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沈黙の響き (その36)

沈黙の響き (その36)

沈黙の響きから曲想を得る作曲家

 

世界でたった一人の音楽巡礼者 西村直記の世界

 

「沈黙の響き」は私たちに天来の声を伝えてくれ、創造の源泉です。毎週いろいろな方々の意見を読んでいたら、本物の音楽家から投稿がありました。作曲家・シンセサイザー奏者の西村直記先生も初回から「沈黙の響き」を読んでおられ、私たちの創造論の展開に興味津々だったようです。

 

 実は西村先生と私はコラボして、先生が演奏されるシンセサイザーのメロディーをバックに、私が自作の詩を朗読し、CD『いと高き者の子守唄』を制作したことがあります。そのとき、 ニューヨーク州立大学の病院のロビーに掲げられている詩『神のおもんぱかり』も朗読し、多大な反響を得ました。

 

 西村先生は郷里の松山にいたころは神童と呼ばれ、注目の的だったそうですが、西村先生に言わせると、「東京芸大に進学してみると、まわりはみんな神童ばっかりなので驚いた!」そうで、みんなを笑わせている気さくな面もあります。

西村先生はテレビやコンサートで私たちを魅力的な宇宙の旅に誘ってくださっていますが、今日は文章によって「西村直記の世界」を味わっていただきましょう。

 

「私たち人間は、すべての生き物を含めて豊かな感性が備わっています。私の場合、自然からのメッセージに感じ入り、それを音楽で表現しています。私が作曲し、演奏した曲を聴いて感動し、涙を流したという感想を聴くと、ああ一緒に楽しんでくださったんだなと嬉しくなります。

 

音楽家は自身の才能とは別に、天(神仏)から降ってくるものを表現しようと努めます。さらに会場で聴いていらっしゃる方々たちからの波動も一緒に共有します。これはものすごく大きな影響力があります。上質の観衆たちの心は演奏者に伝わり、その結果、奏でる音楽も相乗作用によって深く感動的なものになります。

 

決して演奏家一人だけの力ではありません。演奏者と観客が一体となることは、作曲した作品を伝えるためにとても必要なことです。私の場合、演奏を始める前、毎回上に向かって手を挙げるポーズを取りますが、これは天からのメッセージ(霊感)を頂くために行うものです。その姿と奏でられる響きが、みなさんに伝わると思っています。

 

この『沈黙の響き』で、西澤利明さんをはじめ、澁谷美知子さん、柏木満美さんなどの投稿を読んで一人感心していました。沈黙の響きから得たインスピレーションがどういうふうに私の創作活動に影響しているか、ささやかな体験を書かせてもらおうと思います。

 

 私が30歳のとき、人生の転機となった大事故が起きました。東京芸大を卒業し、松山市を拠点に音楽活動をしているとき、妊娠5ヶ月の妻と4歳だった長男が大事故に遭いました。救急車で病院に運ばれ、救急措置を受けました。脊椎や脚を損傷していたため、医者からは『助からないかもしれません。助かったとしても、一生寝たきりになるかもしれません』と宣告されました。

 

私は目の前が真っ暗になり、病院をふらふらさ迷い出て、どこをどう歩いたかわからないまま、ふと気がつくと、幼いころ遊んでいた石手寺に来ていました。石手寺には線香の煙が立ち込め、手を合わせて一心不乱に拝むお遍路さんの読経の声が満ちていて、とても心が和みました。

 

そんな光景に包まれてぼーっとしていると、光が見えてきました。ひょっとしたら妻子は助かるかもしれない、そして自分もこの苦節を経て、新たな次元に引き上げられるのではないかと予感したのです。

  

 そんな思いを感じて帰宅し、母にそのことを伝えると、『石手寺は四国八十八か所の51番札所のお寺だよ』と教えられました。不思議に私の中に八十八か所のお遍路をやろうという気持ちが大きくなってきたのです。

『無意識のうちに導かれて、八十八か所の札所に詣でていたのは何か意味があるのではないか。私もお遍路をし、家族を助けてくださるよう祈ろう』

 そこで毎朝水を被り、一時間あまり読経し、神仏に祈るようになりました。

 

 こうしてお遍路が始まりましたが、不思議なことにお寺を訪れるたびごとにメロディーが浮かんできました。それらを書きとめ、7年半かけて八十八か所すべてのお寺を巡りました。私にとってお遍路は物見遊山の旅ではなく、家族を救ってください! という切実な祈りの旅だったのです。音楽は当然祈りの音楽となり、組曲が全曲完成しました。

 幸いにして妻子は多少の後遺症は残ったものの、助かりました。でも毎朝の水業と読経はあれから40年経った今でも続けています。

 

 NHKがお遍路の番組を企画したとき、私に白羽の矢が立って音楽を担当しました。だから番組の視聴者はリアルな四国八十八か所を体験できて大好評だったようです。それがいま販売されているNHKエンタープライズのCDDVD『心を旅する四国八十八か所』です。

 

 昭和63年(1988)2月3日、四国八十八か所の到達点である高野山を訪れました。そのとき、高野山は四国八十八か所の到達点でもあるけれども、新しい出発点でもあると感じました。それからのことは、天の導きとしかいいようがありません。自分の意思を超えたサムシング・グレートの導きのまま、思ってもみない方向に進んでいきました」

 これがご縁となって西村先生は出家得度し、新たな音楽活動が始まりました。

 

世界音楽巡礼への旅立ち

 

昭和63年(1988)9月3日、高野山根本大塔で西村先生が世界音楽巡礼の旅に出発するための儀式が行われました。全国から参加された88人の方たちが22人ずつ東西南北に並び、金剛界曼荼羅の儀式にのっとって、西村先生たち4人の演奏に合わせて金剛界曼荼羅図のまわりを廻りました。こうして88人の方々が西村先生の世界音楽巡礼の旅の立会人になりました。

 夜は野外の特設ステージでコンサートが行われ、西村先生が作曲した『スペースオデッセイ 宇宙巡礼 如来(にょらい)寂音(しずね)』が演奏されました。バリトン歌手は鎌田直純、シンセサイザーは西村先生、箏は吉崎克彦、尺八は横山勝也です。

 こうして、ニューヨークやハワイ、ベルリン、エルサレム、南京、第二次世界大戦中にタイとビルマ(現ミャンマー)をつないでいた泰緬鉄道など世界各地の紛争地を訪れ、和解と癒しのためのコンサートを開きました。平成2年(199012月にはバチカンを訪れ、和解と癒しのコンサートをする予定でした。

ところがヨハネ・パウロ二世ローマ教皇は思いのほか、世界音楽巡礼の旅の趣旨を理解してくださり、謁見のときは御前で『宇宙巡礼・イン・バチカン』を演奏することになりました。演奏が終わって教皇にご挨拶すると、『世界の平和のために、この世界音楽巡礼を続けるように』と祝福をくださり、強く後押しされました。

