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6月20日、新刊『いのちを拝む』がPHP研究所から発売されます

書影『いのちを拝む』
書影『いのちを拝む』
 
“いのち”はどこから来るのでしょうか?
“いのち”は宇宙からやってきます。
つまり人智を超えたところからやってきます!
 
私は支援センターあんしんに、“いのちを拝む”ドラマを発見して、喜び勇んで75冊目になるこの本を書き上げました。こんな楽しい執筆は久々でした。ご笑覧いただけたら嬉しいかぎりです。
神渡良平

Eurovision

沈黙の響き (その105)

「沈黙の響き(105)」

国際音楽祭で優勝した母に捧げる歌「ステファニア」

神渡良平

 

 

◇母に捧げた歌がウクライナ国民の精神的支柱に

イタリアのトリノで今年514日に行われた第66回ユーロビジョン・ソング・コンテスト(国際音楽祭)で、ウクライナ代表の8人編成の音楽ユニット、カルシ・オーケストラが歌った「ステファニア」が優勝しました。数十か国に及ぶ2億人もの視聴者の支持を受けての圧倒的優勝でした。

 

ステファニア

母さん 母さん

草原は花咲き乱れているというのに

母さんの髪はグレーに染まっている

母さん 子守唄を歌って

やさしい言葉を聞かせてよ

必ず家路を見つけるよ

 

この歌詞はラッパーのオレグ・プシュクさんが自分を慈(いつく)しんで育ててくれた母を偲んで書いたものです。歌詞自体はバラード風ですが、表現方法はラップ調でパワフルです。フォーク・ラップと称されるカルシの最大の特徴は、ウクライナ民謡的な要素とラップやヒップホップがミックスして、哀愁を帯びた子守唄のリフレインがくり返されて歌曲をなじみ深いものにしています。舞台衣装も伝統的なウクライナの柄を尊重して取り入れているので、民族の誇りを感じさせます。

 

「ステファニア」の歌詞は聴く者に懐かしい母を追憶させます。

(ああ、母さん すっかり白髪が増えてしまったね

ぼくが高熱を出して寝込んだとき

母さんはぼくの胸をやさしく撫でながら

子守唄を歌ってくれたよね

 

心細かったぼくは

それでどんなに安らかになったことか

母さん またやさしい言葉を聞かせてよ

 

今度、会社の休みが取れたら

必ず家路をたどるよ

そして母さんの肩を叩いてあげる

母さん 待ってて……

ぼくの母さん……)

 

 母は“いのち”を生み、その“いのち”を育む特別な存在で、神さまは母親に特別な役割を与えています。オレグはよくぞ私たちの心のなかにある“母”を歌ってくれました。「ステファニア」が大ヒットしたのは、私たち一人ひとりのなかにある“母”を歌ってくれたからにほかなりません。

 

 ロシアがウクライナ侵攻を開始する今年の2月、カルシ・オーケストラは「ステファニア」を引っさげて全国ツアーをしていました。母の愛はのどかな村を思い出させ、母への思慕はそのまま祖国への愛に結びついていきました。

ところがそこにロシアが侵略してきたので、「母さん、母さん」と呼びかける「ステファニア」の受け止め方は一変し、すべてのウクライナの母、そして母なる国ウクライナに捧げる歌となったのです。

 

 戦争が始まると、カルシのメンバーは楽器やマイクを捨て、ウクライナ防衛軍に加わりました。そのためメンバーが何人も抜け、半数近くなってしまいました。それにウクライナでは18歳から60歳の男性は徴兵対象として出国禁止されたので、ウクライナ代表を勝ち取っているカルシはコンテストへの出場すら危ぶまれました。しかし、期限付きの特別な出国許可が出たので、ようやく参加できました。

 

2億人の支持を受けて圧勝

国際音楽祭(ユーロビジョン・ソング・コンテスト)に出場したカルシは、ロシアの侵攻で激しく破壊された母国を悲しむけれども、決してロシアの奴隷にはならないと熱烈に歌いあげました。その姿勢が審査員や視聴者の共感を呼びました。

この音楽祭は欧州放送連合(EBU)加盟放送局によって開催される毎年恒例の歌謡祭で、各国の国内選考を勝ち抜いた音楽ユニットがその国の代表として参加し、審査員や視聴者がライブ演奏で審査して順位を決定します。

 

 昨年はイタリアのロックバンド、マネスキンが優勝したことから、優勝国が次回コンテストのホスト国となるルールだから、今年はトリノ市での開催となりました。今年は本番直前にロシアがウクライナを侵攻したことからロシアは出場禁止となり、40か国が参加し、ついにウクライナ代表が圧倒的支持を得て優勝したのです。

 

過去にはこのコンテストから、ABBA、セリーヌ・ディオン、アイルランドのリヴァーダンスなどが国際的ステージへ飛躍するきっかけをつかみました。昨年優勝したマネスキンもその後欧米で大ブレークしているので、今年優勝したカルシ・オーケストラもメジャーになることが確実視されています。

母に捧げる歌はどの国においても永遠です。

Eurovision

写真=「ステファニア」を歌うカルシ・オーケストラ


大空に舞う鳥

沈黙の響き (その104)

「沈黙の響き(その104)」

ジョンソン父子の橋渡し役を果たした澤田さん

神渡良平

 

昭和6023日、日本テレビがエリザベス・サンダース・ホームで育った混血遺児たちのその後を追跡取材し、『子供達は7つの海を越えた』と題した番組で放送しました。その中で、前週、採り上げた米軍のクレモント・ジョンソンさんとその子マイクさんのことも取り上げました。図らずも24年後の2人の様子を知ることができました。

 

 ジョンソンさんは刑務所から釈放されたあと、隣のアーカンソー州リトルロック市に移り住み、建設会社で働いていました。日本テレビはジョンソン父子と澤田さんの再会を収録しようと、リトルロック市の中心部にある、緑の芝生が広がっているマッカーサー広場で取材をセットしました。

 

ジョンソンさんはインタビューの前、黒人特有の陽気さとサービス精神から陽気に、

「福は内」

「私はあなたを愛します」

「気をつけて」

 など、片言の日本語を連発して、場を盛り立てていました。

 

23年振りの再会

 そこに澤田さんが公園の向こうから緑の広い芝生を横切ってやってきました。23年振りの再会です。ジョンソンさんは澤田さんに乳児のマイクちゃんを預けたとき、

「息子は必ず自分が引き取るから、見知らぬ人に養子に出さないでほしい」

とお願いし、それを澤田さんきちっと守ってくれたのです。

「いや、それだけではありません。澤田さんは息子を姉の子として養子縁組してアメリカ国籍を取得させ、米国に移住させてくれました。しかも終身刑を言い渡されている私の減刑のために奔走し、早期釈放を実現してくれたのです。だからミセス・サワダは私にとって、実の母以上の存在です」

