から、太平洋にばらまく計画でした。涙も出ないような仕打ちです。

 

その計画を察知した三文字正平弁護士(極東軍事裁判で小磯国昭陸軍大将・首相の弁論人)や市川伊雄(いゆう)興禅寺住職、飛田善美久保山火葬場長は、久保山火葬場から骨壺一杯分の遺骨灰を盗み出し、興亜観音に隠しました。

 

この遺骨灰を昭和34年(19594月、吉田茂元首相が揮毫して「七士廟」が建立され、次いで翌年、三河湾を望む風光明媚な愛知県西尾市の三ヶ根山に岸信介元首相の揮毫で「殉国七士廟」が建立されました。

 

同地はA級戦犯の刑死者7柱に加え、BC級戦犯刑死者901柱、それに収容中に病死、自決、事故死、死因不明で亡くなったABC級戦犯160柱を合わせ、計1068柱が供養され、「もう一つの靖国神社」と呼ばれています。

 

≪GHQが成功した洗脳工作≫

私はGHQが占領軍政下で行った言論統制と、その結果日本人がまんまと陥れられた自虐思想について、拙著『苦しみとの付き合い方 言志四録の人間学』(PHP研究所)の第5章「戦後70年のレクイエム」で徹底して論じました。

 

その3項目で「自虐思想の淵源を探る」と題して、占領軍が占領下の日本に対して行った「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(私訳・戦争を起こしたことが罪だと感じるよう仕向ける情報工作)があったことを明らかにし、「日本は本当に侵略国家だったのか?――大東亜戦争、東京裁判、そして占領時代を検討する」を論じました。

 

私は米国の日本洗脳工作の集大成が、広島平和記念公園の記念碑「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文言に他ならないと思えてなりません。あれほど印象操作として成功し、日本人の脳裏に刷り込むことに成功したものは他に類例がありません。

 

あの碑文の決定に際し、GHQは徹底して日本政府や広島市に干渉し、昭和天皇(宮内庁)は碑文の主語を「人類」と明記することによって、日本悪玉論を排そうとされましたが、とうとうGHQに押し切られてしまいした。

 

広島市に講演に訪れた極東国際軍事裁判で判事を務めたインドの法学者ラダ・ビノード・パール氏は,「広島、長崎に原爆を投ずるとき、米国はそれを正当化する理由を挙げつらい、何のために原爆は投ぜられなければならなかったか強弁した」として、非人道的行為を強く非難しました。

 

さらに碑文の内容を読み、「原爆を落としたのは明らかに日本人ではありません。にもかかわらず、日本人が日本人に謝罪するのですか? 原爆を落としたアメリカ人の手はまだ清められていない」と難詰しています。

 

国際政治の現実はナイーブな理想論では解決できません。シビアな国家エゴと国家エゴのぶつかり合いです。自国を侵させない力を持つ以外に、生き延びることはできません。そろそろ自虐思想から脱却し、自分の足で立つべきときに来ているのではないでしょうか。(続く)

原爆死没者慰霊碑の碑文

写真=原爆死没者慰霊碑の碑文

 


チューリヒ湖

沈黙の響き (その63)

「沈黙の響き(その63)」

スイスでの講演に同行した佐伯宏美さん

 

 

 私が佐伯宏美さんを知ったのは、平成13年(2001)9月、スイス最大の商業都市チューリッヒで行われたJAL主催の講演会に参加されたことからでした。日本のことを話してくれる人をということで、私に白羽の矢が立ったようでした。そこで私は読者の方々に呼びかけ、「一緒に行きませんか。そしてスイスの方々と交流しましょう」と呼びかけました。そのツアーに参加された22名のお一人が佐伯さんでした。講演会には200名もの方々が来られて盛況でした。

 

≪スイスで話した四国遍路の醍醐味≫

 私はその一か月前、四国88か所札所1200キロを36日かけて遍路したところだったので、チューリッヒでは、み仏から見守られ、導かれた遍路旅のことをしました。金剛杖が40センチもすり減り、ズックも靴底がすり減って、穴が開くほどの過酷な行脚でした。

 

 この遍路は脳梗塞で倒れ、右半身麻痺にはなったけど、大切なことに気づかしていただき、人生を再出発させていただけたから、そのお礼のため88か所札所を廻ろうというものでした。それにリハビリをかねて1200キロ歩こうと意図しました。

 

 ところが医者からは大反対され、叱られました。

「炎天下を1200キロも歩いたら、また脳梗塞を起こして救急車で運ばれることになってしまう。それは医者として断じて許可するわけにはいきません」

 3年目も5年目も8年目も同じく反対されました。しかし12年目、医者のほうが根負けして、「そこまで言うんだったら、行ったらいい。私は許可しないけれども、自体責任でやるんですね。でも水道の蛇口を見つけたら、口を付けて水をガボガボ飲んで、血液がサラサラなるようにして歩くよう気をつけてください」と、妥協してくれました。

 

 そこで私は50歳になった平成10年(199881日から歩きだしました。1日のノルマが35キロ、もちろん足を引きずりながらの遍路でしたが、方々で接待してくださり、内面的にはとても満たされた旅となりました。四国遍路の詳しいことは『人は何によって輝くのか』(PHP研究所)に書いているので、ここではくり返しません。

 

≪このお遍路にお前を誘い出したのは誰だと思うか?≫

 最後の88番札所の大窪寺で、36日間で完歩できたことを感謝して祈っていると、不思議な声が聴こえてきました。

36日間、実にご苦労であった。しかし、この遍路の旅は誰が企画したかわかるか?」

「えっ、私が企画してお遍路を始めたと思っていましたが……」

「徳島市の南を流れる鮎喰川(あくいがわ)を一宮橋で渡ろうとしているとき、起きた出来事があったな。覚えているか? お前の後ろからバイクで来られた方がバイクを停め、200円お接待くださっただろう」

 信じがたいことに、どうも弘法大師のようです。

 

「もちろん、よく覚えています。ありがたくて、嬉しくて、思わず南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)、南無大師遍照金剛と唱えてその方を拝み、涙がボロボロ出ました」

「あれは山あり谷ありの道を1日35キロ歩くことがどんなに辛いことかを経験すると、たった1本の缶ジュースがありがたくて受け取れないとお前に経験してもらいたかったのだ。みんな生かされ、助けられ、導かれているんだ。そのことを深く感じてもらうために、このお遍路にお前を引っ張り出したのだ!」

 