 

西村先生のプロとしての最初のデビューアルバムCD『宇宙巡礼・イン・バチカン』の中に、ヨハネ・パウロ二世教皇のお言葉に添えて、ご一緒に写った写真が同封されています。世界音楽巡礼で、カーネギーホールやニューヨークの国連本部、あるいはハワイ大学など、欧米各国で演奏するときには、いつもこの作品を演奏しています。

 

≪とうとうやってきた大ブレーク!≫

 

私は前々から西村先生に尋ねたいことがありました。

「西村先生は奥さまとご長男が事故に遭われたとき、病院からふらふらさ迷い歩いて、石手寺に行かれましたね。あのとき、もうもうたる線香の煙に包まれ、巡礼者たちの読経の声を聴いているとき、この苦境を乗り超えたら、新しい次元の人生が始まるのではないかと予感されましたが、それが実現したのですね」

それは大変ポイントをついた質問だったようで、西村先生は右手で顎髭をいじりながら、当時を思い出して返事されました。

「ヨハネ・パウロ二世との謁見演奏のライブは東京でレコーディングされて発売され、新聞や雑誌などがこぞって書きたてました。私はすでに42歳になっていましたが、おじさんがプロデビューしたのです。それほどローマ教皇の前での謁見演奏は画期的なことでした」

「やっぱり新しい歯車が回りだしたのですね」

「私の同級生たちはとうの昔にデビューしていたので、おそらく私が最後のデビューでしょう。NHKエンタープライズが売り出したCDDVD『心を旅する四国八十八か所』は人々の心を大変打ったようで、総本山大覚寺、高野山金剛峯寺、仁和寺、醍醐寺など、各地の名刹が相次いでCD制作を依頼してきて、大忙しとなりました。

 そこでこれを機に10年間務めていた愛媛大学を退官し、生徒が40人いたニシムラピアノアカデミー(音楽教室)もやめ、音楽制作に専念することにしました」

 

やはり劇的な変化があったのです。その後、西村先生はアニメ映画などの音楽を担当し、フジテレビのテーマ音楽や大型番組の音楽を担当するようになりました。世に知られるようになり、ファンができると、ライブコンサートも手がけました。海の中の魚たちの視点で有名になった詩人金子みすゞの全詩512篇を作曲し、キングレコードから発売したのもこのころです。

 

「幸いにもNHKが四国お遍路物なら西村直記だと評価し、『心を旅する四国八十八か所』のテーマと全88曲を放映し、CD4枚組とDVDNHKエンタープライズから発売しました。その後、制作した『ユネスコ認定 世界遺産ビデオ』(10本組)が50万セット売れ、世界音楽巡礼でできた借金を全部返済できました。これはCDアルバムが500万枚売れたのと同じ計算になります」

 

 しかしながら、良いことだけが続いたわけではありませんでした。平成18年(20188月、エストニア男性合唱団を経て、世界トップクラスの混声合唱団、エストニアフィルハーモニック室内合唱団員として活躍していた長男の英将(ひであき)さんがガンで亡くなりました。自分より先に息子に死なれることほど辛いことはありません。それも受けて立たなければならない試練でした。

 

 西村先生は音楽活動のかたわら、現在も『世界八十八か所音楽巡礼の旅』を続けています。この一年はコロナ禍で中断していますが、現在3巡目の旅を行っている最中で、イスラエルで24か所目を終えました。

 西村先生は最後に、「沈黙の響き」と人間との関係についてこう語ります。

「私の人生の大方を歩いてきてつくづく感じているのは、神仏に委ねることの大切さです。取るに足らない存在ですが、どうぞ私を用いて、人々を励ましてくださいと祈ることです。それで随分肩の力が抜け、神仏が使いやすくなることを請け合います」

天の導きはただ単に音楽そのものだけでなく、西村先生の人生そのものを大きく変えました。そんな天と人間との関りを、音楽を通して表現している昨今です。(続く)

①シンセサイザーを演奏中の西村直記先生

②話題となったヨハネ・パウロ二世ローマ教皇との謁見

③西村先生の近影

写真=①シンセサイザーを演奏中の西村直記先生 ②話題となったヨハネ・パウロ二世ローマ教皇との謁見 ③西村先生の近影


真珠の首飾り

沈黙の響き (その35)

沈黙の響き (その35)

沈黙の響きが意味するもの

 

≪“沈黙の響き”に聴き入ることは力の源泉の一つです≫

 

  一月、オーストラリア在住の西澤利明さんが投稿された「沈黙の響き」についての文章はとても反響を呼び、いろいろな方がメールをくださいました。その中で、ある匿名希望の方は次のようなご意見を述べておられます。

「今回、オーストラリア在住の西澤さまが投稿された文章はとても深い内容で、心に沁み入って参りました。LINE上で神渡先生のウィークリーメッセージ『沈黙の響き』が始まり、そのタイトルを読んだとき、心の奥からこみ上げてくる感覚があり、共感しました。

それに去年の心臓病の手術をして九死に一生を得た体験を、『闘病生活は覚醒のときでした』と述べられたとき、そうだ、そうだと強い共感を覚えました。私自身、ナースという職業柄、多くの患者さんと接していて、闘病生活は『沈黙の響き』がもっとも聴こえやすい時で、大きな精神的脱皮のときだと常々思っていました。

 

 私は幼い頃から敏感な体質で、長じて気功や太極拳を訓練するようになり、深い呼吸ができるようになってから、共感力や共鳴力が増幅してきたように思います。ですから西澤さまが言われる「意識の波動」が実感としてわかります。

 ナースは心が病んでいる方々と日々触れています。それだけにいつも一隅を照らす者でありたいと心がけています。神渡先生はこうも語っておられます。

『この年になってようやくわかったことがあります。感動とは感じて動くことであって、頭で理解して動くということではないということです。だから世の中には“理動”という言葉はありません。共感し、共鳴することがすべての出発点で、私たちの“いのちの源泉”であるように思います。そのことがまだわかっていなかったころは、私は随分鼻持ちならない人間だっただろうなと思うと、恥ずかしくて穴に入りたいほどです』

  私も感じ取れる自分でありたいと思います。心の動きを大切にされる先生に出会えたことに心から感謝しております」

 

≪宇宙の響きが持つ深遠なメッセージ≫

 

 私がウィークリーレターのタイトルを「沈黙の響き」としたのは理由があります。「沈黙」は耳に何も聴こえず、目にも形が見えませんが、まったく「虚無」なのではありません。耳に何も聴こえず、目に何も見えないはずの沈黙ですが、かすかに響きを伴っています。それに耳を澄まして聴き入ると、いつしか天空に引き上げられ、地上のしがらみから解放されて屈託なく、とても自由になるものです。

