メダル5個を獲得したパラ競泳の鈴木孝幸選手

沈黙の響き (その67)

「沈黙の響き」(その67

パラアスリートたちは私たちの“導きの星”だ!

 

 

≪開催されるかどうか、苦しんだ選手たち≫

 今回の第16回パラリンピックは新型コロナウイルスの影響が拡大するなか、国民の8割が懸念を示すなど、開催そのものが危ぶまれた大会でした。しかし、閉会直後の共同通信による緊急の全国電話世論調査では、実に698パーセントが「開催されてよかった」と回答しました。8割の反対から劇的に7割の高評価に変わったのは、選手たちが大会で見せたパフォーマンスが感動的だったからに違いありません。

 

パラ大会の競泳男子100メートルバタフライを制して金メダルに輝き、合計5個のメダルを獲得した全盲のスイマー木村敬一選手(31歳)は勝利の栄冠を得て、涙ながらに話しました。

「この日のためにひたすら頑張ってきました。この日って本当に来るんだなと思いました。来ないじゃないかと思ったこともあったから……」

 パラリンピックが開催されず、徒労に終わってしまうんじゃないかという不安を抱えて準備に励んだ大会開催だったのです。

 

≪まったく動じなかった佐藤選手≫

 陸上男子車イス400メートル、1500メートルで2冠を達成した佐藤友祈(ともき。32歳)選手は21歳のとき、脊髄炎になって左腕が麻痺し、しばらくして下半身の感覚も失いました。車イス生活になってしばらく引きこもっていましたが、平成20年(2012)、ロンドンパラリンピックで競技用車イスを駆使して力強く走る選手を見て衝撃を受け、自分もやってみたいと思うようになりました。そして他の障害者と同様、パラ競技で新しい世界を発見してのめり込んでいきました。

 

 平成25年(2013)、平成26年(2014)、東京マラソンの10キロ車イスマラソンに参加しました。この大会で車イス陸上の現役選手で、北京、ロンドン大会に連続出場している松永仁志選手と知り合い、その指導を仰ぐようになり、めきめき地力をつけていきました。

 平成27年(201511月、ドーハで行われた世界選手権400メートルで優勝、さらに平成28年(2016)6月、ジャパンパラ競技大会の1004001500メートルの3種目で優勝しました。

 

そして今回、パラリンピックを制覇し、とうとう世界の頂点に立ちました。彼は大会が催されるかどうか全然迷いませんでした。開催されようがされまいが、受けて立つ――病気に立ち向ったときとまったく同じ姿勢でした。だから佐藤選手の発言は私たちが陥っていた思考パターンの虚を突いています。

 

「コロナが広まってから、大会ができないことばかりが論じられした。でもぼくらは残された機能で、できることを探して磨いてきました。その違いは大きい。そのことをもっともっと発信していきたいです」

このコロナ禍で開催が危ぶまれるなか、佐藤選手たちはわずかな可能性に賭けて準備してきたのでした。

 

≪口にラケットをくわえて健闘した卓球選手≫

 私たち健常者は長い間、障害者たちを「かわいそうな人たちだ。手厚い保護をすべきだ」とみなし、それが成熟した社会だと思っていました。

ところが昭和39年(1964)、前回の東京オリンピック・パラリンピックが開催された当時、障害者がスポーツをするという意識がなかった日本社会は、見事に自立した欧米の選手たちがパラリンピックで競い合う姿を目の当たりにして、障害者も社会参加できることに大きく目覚めました。まさに、「失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう」という意識を共有するようになったのです。

 

 そして腕が失われた体で泳ぐ工夫を初め、片足のない体に義足を付け、走る練習を始めたのです。かつてはリハビリ目的でしかなかったスポーツに、本格的に取り組む人たちが出てきました。車イスの体でバスケットボールやテニスを始め、走る格闘技と言われる車イスラグビーをやる人も出てきました。

 

障害者が自分を麻痺(パラライズ)した人間とみるのではなく、「もう一つ(パラレル)の生き方」にチャレンジする人間と見なすようになりました。スポーツは障害者の意識を変え、それぞれの未来を描くようになりました。

今回も、両腕を失いながらも口にラケットをくわえて戦っている卓球選手や、足で弓を引くアーチェリー選手が出場しました。実況中継したNHKテレビのアナウンサーや解説者が感極まって涙していましたが、それほどパラ競技は底力があり、奥深いものがありました。

 

≪パラアスリートたちは私たちの〝導きの星〟だ!≫

 パラアスリートたちの奮闘によって、社会もそれにつれて変化し、日本でもバリアフリー法を制定して車イスで動ける段差のない道路を建設し、旅客施設でのドアの大型化を義務化し、一日3000人以上の昇降客がある鉄道駅は段差を解消するなどの努力が払われました。 車イスのまま乗れるユニバーサルデザインのタクシーも格段に普及しました。

 

障害者を手厚く介護するだけではなく、働く機会が得られるようにすることのほうがもっと大事だと気づきました。現在では民間企業で雇用されている障害者は57万8千人となりました。これはただ単に障害者にとって朗報なのではなく、障害者が働きやすいように業務を見直すことによって、健常者にとっても職場が働きやすいものに生まれ変わり、生産性も向上しました。

 今回はパラリンピックが開催されるようになって16回目。閉会式の翌日の産経新聞は「多様性のある社会の入り口にたどり着いた」と書きました。障害をハンディと見なすのではなく、多様性として受け入れるような社会になりつつあるというのです。好ましい変化です。

閉会式に障害を持つ歌手が『この素晴らしき世界』を熱唱したことにも、人生を肯定的に前向きにとらえていることが感じられ、ほほえましく思いました。パラアスリートたちが私たちにさきがけて世の中の意識を変えようとしているようです。

そんな彼らに耳を傾け、彼らをわれらの〝導きの星〟として受け入れたとき、本当に柔軟な社会が生まれるのではないでしょうか。

 

≪哀しむ人のなかに〝神〟を見た天香さん≫

 世の中には、「どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの……」と苦しむ人たちがいます。哀しみを味わったその人たちの瞳は涙で濡れています。その人びとは神の哀しみを体験的に知っているから、本当は神の隣にいるのです。神は栄光の神であるはずですが、実際は痛みの神であり、哀しみの神なのです。

そのことを知っているイエスは涙に暮れている人の隣にすわり、一緒に涙を流しました。だから、世の中で一番さげすまれていた取税人や売春婦たちが彼の周りに集まってきたのでした。

 イエスと同じように、見捨てられ、無視された人びとの中に、〝神〟を見いだした人が天香さんです。天香さんの出発点は京都の花街の女たちです。木屋町の料亭の台所を手伝い、軒下で寝て、女たちの打ち明け話に心を痛ませて聴き入りました。金持ちの旦那たちが芸子に酒をつがせ、嬌声を挙げて酔いしれるとき、それに付き合って酔っぱらわなければならない芸子たちの辛さに心底同情しました。だから天香さんは先斗町(ぽんとちょう)の女たちに受け入れられたのです。

 天香さんはパラリンピックの選手たちに心から声援を送っている障害者たちとともにいました。パラリンピックの父グッドマン医師が障害者たちを「失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限に生かそう」と励ましたように、天香さんもまた社会の一番底辺からみんなを励まし、導いていったのでした。

 パラアスリートたちの活躍に声援を送りながら、私はその背後にある天香さんの生き方を思わずにはおれませんでした。

メダル5個を獲得したパラ競泳の鈴木孝幸選手

写真=メダル5個を獲得したパラ競泳の鈴木孝幸選手