「ええっ、こんなちっぽけな人間に目をかけ、導いていてくださっていたんですか……」

 私は感激のあまり、大窪寺の太子堂の前に立ち尽くすことができず、私はひれ伏して泣きました。遍路者はとても敏感になっているので、そういう声が聞こえるのです。

 講演会の聴衆にとって、「お遍路(巡礼)は“内なる神”との対話のひと時です」というメッセージは聴衆にはとても新鮮だったらしく、質疑応答はそこに集中しました。

 

≪キリスト教最大の巡礼道カミーノ≫

スイスの方々と歓談していると、キリスト教の巡礼道のことを教えてくださいました。

「仏教でもお遍路を大事にされているんですか? キリスト教でも巡礼はとても重要視していて、その最大の巡礼がスペインのカミーノと呼ばれている800キロの巡礼です。フランス側からピレネー山脈を越えてスペインに入り、イベリア半島をビスケー湾沿いに西へ西へと歩き、スペインを伝道したと言われているヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の墓に詣でるのです。カミーノが世界遺産に選ばれたことから、今では世界中から巡礼者が押しかけています」

 私は話を聴きながら、今度はぜひカミーノを歩いてみようと思いました。

 

すると「あなたがカミーノに挑戦されるのでしたか、私もその巡礼に参加したい」とおっしゃる方が何人かあったので、「全行程800キロを歩くのは無理ですから、最後の100キロを同行されませんか?」と申し上げ、4年後にカミーノを歩きました。スイスの方々も4名同行され、最後の100キロを一緒に汗を掻きました。

 

 講演の後、佐伯さんと私の共通の友人で半身不随になった人に、旅先で励ましのビデオレターを撮りました。そんなご縁もあって、来年の春先はぜひ広島市で講演会をやりましょうと盛り上がりました。

 

≪スイスの旅先で世界貿易センターのテロ事件に遭遇した!≫

 講演会で知り合ったばかりのスイスの方々がチューリッヒ観光を案内してくださり、さらにはスイスアルプスのトレッキングに同行してくださり、楽しい旅となりました。

 911日も私たちはスイスアルプスのトレッキングを楽しんでホテルに降りてきました。するとロビーに置いてあるテレビに人々が群がって騒いでいます。何事だろうと覗き込むと、何とニューヨークの世界貿易センターの南北両棟に、ハイジャックされた旅客機2機が突っ込むという、にわかには信じがたいテロが発生したのです。ビルは炎上して崩壊し、約3000名の方々が犠牲になりました。国際政治の生々しい現実を突きつけたおぞましい事件でした。

 

 その後、私はみなさんと別れ、オーストリアとドイツの内観研修所の取材に行きました。日本で始まった内観が欧州でも常設の研修所を運営するほどに広がっていたので、実地に取材しました。人間の生命に起こるコペルニクス的覚醒については、とても重要なことなので、別な機会に改めて触れたいと思います。

 

 その翌年3月、佐伯宏美さんは広島アステールプラザで私の講演会を企画されました。何かの組織の会長とか婦人部長とかではないまったくの主婦が、いったいどれほどの人を集めることができるか心配でした。しかし佐伯さんは喜々としてPRに奔走し、その結果、当日は立ち見が出るほど盛況となり、約300人近い人々が参加されました。佐伯さん自身の感性の高さが人々を引き寄せたのです。

 

 私は聴衆の関心の高さを知って驚き、思う存分話すことができました。その後、佐伯さんは何回も講演会を企画し、その都度盛会なので、佐伯さんへの信頼は揺るぎのないものになりました。(続き)

チューリヒ湖

マッターホルン

写真=チューリッヒは同名の湖に面した絵葉書のように美しい街でした。

 

 

 


沈黙の響き (その62)

「沈黙の響き(その62)」

哀しみの原爆慰霊式典

 

 

 8月6日、今年も広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和記念式典が開かれました。その夜、20数年前からの友人で、広島市に在住されている佐伯宏美さんが、Facebookに次のような一文を掲載されました。こういう文章を読むと、76年前に起きた悲劇が他人事ではなく、自分のことのように身につまされます。

 

「広島に原爆が投下されてから76回目の猛暑の朝、昨年に引き続き、広島平和祈念式典は互いに距離を取り、人数を制限して静かにとり行われました。私たち家族はテレビの前に正座して、静かに815分の黙祷を捧げました。

 

広島の人にはみんなそれぞれに86日(ハチロク)の悲しみのドラマがあります。それぞれの家族に、肉親が一瞬で人生を奪われた無念と哀しみがあったろうと思うと、深い切なさが押し寄せてまいります。

 

≪原爆直下で、義母は瞬時に亡くなった!≫

わが家の場合、主人の父はシゲノさんという、まだ19歳だったかわいいお嬢さんと結婚したばかりでした。86日のこの時間、義父は己斐(こい)駅前でシゲノさんと待ち合わせをし、シゲノさんは己斐駅に向かって、ちょうど原爆直下の相生橋あたりを走っていた電車の中にいたと推測されます。ところがそこで原爆が炸裂し、一瞬にして跡形もなく消え、亡くなられたのです。

 

義父自身もたいへんなやけどを負いましたが、連日奥さんを探して歩き回りました。しかし、消息は杳(よう)としてつかめませんでした。その後、義父は主人の母と再婚し、今の私たち家族が生まれました。

 

今年は長女と孫が帰省していますが、可愛くてあどけない孫を見、またわが家の歴史を思うと、思わず胸が熱くなります。原爆犠牲者の悲しみがあるわが家ですが、こんなに元気いっぱいの孫にまで、命のバトンを渡すことができて嬉しく思います。

 

19歳で原爆の犠牲になられたシゲノさん、あなたのことはいつまでも忘れません。私の子どもや孫たちに、あなたが生きていらっしゃったこと伝えてまいります。悲しみの連鎖はどうかこの時代で終わりにしたいと思われてなりません」

 

佐伯宏美さんの義父は長いこと、花嫁さんの辛い捜索のことは話さなかったそうです。後になって宏美さんやご主人の昌明さんが調べて当時の様子がわかってきて、義父の深い悲しみを知り、話すことさえできなかった悲しみに愕然としたのでした。佐伯さんは悲しい被爆者の歴史を背負っていたのです。

 

「私たち遺族は純粋に、86日は2度と原爆が起きない世界平和を広島から発信する日でありたいと願っています。ところが現実には政党の平和運動に利用され、翻弄している状態が残念でなりません。私たちが原爆慰霊塔の前での式典に参加せず、夕方になって遠くから手を合わせて祈っているのもそういう理由からです」

 佐伯さんは慰霊祭が原爆犠牲者を悼むことを忘れて、政治闘争化している現状を残念に思っています。

 