私は昨年9月、心臓のバイパス手術をしました。体力も気力も弱り、俺が俺がという自己顕示欲が薄らぐと、自分の心に響いてくるものがありました。導かれるままに内観すると、心の奥深いところに光が見えてきて、立ち直る力が与えられると知りました。だから「沈黙の響き」に心耳を澄ますことほど大切なものはないと実感したので、このニュースレターを「沈黙の響き」としました。

 

≪“沈黙の響き”こそが芸術の源です≫

 

前にも紹介したことのある詩人の柏木満美さんから届いたメールはとても啓発されるものがあったので紹介します。

「私は西澤さんの『聴こえるか聴こえないか、見えるか見えないかという、とてもかすかな“沈黙の響き”から得られたメッセージが、敏感な繊細な魂たちによって「芸術」として表わされるのだと思います』というご意見にとても共感しました。

そしてその“沈黙の響き”に心の耳を澄まして聴き入り、そこで感じたものをそれぞれの感性によって音楽や絵画や詩文に表わしたとき、それが共感を得て広がっていくというのも私自身経験してよくわかります。その意味で、誰もが芸術家なのですね。

 そう思ったとき、その思いが禅の大家鈴木大拙老師の言葉と結びついて、ああ! またつながったと、魂が震えました。鈴木老師は23冊もの英文の著書を通して、海外に日本の禅文化を知らしめた功労者で、梅原猛先生も近代日本の最大の仏教学者だと評価されています。

その鈴木老師が『とにかく人生は詩です』と言い、私たちと芸術との関りを次のように説いています。

『我々は自然の恵みによって、人間たる以上、誰でも芸術家たることを許されている。芸術家といっても、画家とか彫刻家、音楽家、詩人という特殊な芸術家をいうのではない。“生きることの芸術家(アーティスト・オブ・ライフ)”なのである。実際のところ我々は皆、“生きることの芸術家”として生まれてきているわけである』

 芸術家というと、どうしても浮世離れした高尚な人々を想起してしまいますが、鈴木老師はそうではなく、宇宙の響きに心耳を澄ませば、人間誰しもが“生きることの芸術家”になり得るのだと力説されます。そしてこうも付け加えておられます。

『芸術家は創造という仕事に従事している。彼らの使命は神の仕事に参加することにある。このことがほんの少しでもわかるならば、芸術作品は神の魂に触れ、人間の品位を高め、人間の人格の質的変化を助成するものとなる』

私も言葉をつむいで詩を書くようになり、それが多くの人々の共感を得て広がっていく様子を見て、もしかしたら私も神の仕事に参加し、人間の品位を高め、人間の人格の質的変化を助成することに繋がる仕事ができるかもしれない、いや、していきたいと、背筋がピーンと伸びるような思いになりました。改めて生きる力を得ている今日この頃です」

鈴木老師が「芸術家は神の仕事に参加しているのだ」と述べておられたとは知りませんでした。

  私たちも“沈黙の響き”に心耳を澄まし、老師がおっしゃるように、“生きることの芸術家(アーティスト・オブ・ライフ)”になり、創造的な生活を送りたいものです。(続く)

真珠の首飾り
写真=けがれなき天のしずく


沈黙の響き(その33)

沈黙の響き(その33)

めぐりあいの不思議

 

「沈黙の響き」より来月中旬、致知出版社から『人を育てる道――伝説の教師徳永康起の生き方』が発売されます。この本の取材で随分お世話になった方で、徳永先生の教え子・植山洋一さんから、「めぐりあいの不思議」と題して投稿をいただきました。

 植山さんは昭和27年(1952)4月、熊本県八代市立太田郷小学校5年5組で徳永先生に受け持たれました。それまで担任の先生に叱られることの多かった植山さんは、先生との親しみが持てず恐い存在でした。

 それまでの先生は、勉強のできる生徒をかわいがり、勉強が苦手の植山さんは叱られることが多く、学校はつまりませんでした。植山さんは母と妹と3人の母子家庭で、母は裁縫で生計を立てていました。でも暗い電灯の下での縫物のため、母は次第に目が不自由になり、小さな文字が見えないようになりました。だから植山さんは登校する前、母が仕事に困らないよう10本ぐらいの針に糸を通していました。 

 学校から帰ると母の品物を届けに行ったり、依頼の着物を預かってきたりしました。暗くなり帰りが遅くなると、母は心配して家の前に出て帰りを待っていてくれました。母はだんだん視力が落ちて一人で外歩きができなくなったため、植山さんが手を引いて歩くようになりました。そのような家庭環境だったので、あまり勉強にはこだわりませんでした。

だから5年生になり徳永先生に出会っても、あまり期待していませんでした。ところが徳永先生はやさしいまなざしで、みんなを一人ひとり温かく包んでくださるので驚きました。そんな徳永先生のまなざしにひかれて学校に通うのが楽しくなり、欠席することもなくなりました。クラスには春のような暖かい光がさし、みんなの笑顔の花が咲くようになり、植山さんにとってもほんとうに居心地のいいところとなりました。

5年生の初めごろ、教室の入り口の横に1枚の色紙が掲げられました。筆で『自分を育てる者は自分である』と書いてありました。それが植山さんの指針となりました。

家が貧しくて高等学校に進めなかった植山さんは、母のことを妹に頼んで陸上自衛隊に入り、がんばって輸送ヘリの操縦士になりました。その植山さんからの次のような投稿があったので、披露します。

 

 

「めぐりあいの不思議」      徳永先生の教え子「ごぼく会」事務局 植山洋一

この神渡良平先生のコラム「沈黙の響き」に私たちの恩師徳永康起先生を取り上げて頂き、教え子として感謝の極みです。徳永先生のことは2月中旬に出版される本をお読みいただくとして、今日は神渡先生と私たちとのめぐり合いから今日に至るまでの経緯などについてお話したいと思います。

令和元年(2019)、故徳永康起先生を偲ぶ「第40回広島ハガキ祭り」が広島読書会有志の方々により開催されました。そしてその会のメイン講師として招かれた神渡先生の講話をお聴きし、その後懇親会の場で初めてご挨拶し、恩師徳永先生についてお話しする機会を得ました。

 

 神渡先生は以前から故森信三先生のグループの機関誌『実践人』に『森信三の世界』を連載されており、徳永先生のことも記述されてよくご存じでした。しかし徳永先生と教え子たちとの交流を話すと、俄然興味を持たれました。

そこで家から一次資料をお送りするとそれらに強くインパクトを受けられ、次々と質問がありました。その後も古い資料を探し出してお送りすると鋭い筆問が返ってきて、作家魂に驚きました。

神渡先生は子どもたちのいのちを全力で育て上げようとされる徳永先生の教育者の姿勢にいたく共感され、これを取り上げようと思われるようになりました。

 