 

 ジョンソンさんが澤田さんとの再会を喜び、息子の養育のことでお礼を申し上げているとき、ベンチの隣に座って黙って聞いていた、今はたくましい青年に成長したマイクさんは必至に涙をこらえていました。マイクさんは澤田さんが自分をアメリカに連れてきて、父親に引き合わせてくれた7歳のときのことをはっきり覚えています。養子縁組を成立させると、翌年、日本から送り出してくれたのでした。

 

 父が澤田さんに感謝の言葉を述べてしる間、マイクさんが膝の上で握りしめている拳(こぶし)がぶるぶる震えていて、噴き出そうとする感情を押さえているのが使わってきます。

 

マイクさんは自分と父親が再会できたのは澤田さんのお陰だったと再度感じ取ったのか、とうとうこらえきれなくなって、嗚咽しはじめました。

「ママ、ありがとう」

と言おうとしているのが伝わってきます。マイクさんにとって澤田さんは生みの母以上に育ての母です。積もる話が山のようにありました。澤田さんはマイクさんの手を握りしめて、彼の高ぶる気持ちをなだめていました。マイクさんがその手を強く握り返しています。

 

3人の再会のあと、マイクさんは澤田さんと手をつないで公園を散策しながら、その間起きた事柄をずっと話していました。その後、2人は長イスのブランコに乗り、ブランコを揺らしながら、さらに話し続けました。父親はベンチに座って黙って見守っていました。

 

 マイクさんは学校を出て社会人になると、非行少年たちの更生施設の教師になって充実した毎日を送っていました。でもいつか日本に帰りたいと念願しているようです。

 

◇私のアイデンティティは何か? と苦しむマイクさん

 テレビのインタビューに答えて、マイクさんは、「自分は何者なのか?」というアイデンティティの問題で苦しんでいると語りました。マイクさんが言外に言おうとしていることを補足して表現します。

 

「ぼくはアメリカ社会、というよりも黒人社会にどうしても溶け込めず、自分の中に母の日本人の血が流れていることを強く感じます。黒人たちはどんな環境でも屈託がなく、陽気だというのは素晴らしい資質ですが、一面では真剣さがなく、イージーな生活に流れやすい傾向もはらんでいると思うのです」

 

 マイクさんは父親といっしょに黒人社会で暮らしてみて、改めて日本人が大切にしている自己修養、厳格さ、目標、自律といった徳目の重要さに目覚めたのです。

「ぼくの部屋の壁には三島由紀夫が鉢巻を締め、相手を正視しているポスターを飾っています。凛としたサムライ精神を感じさせるからです。日の丸の旗も掲げて自分を鼓舞しています」

 望郷の念もだしがたしと言うのです。

 

「こちらで親族の墓参りに行きますが、どうしてもその墓が、自分が永眠する場所とは思えないのです。ぼくはいずれ日本に帰りたいと思っており、もし米国で死んだとしても、遺体は日本に送って埋葬してもらいたいと思っています」

 父親に感謝はしているものの、満足できないものもあるようです。

 

 ものごころついてからずっと、自分とは何者なのかと苦しんできたマイクさんは、日本にいたときは「ガイジン」とか「クロンボ」と言って仲間外れにされていました。ところがアメリカに来たら、今度は逆に「ジャップ」とさげすまれ、どこにいても中途半端で宙ぶらりんでした。だから自分のアイデンティティは何かと考えざるを得なかったのです。マイクさんはいま自分とは何かを確立する瀬戸際に立たされているようです。

大空に舞う鳥


平和の祈り

沈黙の響き (その103)

 

「沈黙の響き(その103)」

監獄の父に面会した混血孤児のマイク

神渡良平

 

 

 前回、『黒い十字架を背負わされたアガサ』で、混血児のアガサがたどった悲しい人生を紹介しました。しかし澤田さんはその4年前に上梓された『黒い肌と白い心――サンダース・ホームへの道』(日本経済新聞社。昭和38年刊)に、

「私は(混血孤児の養育を通して)一生忘れることができない最高の体験も与えられました」

とも書いています。今回はそのことについて書きます。

 

◇終身刑で収監された父親

 戦後まもなく、大磯のエリザベス・サンダース・ホームにちっちゃな黒人の男の子が送られてきました。父に当たる米兵クレモント・ジョンソン兵曹は相手の女性とまじめに結婚することを考え、家まで購入していました。ところが同僚と酒の上での口論から、同じ部隊の兵士を射殺してしまい、軍法会議にかけられて有罪となり、本国に送還されて終身刑で収監されてしまいました。

 

 ジョンソン兵曹は獄中から刑務所内の労働で得た収入から、まだ見ぬ息子マイクに送金し続けて7年にも及び、同時に母親にも毎週手紙を書き続けました。そんなことがあったので澤田さんはアメリカに講演旅行に行くとき、兵曹が夢にも忘れたことがない息子のマイクの写真を持って、ミズーリ州レブンワース刑務所を訪ねようと考えました。

 

 澤田さんはニューヨークでもワシントンでも講演のたびに、有力な人びとにジョンソン兵曹の話をして、面会の助力を頼みました。実は死刑囚には親族以外の面会は許されていないので、澤田さんは面会できません。だからどの人も、法律で決まっているのだから無理だとあきれて、協力してくれませんでした。

 

ところが、『大地』などでノーベル文学賞を得たパール・バック女史とフィラデルフィア・バブテスト教会のパルマ―牧師が協力を申し出てくれ、法務省に掛け合ってくれました。

パール・バック女史は後にサンダース・ホームを訪ねている親しい仲です。三菱財閥の総帥の令嬢だからそういう交友関係も持っており、それらを積極的に活用しました。

 

 同じミズーリ州カンサスシティにはホームから2人の子どもが養子としてもらわれてきていたので、その一人アームストロング家に泊って彼らと再会を喜び合っていると、ジョンソン兵曹が収監されているレブンワース刑務所から電話が掛かってきました。ワシントンの特別な配慮によって、面会が許可されたというのです。

 

 澤田さんがレブンワース連隊付きの牧師に伴われて州立刑務所を訪ねると、7階建てのガラス張りの明るく白い建物が見えてきました。日本の刑務所と違って、中が見えるようになっており、太陽がさんさんとふり注いでいました。