≪話せないほどの哀しみ≫

 佐伯さんの義父は被爆死したお嫁さんを探し回った哀しみをついに話しませんでした。哀しみの極み、誰にも話せなかったと聞いて、私は思い当たることがありました。私の父は大東亜戦争の末期はビルマ戦線で、蒋介石が率いる国民党軍の重要な支援ルートだったインド領北東部インパールの攻略を目指したインパール作戦に従事しました。

 

 この作戦は計画段階で無謀すぎると反対された作戦でした。援蒋ルートを断つという意図はわかるけれども、2000メートル級の山岳地帯で戦闘する過酷さに加え、重装備、豪雨、マラリア、赤痢などの感染症の蔓延、それに武器弾薬や食糧の補給の困難さから実行不能と反対されました。

 

 それでも第15軍及び第18師団の牟田口廉也中将は命令を撤回せず、作戦は強行されました。補給ルートが確保されないままの戦いだったので、日本軍は打つ弾が無く、食べる食糧もない窮地に追い込まれました。戦闘機主体のイギリス軍の反撃に遭い、10万人の戦力のうち、3万人が戦死、戦傷やマラリアや赤痢に罹って後送された者が約2万人という敗戦色を深めていきました。

 

 前線から退却する道は将兵の死体がごろごろしていたことから「白骨街道」と呼ばれ、退却する自軍について行けない傷病兵が泣きながら訴えました。

「俺を見捨てないでくれ! 頼むから連れていってくれ」

 泣きながら訴える戦友たちの必死な声を聞きながら、自分自身が餓死寸前の退却だからどうすることもできず、泣く泣く振り切って退却を続けました。父にとって、戦友を見捨てて退却したという慙愧の念が胸の中を渦巻いていたのです。

 

 父は無事日本に復員して故郷に帰り、私たちが生まれました。風呂から上って座敷で父とたわむれているときなど、何も知らない私たち3人の子どもは父にせがみました。

「ねえ、ねえ、父ちゃん、軍隊時代のことを話してよ」

 それに対して、父は満州や中国大陸を転戦していたころの、ことさら問題がなかった兵隊時代のことは話してくれましたが、ビルマ戦線のことはいっさい話しませんでした。なのに父の書棚にはインパール作戦に関する本が何冊もありました。やはり一番の関心は、インパール作戦とは何だったのかと、必死で全貌をつかもうとしていたのです。

 

 父は平成18年(20061月、90歳で亡くなりました。私は父の書棚のインパール作戦関係の本をむさぼるように読みました。そして戦友たちの死体を乗り越えて行った死の退却行のことを知りました。それはあまりにも無惨で、誰にも話せなかったのです。

 

 佐伯さんの義父が原爆で亡くなった新妻のことは一切話さなかったと聞いて、私の父の哀しみもそうだったと思いました。(続く)

写真=広島平和記念公園の原爆慰霊碑

 

 

 


沈黙の響き (その61)

「沈黙の響き」(その61

ベートーヴェンの失意と奮起

 

 

生身の人間にとって、奮起したり、失意したりするのは、ごく日常的に起こるもので、生きている限り、上がり下がりがあるのは当然です。問題は落ち込んだとき、どうやって自分を立て直し、奮起するかですが、見事な人生を歩いて結果を出している人は、そのあたりのコツを知っています。

 

その例を、音楽家にとって決定的に重要な聴力を失い、失望し、自殺寸前にまで追い込まれたベートーヴェンは、その危機を乗り越えて立ち直りますが、どういう過程を経て乗り越えたのか、それを見てみましょう。

 

ベートーヴェンはドイツで類まれなるピアニストとして登場しました。その後、オーストリアの音楽の都ウイーンに移ってハイドンに師事して腕を磨き、作曲家として名声を高めていきました。

 

≪難聴になったベートーヴェン≫

ところが、2627歳ごろからだんだん耳が遠くなり、聴こえにくくなりました。初めは雑音がざわざわしていただけでしたが、次第に難聴が進み、劇場ではオーケストラのすぐ前にいないと俳優たちの声が聴き取ることができません。少し離れると楽器の高音部分も聴き取れなくなりました。

 

そのころ、ベートーヴェンは長らく下痢に悩まされていたので、下痢が原因で聴覚もおかしくなったのではないかと思いました。そこで侍医のフェーリング先生に診てもらうと、先生はダニューブ河の温泉で微温浴することを勧めました。

オーストリア・アルプスに端を発し、シェーンブルン宮殿の東側をとうとうと流れ、宮殿を過ぎると西に向きを変え、オーストリア・ドイツの平原を潤しています。ベートーヴェンは難聴のことは人にはひたすら隠し、微温浴をして治療に専念しました。

 

1802年、ベートーヴェンはウイーンの北北西の郊外、ダニューブ川の西岸にある、限りなく美しい牧草地に囲まれたハイリゲンシュタット村に移って静養しました。

そこにピアノの弟子のフェルジナンド・リースが村を訪ねてきました。2人で散歩をしていると、リースが耳を澄まして、

「おや、先生、どこからか牧歌的な笛の音が聴こえてきますね……」

とつぶやいたのです。ところがその笛の響きがベートーヴェンには聴こえません。

ベートーヴェンは、音楽家は誰よりも繊細な聴覚を持っているべきだと思っており、自分の聴覚は並外れて優れていると自信を持っていただけに狼狽(ろうばい)しました。

〈ええっ、何だって! 笛の音が聴こえるって? ぼくには何も聴こえない。

とうとう……本物のつんぼになってしまったのか!〉

 

 音楽家にとって、耳は何よりも大切な器官です。

ベートーヴェンは楽想を得るため、よく森の中を散歩しました。広大な青空が広がり、白い雲がところどころに湧いています。その開放感はベートーヴェンにとってはたまらないものでした。頬を撫でるそよ風や天使が踊っているような木漏れ日、青々とした森の谷川のせせらぎ、そして農耕に励む農民たちの姿は豊かな楽想を与えてくれました。

 

風雨にびっしょり濡れるのもかまわず野山を歩き回り、時に耳をつんざくような雷鳴ですらもインスピレーションを与えてくれ、浮かんでくる曲想をスケッチしました。目で見える視覚もさることながら、聴覚はベートーヴェンにインスピレーションを与えてくれていました。だからベートーヴェンは聴覚を失って深い苦悩に襲われたのです。

 

≪「ハイリゲンシュタットの遺書」≫

その年の10月、絶望したベートーヴェンは自殺しようとし、弟カールとヨハンに宛てた遺書に自分の葛藤を書きつけました。

「私はまだ28歳になったばかりで、やりたいことがいっぱいある。私に課せられた仕事を完成しないうちは、この世を去ることなどできない」

 