そこで現地取材が始まり、ごぼく会の城代家老とも呼ばれている吉川征一君と私が昨年(2020)11月、熊本県各地を案内しました。案内したのは、熊本県南の生誕の地大野村と大野小学校、そして球磨郡の免田小学校、私たちの母校八代市立太田郷小学校の記念樹と記念碑を案内、それぞれの学校では校長先生と懇談の機会がありました。また徳永先生の遺品(資料)が保管されている球磨郡錦町在住の先生の次女園田由美さん宅もお伺いし、資料をいろいろ拝見しました。

 

また徳永先生が少年時代、師範学校に行く前に1年間在籍した県北合志市の「合志義塾」跡地を訪ね、あわせて宮本武蔵が最晩年『五輪書』を書き上げた霊厳洞も案内することができました。不慣れな案内ながら、私たちは神渡先生のほっこりとした柔和な会話に、たくさんの話しができ、楽しい思い出をいただきました。

 

私たち徳永先生の教え子は、小学校卒業以来、「ごぼく会」というクラス会を徳永康起先生の名のもとに集い、67年間の思い出の多くの記録を積み上げてまいりました。徳永先生との小学校5年生時の出会いからするとまもなく70年になる自慢のクラス会だと自負いたしております。 

 

41年前に徳永先生が亡くなられて後、毎年、広島の有志の方々により徳永先生を偲び「広島ハガキ祭り」が開催されています。なぜ広島での偲ぶ会かと言えば、戦前、徳永先生の実兄宗起氏が、瀬戸内で救世軍の免囚保護者の指導者として活動されていました。徳永先生が教師になりたての頃、夏休みになると瀬戸内の宗起氏の勤務地を訪れ、ペスタロッチの如き慈愛に満ちた活動を目の当たりにして深い感動を覚え、その様子が瀬戸内の潮風とともに脳裏に深く焼き付いていました。(その具体的内容は、今度の本に見事に活写されているのでご参照ください)

 

昭和43年(1968)、徳永先生が実践人夏季研修会で知り合った岡野浩司先生に招かれ、因島の三庄中学校、福山市の戸出小学校でお話する機会がありました。これを機に瀬戸内周辺の他の学校からも呼ばれることが多くなりました。そのような関係で、瀬戸内の島々や広島とのご縁が深くなっていきました。

 

徳永先生没後の翌昭和55年(1980)6月、以前から森信三先生の著書を教本として読書会を尾道の自宅で開いておられた漁師の川原作太郎さんが、徳永先生が亡くなられたことを知ってご自宅で徳永先生を偲ぶ会を催されました。これが徳永先生を偲ぶ会の始まりとなり、後に会場が広島に移され、「広島ハガキ祭り」と名前を変更されました。ご存知のように徳永先生は複写ハガキの元祖でもあり、14年間で複写ハガキ綴り460冊、合計2万3千通ものハガキを書き、人々と交流しておられます。

 

広島ハガキ祭りは毎年6月に開催され、絶えることなく続き、一昨年には第40回を数えるにいたりました。現在では、広島読書会の方々が全国にご案内され、北海道から九州まで約百名からの人が集まり、40回の節目には160人余の方々が参加されました。徳永先生の偲ぶ会が異郷の地である広島で長年開催されてきたことは稀有であり、教え子として広島読書会の皆様に深く感謝しています。

 

この記念すべき広島ハガキ祭りで、初めて神渡先生とお会いできたのは、まさに「めぐりあいの不思議」そのものです。その後の交流が徳永先生の取材と発展し、出版の運びとなり、教え子としたら願ってもない展開となりました。

森信三先生は、「人は会うべき人に必ず出会うものです。それも一瞬早からず 一瞬遅からないときに」と言われましたが、私もいまそれを実感しています。このありがたい出会いをお導き頂いた森信三先生、広島読書会の皆様に、教え子として心から感謝申し上げます。(続き)

陸上自衛隊で輸送ヘリの操縦士をしていたころの植山さん


沈黙の響き (その32)

神渡良平のニュースレター(その32

「沈黙の響き」

 

 これまで「沈黙の響き」をウィークリーメッセージとしてお届けしてきました。お陰さまで反響が多く、多くの方からご意見を寄せていただき、いたく啓発されています。みなさんにお届けしたい話がたくさんあるので、これをウィークリーにせず、2、3日おきに発信することにして、みなさんと分かち合いたいと思います。お時間があるときに覗いていただけたら幸いです。

 

 今回は先に紹介したオーストラリア・ブリスベンにお住いの西澤利明さんからの投稿に対し、横浜にお住いの詩人の柏木満美さんが西澤さんにとても考えさせられるメールを送られたので、それを転載します。

「今、学童保育のアルバイト先に向かう電車内で、神渡先生のホームページに掲載されている西澤様の文章を拝読し、心が震え、涙が溢れそうになっています。そうです、そうですと、ココロが大きく頷きながら、先を先をと読み進んでいます。

 

『沈黙の響き』という言葉から、これほどまでの深い思考に至れるのかと、私の心の奥にある何かと共鳴するものがあり、心の底の泉が波打つようでした。世の中は“目に見えないもの”“耳には聞こえないもの”で満ち満ちていますが、現象の背後にある息づかいに触れる貴重な感受性があってこそ、その人が書いた言葉を通して、読む側に貴重なメッセージが伝わってくるものです。

 

 西澤様は、『静かな沈黙、つまり心情の波動は、至るところに全体として充満している。それが言葉を通して意識化されると、一つの実体としてのメッセージが形成されます。

 “沈黙の響き”に耳を傾け、それを音や絵や言葉で具現化したものが『芸術』であり、“沈黙の響き”にそれぞれの感性が反応すると、今度は神が沈黙を破り、一人ひとりの心に現れる――。詩人は詩を書き、画家はキャンバスに絵をかき、音楽家は弦の響きでそれを表現しようとします』と書かれていますが、この部分は私のささやかな経験と重なり、まったく共感いたします。

 

 私は数年前から、自然や身の回りのさまざまな現象から、ハッとする感動の瞬間のとらえ、それを写真と言葉(詩)に表してまいりました。その写真と詩をフェイスブックやインスタグラムに投稿したり、葉書に印刷してポストカードとして使っているうちに、共感し、応援してくださる方が現れ出しました。

 

 そのとき、この感動は私一人が個人的な喜びとして満足すべきものではなく、私を通して、どこかの誰かに届けられるべきものなのかもしれない、と思うようになりました。

 神や天は、地上に生きる私達に“真善美”というメッセージを送っておられ、それをある時ある場所で誰かがキャッチし、それをその人なりの表現によって表したとき、ダイレクトには捉えられなかった人にも届く新たな光となる――。そんなことが私にも、もうずっと続いているのです。

 

『日々の喧騒から離れ、この沈黙の響きをしばし魂の奥で咀嚼すれば、“大いなるもの”が私自身を通して現れ、表現しようとされていることに気づきます』

 西澤様が書かれたこの文章にも、私の心が、そうです! そうです! と喜んでおります。 また、次の文章もとても意味深長で、ウーンと考えさせられました。

『東洋は沈黙を空性として、何もない絶対無の世界だと捉えますが、絶対無はまた絶対有でもあるように思います。そこには汲めども尽きない無限の心情の宝庫があって、聖者はそれを“不二一元の真如”すなわち“真我”と呼んだのでした』