 係官に「本人との関係は?」と問われると、付き添いの牧師が「ウオー・ブライド(戦争花嫁)です」と答えました。終身刑の囚人の面会は、親か配偶者か子どもに限られているので、戦争花嫁とごまかしたのです。

 

◇父親としての責務を遂行したジョンソン兵長

 しばらくするとジョンソン兵曹が看守に付き添われて、面会室に入ってきました。澤田さんは一目見て、マイクの父親だとわかりました。褐色の肌、ニキビでぼこぼこ顔の快活な人柄、どれもこれもマイクを髣髴させました。空色の獄衣を着た兵曹は目を輝かせて、 

「7つになったぼくのマイクは元気ですか? 大きくなったでしょうね」

 と、語りかけました。

 

元気いっぱいのマイクの写真を見せると、嬉しさではちきれそうです。でも次の瞬間、兵曹の顔が曇りました。

「刑務所に入っている現在のパパを、マイクはもう忘れた方がいいのかもしれない……」

 

 澤田さんはあわてて否定しました。

「そんなことはありません。私はホームを始めて5年になり、これまで247名の子を育ててきましたが、その中で父としての責務を取ったのはあなたがひとりだけです。私がここを訪ねられるように骨折ってくださった方々は、あなたが父親としての責任を取られる姿に感動されています。どうか希望を捨てないでください。あなたのお母さんも減刑運動をされており、この重い鉄の扉が開くときはきっと来るはずです」

 

 ジョンソン兵曹の目が潤んで、涙が頬を伝いました。看守が時間だと合図したので、澤田さんは再会を約して面会室を出ました。

 

 翌年、再び渡米し、澤田さんは重い足取りでレブンワース刑務所を訪ねました。実はマイクの母親が終身刑の夫を待ち疲れて、再婚してしまったと告げなければならないのです。でもその結婚は不幸に終わってしまい、彼女は改めてジョンソンの誠実さがわかったので、お詫びの手紙を書きました。その手紙を手渡そうと持ってきたのです。

 

 黙って一部始終を聞いた兵曹はたったひと言、きっぱりと意志表示しました。

「どんなことが彼女の身に起ころうと、ぼくは最初彼女に懐いた愛は今も変わりません。日本に帰ったら、彼女にそう伝えてください」

 

◇マイクを養子にして米国に連れてこれないかしら……

 その態度があまりにも立派だったので、澤田さんは胸がいっぱいになりました。そして失意の彼を慰めたいと思うと、天から啓示があったかのように閃きました。

 

(マイクをジョンソン兵曹の姉の養子にして、アメリカに住まわせたらどうかしら。そうしたらもっと頻繁に会えるし……)

そのことを兵曹に伝えると、失意の中にあった彼の目に光が射しました。彼は信じられないという顔をして大喜びし、

「この国で息子のマイクが待ってくれていると思うと、希望が湧きます。でも、そんなことが可能ですか!」

 

「可能ですかって? 私には不可能なことは何一つありません。これまでも不可能なことだらけで、ホームも閉鎖一歩手前まで行ったのに、諦めずに挑戦し続けたら道が開けました。私が現にここに来ているということ自体、何よりもその証拠です」

 

 そう断言すると、彼の目から涙があふれ出ました。

「私は明日、あなたのお母さんと姉さんに会って、マイクを養子にしてアメリカに迎える話を進めます」

 彼は感動のあまり、声が出ませんでした。2人はしっかり握手して別れました。

 

 そのとき澤田さんは、

(この次、ここに来るときは、マイクを連れてきます)

と、言いたくて、声が出かかったのですが、かろうじて口を閉じました。空約束をして失望させたら申し訳ないと持ったからです。

 

 ジョンソン兵曹の家は貧しい黒人街のゴミゴミした町にありました。澤田さんは母親と姉に会って養子縁組の了解を取り付け、さまざまな書類を揃えました。そしてマイクの養子縁組と兵曹の助命嘆願を州選出の上院議員に提出しました。

 

 その次の年、つまり初めてジョンソン兵曹に会ってから4年目の春の終わり、ワシントンDCから正式な通知があり、マイクの養子縁組と移民が認められました。とうとうマイクは実の父親に会えることになったのです。

 

 澤田さんは6人の混血孤児と一緒に渡米し、マイクといっしょに刑務所を訪ねました。刑務所の門をくぐり、大きなエンジュの並木道を抜けて、クルマをレブンワース刑務所の建物に付けると、係官が覚えていました。

「やあ戦争花嫁さん、3度目ですね。今度はお子さんを連れてこられたのですか」

 と、歓迎してくれました。

 

◇涙ながらの父子の再会

刑務所の長い廊下。突き当たる二重扉。がちゃがちゃ鍵を開ける時間――。

澤田さんはマイクの手を握りしめて小走りに駆けだしたい思いを押さえて、見覚えのある広い面会室に行きました。陽光がさんさんとふり注いでいる面会室で、

「マイク、もうじきあなたのパパに会うのよ……」

 と言い聞かせていると、石の廊下を歩いてくる足音が響いてきました。間もなく小さな潜り戸が開いて、マイクのパパの大きな体が現れました。

 

 兵曹は澤田さんの腕にぶら下がっている男の子を見た瞬間、両手を上げ、

オー・マイ・ゴッド! 

と、驚きの声を発しました。駆け寄ってきた彼に、澤田さんはマイクを抱き上げて、面会人との間を仕切っている低いガラス越しに、マイクを手渡しました。

 

 彼はこの7年間、片時も忘れたことがなかった息子をしっかり抱きしめ、おいおい泣きました。彼の口から片言の日本語が飛び出しました。

「マイク、コンニチワ、オハヨウ、ワタシハ、パパデスヨ……」

 日本にいたとき覚えた日本語を息子に会えたら語りたいと思い、忘れないようにいつも練習していたのです。マイクも父の真情に触れ、父の手をしっかり握りしめました。長いこと別れていた親子が抱き合っている姿は、美しい名画のようでした。

 

 面会の時間は刻々と過ぎてゆき、とうとう面会時間が切れてしまいました。看守ももらい泣きしています。澤田さんは心を痛め、この幸せな父子をどうして引き離してしまうのと抗議の目を向けると、看守も目配せし、もう少しいいよと合図してくれました。

 こうして規則を超えること20分、合計50分も再会を喜ぶことができました。

 