ベートーヴェンは冷酷な運命の女神に死の淵にまで追い詰められましたが、死のうとしても死ねません。遺書を書いていた机を叩いて、絶叫しました。

「私は芸術のために、この苦境に何としても打ち克たなければならない!」

ベートーヴェンは遺書を書いていたはずでしたが、逆に芸術に身を捧げることを誓った宣言文を書き上げたのです。これが「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるものです。

 

“芸術のために”という使命感が難聴の危機を乗り越えさせました。

 やはり、自分に“大いなる存在”から託されていると思える課題を、何としても成就しようと覚悟を決めたとき、人は俄然強くなります。ベートーヴェンが生きる力を取り戻したのは、天的使命を自覚したからに違いありません。

 

 この時期、ベートーヴェンは心の恋人ジュリエッタ=ギッチアルディに、幻想的な作品ピアノソナタ「月光」を捧げています。雲間から漏れる月の光を、タン・タターンのゆったりとしたリズムでくり返して表現し、宇宙の神秘の扉を次第に開いていきます。

 自殺すら思い立ったハイリゲンシュットの苦悩を表現しています。

 

第2楽章に入ると陰鬱な夜の情景が打って代わって速いテンポに切り替わり、苦難から解き放たれた喜びを訴えます。明らかにベートーヴェンは、難聴は激しくなったけれども、音楽家としての使命を放棄することはできないと再度決意しました。

そして第3楽章ではプレスト・アジタート、さらにアップテンポになり、激しさに満ちあふれた音楽に変わります。

明暗2つの世界を苦しみながら書き上げたこのピアノソナタは、ベートーヴェンに新しい世界が訪れたことを伝えてくれています。

 

ベートーヴェンは32曲のピアノソナタを書きます。中でも第8番「悲愴」、第14番「月光」、第23番「熱情」が3大ピアノソナタと呼ばれています。ベートーヴェンはただの音楽家ではなく、「苦悩を乗り越えて歓喜に至った」音楽家だったのです。

 

 癇癪(かんしゃく)持ちだったベートーヴェンは、なかなか良好な人間関係を維持できず、作曲を教えてくれた師匠のハイドンとも喧嘩別れをしました。彼が生涯独身だったのは、彼の癇癪持ちという性格に女性がついてこれなかったという側面もあるようです。

 

≪“沈黙の響き”が伝えてくれた交響曲「運命」の主題≫

 苦難を乗り越えて、1803年以後の第2期の、ロマン・ロランに言わせれば「傑作の森」という時代が始まりました。ベートーヴェンの親友で伝記作者のシントラーが、第5交響曲の最初に鳴り響く有名な主題「ジャジャジャ・ジャーン」について尋ねたところ、ベートーヴェンは即座に答えました。

「運命は……かくのごとくに扉を叩くんだ」

「沈黙の響き」に耳を澄ませて聴き入ったとき、聴こえてきたのが、あの主題だったのです。

 

以来、第5交響曲は「運命交響曲」と呼ばれるようになりました。沈黙は決して“無音の闇”なのではなく、もっとも雄弁な曲想の宝庫なのです。これに続く第6交響曲「田園」も同じ「傑作の森」の時代区分に入る作品です。

 

 こう俯瞰(ふかん)すると、「沈黙の響き」をさし置いて創作活動はできないことがわかります。(続く)

写真=苦難を乗り越えて光を見出したべートーヴェン


沈黙の響き (その60)

「沈黙の響き(その60)」

苦しみは天が私を鍛えてくださる愛のムチだ!

 

 

 人は共感していただいたとき、天にも昇ったような高揚した気分になり、「少しはお役に立ててよかった!」と安堵するものです。平成27年(2015)8月にPHP研究所から出版した『苦しみとの付き合い方――言志四録の人間学』もそういう反応が多かった本です。

例えば、白血病を患って生死の境をさ迷った末に奇跡的に生還した大谷育子さんは、その苦汁をバネに、日本にはまだなかった骨髄バンクを立ち上げ、白血病の治療の道を切り拓いたことを書きました。

 

 採り上げている何人かの一人岡部明美さんの場合、出産と同時に脳腫瘍が発見され闘病生活が始まりました。しかし、その過程で、自分が随分鎧(よろい)を着て身構えていたことに気づいて脱ぎました。退院後、岡部さんは自己啓発のセミナーを開くようになり、それが多くのビジネスマンに支持されるようになりました。

 

 もう一人採り上げている辻光文(こうぶん)先生は罪を犯した青少年を更生させる施設の教師でした。あるとき、大病を患って入院手術した少女の看病に一生懸命でした。その子が健康を取り戻していく過程で、辻先生は本当にはその子の魂を拝んで成長を願っているのではなく、あああってほしい、こうあってほしいという願望を押し付けていただけだったことに気づきました。「愛」はいつくしみ育てるものですが、自分は道徳を押し付けるだけの教師でしかなかったことに気づいたのです。そして生まれたのが、『生きているだけではいけませんか』という詩でした。以後、大阪の矯正教育界は一味も二味も変わり、大きな成果が上がるようになりました。

 

 私はこうした方々を丹念に取材して、「逆境というのは、ひょっとすると天の恵みなのではないでしょうか」と問いかけました。するとお読みになった方々から随分多くのお手紙を頂戴しました。その中に身につまされるような話が書き綴られた手紙があり、私は読みながら思わず居住まいを正しました。以下はその方のお手紙です。

 

≪すべての人をあまねく照らした朝の光≫

「私は東京都内の病院で看護助手をしている大田原(仮名)と申す者です。この度出版されたご本を、昔、同じ病気で苦しんでいた友達からプレゼントされました。私は職場からの帰り、通勤電車の中で読み出して引き込まれてしまいました。家に帰って家事が終わると夢中になって読み続け、とうとう夜が白々と明け始めていました。読みさしのご本からふと目を上げると、窓からさわやかなやさしい風が吹いてきました。ご本を読了すると、どうしても先生にお礼を申し上げたくて、手紙を書きました」

 

お手紙はそう書き始められ、ご自分の特異な体験を書き綴っておられました。

「老人病院の夜勤は17時間労働で、とても過酷です。明け方の4時くらいから、洗面、おむつ交換、体位交換などの忙しい時間が始まり、息つく暇もありません。

私が担当している病室の中に、看護師仲間が揶揄(やゆ)して“死体置場”と呼んでいる部屋がいくつかあります。何一つ声を発することができず、食と排泄だけの患者さんたちが入院されている病室です。ひどい表現ですが、客観的にいえば本当に死体置場なのかもしれません。

 

ある日、一連の病室でのお世話が終わり、死体置場と呼ばれている病室に入ろうとしたとき、朝日が射してきました。どの患者さんたちにも等しくうららかな朝日が当たっていました。