『私の目を通して、私の耳を通して、五体全ての感性は即仏性であり神性そのものです。まさに、ちょっと傲慢に聞こえるかもしれませんが、「神を見しもの、我を見るなり」です』

 

 この部分からは、浅学ながらも私が触れさせていただいている鈴木大拙さんの言葉や仏教からの学びが思い起こされました。こうして、新たに目にする文章や言葉が、自分の中に散らばっている学びの欠片を照らし出してくれることは、大きな喜びでもあります。

 

 西澤様は、『神渡さんの感性を通して伝わる“沈黙の響き”に耳を澄ませば、138億年の宇宙史の声が聞こえてくる』とおっしゃいましたが、私も全く同感です。しかも神渡先生を通して伝わる響きには、何ともいえぬ優しさ、慈愛が加味されていると常々感じています。それがうれしくて、神渡先生の著書を読んだ後はこちらまでそういう優しさのベールを身にまとえたような気持ちにもさせていただけます。

 

『人間を通して現れる神』のところで、「私の行為を通して、神そのものが顕現されるのであり、神ご自身の眼差しは自分の中にも重なって存在していると思います」とおっしゃっています。ここもとても共感するところで、日々研鑚を積み、と書くと大げさな気がしますが、ようするに日々反省をし、日々新たな気持ちで自分に与えられた場所で精いっぱいに生きるなかで、いつか私もこのような実感がもてたらなぁと思いました。

 西澤様の文章を引用しながら、長い文章を書いてしまいました。こうして書くことで、波打っていた心の泉の水面が凪いでまいりました。ありがとうございました」

 水面にできた輪がどんどん広がっていきます。「沈黙の響き」が、みなさんがシェアし合う場として育っていくといいですね。(続く)


心を洗ってくれるアゲハチョウのたたずまい


沈黙の響き (その31)

ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その31)        130

教育はいのちといのちの呼応です!⑳

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 

 前回、オーストラリアの西澤利明さんの寄せられたコメントに多くの反響が寄せられました。「沈黙の響き」という言葉に鋭く反応した西澤さんは、“見えないもの”“聞こえないもの”に耳を澄ませ、そのメッセージを聴きとることがどんなに大切であるかと考えておられました。

 西澤さんは、豊かな感性を持った詩人や文学者、哲学者、音楽家、画家たちはみな声なき声を聴き取り、それをそれぞれ自分の表現で表し、それぞれの文化を形作ってきたと言われます。西澤さん自身、自作の即興の詩を自分が奏でるギターのメロディに合わせて歌う詩人でもあることから、インスピレーションと詩想、曲想とは直結していると言います。

 日本は七五三には神社に詣でて子どもの成長を感謝し、暮れにはクリスマスを祝い、葬式は僧侶を呼んで仏式で行うなど、あまり宗派にこだわらないことから、無宗教だと非難されがちでした。

 しかし西澤さんは、それは皮相な見方だとして退け、日本の文化の基礎にある禅宗の公案に「隻手(せきしゅ)の声を聴く」というのがあるように、声にならない声に耳を傾け、目に見えないものを見ようとしてきた文化があると指摘し、日本は極めて宗教的な社会だいわれます。

 

≪みなさんが寄せられたコメント≫

 それに対して澁谷美知子さんは次のように深い共感を寄せられました。

「西澤さんは“沈黙の響き”に心眼と心耳を傾け、その深いメッセージを聴きとる生活を続けてこられたんですね。日本で生れ育ち、オーストラリアで事業に携わった西澤さんは、日本と欧米の融合を生涯のテーマとして取り組んでこられたとお聞きし、我が意を得たりという思いがします。

 そうした模索の末に、西澤さんは『一隅を照らす』生き方に到達され、自分が今あるところで、一隅を照らそうとされていると知り、『真理は足元にある』というのは本当なのだと思いました」

 澁谷さんも西澤さんが「一隅を照らす」生き方を模範にされていることが驚きだったようです。

 今村久美子さんも「沈黙の響き」に毎回コメントを寄せてくださいますが、今回も喜びが伝わってくるコメントをくださいました。

「西澤さんのメールを、そうそう、そうそうとうなずきながら読み、とてもうれしい気分になりました」

「沈黙の響き」に毎回コメントを寄せておられる塩谷幸子さんは西澤さんの文章を読んで、かつて安岡正篤先生が唱えておられた「一燈照隅」「万燈照国」を思い出したと述べておられました。西澤さんも安岡先生の愛読者なので、共感する点が多々あるのでしょう。西澤さんの投稿は私たちに極めて有意義な波紋を巻き起こしました。

 

 ≪使命とは大仰なことではないのではないか!≫

 ところで西澤さんのメッセージはいろいろな人々を刺激したようです。横浜志帥会という勉強会の中心メンバーである西尾優さんはこんなメールを投稿しました。少し言葉を継ぎ足して、言わんとしているところを明瞭にしました。

「西澤さんのメッセージを読んで、私は西行法師が伊勢神宮で詠まれたという和歌『何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる』を思い出していました。

 私は齢六十を過ぎてみて、そういうことをようやく感じ取れるようになりました。輝く朝日に向かって手を合わせるとき、厳粛な清々しい気持ちになれるので驚きです。若いころはずいぶん功名心にはやっていましたが、歳を取るにつれて心境の変化が起きてきなした」

 西尾さんは長年「自分の使命(ミッション)は何だろう」と追究してきたそうですが、それにも変化が生じたそうです。

「大上段に構えて、世界や国家のためにどうすべきかと高尚に考えるのでなく、使命(ミッション)は自分の中にすでに在るものを見つけ出す作業なんだと思うようになりました。使命や役割は未来にどこかにあるのではなく、“今、ここ”、つまり現在、自分の中にあるものを見つけ出すことだと気づきました。

そんな模索の中で、神道でいう“分けみ霊”という考え方はとても助けてくれました。自分の中に神さま(神性)の“かけら”があることを発見する過程はすごく楽しいものでした。

 私の中に元々備えられているものを、いろいろな機会を通して、大いなる存在や他者が鍛えてくださり、私を有用な人間にしてくださっていることはとてもありがたいことでした。自分の能力を活用し、人のお役に立つことが私のミッション(使命)なんですね。

 自分が関わっている仕事を通して、何かを創造し、誰かに何かを提供することほど、素敵なことはありません。自分の使命とは今世での役割のことであり、これこそが生きている理由だと思います。