 別れ際、兵曹は澤田さんに万感の思いを込めて、お礼を言いました。

「ミセス・サワダ、あなたはぼくの母親のようにさえ思えます……」

 それ以上の賛辞はありません。澤田さんは何度も何度もうなずいて、刑務所を後にしました。澤田さんはただ孤児を引き取って養育しただけではありませんでした。一人ひとりの人生が開けていくようしっかりサポートし、数々の骨折りをしていました。この場合も、ジョンソン兵曹は「ぼくのママのような存在だ」と言ったのでした。

 

 数年後、ジョンソン兵曹の刑は25年に減刑されて出所し、父子いっしょの生活が始まりました。失われた時間が長かっただけに2人の絆は急速に深まっていきました。記録には残っていませんが、お母さんも渡米して合流し、一家3人の生活を楽しんだことでしょう。

 この話には後日談があるので、それは来週お伝えします。

平和の祈り


エリザベス・サンダース・ホーム正門

沈黙の響き (その102)

「沈黙の響き(その102)」

黒い十字架を背負わされたアガサ

神渡良平

 

 

 ウクライナではロシア軍の戦闘が続いており、連日、都市の破壊や市民の凌辱、殺戮、窃盗が続いています。これが現代に起きていることかと唖然としますが、テレビやSNSは連日悲惨なニュースを伝えています。

ロシア軍は無防備なウクライナ国民を強姦・殺戮・略奪して、日頃の鬱憤を晴らしていますが、ロシアの蛮行は何として阻止しなければなりません。

 

 戦争の被害は戦闘による直接的な死傷や破壊もあげられますが、戦後も多数の混血孤児が生まれ、悲惨な人生を歩まされます。そのことを強く訴えているのは、神奈川県大磯町にある戦争混血孤児院のエリザベス・サンダース・ホームの故澤田美喜園長が書き残した『黒い十字架のアガサ』(毎日新聞社。昭和421967〉年刊)です。混血孤児院が開設してから20年後、今から55年前に書かれたものですが、戦争の傷跡を生々しく伝えてくれています。

 

 エリザベス・サンダース・ホームはもともと三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の別邸でした。財閥解体をもくろんだGHQ(連合国総司令部)は岩崎家に税金の支払いのため物納を余儀なくし、所有は国に移管していました。澤田さんはその別邸を使わせてもらおうと思いましたが、大蔵省(現財務省)は400万円で買い取る以外にないと突っぱねました。

 

エリザベス・サンダースという日本在住の英国夫人が老人施設でひっそりとなくなりました。彼女は生涯働いて得た170ドル(約62000円)を日本聖公会に献金し、その活動に生かしてほしいと遺言しました。聖公会は貴重な献金を澤田さんが始めようとしている混血孤児の養育資金として提供することにしました。

 

そうした助力によって大磯の別邸を買い戻すことができたとき、澤田さんはその孤児院の名称を迷うことなく、老婦人の名前を冠して、エリザベス・サンダース・ホームと名づけました。

 

澤田園長は『黒い十字架のアガサ』の冒頭をこう書きだしています。

「思えばアガサは戦争の犠牲をその小さい肩に背負って生まれてきた。世のすべての子どもたちは両親やそのまわりの人たちから、あふれるほどの祝福を受けて生まれてくるものなのに……。

彼女は、他の戦争混血児がそうであるように、その母親からさえ喜ばれずに、この世に生を享けたのである。この子自身にはなんの罪もないというのに……」

 アガサとは強姦された日本の娘さんが生み落とした黒い女の子の名前です。

 

 長い戦争が終わった昭和201945)年の夏、和歌山湾のある半農半漁の魚村に米軍の上陸用舟艇が入港しました。その舟艇に目をギラギラさせた黒人兵が乗っており、悲劇はその夜起きました。ある娘さんが所用で家を出て野中の夜道を歩いていたとき、ある黒人兵に襲われ犯されたのです。

 

 これほど悲しい事件はありません。その娘さんは涙を拭ってその凌辱事件を忘れようと努めました。そして愛する人と結婚し、1010日後、喜びの主産の日を迎えました。ところが生まれてきた子の肌の色はまっ黒だったのです! その娘さんは愕然とし、夫は罵声と嘲笑を残して、家を飛び出してしまいました。

 

狭い漁村のことなので噂はすぐに広まり、若い母親と混血の女の子は後ろ指を指され、生きていくことは容易ではありませんでした。若い母親は家を出ていった夫の子も身籠っていて出産しましたが、産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまいました。

アガサと名づけられた黒い赤ん坊は施設に預けられ、あちこちの施設をたらい回しにされた挙句、6歳のとき秋田の施設から、神奈川県大磯のエリザベス・サンダース・ホームに引き取られてきました。

 

かわいそうにアガサは生まれてからの暗い生活をそのまま刻み込まれたような陰鬱な表情をしており、いつも大人を警戒し、誰にもなつきませんでした。小学校に上がったものの、何にも関心を示さず、知能指数は62、成績も最劣等でした。

 

澤田さんはアガサが絵を描くのが好きなのに着目し、絵画で彼女の能力を引き出そうとしました。でも描くのは三角の目をした魔女ばかり、しかもハートに矢が突き刺さっている不気味な絵を描くのです。そんな絵で世間への敵意をむき出しにしていました。澤田園長や保母さんたちが注いだ愛情はアガサの固い殻をなかなか溶かすことができず苦しみました。

 

アガサは中学生になるころ、同じホームの、白人と日本人の合いの子である男の子に恋をしました。そして夜中にホームを抜け出して、林の中で恋の火遊びをするようになりました。相手の男の子はエルビス・プレスリー張りの容貌だったので、少女たちの間で奪い合いとなり、ホームの中は喧嘩騒ぎがやまず、混乱しました。アガサの万引きは常習となり窃盗を犯すようになって、とうとう警察沙汰になって少年院に回されました。

 

それでも品行は収まらず、毎夜抜け出してはアバンチュールを楽しみ、とうとう身を持ち崩してしまいました。ひとりの子どもをまっとうに育て上げることは大変なことでした。

 

『黒い十字架のアガサ』はその他に、産みの母親と同じ轍(わだち)を踏んで苦しむメリーのことや、恋の巡礼者となってしまったクリストファー、錠前開けに異常な関心を示し、とうとう裏街道に落ちて人生を誤ってしまったガービーなどを描き、人生とは何かと突き詰めていました。

 

この種の本は慈善事業としての社会福祉事業を描き、表面を撫でさするだけのきれいごとに終始することが多いのですが、澤田さんのこの本は違いました。親身になって人生を立て直そうとする保母と混血孤児たちの奮闘が描かれていました。

 