その瞬間、内なる声から、『これらの方々にも尊いいのちが宿っているのです! 死体置場と呼ぶなんてもってのほかです。反応したくても反応できないだけなんです』と諭(さと)されました。あまりに威厳あるリンとした口調に、私は思わず襟を正しました。

 

『この方々は与えられたいのちをそのまま受け入れ、精いっぱい生きていらっしゃいます。人生の最期のときを精いっぱいもてなして、ご苦労さまでしたと送り出してあげてください』

私は朝日の中で涙をぽろぽろ流し、そうだ、そうだ、そうしてあげなきゃいけないとその方々に自然に手を合わせていました」

 

言われてみると、死体のような患者さんがかすかに反応されることがあります。

「窓を少し開けてそよ風が部屋に入ってきてその方の頬を撫でたとき、表情が緩んで明らかに喜んでおられることがわかります。話しかけるとき、患者さんの両手を包んで話すと、すると両手を温かくくるまれているとわかるのか、表情が和むんです」

 

大田原さんが書いておられたように、私もいつしか有用という視点に陥っていたように思いました。そして「それにこんな不思議な経験を恵まれました」と書き綴っておられました。

 

≪誰からも理解されず、軽蔑された日々≫

「私は重い小児麻痺の障害のある夫と結婚しました。ところが夫の家族からは、父親が借金を残して出奔(しゅっぽん)したという引け目があるから障害者と結婚したに違いないと陰口し、辛い思いをしました。

 

私たちは子どもを授かりましたが、私は妊娠中毒症から重い慢性腎炎にかかってしまいました。ところがそれに対しても、病気を隠していたに違いないとそしられました。私は慢性腎炎を治すために2年あまりハリ治療に通いましたが、針のむしろに坐っているように辛い日々でした。

 

さらに27歳のとき、病気が高じて重症化し、とうとう死を目前にしました。そのときも親族から、役に立たないんだったら、生きていては邪魔だとなじられ、もうどこにも行く場所がなくなってしまいました。

 

≪私はあなたをそのまま受け入れます!≫

そんなとき、目には見えない“大いなる存在”が語りかけてくださったのです。

『あなたは役立たずではありません。あなたはあなたのままでいいのです。わたしはあなたをそのまま受け入れます』

 そんなことを言って慰めてくださいましたが、実は私はそれまで、こんな人生でいいのかな、あんな人生がいいなと選り好みして生きていました。そして自分の人生は失敗だったと臍(ほぞ)を嚙んでいたのです。

 

ところがその方はそんなことはない、あなたの直感を信じなさいとおっしゃるのです。そういう声を聴いて、ああ、ここに私を全部受け入れてくださる方があると安堵しました。そんなお諭しがあったので、私はもう思い迷わないことに決めました。

 

“大いなる存在”に『すべてお任せします』と言い切ったとき、私の中に大きな安心感が飛び込んできました。それ以来、“大いなる存在”との語らいが生きる力となりました。それが神なのか、仏なのか、私にはわかりません。でも、見守られ、導かれているのは確かです」

 世の中には繊細な感性をお持ちの方がいらっしゃるものです。大田原さんも類稀(たぐいまれ)な感性を恵まれておられるようです。

 

≪寝たきりの患者さんたちに最期のお世話をする役目を授かった!≫

「一年ほどの闘病生活の末、私はとうとう退院して社会復帰でき、看護助手として寝たきりの患者さんのお世話をするようになりました」

 

看護助手は医療の専門的な知識がある看護師とは違い、病院の中の一番下の肉体労働者です。大田原さんはどうしても医療従事者内の序列という見方で見てしまい、自分を価値なき者と卑下し、卑屈になっていました。ところが内なる声は大田原さんに、死体置場の患者さんたちの最期の介護をお願いしたいと訴えたのです。

 

「ある朝、前述したような出来事を経験して、私は貴いご意志のお陰で、老人病院で貴い奉仕を託されているのだと気づきました。これまでいろいろ辛い体験を経てきたのも、これからお世話する患者さんたちにそんな思いをさせてはいけないと私にわからせるためだったのです。

 

私の役割はこれらの方々の地上での最期の時間のお世話をして、天国に送り出すことです。そう思うと自分の役割がありがたくて、患者さんたちがますます愛(いと)おしくなりました。表面的には何にも反応してくれない患者さんたちですが、自分がやさしいまなざしで包まれていると霊的に感じていただけたら、この以上の幸せはありません」

 

 この手紙がきっかけとなって、大田原さんと私は手紙やメールが行き来するようになりました。大田原さんは以前にも増して忙しいけれども、今は全然疲れないと言われます。

「神渡先生が言われるように“沈黙”は無音ではありませんね。“沈黙の響き”にじっと耳を傾け、内なる声に聴き入っていると、大切なことに気づきます。

 

私は長年被害者意識のとりこになっていて、みんなに意地悪ばかりされてきたと思っていましたが、あれは私が他の人のことを思いやる余裕がなかったので、みなさんが私に仕返しをされていたのだと気づき、すっかり楽になりました。まったく身から出た錆(さび)で、恥ずかしく思います。

私が申し訳ありませんでしたと折れて譲るようになると、意地悪もなくなりました。“沈黙の響き”は生き方に気づかせてくれる宝庫ですね」

 

 そういえば、大田原さんの口調から、いつしか険が取れていることに気づきました。そして楽しいやり取りが続いています。私たちは足りない存在だけれども、それでも神の御手の代りとして用いてくださる喜びを味わっているのでした。(続き)

写真=光の海に一人ヨットを走らせていると、この世的なものが遮断され、天空を舞っている気持ちになれる


龍安寺の石庭が語るもの

沈黙の響き (その59)

「沈黙の響き(その59)」

共時性(シンクロニシティ)が語るもの

 

 

 世の中には不思議なことがあるものです。同じような内容のことが同時発生的に起こることを共時性(シンクロニシティ)と言いますがそれが起きたのです。シンクロニシティとはスイスの心理学者カール・G・ユングが説いた理論で、因果関係のない2つの出来事が、偶然とは思えないかたちで同時に起きることを言います。

 

 例えば、しばらく会っていない友人のことを考えていたら、偶然その人から電話がかかってきて驚いたりします。そうした「偶然の一致」では片づけられないことをシンクロニシティと呼びます。

 

 ユングは人類の深層心理が個人の壁を越えて結びつく概念を「集合的無意識」と呼び、シンクロニシティも「集合的無意識」が引き起こす現象だといいます。私は柏木満美(まみ)さんから寄せられた投稿を読んでみて、シンクロニシティが起きたと思いました。そこで前回に続いて2週連続取り上げることになってしまいますが、柏木さんの投稿をアップします。

 