 神渡さんや西澤さんがいわれる『沈黙の響き』に私もとても共感するものがあり、声なき声に耳を傾け、見えないものを大切にしています。自分の持ち場で、肩肘張らずに、一隅を照らす生き方ができるようになると、静かな喜びがこみ上げてきます。第二の人生に入って、“沈黙の響き”の“見えないもの”“聞こえないもの”がいつも私の心の中で木霊(こだま)して、私の持ち味を引き出してくれています。だから今は現役時代以上に、充実した人生を送っています」

 こんなメールをいただくと、HPLINE上で「沈黙の響き」を連載していることが、さまざまな反響を生みだしていて、ありがたいかぎりです。このコラムがますますみなさんのお役に立てたらいいですね。(続く)

 


私たちの周りにはびっくりするような光景がありますよね。その光景に身を置き、空気を味わうと、自分もいつしか天空を飛翔してしまいます。

 

 

 


沈黙の響き (その30)

 

ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その30)        123

教育はいのちといのちの呼応です!⑲

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 

 今回、ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」をLINEHPに載せ、いろいろな方から返信をいただき、楽しい交流をしています。そうしたなか、オーストラリアの東海岸ブリスベーン郊外に住んでいる心友・西澤利明さんからメールが届きました。西澤さんがクイーンズランド州政府観光局日本局長だった時代、しばしば来日して日本政府と交渉をされていましたが、その際、私はしばしばお会いさせていただき、意見を交換していました。

 私たち2人の関心は「日本と欧米を融合させるものは何か?」でした。

西澤さんはオーストラリアのグリフィス州立大学を卒業したあと、欧米社会で仕事をしました。だからいつも脳裏を離れなかったのは、思考の根幹にある仏教(儒教)とキリスト教のことでした。

西澤さんはビジネス社会のまっただ中で活躍されていますが、日常的に起こる現象に振り回されることなく、東洋と西欧の精神的原理という視点で分析して、行動されていました。奥さまはオーストラリア人なので、家庭生活もキリスト教文化と切り離すことはできません。それらをいつも“日本”という視点で眺め、分析し、自分の行動指針とされていました。

 私は西澤さんがJTBのゴールドコースト支店長時代に知り合いました。その後、西澤さんはオーストラリア・クイーズランド州政府にヘッドハンティングされ、クイーンズランド州政府の観光行政に関わるようになりました。オーストラリア人の同僚たちには西澤さんの観点はとてもユニークに感じられ、日本との観光行政でも結果を出し、とうとう州政府観光局日本局長というトップに昇りつめたのでした。

 私が下手な解説をいろいろ述べる前に、西澤さんから届いたメールを読んでいただきましょう。おそらくそこに視点の斬新さを感じられるのではないかと思います。

 

≪隻手の音には存在の本質が隠されている≫

「神渡さんが今回のタイトルとされた『沈黙の響き』は、それ自体が深いメッセージを秘めたものです。世の中は“見えないもの”“聞こえないもの”で満ち満ちていますが、現象の背後にある息づかいに触れる貴重な感受性があってこそ、書かれた言葉を通して、読む側に貴重なメッセージを与えてくれます。

 禅に『隻手(せきしゅ)の音』と言う公案がありますが、片方の手が出す音、つまり聞こえないものの“静かな沈黙”にこそ、存在の本質が隠されているということでしょうか。

『沈黙』をまた量子力学的に“心情の波動”として捉えれば、至るところに全体として充満していることになります。それが言葉を通して意識化されると、一つの実体としてのメッセージとなるように、思います。

芸術の素晴らしさはその“沈黙の響き”を音楽に、あるいは文学にと具現化できるからです。具現化された文章にそれぞれの感性が反応すると、神が沈黙を破り、一人ひとりの心に現れるのです。詩人は詩を書き、画家はキャンバスに絵をかき、音楽家は弦の響きでそれを表現しようとします。

東洋は沈黙を空性として、何もない絶対無の世界だと捉えますが、絶対無はまた絶対有でもあるように思います。そこには汲めども尽きない無限の心情の宝庫があって、聖者はそれを“不二一元の真如”すなわち“真我”と呼んだのでした。

 神渡という名前は神のメッセンジャーという意味です。神渡さんの感性を通して伝わる“沈黙の響き”に耳を澄ませば、138億年の宇宙史の声が聞こえて来るのではないでしょうか。

 人間はどんなに小さな存在であったとしても、この世に生きたということこそが最大の奇跡であり恩寵です。日々の喧騒から離れ、しばしこの沈黙の響きを魂の奥で咀嚼できれば、語りかけてくる“大いなるもの”が私自身を通して現れ、表現しようとされていることに気づきます。

 私の目を通して、私の耳を通して、五体全ての感性は即仏性であり神性そのものです。まさに、『神を見しもの、我を見るなり』です。神渡さんが書いておられる『沈黙の響き』を読みながら、こうした感想を抱きました」

 

≪「沈黙の響き」が意味するもの≫

 西澤さんのメールで嬉しかったのは、私の「沈黙の響き」に共感し、日本文化の中心には「沈黙の響き」に聴き入ろうとする姿勢が連綿とあると評価されたことでした。しかしながら出版社はそのことがよくわからず、「哲学的過ぎ、抽象的でわかりづらい」などという感想が示されました。

 日本文化の特質を欧米キリスト教文化に注ぎ込むことによって、欧米文化=キリスト教が斬新に復活すると思うのですが、この点の理解はいまいちでした。

 それだけに西澤さんが示された理解に、「我が意を得たり」と思った次第でした。

 

≪「一隅を照らす」ことで、存在意義を示すことができる≫

 西澤さんは3年前に政府を退職し、現在はブリスベーンの郊外の自宅で、自分の人生の思想的な総括をしているそうです。そこで改めて“一隅を照らす”という生き方に共鳴したといいます。

「最後に残るものは、結局、どれだけ世のために尽くしたかということに尽きると思うようになりました。別に大それたことをしなくともいい、自分に与えられた天命に気付き、その与えられた場所で“一隅を照らすこと”が人生を手応えのあるものにできると思うようになりました。

ビルの清掃をする人も、コンピューターを操作する人も、政治を司る人も、与えられた仕事に真心を込めて励めば、その恩恵が人々に行くからです」

西澤さんの口から“一隅を照らす”という言葉が飛び出したので驚きました。

「私は従来のキリスト教の“天のどこかにいらっしゃる神”という考え方から、“人間を通して現れる神”というものに重きを置くようになりました。私の行為を通して、神そのものが顕現されるのであり、神ご自身の眼差しは自分の中にも重なって存在していると思うのです」

 西澤さんのこういう神観、宇宙観を聴いていると、無味乾燥に陥りがちな神学論争が吹き飛んでしまいます。先のメールに書いておられた「神を見しもの、我を見るなり」ということが、決して傲慢な発想から出たものではなく、人間存在の意義を重たく捉えているからです。

西欧世界は神と人間を切り離し過ぎたために、神不在となってしまいました。しかし日本に生きている「自分の行為が神そのものだ」という考え方を欧米社会に注入するとき、その文化は大きな脱皮をすることができると確信します。私は日本が欧米社会に真に貢献できる時代がやってきたように思います。