戦争被害というものは直接的な被害に留まりません。戦後に残された混血孤児たちが過酷な十字架を背負って歩まされる現実があり、その傷は20年も30年も続くのです。澤田さんは、「私はこの混血孤児の孤児院を運営して、戦争の後始末をしているのです」と語っています。

 

今回もロシアが侵攻先のウクライナで非道な強姦を行っていることが伝えられていますが、強姦の後には混血児が出生し、悲劇は何十年も続きます。それを考えると、ウクライナにおけるロシアの蛮行は一刻も早く止めさせなければなりません。

エリザベス・サンダース・ホーム正門

澤田美喜と子どもたち

写真=澤田さんとエリザベス・サンダース・ホームの子どもたち


山本彗莉さん

沈黙の響き (その101)

 

「沈黙の響き(その101)」

山本彗莉さんが流した涙

 

 

 山本彗莉(えり)さんというすてきな女性がいます。全国各地でマナーの講習会を開き、また講演にひっぱりだこです。あい☆えがお代表をつとめる山本彗莉さんの人柄に触れ、その包み込むような笑顔に接したら、誰も忘れられなくなるから不思議です。

 

「愛と笑顔で地球をつつみましょう。目の前にいてくださる方に幸せ・安心を届けましょう」 

と、呼びかける彗莉さんのメッセージは極めてシンプルですが、その呼びかけは誰しもの心にストンと落ち、深く納得できるのです。彗莉さんのやわらかい≪笑顔≫には強い伝播力があるようです。

 

 彗莉さんは25歳で結婚し、ご主人の父親替わりになっていた叔父が社長をしている高級洋品店を手伝いました。仕立てをするオーダー専門店で、ご主人は3代目を継ぐ予定でした。ところがご主人は外面がいいばかりであまり働かない人でした。ご主人の働きが悪くても自分ががんばれば、お客様や問屋に愛される日本一の洋服店になれるはずだと思い、夜も寝ずに働きました。

 

お店の経営と2人のお子さんの世話に追われ、1日わずか3時間の睡眠が続きました。28歳のときには鬱になりましたが、ファッションショーのモデルさんの笑顔の力で助けられて、人生を変えよう、生き方を変えようと思って努力を続けました。

 

彗莉さんは経営全般のことは知らされていなかったのですが、その間経営不振は続き、家も土地も全部抵当に入っており、しかも夫は連帯保証人の判を捺していたので、とうとう立ち行かなくなり、5年後、家業は破産してしまいました。これほど努力したのに何がいけなかったのかと思うと、声を出すのも怖くなりました。

 

足元がガラガラ崩れていき、このまま奈落の底に落ちていきたくないと思っていた矢先、新聞広告で話し方教室があることを知りました。

「この教室に行ったら何かが変わるかも知れない!」

と、藁にもすがる思いで見学に行きました。すると笑顔のすてきな河本栄味子先生があたたかくやさしく指導していらっしゃいました。

 

見学しているうちにこわばっていた心も体も癒されて、少しずつ温かくなってきました。

河本先生から、せっかく見学にいらっしゃったのですから、お名前だけでも話して帰りませんかと言われ、彗莉さんはおずおず壇上に立ちました。

破産という混乱した状態のときだったので、人前に顔を出すことさえ自信がなく、言葉が出てきません。それでもみんながニコニコして待っていてくださいます。やっとの思いで少し話しました。でも何を話したか、全然覚えていません。

 

実家の母に電話して話し方教室に通いたいと告げると、母が、

「こんなときだからこそ 通いなさい。どんなことがあっても、教室に通うお金ぐらいは出してあげるから」

と励ましてくれました。週に1度、1時間半のレッスンが、次の週まで彗莉さんに生きる力を与えてくれました。必死の取り組みが2年ほど続いたある日、河本先生がご自分の師でもあるトータルマナー研究所の創始者森恭子先生のアシスタントをしませんかと言われました。

 

先生は彗莉さんが自分に自信を持てず、うつ病になっていたところから立ち直ったので、話し方教室が伝えようとしていることを本当に理解していると思われたのでしょう。特訓のお陰で、話し方教室講師とトータルマナー研究所の講師になることができました。

 

◇修養団の中山靖雄先生との出会い

そんなある日、彗莉さんが司会を担当した人間学の勉強会に、伊勢修養団の中山靖雄先生が講師として呼ばれてこられました。中山先生は失明されていたので、奥さまの腕につかまって、会場に入られました。その瞬間、300人はいる会場の空気が、不思議にも赤味がかかったオレンジ色に変わったように見えました。

先生が歩かれるにつれて、赤い色の波動が波のように寄せてきます。先生は自由に明るく話をされ、会場全体が大笑いし、ときにぼろぼろと涙を流して聴き入りました。

 

その後、中山先生を紹介してくださった木南一志さんのお蔭で、中山靖雄先生に会いに行けることになり、中山先生からは誰でも連れていらっしゃいと言われたので、子どもたちと友人ふたりに声をかけ、初めて伊勢の修養団に伺いました。

 

その夜は修養団の迎賓館に泊めて頂き、中山先生は彗莉さんたちの部屋に来てくださっていろいろと尊い話をしてくださったあと、おもむろに、「ところで彗莉さん。ご主人はどうされたの?」と訊かれました。まだ離婚は成立せず協議中で、中途半端な状態だったので、「夫と別れるつもりで、子どもと3人で暮らしています」と伝えました。

 

その頃、中山先生は糖尿病が原因ですでに失明されていたので、移動のときは奥さまの肩に手を当てて誘導されていました。失明されていたので、それだけに聴覚などはいっそう鋭敏で、彗莉さんの声の調子や雰囲気から何かを感じ取っておられたのでしょう。中山先生は静かに「あなたがわがままだったんですね」とおっしゃいました。

 

それを聞いた途端、彗莉さんは怒りで血が逆流するのを感じました。さっきまで中山先生は世界で一番やさしい神さまのような人だと思っていたのに、夫と離婚すると言った途端、理由も何も聞かずに、一方的に女が悪いと決めつけてしまうとは赦(ゆる)せない! 一緒の空気も吸いたくない、もう荷物をまとめて帰ろうと思いました。

 

ところが中山先生はこまごまとした事情は聞かないまま、

「ご主人がいらっしゃる方向に向かって手を合わせ、私が悪うございましたとお詫びし、ご主人とご主人のご先祖様にありがとうございましたと感謝の言葉を毎晩伝えなさい」

と、おっしゃるのです。彗莉さんはどうして私がそんなことをしなきゃいけないの! とむかむかしました。反論したいことは山ほどありましたが、そうしたら時間を食ってしまい、先生の滞在時間が長くなってしまうと思い、反発する気持ちを飲み込みました。