≪井上洋治神父、横田南嶺管長、そして若松英輔さん……≫

「前回の『沈黙の響き』(その58)に井上洋治カトリック神父が書かれた詩が紹介されていたので、あれ? と思い当たることがありました。井上神父は文芸評論家で詩人でもある若松英輔(えいすけ)さんが師として仰いでおられる方だったように思いました。

 

若松さんのことを初めて知ったのは、3、4年前、北鎌倉の円覚寺の夏期講座で、でした。そのとき、鈴木大拙(だいせつ)の禅について講義されましたが、当時の私には、若松さんの話も大拙の思想も難しすぎて、あまりよくわかりませんでした。

 

ところがその翌年、NHKラジオで若松さんが担当されている『詩と出会う 詩と生きる』という番組を聴き、大いに発奮しました。ラジオから聞こえてくる若松さんの言葉はあまりに美しく、詩的で、内容が深く広いものでした。しかも僭越ではありますが、言葉に関する捉え方が、私が感じていることにとても近いので、興奮しました。そしてその年の暮れ、偶然に見つけた若松さんの公開講座に何度か参加しました」

 

 若松さんは『小林秀雄 美しい花』(文春文庫)や『悲しみに秘儀』(文春文庫)、あるいは『魂にふれる』(トランスビュー)などを出版されている新進気鋭の文芸評論家で、スピリチュアリティ(霊性)にも深い関心をお持ちです。柏木さんの投稿は続きます。

 

「若松さんはラジオで井上神父には多大な影響を受けたと話しておられました。その井上神父が詩もお書きになっていたとは全く知らなかったので、井上神父の詩を読んでみたいと思って検索していると、またまたビックリ! 

 

井上神父はキリスト教信者でありながら、法然(ほうねん)や一遍(いっぺん)を慕っておられるというのです。そしてさらに、坂村真民さんともご縁があったそうです! もう、ビックリしまくりました。でも、深く納得しました。

 

真民さん、一遍上人、井上神父、若松英輔さん、神渡先生、横田南嶺老師などが、私の中で繋がりました! この繋がりにいる自分も大したものだと思えてきました」

 

前号でもお伝えしましたが、井上神父はキリスト教を日本の精神文化に根づかせようと腐心された神父です。法然や一遍、あるいは芭蕉や良寛、近くは宮沢賢治などが希求したものが、実はイエスが指向しておられたものとまったく重なり合うと説かれました。それは出色の日本文化論といえます。柏木さんがびっくりしたのもわかります。

 

井上神父はその代表的著作ともいえる『法然――イエスの面影をしのばせる人』(筑摩書房)の「あとがき」にこう書いておられます。

「どこまでも続いている一筋の海岸線。

一陣の風で、海岸の白い一粒の砂が右から左へと動く。

そしてそのあと、海岸は再び以前と全く同じ深い静寂へとかえっていく――」

詩人の感性が溢れている文章で、井上神父が言葉をつむぐように書き綴られた息吹きが伝わってきます。

 

『日本とイエスの顔』(日本キリスト教団出版局)は井上神父の後世に残る記念碑的業績ですが、それを補完して余りあるのが、井上神父の精神史的自叙伝『余白の旅――思索のあと』(日本キリスト教団出版局)です。小野寺功清泉女子大学名誉教授は、日本カトリシズムの新生面を切り開いた井上神学を理解するためには、この書を読むのが近道だと推奨しています。

 

 ≪龍安寺の石庭が教えてくれた余白の大切さ≫

井上神父はローマのシスティーナ礼拝堂の壁面いっぱいにミケランジェロが壮大に描いた傑作「最後の審判」を観たとき、その素晴らしさに圧倒されながらも、心の奥のどこかに、どうしてもなじめないものを感じたそうです。ある意味で「窒息するような重苦しさ」だったようです。

 

 フランスの修道院での修行を断念して帰国し、もっと日本文化を理解しようと、京都や奈良を訪ねました。京都の龍安寺(りょうあんじ)も二度、三度と訪れ、くすんだ色の古びた油土塀を背景に、大海原を連想させる白砂の庭に大小さまざまな石が無造作に置かれている石庭を眺めながら、思索にふけりました。

 

 なぜこの石庭は日本人には圧倒的な迫力をもって迫ってくるのだろうか――

長年の疑問が解けないまま、龍安寺の山門を出て仁和寺(にんなじ)の方にぶらぶら歩いていると、はっと気がつきました。

 

「そうだ。システィーナ礼拝堂の壁画には“余白”というものがない。壁面いっぱいに余白もなく描かれている聖画に美を認めることはあったとしても、私は息苦しさを感じて親しむことができなかった。龍安寺の石庭の魅力は“余白”にあったのだ――」

 

 井上神父の思索はそこから生きとし生けるものが持っている「余白」へと広がっていき、芭蕉や一遍はこの余白の力のことを「風」と呼んだのではないか、日本文化の重要な点は、すべてを語りつくさず、余白を残すことにあるのだと思いました。

 

不思議なことに古代ギリシャ語やラテン語では「風」のことをプネウマと言います。プネウマにはもっと多様な意味が込められており、息吹き、大いなるものの息、さらには聖霊なども意味します。

 

 聖書には「イエスは聖霊(プネウマ)に導かれて荒野に行った」と書かれています。ただ単に風に吹かれて荒野に行ったというのではなく、ラテン語の原文では「プネウマに導かれて」行ったというのです。だからプネウマの訳をさらに一歩進めて「神の愛の息吹き」ともするようになりました。

 

こうして井上神父は神の愛の発現の仕方はプネウマにあると感じ、カトリック内での刷新運動を「風(プネウマ)の家」と名づけました。「風の家」運動は三十五年間コツコツと続けられた結果、とうとう日本カトリック教会の新生面を切り拓くにいたったのです。(続き)

龍安寺の石庭が語るもの
龍安寺の石庭が語るもの

写真=龍安寺の石庭が語るもの


アンテロープ・キャニオン

沈黙の響き (その58)

「沈黙の響き(その58)」

詩「雨の中で」

 

「沈黙の響き」(その57)で紹介した西澤利之さんの投稿に反応して、横浜市の柏木満美さんから投稿があったので掲載します。詩人のみずみずしい感性が呼応したようです。

 

「西澤さんの投稿を拝読いたしました。西澤さんのものの見方、物事の捉え方の深さと、それをわかりやすい言葉で伝えてくださるお力に感動します。円覚寺の横田南嶺管長はとても辻説法に熱心で、それを現代風にアレンジしてユーチューブでライブ配信されており、私も自宅で拝聴して、いつも心を高められています。

 