西澤利明さん


沈黙の響き (その29)

ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その29)        116

教育はいのちといのちの呼応です!⑱

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 現在、小文は致知出版社が『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』が出版すべく、2月中旬出版を目標に、編集作業を進めてくださっています。うれしいことに、私の人生の師である鍵山秀三郎先生(イエローハットの創業者)から推薦文が届きました。今回のウィークリーメッセージはそれを披露します。

推薦文

汗を流して具体的に行動する――これこそが教育の原点です

イエローハット創業者 鍵山秀三郎

 今回、人々に(やす)()菩薩と称えられた徳永康起先生の教育の全貌が明らかにされたことを大変喜んでいます。徳永先生はそれまで六年間務めていた校長職を辞し、昭和二十七年(一九五二)、一平教員に戻ると、念願だった教え子たちの魂の成長に心魂を傾けられました。

 担任している学級の子どもたちが提出する日記にていねいにコメントを書き、家では朝三時に起きて三畳の板の間の仕事部屋で、授業で生徒たちに配布する資料のガリ切りをされました。小さな火鉢があるだけの部屋は、先生自身〝寒室(かんしつ)(かん)()〟と呼んでおられたように、冬は凍えるほどに寒かったけれども、〝愛の実弾〟はそこから生まれました。

学校で一番汚かった、校庭の隅にあった八角(はっかく)便所のこびりついた汚れを、先生もいっしょになって瓦の欠片(かけら)でそぎ落とし、新聞紙や何かで詰まっている便器を通るようにし、黄色くなっていた便器を磨きました。徳永学級の絆はそんなところから生まれていきました。

 教え子たちの結びつきは固い絆となり、教え子たちは小学校卒業後十五年目に、自分たちの手で記念文集『ごぼく』4号を出しました

それを読んだ多くの教師たちは、「教師が心魂傾けた努力はここまで教え子たちの心に刻み込まれるのか」と感動しました。その記念文集は、森先生がいつも語っておられた「魂に点火する教育」が、実際にどういうふうに行われたのか示している具体的な証しだったのです。

この文集を森信三先生が激賞されたことから、浪速社がこれを『教え子みな吾が師なり』(徳永康起編)として出版してベストセラーになりました。八代市の一小学校で行われていた教育が全国的に知られるようになるまで、実に十八年もの歳月が経っていました。急がず、先を争わず、目の前のことを一つひとつ丹念に仕上げていったとき、それが歴史の地平を切り開いたのです。かくして徳永先生は、森先生を囲む教師たちの研鑚の場である実践人でも、中心的な役割を担うようになりました。

石川理紀之助翁が示しているもの

 今回、『いのちの響き合い――徳永康起先生と子どもたち』を読んでみて、私は明治から大正時代にかけて、秋田県の農村指導者だった石川()紀之(きの)(すけ)(おう)のことを想起します。石川翁は毎朝三時に掛板(かけいた)を打ち鳴らして村人たちを眠りから起こし、まだ夜が明けきらないうちから農事に専念し、困窮した村を再建していきました。

ある猛吹雪の朝、理紀之助翁がいつものように午前三時に掛板を打ち鳴らし、雪まみれになって家に戻ると、奥さんが「吹雪の朝に掛板を打ったところで、誰にも聞こえないでしょう。ましてこの寒さでは誰も起きて仕事などしやしない……」と咎めるように言いました。でも理紀之助翁は平然と答えました。

「そうかもしれない。でも私はこの村の人々のためだけに掛板を叩いているのではない。ここから五百里離れた九州の人々にも、五百年後に生まれる人々にも聞こえるように叩いているんだ」

 そうした心構えだったから、理紀之助翁は少々のことでは失望せず、ひたすらな努力が疲弊していた農村を立ち直らせ、「秋田の二宮尊徳」と呼ばれるようになりました。明治二十一年(一八八八)、四十四歳とき、井上(かおる)農商務大臣の招請を受け、秋田県の農業改革の実績を報告するほどになりました。

 また二十七年(一八九四)から翌年にかけて、北白川宮の命を受けて九州七十四か所で講演や実地指導を行い、さらにその翌年は四国や千葉県での指導が続きました。

 その石川翁の自戒の言葉は「寝ていて人を起こすことなかれ」でした。「自分は動かないで他人にやらせることはできない。自分が先頭に立って手本を示してはじめて人を動かすことができる」というのです。

 先の徳永先生もまさに〝寒室寒坐〟し〝鉄筆の聖者〟と称えられたほどに努力されたから、教え子たちが感化され、それぞれの人生が花開いていったのです。

 この書は私たちに一番必要とされていることは何かを、気づかせてくれます。そして何よりもわが国に地下水脈のように流れている文化の特質が何であるか教えてくれます。営々と努力して立派な文化国家をつくりあげた先人たちを持ち、私たちはとても幸せです。私たちもそれぞれの持ち場で徳永先生に続いていきたいものです。


黒板の上に掲げてあった色紙「自分を育てるのは自分である」

沈黙の響き (その28)

ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その28)        19

教育はいのちといのちの呼応です!⑰

超凡破格の教育者 徳永康起先生

神渡良平

 

≪熊本県を代表する先進地区・八代市≫

 

昭和27年(1952)4月、新任地は八代市の太田郷小学校に決まりました。

八代は熊本県を代表する工業都市です。明治時代になって、天草と熊本の間に広がる不知火(しらぬい)海に面した八代港が近代的な港湾として整備されました。明治23年(1890)に九州第1号のセメント工場ができたのを皮切りに、十条製紙(現日本製紙)や三楽酒造(現メルシャン)が相次いで進出し、八代臨海工業地帯を形成しました。

太田郷小学校の校区にはそのうち3大工場がある先進的な地区です。一方では、市内を日本3大急流の一つ球磨川(くまがわ)が流れており、あちこちに風光明媚な景勝があります。

 

 熊本には加藤清正が築城した熊本城があります。銀杏(ぎんなん)城とも呼ばれ、日本を代表するような勇壮な城郭です。その一角に高さが180メートルもある壮大な「百間石垣」があります。熊本では男一匹思い切ってやってのけることを、「熊本城百間石垣後ろ飛び」といいます。徳永先生はそれをやってのけたのです。

 

≪子どもたちの期待を集めたニコニコ先生

 

徳永先生にとって太田郷小学校は、一平教員に戻って本物の人間教育をしようとした最初の学校だったので、思いがこもりました。一方、子どもたちは新学期に向けてどういう組替えになるか、期待わくわくでした。その子どもたちが、よその学校から新しく着任した徳永先生をどう見ていたかを示す恰好な作文があります。卒業記念文集の『ごぼく』1号に掲載された(やす)(あな)(せい)()(旧姓盛谷(もりたに))さんの文章です。

「5年生になって、組替えになりました。どの先生になるか、どの組になるか、みんなさわいでいました。私と登紀代ちゃんと二人はまだ徳永先生の名前を知らず、いつ見てもニコニコして生徒たちと遊んでおられるので、とりあえず“ニコニコ先生”と呼んでいました。私たちはあの“ニコニコ先生”が担任になればいいなあと思っていました。

 

最初の日は組替えだけがあって、うれしいことに、私と登紀代ちゃんは同じ組になりました。あくる日の朝、庭に山のように土をもりあげ、それにどうかあのニコニコ先生になりますようにとおがんで、ごはんもろくに食べないで学校に行きました。

いよいよ講堂に集まって発表をききました。だんだん進んで、白木先生が、『次は5年五組!』と言われたとき、私たちはシーンとしずまり返りました。いよいよ5組の担任の先生の発表です。

 

『5組は徳永先生!』

(わあ、徳永先生になったわ! ばんざ~い!)