 

そこへ中山先生の奥様が呼びに来られ、明朝は6時から正式参拝にお連れする予定です、皆さんは遠くからいらしてお疲れでしょうから、そろそろお暇しましょうと言われました。そこで彗莉さんは迎賓館の階段の下まで先生をお見送りに出て、先生の背中に、

「貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました」

と、心にもないお礼を言いました。ところが中山先生がくるっとふり返って彗莉さんを抱きしめ、

「よくがんばったね。あなたがどんなに大変だったか、わかっているよ」

と、おっしゃったのです。その途端、先生の大きくて温かい波動に包まれ、

(ああ、この方は全部私のことをわかってくださっている……)

と思われ、ありがたくて、ありがたくて涙が止まりませんでした。

 

彗莉さんが泣くだけ泣くと、中山先生は静かに語りかけました。

「あなたが別れたご主人と、ご主人のお母さんやご先祖様を赦せないでいたら、あなたの大切な子どもさんたちも、自分の体の中に流れているお父さんの血を赦せなくて苦しむことになるんだよ。あなたはお母さんだからわかっているでしょう」

 

 そう聞いた瞬間、彗莉さんは頭をガツンと殴られたような気がしました。子どもがお腹に宿ったとき、夫は自分もお腹の子どもも大事にしてくれなかったので、子どもは自分と一緒に夫と闘っている≪同志≫だと思っていたのです。でも考えてみると、自分と子どもでは立場が違い、子どもたちには父親の血が現に流れているのです。否定しようとしても否定できません。

 

 彗莉さんは自分がそうすることによって子どもたちの心が救われるならばという思いで、毎晩お詫びと感謝を言うことにしました。それを半年も続けていくと、自分の中に変化が現れてきました。あのとき、自分にも配慮が足りなかったのではとか、あのときは……と反省することがいくつもあり、次第に本当のお詫びと感謝に変わっていったのです。こうして心から謝ることができたとき、感謝がこみ上げてきて、夫への恨みから解放されました。

 

(ああ、中山先生は私をこの心境に導こうとされたのだ。人を恨む心があるままでは本物の笑顔になれないし、誰も救えないと教えてくださった)

 こうして彗莉さんは本当の意味で、愛と笑顔の親善大使になることができました。

人びとは本物の和解を求めて、彗莉さんのところにやってきます。彗莉さんは中山先生から気づかせていただいた和解の話をし、今日も人々を励ましています。

山本彗莉さん

写真=春の日向のように温かい山本彗莉さん


神磯の鳥居1

沈黙の響き (その100)

「沈黙の響き(その100)」

神々しさの極み神磯の鳥居

神渡良平

 

 安岡正篤先生は『新編 漢詩読本』(福村出版)に、生命が持つ不可思議な韻律を説いて、こう切り出されました。

「生命のある処、到る処、韻律がある。水のせせらぎにも、風のささやきにも、雲の行き来にも、日の輝きにも、人間の感激にも、やるせない苦悩の中にも、不思議な韻律があって、振動に富む言語文字をもって自らを表現しようとする」

 

 私たちそれぞれが持っている生命の韻律は、「直感の光によって」外の世界の韻律に呼応して、激しく鳴りだすと言われます。

「その勝れた表現は、これに接する人々の感情の共鳴を高め、直観の光を遠くし、思索を深め、世の中の打算や仕事の焦燥から人を救って、ほのかな慰めや、時にゆかしい憂愁にも誘う」

 

 大自然には私たちのインスピレーションを掻き立ててやまない場所が数々存在しています。茨城県の大洗(おおあらい)海岸にある神磯(かみいそ)の鳥居はそういう場所の一つです。

茨城県つくば市の宇宙航空研究開発機構(JAXA ジャクサ)に勤めている私の友人がフェイスブックに写真をアップして、神磯の鳥居に詣でてきたと書いていました。いつもは宇宙ロケットを飛ばして時代の最先端をゆく研究をしていますが、一方では太平洋の荒波が大洗海岸の岩礁に当たって白く砕け散るさまに神々しさを感じ、磯の岩の上に祀(まつ)られている神磯の鳥居に詣でたというのです。

 

時代の最先端のことに従事している人が、大海原を祀っている極めて原初的な神社に詣でているという落差の大きさに驚きましたが、FBにアップされている神々しいほどの写真を見て納得しました。原初的なものは超現代的なものをくるんでいるのです。

 

そこで先日私も茨城を訪ねました。太平洋の大海原に面して屹立する大洗山に(おおあらいやま)ある大洗磯前(おおあらい・いそさき)神社に大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱が祀られており、神磯の鳥居は岩礁に建てられた大洗磯前神社の一つでした。

社殿の造営の工を起こしたのは元禄三年(一六三〇)、水戸家の二代目徳川光圀(みつくに)で、完成したのは三代目綱條のとき、約四百年前のことでした。

 

大己貴命は別名を大国主命と言い、出雲神話の主人公須佐之男(すさのお)の六世、もしくは七世の孫に当たります。少彦名命は神産巣神(かみむすびのかみ)、もしくは高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の末裔で、小さな体ながら大国主命の義兄弟として国造りに励んだといわれます。彼は薬や温泉などの分野も担当し、医薬に関係する薬師如来の化身とも言われています。

 

出雲神話の立役者が関東の太平洋岸でも祀られているのは驚きです。ひょっとしたら出雲神話は出雲地方だけに閉じ込めておく話ではないのかもしれません。古事記、日本書紀の原典になったという『秀真伝』(ほつまつたえ)は建国神話を宮崎地方から解き放ち、富士山の麓を初めて、日本全国で展開されますが、出雲神話もそうなのかもしれません。少彦名命は人気が高い御伽(おとぎ)草子の一寸法師の原型だとも言われますが、それらのことが解明されてくると、神話はいっそうおもしろくなりそうです。

 

荒波に洗われている神磯の鳥居を浜から遥拝すると、私たちを“大本のもの”に引き合わせる何かがあり、神々しいものを感じて思わず手を合わせました。私たち日本人は縄文の昔から、極めて素朴に、果てしなく広がる大海原に自然と手を合わせて拝んできたんだと思います。

 

◇詩歌には私たちを蘇生させる力がある!