≪私も帝網珠の珠の一つでありたい≫

横田管長や西澤さんがおっしゃるように、華厳経に書かれているという帝網珠(たいもうじゅ)のそれぞれの珠(たま)は大きさも光り方もさまざまで、そうであるからこそ互いに照らし合ったとき、全体が銀河のような輝きを見せるんだろうなと思いました。

 

 同じものを見ても感じ方は人さまざまです。同じ文章を読んでも、感じ取るところが違うのは、世界をより大きく、より美しく輝かせるための宇宙全体の仕組みだからなんですね。だから自分の感じ方を大切にし、自分の特徴を活かせばいいのだと納得しました。

 

 神渡先生が『沈黙の響き』で紹介される人々や出来事は、それぞれの場所でさまざまに輝いている光の珠なのだと思います。先生が一つひとつに焦点を当てて、輝かせてくださるから、私もその美しさに気づくことができています。

 

そして私もまた光を発することができると勇気づけられます。私はこれまで折に触れて詩を書いてきました。そのいくつかを投稿します。この投稿もそれに反応したものです。

 

   朝

青い朝が/静かに始まる

日の出の時刻は5:33

登場を待たれるお日さま/誕生を待たれる赤ちゃん

人は目覚めを待たれている

青い静かな朝は/街の人々の/目覚めをじっと待っている

花々の/安心してひらくのを/待っている

 

もーいいかーい/まーだだよー

もーいいかーい/もーいいよ!

 

 また、私の感性に訴えるものを、こういう詩に表現しました。

葉っぱの水滴

   雨の中で

雨の中の散策/歩くほどに/雨が/心を潤して/ココロに染み込んで/ふかふかになってゆく/艶々(つやつや)になってゆく

雨の中の散策によってしか/感じ取れない/命の息吹き
森中の木々から放たれている/清らな氣にすっぽり包まれてみる
ああ/わたしが生き返る

 

神渡先生が引用された安岡先生の文章を読むと、心が鎮められると同時に、私の内なる魂に何か大きな力が注入されてくるのを感じます。深淵にして無限なるエネルギーが届けられたように感じます。

 

詩の根柢にあるものはやはり純真なる生活、敬虔にして自由なる人格、無限への憧憬(しょうけい)であり、驚かんとする心なんですね。それに『宇宙の神秘の扉を開く鍵は、あなたの中に内蔵されている!』という安岡先生のメッセージは、私にとって“天啓”のようなメッセージです。私もいささか詩を書くので、とても励まされました。

 

安岡先生がおっしゃるように、生命のある処、到る処に韻律があるので、共鳴を高め、直観の光を遠くし、思索を深めて、私の感性によって言語文字に再表現しようと思います。

『人間の内面には神秘的な産霊(うぶすな)があり、それが働きだすと、今までのよそよそしかった事物に思わぬ親密や実感を覚える』ことも同感です。私もこの情緒の海を大切にします」

 

≪日本文化との橋渡しを試みた井上洋治神父≫

私は柏木さんの詩を読んで、7年前にお亡くなりになった井上洋治カトリック神父の詩「初冬のささやき」を連想したので、それを付け加えるます。そこに同じようなやさしいまなざしが感じられるからです。

  

黄色くなったいちょうの葉が/青く澄んだ初冬の空から

さらさらと/かすかな音をたてて舞い降りてくる

きっと風がでたんだろう/さよなら、さよなら

まるでそう言っているみたいだ

 

 泥によごれた/哀しそうな一枚を/そっとひろいあげて

 両の手で愛(いつく)しんでいたら/何かその哀しみの奥に

きらりとひかる美しいものをみたような気がした

 

井上神父はカトリックの中でも一番厳格だといわれているフランスのカルメル修道会で7年半修行されました。でも、厳格な父性原理が強すぎる西欧カトリックに違和感を拭い去ることができず、苦しみました。イエスが説いておられた神は、すべてを受け入れる母性原理がもっと濃かったのではないかと考えました。そしてイエスの福音を日本の精神的土壌に開花させることに腐心されました。

 

模索の末に、井上神父はカトリック内部に「風(プネウマ)の家」を設立し、福音と日本文化の橋渡しを試みました。プネウマとはキリスト教神学では聖霊とか霊性に当たりますが、日本語としては息吹きとか風とかに近い感じです。現在「風の家」運動は日本文化との橋渡しとして、カトリックの中にしっかりと根付いています。(続く)

アンテロープ・キャニオン

写真=神秘な洞窟アンティロープ・キャニオン

 

 


2021年8月の予定

日時 演題 会場 主催団体 連絡先担当者

8/21 (土)
10:00~12:00

 

リード力開発道場

日本経営道協会
千代田区外神田
2-2-19 丸和ビル2階
℡03-5256-7500

日本経営道協会

日本経営道協会
℡03-5256-7500

8/21 (土)
15:00~16:00

 

一粒の麦

 

東天紅上野店
台東区池之端
1-4-1
℡03-3828-5111

湯島倫理法人会

湯島倫理法人会
久恒
℡090-1616-4082

 

8/22(日)
9:05~10:25

徳永先生の偉業

ホテル・ヴィスキオ尼崎
尼崎市塩江1-4-1
℡06-6491-0002

実践人の家

実践人の家
℡06-6419-2464


2021年7月の予定

 

日時 演題 会場 主催団体 連絡先担当者

7/17(土)
14:15~16:00

いのちの讃歌

佐倉市臼井公民館
展示室
佐倉市王子台1-6
℡043-461-6221

佐倉素行会

神渡
℡043-460-1833

7/28(水)
11:00~12:00

ヒマラヤの白き神々の座と天風先生の思想

天風会館
文京区大塚5-40-8
℡03-3943-1601

日本経営道協会

日本経営道協会
℡03-5256-7500

 


大空に舞う鳥

沈黙の響き (その57)

「沈黙の響き(その57)」

人間が持つ底知れない可能性

 

北鎌倉にある臨済宗円覚寺派の横田南嶺管長が、先日ラジオ放送で「沈黙の響き」を採り上げられ、華厳経(けごんきょう)の帝網珠(たいもうじゅ)の例を参考に述べられました。さすがに現代の仏教界を代表する老師が諄々(じゅんじゅん)と語りかけるラジオ法話なので波紋が広がり、私のところにも問い合わせが相次いでいます。

 

そうしたメールの一つに、オーストラリア・ブリスベンに在住されている西澤利明さんからのものがありました。円覚寺の横田管長が前述のラジオ法話で私の最新刊『人を育てる道――伝説の教師徳永康起(やすき)の生き方』(致知出版社)を採り上げて語っておられるのをいち早く見つけ、そのURLWebページの場所を示すアドレス〔住所〕)を送ってくださったのも西澤さんでした。