私と登紀代ちゃんはあまりにもうれしかったので、登紀代ちゃんの家で歌を作ってあそびましだ。やがて十条製紙の四時の終業のサイレンが鳴ったので、私は門のところで母を待ちました。仕事が終わって工場を出てきた母に、さっそく、担任はニコニコ先生になった! と話すと、母は、それはよかったね、そんなに好きな先生になったら、いっそう勉強も手伝いもがんばらないとねと言いました。私ははり切って、うん、今日から何でもする! と答えました。早いものであれから2年もたち、とうとう卒業を迎えてしまいました」

徳永先生は5年5組となった子どもたちに心から迎えられたようです。

 

≪日記によって始まった先生と子どもたちの“いのちの呼応”≫

 

一方、徳永先生は公簿に記載されている4年生まで評価を丹念に読みました。中にはかなり一方的で浅薄な児童観察が書かれていたりするので唖然としたり、むらむらと反発を感じたりしました。

(これじゃあ子どもの芽が枯れてしまう。大魚を教師の小さい洗面器で泳がせてはならないよな。よーし、一年経ったら、公簿に全然逆なことを記入しよう)

児童生徒に遠くから大きな声で「おはようー」と呼びかける徳永先生の声はバンカラそのもので、子どもたちは誰もがおはようございます! と返してきます。教室の黒板の上には、

 

自分を育てる者は自分である

 

と書いた額を掲げました。これを5年5組の心意気にしようというのです。徳永先生は教育事実を作るためには、日記によって一人ひとりと、いのちの呼応を始めるのが一番だと思いました。亡くなった田中君の枕元に残されていた日記がその思いを後押ししてくれたのです。毎朝、先生の教卓の上に子どもたちが日記を提出し、それに休み時間に先生が赤ペンでコメントを書き添えて、子どもたちとの心の交流が始まりました。

 

先生は学業の優中劣の評価は、人間としての優中劣の評価とは必ずしも一致しないと考えていたので、折に触れて授業でも話し、子どもたちの日記にも書き添えました。そうやって子どもたち一人ひとりの持ち味を引き出そうと苦心しました。

 

≪便所磨きは徳永学級の得意技≫

 

太田郷小学校は2千人に近い生徒数の大規模校です。徳永先生の学級は特に便所掃除に力を入れる学級でした。しかも“便所掃除”とは言わず“便所磨き”と呼び、先生もいっしょになって便器を磨きました。

校庭の隅に八角形の便所がありました。造られた当時は、校舎は木造なのに八角便所はコンクリート造りのモダンな便所で、最先端を行っていました。しかし寄る歳つきのため、コンクリートは腐食して変色し、汚れがしみ込んで、用を足すのもはばかられるほど汚くなっていました。徳永先生の発案で、ここをみんなで掃除しようということになりました。

 

でも、あまりにも汚いので、最初の間は気持ちが悪く、腰が引けてしまいました。しかし、徳永先生は粘り強い熱意でみんなをひっぱり、瓦のかけらで床のしつこい汚れをそぎ落とし、詰まって水はけが悪くなっていた排水孔の通りをよくしました。こうしてあれほど汚かった便所が一日一日ときれいになっていきました。

 

するとみんなは便所みがきの楽しさがわかるようになり、毎朝の便所磨きはみんなが先を争ってやるようになり、明るい活気で満ちるようになりました。こうして学校一汚い便所が学校一きれいな便所に変身したのです。

 

ある朝、ラジオ体操が終わって便所掃除に行くと、とてつもなく大きな大便が、便器にかかって、どっしりと乗っかっていました。みんなは、よくもこんなに大きい大便をする子がいるなあとびっくりしました。

「こりゃほんまに人間がしたんかな! おそろしくでかいなあ」

 と、先生もみんなも大笑いし、吐き気をこらえて棒切れで大便を落とし、水で流してやっときれいになりました。こうして5組は便所みがきを誇りとするようになりました。

 

 どでかい大便を、吐き気をこらえて洗い流した少年の日記には、先生のこんなコメントが書かれていました。

「すまん、すまん。ほんとうにすまんだったね」

 私は読みながら笑ってしまいました。率直に詫びる先生! ほのぼのとしたクラスの雰囲気が伝わってきます。何て自由で闊達な教室なんだろう。みんなが誇りにしているのがわかります。

 

≪ぼくたちが太田郷小の伝統を作るんだ≫

 

ある子は便所みがきについて、日記にこう書いています。

「朝の自習時間に、5組は勢ぞろいして、瓦のかけらで西便所の小便器のふみ台みがきをやりました。そこに小便をしに来た男の人が、してよかですか? とことわり、もうしわけなさそうにされました。私たちが一生けんめいにみがいていると、はやし立て、冷やかする人もいますが、ありがたく思ってくれる人がいるかと思うととてもうれしいかった。

 

 先生は私たちをこう言ってはげましてくださいました。

『ああ、これですっかりきれいになったなあというまでは、あと2か月はかかる。こんなことはいっぺんにできるものではない。時間を見てはたんねんにみがきあげなければならないんだ。君たちが全校のみんなに、便所をきれいにしようと思い込ませることに成功すると、日本一きれいな小学校になる。

 

しかし、そう思いこませるには1年はかかる。それまでには君たちは卒業している。でも、次の5年生が跡を継いでみがいてくれたら、それが伝統になって、日本一の小学校になるだろう。君たちは伝統を作っているんだ』」

 このように徳永先生の教育は体験学習であり、実地教育でした。

 

 徳永先生の業務日誌の11月4日の項にこう書かれています。

「このごろの便所みがきは、磨く人の心のごとく、ますます磨かれてきた。ありがたいことだ」

 それが徳永先生の狙いだったのです。そして、「みんなが嫌がることを率先してやろう」という生き方が学級の中に定着していきました。(続く)

黒板の上に掲げてあった色紙「自分を育てるのは自分である」黒板の上に掲げてあった色紙「自分を育てるのは自分である」