さて、神々しい大自然に触れると、そこから自ずから歌が発生します。詩歌は人の生命が持っている韻律が言語的に表現されたものだからです。安岡先生はこんな短歌を詠まれました。

うつせみの霧の命と思へこそ聖の道を探ねこそ行け

 

そして詩歌の道をこう解説しておられます。

「これは道徳の峻厳、信仰の崇高にも和して、人間の生活を浄化し、精神を救う美の一種で、人々はこれを詩という。詩は外部感覚の世界とは違った、一つの内部経験と秩序の世界を造り、利害打算や、機械的な思考、衝動的な感情などの有害な副作用から、人間の生命を和らげ、現実の涸渇を沽(うるお)すものである」

 

 安岡先生は、詩歌は人間の精神に有害な利害打算や機械的な思考、衝動的な感情などから私たちを守ってくれると言われます。俗世を超えた宇宙との語らいは私たちを慰めてくれ、現実の涸渇を潤してくれます。そこで得た活力が現実を超えていくバネになるのです。

 

「人間が自然という風に結ばれるところに創造が躍進する。そして人間の内面には神秘的なむすびの力(産霊=むすひ)があり、無限がある。それは勝れた情緒や直観になって働き、事物の内面的調和――神の偉大な生命――実在の新しい発見、今までよそよそしかった事物に思わぬ親密や実感を覚える、その感動をおのずから言語文字に表現する。これがすなわち詩歌である」

 

 私たちは本来詩人たるべき素養を持っているのです。安岡先生を師と仰ぐ私たちは、詩歌をもっと活用して精神のはつらつさを高めたいものです。

 

神磯の鳥居1

神磯の鳥居3

写真=大洗海岸の磯の岩の上に建つ神磯の鳥居


若葉

沈黙の響き (その99)

「沈黙の響き(その99)」

障がい児を授かったお母さんからのメール

神渡良平

 

 

 いろいろな方々とやり取りしたメールを整理していたら、『苦しみとの向き合い方』(PHP研究所)を出版した平成27年(2015)の秋、ある読者とやり取りしたメールが出てきました。障がいを持って生まれた赤ちゃんを抱え、苦闘されていたご婦人です。当時を思い出して、思わず目がウルウルしました。そのメールを紹介させていただきます。

 

「私のことを覚えてくださっていて、本当に感謝します。障がいを持って生まれた下の子は、もう1歳9か月になりました。障害がわかってから、1年と半年が過ぎたことになります。この1年半はつらくて苦しいものでした。

 

申し訳ないことながら、当時はわが子をかわいいと思えず、そんな自分を責め、周りの同じくらいの子どもを見ると、うらやましくて胸が張り裂けそうでした。毎日毎日泣き、泣かない日はいつになったら来るのだろうと、真っ暗なトンネルの中にいるようでした。こんなに涙を流し、自分と向き合ったことはありませんでした。だんだん卑屈になっていき、自分を責めている自分にはっと気づき、そんな自分がまた嫌になるという悪循環をくり返していました。

 

そんな頃、考えあぐねた末に、神渡先生にメールしました。思いもよらず、親切に応対していただき、やり取りするようになりました。そしてだんだん思い直すようになりました。ひょっとすると、世の中は障がいを持つ子を差別する人ばかりではないかもしれない、と。一番苦しかったときを本当に支えていただいて、ありがとうございました。

 

あれからいろいろな方々との出会いがありました。同じ障害を持つ子どもの母親たちです。障がいを抱えた子どもを産まなければ出会わない方々でした。私も同じ思いをしましたと親身に話を聞いてくださったり、今の辛さを笑いに変えられる日がきっと来ますと励ましてくださったり……。同じ苦しみを経験されている方々でしたから、そんな方々が乗り越えた末に語って下さる話は、涙なしには聞けませんでした。いろいろな方々に支えられて今の自分があると実感します。ようやくあの頃をおだやかな気持ちでふり返ることができるようになりました。

 

まだまだ、下の子を育てることにへこたれそうになる日もありますが、人と人がつながることのすばらしさを以前より感じられるようになりました。先生がおっしゃっていたように、人間はそんなに弱くないのかもしれないですね。最近その言葉が私を奮い立たせてくれています。

今も気にかけてくださってメールをくださり、何とお礼をいっていいかわかりません。勝手ながら、また挫けそうなときは連絡させてください」

 

そんなメールに私はこう返事しました。

「『苦しみとの向き合い方』は苦しみの克服の仕方でもなく、幸せの呼び込み方でもなく、苦しみとの向き合い方について書きました。私自身のつらい人生経験からすると、苦しみから逃げないで、正面から向き合ったとき、それが私たちを次の次元へと導いてくれるもののようです。状況は以前とまったく変わっていないのに、喜々として取り組めるようになっているから不思議です。

 

この本に、罪を犯した子どもたちの更生に尽力されていた辻光文(こうぶん)さんのことを書きました。辻さんはあるとき、子どもたちのいのちを拝むことの大切さに気づき、人知れず合掌されるようになりました。すると荒れていた子どもたちが落ち着きを取り戻し、素直になっていきました。光文さんはそんな姿勢を詩『生きているだけではいけませんか』に表現されました。

 

そして誰言うともなく、難しい子どもは光文さんに預けたらいいと言われるようになりました。辻先生の目覚めはあなたへの応援歌かもしれませんね。きっと励まされますよ」

 

それからしばらくして、そのご婦人からメールが届きました。

「辻光文先生についての文章を読ませて頂きました。ただただ、涙が流れました……。人のためにここまでできる方がいらっしゃるということに驚き、感謝の気持ちでいっぱいになりました。光文先生の詩に重度の障がいを持つ私の次女を重ね合わせて読み、涙が止まりませんでした。

 

健常な長女を育てていたときは、少しでも人の役に立つ子になって欲しいと願い、親となった自分のさらなる成長を願って、精一杯頑張っていました。でも、次女の障害がわかると、少しでも人のお役に立ちたいという私の価値観も揺らぎ始め、申し訳ないことに次女の存在を否定しました。この子は生きていて何の価値があるのだろうか?……と、思い悩みました。

 

人の役に立つどころか、一生人のお世話になって生きて行かなければいけない子……。

そんな子を育てることに価値があるのだろうか?