 

西澤さんは日本で育ったのちオーストラリアに渡り、向こうでオーストラリア人の奥さまと結婚され、オーストラリア・クイーズランド州政府観光局日本部長として仕事をされていました。異文化の中に身を置き、現代文明を巨視的に見ているというスタンスを持っておられるので、その視点にはいつも啓発されます。以下、西澤さんの投稿を掲載します。

 

≪セキレイの母鳥が見せてくれた宇宙の本質≫

「神渡さんがLINEグループ『沈黙の響き』で連載を始められたとき、この題名にすべての思想的な結論が結晶化されていると感じました。

 

神渡さんが毎週投稿されている『沈黙の響き』や、それに対する読者のコメントを拝見していて、人間の本質が何であるかということに気づかされます。誰もが持っている仏性や神性が、それぞれの縁や出会いを通して現象化することを実態的に教えてくれるからです。

 

 先回紹介されたセキレイの母鳥が見せた母性本能を例にして、生きとし生ける“いのち”にあまねく備わっている愛こそは宇宙の本質ではないかととらえられた見解に私も同感しています。神渡さんが紹介されている方々はまさに一隅を照らしておられる方々で、照隅行の先達の方々だといえます」

 

≪人間は底知れない可能性を秘めた存在≫

私は「沈黙の響き」を通して、人間は「沈黙の響き」をたたえている深遠な淵にたたずんでいると説いています。その響きに呼応するようになれば、小さな自意識から解放され、物事の本質がよりはっきり見えるようになり、的確な手を打てるようになると説いています。音楽家で言えば、妙なる天上の音楽を奏でるようになるのと同じように、です。

 

そのためにいろいろな例を引き、私たち人間が持っている無限の可能性を説いていますが、それに多くの読者が呼応して、どんどん意見を投稿してくださるので、相乗効果が起きて、ますます充実した連載になっています。横田管長がいまLINEの「沈黙の響き」がおもしろいと言われたのは、そういう理由からです。

 

西澤さんもまた「沈黙の響き」は啓発的だと感想を述べ、ご自分でも何回か投稿され、それにまた読者が反応してご自分の意見を述べられるという展開がありました。

 

≪華厳経が示している叡智≫

 西澤さんは華厳経が説いている叡智についても言及しました。オーストラリアというキリスト教世界で生活していると、改めて仏教が持つ叡智に驚かされることがあるのでしょう。

「横田円覚寺管長が述べておられた華厳教に『事事法界』という世界観があります。一言で言えば人間の関係は相即相入だというのです。相即相入とは、世界が多様であればあるほど、異質なもの同士、互を形成している考えや文化や宗教を自分のこととして受容することが欠かせないということです。

 

世界には無数の縁起の糸が縦横に網のように巡らされていて――これは今でいう“ネットワーク”ということでしょうが、そのネットワークの一つである人間は、かけがえの無い美しい宝石であり、その宝石が互いを照らしあう関係こそが本来の人の在り方だと思っています」

 

そう述べながら、では私は今日何をするかという視点を見失わないのが西澤さんです。

「日本では一隅を照らす生き方がとても大切にされていますが、それぞれがその持ち場で一隅を照らす生き方をしたとき、帝網珠の一つひとつの珠(たま)が光り出すのだと思います。その結果として、世の中が良くなっていきます。いま多くの方々が『沈黙の響き』の連載に共鳴し、感動されているのは、時代の霊性が目覚めてきた証拠だといえるのではないでしょうか」

だからオーストラリア社会でも一定の影響力を持っておられるのでしょう。

 

≪量子物理学が明らかにした新しい宇宙観≫

 西澤さんは現代物理学、つまり量子物理学の動向についても見解を述べました。

「量子物理学は物質化現象を、波動性と粒子性を持つ一元の量子として捉えているように、最先端の物理学者は見えないもの――波動と、見えるもの――粒子は不二一元の関係だということに気がついているように思います。いま時代は大きく動いており、価値観の大転換が起こりつつあります。

 

 同じことが芸術家にもいえます。同じ波動の響きが人を惹きつけるように、音楽はまさに“沈黙の響き”の現象化だといえます。音楽家は楽器を通して、沈黙の響きのハーモニーを演出しているのです。“沈黙の響き”に耳を傾ける音楽家ほど、深い共感を勝ちとる音楽を創造します。

 

文学では、例えば芭蕉の句『古池や蛙(かわず)飛び込む水の音』を例に考察してみると、蛙が古池に飛び込んで音の響きを起こしたことで、その音がいっそう静けさを感じさせると、芭蕉は詠みました。お見事というしかありません。

 

仏教では“沈黙の響き”とはそれ以上分けることができない、不二一元の世界から湧きだす響きのことを指します。キリスト教ではこれを“愛”と呼び、イスラム教では“慈愛”と呼んでいます。

 

宗教や思想はこうした存在の実相を単に知的に解明したり、信仰によって盲信的に仰ぎ見る時代から、共鳴して共に生きる時代になってきたように思います」

 

≪“根源”からの響きに聴き入ると……≫

 西澤さんの意見はコロナ禍にかき乱されている現代の世相にも及びました。

「ニュースはコロナ禍のことを初め、外的なことばかりを採り上げていますが、本当は内的な精神性が外に現れているだけではないでしょうか。

 

社会の問題は人間の内面の問題だということに気がつかない限り外面を追うばかりで、社会問題は一向に解決しないように思います。

 

時代の霊性は地球規模で何かを私たちに教えようとしています。ところが当の私たちは右往左往しているばかりで、一向に問題の核心をつかんでいないようで仕方がありません。『沈黙の響き』に耳を澄まして聴き入ると、大切なメッセージが明らかになるように思うのは私のひとり合点でしょうか」

 

「沈黙の響き」に聴き入るということは、敢えて時流の外に立って根源的にものごとに迫ったほうが本当の姿が見えてくるということです。

 

≪後世への最大遺物≫

 西澤さんは6年前に行った腎臓ガンの手術のためか体調を崩し、病院で精密検査を受けました。その結果、問題はないという診断がなされてひと安心しましたが、健康に一抹の不安を覚えていることには変わりはありません。それだけに後に残していかなければならない現代社会の行く末を案じ、メールをこんな文章で締めくくっておられました。

 

「お互いに残された日々を思うような歳になってきました。後世に残す遺産はまさに愛と慈悲の実体験の証し以外の何物でもありません。そう思ってせめて一隅を照らそうと精進している毎日です」

 

 内村鑑三は私たちがどう生きたかが「後世への最大遺物だ」と言いました。そんな意味ある人生をまっとうしたいものです。(続く)

大空に舞う鳥

写真=大空に舞う鳥