産まなきゃよかった……。

この子さえいなければ……私は幸せだった……

などと、思い悩みました。以前頑張っていた分だけ、次女を否定してしまったのです。次女を育てることについて、価値が全く見いだせませんでした。以前の私は幸せの日々の中での、しょせんきれいごとにしか過ぎなかったのだと滑稽にすら思えました。

 

私は光文先生の『生きているだけではいけませんか』の詩に合いたかったのだと思いました。詩の中で光文先生が問いかけておられたように、私は人の役に立っているという思いの中に、いつしか傲慢な思いがひそんでいたのです。生きていて人に迷惑をかけない人っていやしないのに、そのことを忘れていました。

 

でも光文先生に「生きていて、人に迷惑をかけない人ってありますか?」と問われてハッとしました。そのことに気づかせていただいて、感謝の気持ちでいっぱいです。これからは、もっともっと次女のいのちの輝きを見ていきます。

 

生きていることは素敵なことなのですね。それだけでいいのですね。今は眠っている二人の娘にたくさん感謝したいと思います。先生、ありがとうございました。明日もニコニコ笑顔で過ごして行きたいと思います」

 

障がいを持ったお嬢さんがお母さんの心の目を開いてくれたようです。私はますます、この世で起きる出来事は意味がないものはなく、ただただ感謝して受けるだけだと思わされた次第でした。

若葉

 写真=草花を育てる小人の妖精たち


ひまわりウェディング2009-7-26

沈黙の響き (その98)

「沈黙の響き(その96)」

ひまわり畑の真ん中での結婚式

 

 

平成27年(2015)4月、新潟県十日町市の支援センターあんしんに入社することになる久保田学さんは、町の会合でしばしば樋口果奈子さんと顔を合わせました。果奈子さんは支援センターあんしんを切り盛りしている中心的な女性です。笑顔がふっくらとして愛らしく、謙虚な女性ながら、信念がある人です。

 

一方、学さんは同じ新潟県の南西部、日本海に面した上越市の出身です。沖合にはその昔、親鸞や世阿弥が流されていたという佐渡島も横たわっていて、海岸に立つと漂泊の俳諧師芭蕉が詠んだ、

 

  荒海や佐渡に横とう天の川

 

 というダイナミックな光景が展開しています。そうした土地で育った久保田さんは、学生時代から障がい者の問題に関心があったそうです。

 

「ぼくはスクールカウンセラーになりたかったので、福祉系の大学へ進学したんです。大学で知的障がいや精神障がいについて学ぶにつれ、それらの方々を支援する施設で働きたいと思うようになりました。口先だけの、頭でっかちにはなりたくなかったんです」

 

 学さんは勤務していた精神病院で、あるときこんな現実に直面しました。

「ある病院でソーシャル・ワーカーをしていたとき、Aさんという患者さんがおられました。生活能力はあるにも関わらず、少し幻聴が聞こえたり、不思議な行動をしたりされるので、家族から理解されず精神病院に押し込められ、やむなく40年以上も入院しておられました。適切な支援が受けられたら、そんなことにはならなかっただろうにと思うのですが、すでにときは経っていました……」

 

談笑するにつれ、2人は次第に意気投合するようになりました。学さんは高校、大学でバスケットボールをやっており、今でも社会人リーグでプレーしているので、がっちりとして精悍な雰囲気が信頼感を抱かせます。それに障がい者の手助けになりたいという同じテーマを持っています。果奈子さんは学さんをだんだん結婚相手としても意識するようになり、将来を約束するようになりました。

 

 2人の結婚式は一風変わっていたと小耳にはさんでいたので、学さんにそのことを聞くと、学さんは自分たちの結婚式の話をするなんていささか照れるなあと言いながら、様子を語ってくれました。

 

◇障がい者たちが祝ってくれた結婚式!

「私たちは当時勤めていたお互いの施設を利用してくださっている障がい者を結婚式に招待したかったんです。あの人たちはそういう晴れの場に招待されることはあまりありませんから、よけいそういう機会にしたいと思いました。でも、通常の結婚式では着ていくものとか何だとか、本人たちが気を遣うので、気軽に来ていただけるものにしたいなと思いました」

 

すると新潟市の国際ホテルブライダル専門学校の卒業生が、卒業作品として、隣町の津南町にあるひまわり畑の真ん中で結婚式をやろうと企画して募集していたのです。津南町は広大なひまわり畑が広がっており、全国から観光客が訪ねてくるスポットにもなっています。

 

「ひまわり畑の中での結婚式! これは気さくでいい! これだったら、ノーネクタイのカジュアルな服装でいらっしゃいと呼びかけられる」

と、早速応募しました。すると久保田さんたちの熱意が伝わったのか、10組の応募の中から2人に白羽の矢が立ちました。こうして平成21年(2009)7月26日、多くの利用者さんが、ひまわり畑の真ん中で催された結婚式に参列しました。もちろん、われらのアッコちゃんも参列し、2人を祝福してくれました。

 

ところがそこで予想もしていなかったサプライズが起こりました。あたり一面の黄色いひまわり畑のなかで、障がい者たちがみんなで合唱したのです! 障がいの程度によってちゃんと歌える人もあれば、口だけパクパクの人あります。日頃、ワークセンターと自宅やグループホームの往復で単調になりがちだっただけに、まるでピクニックみたいです。

それに日頃お世話になっている2人の結婚式ですから、これは最高の喜びです。みんなが心から祝福してくれました。学さんは相好を崩して喜びました。

 

「いやもうめちゃくちゃ感動しました。ひまわり畑の中の結婚式が充分サプライズだと思っていたのに、それ以上のサプライズが起きたのです。参加したみなさんが誰よりも解放され、喜んでおられました」

 

 結婚式が終わって一段落すると、学さんは果奈子さんにどうしても言っておきたいことがあると切り出しました。

「以前、アッコは私の“福の神”だと気がつき、それから私の人生は霧が晴れたように明るくなったわって話していたよね。その同じ言葉を今ぼくも言いたい。アッコちゃんがぼくらを引き合わせてくれ、キューピッドの役割を果たしてくれていたんだ。アッコちゃんはぼくにとっても“福の神”になったよ」

 結婚して2人は自分たちの原点を再確認したのでした。

 

ひまわり畑というと、私は往年のイタリア映画の名作『ひまわり』を思いだします。

今から52年前、映画の冒頭のシーンで、地平線の彼方まで続くひまわり畑の中を、第二次世界大戦に兵士として送られ、戦後も帰ってこない夫(マルチェロ・マストロヤンニ)を探してジョバンナ(ソフィア・ローレン)が歩きます。

 

「この広大なひまわり畑のどこかに、夫の遺体が眠っているのかも……」

 と嘆き、そのシーンに被せるように哀愁のメロディが流れ、観客の涙を誘いました。戦争で引き裂かれた男女の悲しみを描いた不朽の名作です。あのシーンが撮影されたのはウクライナの果てしなく続くひまわり畑でした。

ひまわりウェディング2009-7-26

津南のひまわり畑

写真=みんなが祝福してくれたヒマワリ畑での結婚式 津南町のひまわり畑